●高見順「如何なる星の下に」を歩く -2-
    初版2001年7月3日
    二版2012年8月4日
    三版2013年6月16日  <V01L01> 野口食堂の場所を訂正、橘館裏跡の写真を更新 暫定版

 高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」を引き続き掲載します。本を順に読み進むと、地名やお店の名前がたくさん出てきます。前回は五一郎アパート、惚太郎等を紹介しました。今回は国際劇場から順に5件紹介したいとおもいます。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は前回と同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図



「浅草ビューホテル」
<国際劇場>
 国際劇場は昭和12年(1937)に幸龍寺の跡地に建設された座席数約4000席の当時東洋一の大劇場でした(有楽町の日本劇場は昭和8年開業、4000人収容)。松竹の直営館で、こけら落としは松竹少女歌劇披露興行を行っています。松竹歌劇団の晴れ舞台でした。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 国際通りへ出ると、折がら国際劇場の松竹少女歌劇の昼の部が揆ねたところらしく、そのお客らしい華やがな少女の群が舗道をいっぱいに埋めて、田原町の方へと流れて行く。浅草的な雰囲気とちがったものをあざやがに私たちに感じさせつつ、その絢爛たる流れは、まっすぐ、田原町の電車、バス、地下鉄の停車場へと流れて行くのだ。
 松竹少女歌劇は、浅草で巣立ったものであり、今も浅草にある国際劇場でやっているのだが、その現在のお客は、何が浅草に嫌悪と軽蔑の、そして幾分恐怖の背を向けて、〜そのように、停車場と国際劇場の間を直線的に、さっさと脇目もふらずに往復していて、六区の方ヘ一向にそれようとせず、足を踏み入れようとはしないのである。…」


 当時の松竹少女歌劇は、今で言う宝塚歌劇団で、昭和初期の少女歌劇の隆盛を背景に、昭和3年(1928)、 松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)の東京版として東京松竹楽劇部が発足したのが始まりです。因みに、宝塚歌劇団の始まりは大正2年です。(ウイキペディア参照)
 少女歌劇団は名前のとおり、山の手の上品な若い女性達を対象にしていたので、浅草六区の雰囲気とは馴染めないとおもいます。上記はそのことを書いているとおもいます。

写真は浅草国際劇場の跡地に建設された浅草ビューホテルです。浅草国際劇場は昭和57年(1982)に閉鎖、その後取り壊され、跡地には現在、浅草ビューホテルが建っています。劇場が面していた都道462号線は、現在も一般に国際通りと呼ばれています。

「浅草パークホールビル」
<K劇場>
 2013年6月15日 橘館の写真を更新
 高見順の「如何なる星の下に」の中で書かれている”K劇場”とは、花月劇場のことです。名前の通り、大阪の吉本興業が運営していました。吉本興業の東京進出は、大正11年(1922)1月に神田の寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」としての開場から始まります。同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を手に入れています(翌年「横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」、「公園劇場」、「万成座」を次々と手に入れます。昭和10年(1935)11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 私たちはK劇場の楽屋ロに行った。…

 その路地の、楽屋ロの前にも、自転車の預り所があった。その隣が、国際通りに面した漫才小屋のT館の裏に当っていて、幕合いのおはやしが聞えてくる。それに介わせて、私の心臓はドキドキと鳴っていた。
 「どうしたですな」朝野が扉がら顔を出して言った。
 私は唾をのんた。
  ── ダンシング・チームの楽屋は暗い舞台裏の三階にあった。急な裸の鉄階段を踏み外しそうにして、私は三階に行った。…

 ── 小柳雅子に紹介された。
「小柳君。こちらは倉橋先生と言って、小説家の先生」
 楽屋の真中にあぐらをかいた朝野が、ひどく傲然としたもったい振った口調で、そう言った。
「先生は小柳君、君が大のひいきなんだ、よろしくお願いしておくと、いいぜ」
 大きな声で言うので、踊り子たちは、みんなこっちを向いた。私は真赤になって、
「こちらこそ、よろしく……」
 すると朝野は、「先生」ともあろうものがヒョコヒョコした態度をとっちや困るといった顔で、私のお辞儀をやめさせようとするように、
「先生は……」。
 一層いかめしい声をして、言いかけるのを、
「朝野君……」
と私は遮った。(先生、先生って言うの、勘弁してくれ。)からかわれているみたいで、つらかったので、そう言おうとしたが、私はあがっていて口が動かなかった。
 小柳雅子は、こっちに膝を向けてキチンと坐り直し、その裸の膝が出るのをスカートをしきりとひっぱって防ぎながら、何が辱しめられたような顔をしていた。…」


 吉本興業の浅草花月劇場は、戦前はレビュー、軽演劇の「吉本ショウ」を上演していました。「あきれたぼういず」を売り出したことで有名です。戦後は「浅草グランド劇場」と改称して洋画封切館に転身します。その後、浅草花月劇場に名前を戻し軽演劇や女剣劇を上演していましたが昭和30年代以降は東映作品を中心とした邦画名画座に転換しています。昭和60年、漫才ブーム終了とともに閉鎖します。当時吉本唯一の東京の事業所でしたが吉本側ではすでに浅草は終わった場所として見限っていたようです、現在は「浅草パークホールビル」(JRA WINS別館)となっています。(ウイキペディア参照)
 主人公・小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子の名前を合わせたものです。

写真は現在の浅草パークホールビルです。上記に書かれている”国際通りに面した漫才小屋のT館”とは橘館のことで、”自転車の預り所”は”白石”でその南側が橘館の裏になります。浅草花月劇場の裏、自転車の預り場と橘館の裏付近の写真を掲載しておきます。昭和14年の浅草絵図で確認できます。

「ボン・ソワール跡」
<ボン・ジュール>
 川端康成の「浅草紅団」でも地下鉄ビルが登場していますが、地下鉄ビルが面している南北の通りが地下鉄横町です(現在は観音通り)。高見順の「如何なる星の下に」ではこの通りに喫茶店「ボン・ジュール」があるはずなのですが、昭和14年の浅草絵図で調べてみると、その名称の喫茶店は無く、近い言葉で「ボン・ソワール」という名の喫茶店がありました。”ボン・ジュール”と”ボン・ソワール”は”こんにちわ”と”こんばんわ”の違いです。高見順はわざと違えたのでしょうか!!

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… ── 地下鉄横町に「ボン・ジュール」という、浅草には珍しい銀座風の感じの喫茶店がある。
 銀座風の、 ── そういえば、銀座風の喫茶店はいわゆる浅草の内部には入り込めないでその外側の、いわばその皮膚のような地下鉄横町、国際通りといったところに、あたかも皮癬のように、はびこっている。
 そうした点がら言うと、地下鉄横町は、浅草における銀座的な通りであるが、 ── そうだ。思い出がある。今がら何年くらい前だろう。鮎子が私と別れて、S映画の女優をやっていた時分、同じ撮影所の女優と一緒に銀座通りを歩いているのに私は会って、三人で、なんとなく浅草へ遊びに来たことがある。…」


 ”十返肇、立原道造、野口冨士男の銀座を歩く”を見て頂くとわかりますが、昭和10年代にできた銀座の喫茶店は洒落ています。山の手の上品さではなく、下町の雰囲気をこの頃から浅草は持っていたのではないでしょうか。

写真は現在の浅草一丁目33番西側です。当時の呼称で、地下鉄横町と新仲見世の角から5軒目に「ボン・ソワール」という喫茶店がありました。この一角は8軒並んでおり、そのうち5軒が喫茶店でした。因みに「ボン・ソワール」というお店は道を挟んで反対側に今もあります。おなじ店かは不明です。

「伝法院」
<伝法院の庭>
 2013年6月15日 野口食堂の場所を訂正
 伝法院は浅草寺の本坊で安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあり、「伝法院」はこれらの総称です。もとは観音院、智楽院などと称していましたが、元禄(1688〜1704)以後この名が付けられています。約3700坪の庭園は、寛永年間(1624〜44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられている「廻遊式庭園」です。現在は非公開ですが、時折、特別公開されることがあるそうです(ホームページより)。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 「倉橋君は、伝法院の庭を知っていますか」
 突拍子もないことを言う。だが、朝野が突拍子もなくサーちゃんの話を遮った気持は、私は何かわがる気がした。
「伝法院の庭というと……」
「庭園ですよ」
「庭園というと……」
「区役所の前の」
「ああ、あすこですか。まだ……」
「入ったことがない? 駄目ですな」
「…………」
「なかなかいいですよ。倉橋君は浅草を何も知らんですな。 ── あれは小堀遠州が作ったとかで、京都の桂離宮と同じ、回遊式庭園というんだそうで」
 (これは、後に知ったが、庭園の人口にちゃんと書いてあるのだ。)
「玉木座の前のところの、塀で囲ってある……」と、サーちゃんが口を挾んだ。
「うん」
「あたしも入ったことないわ。話は聞いてるけど」
 朝野は苦笑した。
「いいお庭?」
「そりゃ、いいさ」
 ヘンに力んで、
「ランデヴーなんがには、もってこいだ。 ── どうです。倉橋君、ひとつ小柳君とランデヴーに行っては」
 そう言って、―あわててその言葉を揉み消そうとするような勢い込んだ声で、
 「江戸の雰囲気の漂っている実にいい庭だが……。裏の野口食堂あたりから、妙な流行歌のレコードなんかが、ガーガー響いてきて、こいつがどうもぶちこわしだ。…」、…」


 小堀政一(こぼりまさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で、茶人、建築家、作庭家でもあります。元々は備中松山藩2代藩主で、のち近江小室藩初代藩主みなります。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られています(「遠州」は武家官位の遠江守に由来する)。庭園の作風については政一は師である吉田織部の作風を受け継ぎ発展させたとされますが、特徴は庭園に直線を導入したことです。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされますが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻です。また樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘されています。(ウイキペディア参照)

写真は台東区教育委員会の看板です。伝法院の正面の写真は一様撮影したのですが、なにか撮影禁止の看板が建てられていましたので掲載は控えます。
 上記に書かれている”野口食堂”は伝法院の西側の道路、道の西側にありました(前回を修正しました)。詳しくは昭和14年の浅草絵図で確認できます。

「サカタというミルク・ホール跡」
<サカタというミルク・ホール>
 国際劇場から田原町駅に向う途中の右側に”サカタというミルク・ホール”があったようです。昭和14年の浅草絵図でもサカタ、ミルク・ホールを確認していますので間違いないとおもいます。 

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  国際通りに六区の小屋の連中の休憩所のような感のあるサカタというミルク・ホールがある。(そこは、その年、すなわち昭和十三年の十二月に綺麗に改築されて、それまではミルク・ホールと看板に書いてあったが、ミルク・パーラーと改められた。)そこへ私はミルク・コーヒーを飲みに行った。…

 「ちょっとちょっと、ミルク・コーヒー」
と私は、洋服に下駄ばきのそこの女給仕に言った。細長いテーブルの上には、ゆで卵を盛った皿、袋入りのバター・ピーナッツを入れた瓶、それがら、ドーナツ、ワップル、シュークリーム、渦巻カステラの類いを収めたガラスの菓子箱がならんでいる。…」


 メニューは今の喫茶店とあまり変らないですね。それでも当時としてはハイカラなメニューだったのかもしれません。

写真は現在の国際通り、浅草ROX北側のセブン・イレブン付近から反対側を撮影したものです。右側から3軒目に”サカタというミルク・ホール”があったのですが、現在で見ると、正面やや右側のマンション左端付近から左隣付近と推定されます。昭和14年の浅草絵図を掲載しておきます。

「大黒屋跡」
<大黒屋>
 最後は大黒屋です。この場所も昭和14年の浅草絵図で確認しました。
 
 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… そうだ。食い物と言えば、私のこの回のはじめに、食堂のメシのことを書いた。 ── 私の行く浅草のメシ屋はいろいろとあって、一定してないのだが、つまり急ぐときは、私のアパートから近い合羽橋通りのメシ屋、散歩がてらの時は公園を抜けて馬道に出て、そのあたりのメシ屋へ行く。
 その馬道と国際通りの間。広小路通りと言問通りの間の、普通浅草と呼ばれる一区画の中にある食い物屋は、これはいわば外から浅草へ遊びにくる人たちのための食い物屋で、浅草のなかで働いている人たちのための、そうとも限定できないが、とにかくそんな内輪の感じの安いメシ屋はその区画の外郭にある。馬道、国際通り、広小路、言問通り、そこにいかにもメシ屋らしい安直なメシ屋があるのだ。
 馬道の「大黒屋」で、「傘売り」と向い合って、 ── 傘売りというのは、雨が降ると六区に現われて番傘を売る浅草特有の商売だが、その男のひとりと、その「大黒屋」で時々顔を合わせるうちにいつかなじみになって、向うから話しかけられ、傘の卸しをやっている婆さんの話や、最近その卸値をあげやがって、ふてえ婆だというような話を聞いて、私は十三銭のメシを食い、 ── (味噌汁三銭、野菜皿五銭、丼メシをシロと言って五銭。合計十三銭。ちなみに、もう少しご飯が食いたいという時は、小さな茶碗のメシがあって、これを半と言って三銭。) …」


 マッチの価格(昭和13年12銭(公定価格)、現在250円(約2000倍))で考えると、5銭は100円位で、13銭は260円位です。安いですね。現在は牛丼でも300円前後ですから、そんなもんかなとおもいます。大衆相手の食堂は今も昔も安かったとおもいます。

写真は浅草二丁目の交差点を西側から東側を撮影したものです。左右が馬道で大黒屋は正面左側角にありました。戦後は大国屋という風呂屋がありました。

 上記には”馬道の大黒屋”と確かに書いていますが、「日本の文学 高見順」に掲載されている参考地図(昭和13〜14年)では公園劇場の近くに書かれています。昭和14年の浅草絵図をみると馬道通りと区役所と公園劇場の近くの三ヶ所に大黒屋(家)が見られます。それも公園劇場の近くが大衆食堂で、馬道と区役所の大黒家の方は天麩羅屋になっています。上記の文から読み解くと、場所は馬道の大黒屋で、中身は公園劇場の近くの大黒屋とするのが正解のようです。区役所跡の角の大黒家が唯一 天麩羅屋として現存しています。

 まだまだ続きます。


高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)