●高見順「如何なる星の下に」を歩く -1-
    初版2001年7月3日
    二版2012年7月28日 
    三版2013年3月12日 五一郎アパートの位置を修正
    四版2013年8月22日 <V01L02> 五一郎アパート、染太郎の位置を再度修正 暫定版

 高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」を最初に掲載したのが2001年11月ですから、11年前になります。1ページの掲載でしたが、当時は良く出来たなとおもっていましたが今見ると内容が浅いですね。今回は本にそって少し詳しく掲載してみます。かなりの回数になるとおもいます。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図



「浅草のアパート跡」
<浅草のアパート>
 2013年8月22日 位置を再度修正
 高見順は昭和13年、浅草の五一郎アパートに部屋を借りて住み始めます。川端康成の「浅草紅団」が東京朝日新聞夕刊に連載されたのは昭和4年12月12日から昭和5年2月26日までで、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されています。ですから、「浅草紅団」から8年後になるわけです。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「 この浅草のアパートに六畳間十二円のこの部屋を借りたのは、春が終ろうとする頃であった。小さな机に座蒲団一つ、寝る蒲団が上下、洗面器一個、それからあとはトランクのなかにおさまるインキとか灰皿とかコップとか手拭とか茶筒とか、にんな工合に一々書き立てても造作のない、それたけの荷物を、人間の乗る自動車に詰め込んで大森の家からここへ運んできたのだが、夏に向う時分だったから、寒い季節に備えるものは持っててなかった。…

  「おたく、倉橋さんッて言うんですってね」
 倉橋というのは私のほんとうの名である。私は苦笑しながら、
 「 ── 誰が言った?」
 その言葉で私かみずから倉橋であることを認めたことになる。
 「 ── やはり倉橋さんというのね」
 うんとうなずくと、
 「小説家の倉橋さんね」
とさらに念を押す。私はどういうものか、小説家と言われると妙に照れ臭いので、おでこをむやみに掻きながらうなずくと、
 「倉橋さんッて、前に奥さんと別れた……その奥さんが、倉橋さんと別れてから女優さんになった……。その倉橋さんね」
 ひどい念の押し方である。私はことごとく照れて脂の浮いた汚い顔を撫でくり回した。 …

 私たちは階段を降りて、薄暗い、茶色っぽい電気の光の漂った台所に立った。アパートの人たちの共同炊事場である。その隅に、台所ロのような(事実それに違いないが)アパートというものの玄関らしくない、アパートの玄関があった。 ── アパートの一階の、表通りに面したところは、建具屋、鰹節屋といった、いずれも店で、二階三階がアパートになっていて、アパートの玄関は、裏の路地にあった。そこで、私たちは、二階借りのものが遠慮しながら台所から外へ出るみたいな恰好で、汚い下駄の散乱した三和土に降り立つた。 ── 玄関の脇に便所があり、便所は何か似つかわしくない感じで水洗便所だったが、折からジャーという水道の水が奔流する音がすさまじく聞えた。…」


 小説の内容としては、大森に住む倉橋という中年の作家が浅草にアパートを借り、戦時下の浅草の風俗を描写しています。レビューの踊子小柳雅子、元踊子の嶺美佐子、売れない役者のドサ貫、浅草徘徊作家の朝野光男、倉橋の妻を奪ったレビュー歌手の大屋五郎などが登場しています。なおモデルは戦前の東京吉本の芸人たちとされています。舞台となるK劇場は浅草花月 劇場(吉本興業直営)、主人公・小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子と言われています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の西浅草二丁目12番北側付近です。高見順が住んだ”五一郎アパート”はこの正面右側と推定しています。この”五一郎アパート”については場所がなかなか分からなかったのですが、正確な位置は昭和58年に「かのう書房」から発行された「染太郎の世界」の見返りに”昭和10年代浅草田島町芸人横丁”という地図が掲載されており、その中に戦前の”五一郎アパート”の正確な位置が書かれていました。コメントも付いていて”一階⇒かつお節や、吉田薬局、建具や、二階・三階⇒アパート、高見順は二階に住んでいた”と書かれていました。「如何なる星の下に」には三階に住んでいたと書かれています。青葉調剤薬局という薬局が同じ場所にあるのですが吉田薬局が続いているのかどうかは分りません。中央公論社の「日本の文学 高見順」の中に「『如何なる星の下に』 参考地図 昭和13年〜14年」が掲載されており、その中に”五一郎アパート”が書かれています。正確な地図ではなく、又この地図は誤りがあり、戦前の”染太郎”の位置や”五一郎アパート”近くの「桃太郎」の位置に誤りがあります。

「現在の惚太郎」
<風流お好み焼 ─ 惚太郎>
 2013年8月22日 戦前の染太郎の位置を修正
 「如何なる星の下に」では”惚太郎”という東京本願寺裏手の田島町に有る「お好み焼屋」がしばしば登場します。この「お好み焼屋」は高見順が「染太郎」と名付けたことで有名で、本の中では”染太郎”を”惚太郎”と変えて使っています。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 私は火鉢の火が恋しくなった。「 ── そうだ。お好み焼屋へ行こう」
 本願寺の裏手の、軒並芸人の家だらけの田島町の一区画のなかに、私の行きっけのお好み焼屋がある。六区とは反対の方向であるそこへ、私は出かけて行った。
 そこは「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家があるその路地の入口は、人ひとりがやっと通れる細さで、その路地のなかに、普通のしもたやがお好み焼屋をやっているのが、三軒向い合っていた。その一軒の、森家惚太郎という漫才屋の細君が、ご亭主が出征したあとで開いたお好み焼屋が、私の行きつけの家であった。惚太郎という芸名をそのまま屋号にして「風流お好み焼 ── 惚太郎」と書いてある玄関のガラス戸を開くと、狭い三和土にさまざまのあまり上等でない下駄が足の踏み立て場のないくらいにつまっていた。…

お好み焼の品目を写しはじめた。ここにそれを、その手帳からさらに写し取って読者に紹介しよう。ただし、お好み焼屋の壁に貼ってあるほんものはズラリと横書きになっているが、ここでは横に並べては紙が不経済で不都合であるから、縦書きにする。

 やきそば。いかてん。えびてん。あんこてん。もちてん。あんこ巻。もやし。あんず巻。よせなべ。牛てん。キャベッボール。シュウマイ。(以上いずれも、下に「五仙」と値段が入っている。それからは値段が上る)。テキ、二十仙。おかやき、十五仙。三原やき、十五仙。やきめし、十仙。カツ、十五仙。オムレツ、十五仙。新橋やき、十五仙。五もくやき、十仙。玉子やき、時価。

 この「仙」という字が、ちょっと私は気に入らなかった。「銭」でいいではないかと思い、その後、なんとなく細君に言うと「仙」というのは、人に山で、 ── 「人が山と来るというんで縁起がいいそうで」と説明された。…」


 このお店は冬は鉄板で焼いているのであったかくていいのですが、夏の暑さには耐えられません(お店にはクーラーが無く、扇風機か団扇しかありません)。「如何なる星の下に」から当時のお好み焼の価格を見てみると、やきそば、いかてん、えびてん…五仙、オムレツ…十五仙とあります(銭と仙を掛けている)。マッチの価格(昭和13年12銭、現在250円(2000倍))で考えると、5銭は100円位で、15銭は300円位です。当時のマッチの値段が高かったのか、現在は人件費が上がって高い価格にせざるを得ないのか、現在のメニュー(5〜6年前)を見るとそこそこですね!

写真は現在の「染太郎」です。木造の古い建物ですが、戦災にあって浅草周辺はすっかり焼けてしまっていますので、このお店も戦後の建物です。お好み焼きの形は昔も今も変わりませんね。戦前の染太郎(本の中では惚太郎)の位置は昭和58年に「かのう書房」から発行された「染太郎の世界」の見返りに”昭和10年代浅草田島町芸人横丁”という地図が掲載されており、その中に戦前の”染太郎”の正確な位置が書かれていました。東本願寺の裏手、当時の住所で田島町60番地、現在の住居表示で西浅草二丁目8番付近となります。”「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家があるその路地の入口は、人ひとりがやっと通れる細さで、その路地のなかに、普通のしもたやがお好み焼屋をやっているのが、三軒向い合っていた。”とありますが、現在はこの細い路地がなくなっています。西浅草二丁目8番の区画の西側から撮影した写真の左側から一軒目と二軒目の境に路地があったのではないかと推定しています。この路地の中程に「染太郎」がありました。

「瓢箪池跡」
<瓢箪池>
 主人公の倉橋と元踊子の嶺美佐子は浅草六区を歩いて行きます。
 この浅草六区は明治6年(1873)の太政官布告により浅草寺境内が「浅草公園」と命名されたことから始まります。明治17年(1884)には、この附近一帯が一区から七区までに区分けされます(七区は浅草馬道付近でしたが、その後公園から外され一区から六区のみとなっています)。浅草公園は六区画に分けられ、観音堂付近を一区、仲見世付近を二区、伝法院付近を三区、二つの池を含む付近を四区、奥山から花やしき付近を五区、新しく出来た興業街を六区と定めています。特に六区は浅草寺の火除け地の一部を掘って池を造り、この土で池の西側と東側を埋め立てて作った新しい興業街です。六区には浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、新しい歓楽街を形成することになります。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「 上に藤棚のある、瓢箪池の橋の上に、私たちは佇んでいた。 ── 嶺美佐子と私とは映画館街を、瓢箪池に面したK劇場の前まで来て、急にまるで言い合わしたように、そして二人とも揃って何か逃れるような足どりで、その前から直角に、暗い瓢箪池の方へそそくさと逸れたのであった。 …

 私たちは橋を渡ったすぐ右手にある「おまさ」という茶店に寄った。夏のうち、よくそこで食べた三盃酢のところてんを、 ── 涼しくなると共に忘れていたが、ちょうど無理に詰め込んだお好み焼で胸がやけていた折柄、食べようと思いついて、美佐子を誘ったのだ。「 ── 寒いわね」と美佐子は言ったか、反対はしなかった。
 瓢箪池の島には「おまさ」のほかに、そうした店が左手にもう一軒あって、これは私たちが橋の上から眺めていたネオンの方へ向いていて、この店は反対側の噴水のある方に向けて縁台を並べていた。夏向きでこの季節むきではない縁台に腰をおろすと、瓢箪池がまるでこの店に属している私有の池のような感じで眺められた。美佐子も、ところてんを注文した。…」


 浅草寺の火除け地の一部を掘って池を造ったのが瓢箪池です。この瓢箪池は戦後埋め立てられ、現在のウインズ浅草ビル、浅草ジャンボ、浅草ボウル等になっています。

写真は左がウインズ浅草ビル、右側が浅草平和ビルです。この辺りに瓢箪池がありました。この瓢箪池の真ん中に島があり、島の中に上記に書かれている「おまさ」がありました。昭和14年の浅草絵図から瓢箪他の所を掲載しておきます。

「米久通り(ひさご通り)」
<米久通り>
 瓢箪池へは六区から島を通って浅草寺にぬける橋が架かっていました(昭和14年の浅草絵図を参照)。当時は瓢箪池の島から北を見ると、丁度、米久通りの入口がみえていました。 

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 私たちは橋の上へ来て、ほッとした。それが私たちの足を思わず橋の上にとどめさせた。私はそうした腑甲斐ないような自分に照れ、池の彼方に「びっくりぜんざい」と「大善」のネオンが河にかかった仕掛花火のように大きく美しく輝いているのに眼をやって、「ほう、綺麗だな」と言った。それが私の足をとどめさせた体裁にした。
 映画館街をそのまま終りまでずっと行って、ちょっと右へずれてまっすぐに千住へ通ずる通り、米久があるので普通「米久通り」と言われている「ひさご」通り、その入口の片方にある「びっくりぜんざい」は、大きな二重丸のなかに、二行に分けたびっくりという字を入れた赤いネオンを掲げ、片方の「大善」は、その二重丸の方へ泳いで行く恰好の、鰭のヤケに大きい、赤い線画の鮪のネオンを掲げ、上に大善と青いネオン、下に明滅の工合で波の動くさまをあらわした、手のこんだ青い電球板をつけている。…」


 現在はウインズ浅草ビルの裏手から”ひさご通り(米久通り)”入口は見えません。瓢箪池が埋められたのは終戦後の昭和26年(1951)で、その目的は瓢箪池を売却して得た資金で空襲で被害を受けた浅草寺を再建するためでした。翌年の昭和27年には瓢箪池跡地南側に阪急グループが「浅草宝塚劇場」、「楽天地スポーツランド」、そして、北側には昭和34年に東急グループの複合娯楽施設「新世界ビル」が建てられます(現在は「浅草ウイングビル」)。

写真は現在の「ひさご通り(米久通り)」南口です。昭和14年当時は、入口の右側に「大善」、左側に「びっくりぜんざい」がありました。昭和14年の浅草絵図から瓢箪他の所を掲載しておきます。上記に書いてあります「米久」は今もあり、牛鍋屋として有名です。私も一度だけ入った事があるのですが、入ると下足番のおじさんがいて、靴を預けます。建物も木造で、すき焼きも昔のやり方そのままですので、中々味かあります。いいですね!

「泡盛屋跡」
<泡盛屋>
 主人公の倉橋は友人の浅草徘徊作家の朝野光男に釣れられて五一郎アパート近くの泡盛屋に向います。 

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  アパートの付近に、十二時までに入ってしまえば、少少遅くなろうと追っ払われない泡盛屋があった。(これは、朝野の言葉である。)…

泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっはいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しがけたことがあり、そんな関係がらが、高田稔などがら贈られた、でも今はすっがり色の槌せた暖簾がががっていた。店の客も公園の小屋の関係のものが多がった。そこは、生粋の琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済 ── 那覇税務所という紙のついた瓶が、いくつも入口に転がっていた。浅草の連中は、インチキな酒類を平気で楽しんで飲むが、それは騙されて飲むのではなく、インチキと承知の上のことで、たがら泡盛のほんもの、うそなどということの舌での鑑定にがけては、商売人はだしである。…」


 ”出港税納付済”についてはよく分かりません。戦後すぐはインチキ酒が多かったようですが、戦前はどうなんでしょうか?

写真の右側付近に”泡盛屋”があったはずです。「『如何なる星の下に』 参考地図 昭和13年〜14年」からです。

「田原町駅の出入口」
<田原町の電車、バス、地下鉄の停車場>
 浅草からは地下鉄で一駅、高見順が住んだ五一郎アパートからは330m程離れている地下鉄田原町駅を紹介します。 

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  国際通り(国際劇場のある通り)へ出る角に、自転車の預り所があり、朝野は言った。
 「 ── 預けて行ったきり、そのまま取りにこないのが、よくあるそうですな。小僧がなんが、なんでしょうな。使いに出たすきに自転車を預けて、ちょいと活動でも見るつもりが、ついうがうがと遊んでしまって、もう主人のところへ帰れない。で、自転車をおッぽり出して、逃げちゃう。そういうのらしい自転車が、しょっちゅうあるそうですな」前夜と同じように、朝野は饒舌だった。
 国際通りへ出ると、折がら国際劇場の松竹少女歌劇の昼の部が揆ねたところらしく、そのお客らしい華やがな少女の群が舗道をいっぱいに埋めて、田原町の方へと流れて行く。浅草的な雰囲気とちがったものをあざやがに私たちに感じさせつつ、その絢爛たる流れは、まっすぐ、田原町の電車、バス、地下鉄の停車場へと流れて行くのだ。…

地下鉄田原町の出口に「国際劇場は、まっすぐにお出で下さい」と書いてある示、全くその通り、まっすぐお出でになって、まっすぐお帰りになる。…」


 上野−浅草間の地下鉄開業は昭和2年、新橋までが昭和9年、渋谷までの相互運転ができたのは昭和14年になります(上野−浅草間は東京地下鉄道、渋谷−新橋間は東京高速鉄道が運行していました)。

写真が現在の浅草方面行き銀座線田原町駅出入口です。この出口を出て真っ直ぐに歩くと、国際劇場前です。すぐ隣の稲荷町の駅が昔のまま保存されていますが、当時の浅草方面行きの田原町駅の出入口のデザインは稲荷町とは違っています。現在の上野方面行きの田原町駅のデザインが稲荷町駅と同じなのは不思議です?

 高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」は何回続くか不明です。


高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)