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最終更新日:2006年2月20日

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《三人の作家の浅草散歩》
●高見順「如何なる星の下に」を歩く
  2001年11月3日 V01L01
takami-asakusa01w.jpg 今週から三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って昭和初期(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。若い人の為に、高見順(本名:高間芳雄)はタレント高見恭子の父です。

左の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、私は古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。書き出しは「――アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗くどんよりと曇っていた。窓の近くに有り合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電燈の下に、私は窓に向けて小さな仕事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。」とあります。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

<浅草染太郎>
 「如何なる星の下に」では”惚太郎”という東京本願寺裏手の田島町に有る「お好み焼屋」がしばしば登場します。この「お好み焼屋」は高見順が「染太郎」と名付けたことで有名で、本の中では”染太郎”を”惚太郎”と変えて使っています。高見順の「如何なる星の下に」では「私は火鉢の火が恋しく成った。「――そうだ。お好み焼屋へ行こう」 本願寺の裏手の、軒並芸人の家だらけの田島町の一区劃のなかに、私の行きつけのお好み焼屋がある。六区とは反対の方向であるそこへ、私は出掛けて行った。そこは「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家があるその路地の入口は、人ひとりがやっと通れる細さで、その路地のなかに、普通のしもたやがお好み焼屋をやっているのが、三軒向い合っていた。その一軒の、森家惚太郎という漫才屋の細君が、御亭主が出征したあとで開いたお好み焼屋が、私の行きつけの家であった。惚太郎という芸名をそのまま屋号にして「風流お好み焼――惚太郎」と書いてある玄関の硝子戸を開くと、狭い三和土にさまざまのあまり上等でない下駄が足の踏み立て場のない位につまっていた。」とあります。このお店は冬は鉄板で焼いているのであったかくていいのですが、夏の暑さには耐えられません(お店にはクーラーが無く、扇風機か団扇しかありません)。「如何なる星の下に」から当時のお好み焼の価格を見てみると、やきそば、いかてん、えびてん…五仙、オムレツ…十五仙とあります(銭と仙を掛けている)。マッチの値段(昭和13年12銭、現在120円(1000倍))で考えると、5銭は500円位で、15銭は1500円位です。オムレツは少し高いですが他は現在のメニューを見るとそこそこですね!

左の写真が浅草染太郎です。木造の古い建物ですが、戦災に会って浅草周辺はすっかり焼けてしまっていますので、このお店も戦後の建物です。お好み焼きの形は昔も今も変わりませんね。

takami-asakusa05w.jpg<浅草ひさご通り>
 映画街を抜けて、花屋敷から言問通りに向かう為には「ひさご通り」を通ります。この通りには飲食店が多くあり、昔ながらの浅草の雰囲気を出しています。高見順の「如何なる星の下に」では「映画館街をそのまま終りまでずっと行って、ちょっと右へずれて真直ぐに千束へ通ずる通り、米久があるので普通「米久通り」と言われている「ひさご」通り、その入口の片方にある「びっくりぜんざい」は、大きな二重丸のなかに、二行に分けたびっくりという字を入れた赤いネオンを掲げ、片方の「大善」は、その二重丸の方へ泳いで行く恰好の、鰭のヤケに大きい、赤い線画の鮪のネオンを掲げ、上に大善と青いネオン、下に明滅の工合で波の動くさまをあらわした、手のこんだ青い電球板をつけている。」とあります。現在は「ひさご通り」の映画街側入口の正面に「ウインズ浅草」があり、休みの日には馬券を買う人で溢れ返っています。赤鉛筆と競馬新聞を持った人ばかりで、少々雰囲気がわるいですね。上記に書いてあります「米久」は今もあり、牛鍋屋として有名です。私も一度だけ入った事があるのですが、入ると下足番のおじさんがいて、靴を預けます。建物も木造で、すき焼きも昔のやり方そのままですので、中々味かあります。いいですね!

右の写真が花屋敷側の「ひざこ通り」入口です。「びっくりぜんざい」はありませんが代わりに左側に「びっくり食堂」があります。ぜんざいと食堂の関係は……です。

<国際通り>
 国際通りで東洋一といわれた国際劇場の跡地に建ったのが「浅草ビューホテル」です。残念ながらこのホテルの経営母体の日本ビューホテル株式会社は今年の9月26日民事再生手続きを申請しています(簡単に言うと経営に行き詰まった)。高見順の「如何なる星の下に」では「国際通りへ出ると、折から国際劇場の松竹少女歌劇の昼の部が撥ねたところらしく、そのお客らしい華やかな少女の群が鋪道をいっぱいに埋めて、田原町の方へと流れて行く。浅草的な雰囲気とちがったものを鮮やかに私たちに感じさせつつ、その絢爛たる流れは、まっすぐ、田原町の電車、バス、地下鉄の停車場へと流れて行くのだ」とあります。昭和12年7月浅草国際劇場が開演、松竹歌劇団(SKD)のレビューが一世を風靡しています。また国際劇場から銀座線田原町駅へ行く途中にあった仁丹塔も有名で「田原町の仁丹の広告燈が、――電気のつかない昼間の広告燈というのは、さらでだにしょんぼりとしたものだが」ともあります。この仁丹塔(雷門一丁目交差点)は関東大震災で折れた十二階凌雲閣を模したもので、浅草のシンボルとして長く親しまれたが老朽化のため昭和62年撤去されています。

左の写真、正面が浅草ビューホテル」です。国際通りは現在常磐新線の地下工事中で、道路も工事中の看板が多くて、綺麗な写真か撮れませんでした。

<合羽橋通り>
 「合羽橋通り」とは公園六区入口から「かっぱ橋商店街」に抜ける道で、今は「かっぱ橋本通り」と呼ばれている道です。どじょう鍋の「飯田屋」等があります。高見順の「如何なる星の下に」では何か、ひけらかすようなことばかり書いたようだが、敢えてその調子をつづければ、合羽橋通りを国際通りに出る左角に「今半」があり、そのビルの二階に風呂屋がある。合羽橋通りに向けて、その入口があり、二階に「日本政府登録ロンジン精浴――ガラス湯」という看板が出ているが、ガラス湯というの・・・その風呂屋の下には「ときわや食堂」「丸与果実店」、それから「河金」という小屋の人々の間に有名な洋食屋、その三軒があって、さらに地下室には「花月」というビリヤードがある。」とあります。上記に書かれているお店で今残っているのは「今半」と「河金」のみとなっています。今半の歴史をたどると、明治28年 初代高岡常太郎(改め伴太郎)が岡山より上京、63歳で本所吾妻橋にて牛めし屋開店、大正元年6月 二代目耕治 浅草雷門にて遠縁にあたる故相澤半太郎氏と共同経営にて今半を開店、昭和3年 分離独立し、現住所に浅草今半を開店しています(今半ホームページより)。「河金」は浅草ビューホテル脇の店舗から台東区下谷に移っていました。かつカレーを初めて作った店で有名(大正7年)です。

右の写真が現在の浅草今半です。ビルも当時のままではないかと思いますが、今はビル全体が今半となっています。写真の「今半」の左の道が「かっぱ橋本通り」の入口です。少し行くと右側にどじょう鍋で有名な「飯田屋」があります。

今回紹介できたのは「如何なる星の下に」のほんの一部です。続きをまた紹介したいと思います。
 

「浅草」地図
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【参考文献】
・如何なる星の下に:高見順、日本近代文学館
・断腸亭日乗(1):永井荷風、岩波書店
・文人悪食:新潮文庫、嵐山光三郎


【住所紹介】
・浅草染太郎:東京都台東区西浅草2-2-2 ??03-3844-9502
・米久本店:東京都台東区浅草2-17-10 ??03-3841-6416
・浅草今半:東京都台東区西浅草3-1-12 ??03-3843-2224

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