<立原道造記念館 第八号>
立原道造が流山を訪ねたのは計二回です。一回目は関東大震災の後の大正12年9月です。この時は家族と使用人も含めた50名という大人数で流山の親類 豊島家に避難してきています。二回目はは昭和4年3月下旬(4月末?)から、一学期末までで、神経衰弱療養のためでした。
立原道造の流山に関しては、立原道造記念館の館報 第八号の中で、杉山宮子さんが詳細に書かれていました。
杉山宮子さんの「流山の立原道造」からです。
「流山の立原道造
杉山 宮子
昭和五七年ふと手にした伊藤晃氏の『江戸川物語』(崙書房)の中に「立原道造のこと」とあり、「私はよく小学校時代の恩師布留川先生のところへ遊びに行った。(略)そんなある晩、先生は私に話された。『私がこの学校に着任して間もなくのことでした。ある日の夕方、校舎の見廻りをしましたらね、妙な落書きを発見したのですよ。校舎の裏手の下見板に、白墨で歌が書いてあったのです。』
十六はかなしき年ぞ
灰色の壁にもたれて
泣くことを知る
先生が二、三度口にされたこの歌を、私はいまだに忘れない。先生も強く印象に留めて十数年後に私に伝えたもので、私もまた感銘を受けたのだ。…」
上記に書かれている”伊藤晃氏の『江戸川物語』(崙書房)”については入手が間に合いませんでしたので、入手次第追加・改版したいとおもいます。又、上記に書かれている小学校は立原道造が関東大震災で流山に避難してきたときに通っていた小学校のことで、新川小学校です。
★上記の写真は立原道造記念館の館報 第八号の表紙です。立原道造記念館が閉館してしまったため、館報も入手が難しくなっています。何処かの図書館で全て保存してくれればいいなとおもっています。因みに、私は殆どの号を所持しているのですが、若干欠けています。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)
<豊島家>
関東大震災は大正12年9月1日ですので、この後に立原家は使用人と共に流山に避難したことになります。日本橋区橘町に立原家の仮家屋が建てられたのはその年の12月になります。ですから、4ヶ月弱、流山に滞在したことになります。
杉山宮子さんの「流山の立原道造」からです。
「… 立原道造が関東大震災で焼け出されて、旧新川村北の豊島家に身を寄せたのは大正十二年九歳の時であった。豊島家は当時東部野田線初石駅まで他人の土地を踏まないで行けた、と言う大地主であった。現在の主人友七さんの父上にあたる朋七さんは、道造の父貞次郎と従兄弟の関係にあった。朋七さんは明治の時代に新川村から東京の中学に入った秀才で、その寄宿先が道造の生家の日本橋区橘町三丁目一番地の発送用木箱製造業立原商店であった。
その関係で来やすかったらしく、豊島家の十畳の座敷二間と、十五畳の広間は立原一族五十人(分家した一族と番頭女中を含めて)に占領された。道道は新川小学校三年に編人した。友七さんは彼より四歳年上で「道ちゃんは非常に頭がよく、当時私は高等科の一年でしたが、数学などは私の方が教えてもらったくらいでした」と昔を偲びながら話される。…」
豊島家から東武野田線初石駅まで測ってみました。直線で1.3Km程ありました(下記の地図を参照)。1.3Km全て自分の土地なら凄いですね。
★写真は当時の住居表示で東葛飾郡新川村大字北付近、現在の住居表示では、流山市大字北付近です。当時と住居表示はあまり変わっていません。(ご家族の方がお住まいのようなので番地等は控えさせて頂きました)
<狼家>
立原道造の父親の実家が狼家です。父親は立原家に養子で入ったのですね。狼家は地元では有名なのでびっくりしました。読み方はそのままの”おおかみ家”です。名字を聞いただけで由緒ある家柄だと分かります。
杉山宮子さんの「流山の立原道造」からです。
「… また旧新川村平方原新田の狼家も、道造の父の生家で、祖母のだいさんや父に似た伯父新治邸さんがいた。現在平方一一九五に住んでいる後藤のぶさんは、道造とは一つ違いの従姉妹で、新治郎さんの長女である。優しいほっそりした容姿はどこか道造に通じるものがある。
「道ちゃんは五つの時お父さんが亡くなって私の父が橘町へ出掛けると『泊まっていって!何が食べたい?泊まっていって!』と幼い二人(弟達夫三歳)にせがまれて、つい一泊してしまった」という。父のいない兄弟は伯父に父親の面かげを見ていたのであろう。…」
狼家は現在も同じ場所でご親族の方がお住まいのようです。古い建物がそのまま残っています。
★写真の正面付近が旧新川村平方原新田付近です。現在の住居表示で、流山市美原四丁目です。(番地等の表示は控えさせて頂きました)
<新川小学校>
関東大震災で流山の豊島家に避難していたときに立原道造が通った小学校が新川小学校です。僅か4ヶ月程でしたか、立原道造にとっては印象深い学校だったようです。島家からは、1.2Km程ですから、近い方だったとおもいます。
杉山宮子さんの「流山の立原道造」からです。、
「… 昭和三年、北原白秋の門下で国漢の教師だった橘宗利について作歌を始め、昭和四年三月、それまでに書きためた三行分かち書きの定型短歌を、「硝子窓から」として『学友会誌』発表する。
そして昭和四年、三年生の新学期には、四月下旬から神経衰弱のため休学して流山の豊島家と狼家で静養することになる。……
…伊藤氏のお説では道造は「北小屋の豊島家から江戸川方面に散策に出かけ、土手を北上して天谷あたりから中野久木の台地へと進み、新川小学校の校舎の裏手にまわった姿を想像する。道は充分知っていたはずだし、校舎は立原にとって思い出の校舎だ。あるいは人気のない夕方ででもあると、ひそかになつかしい教室に入って見たろうか。そして白墨を持ち出して…。」 私も同じく (立原少年が書いた)と思う。そのころ道造はこれに似た啄木調の歌を何首か作っている。…」
一番最初の項で書いた立原道造の詩はこの小学校の黒板に書かれていたものです。時期的には立原道造が神経衰弱で療養していた時期とあうので、立原道造作と推定しています。
★左の写真は現在の流山市立新川小学校です。流山街道から少し入ったところにあります。