●立原道造の世界  【東京編W】
    初版2011年8月6日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。今回は昭和13年12月の東京市立療養所入院から昭和14年3月29日に死去までを掲載します。この後の掲載は盛岡ノート、長崎ノート、立原道造が通った喫茶店等を予定しています。時期的には少し時間がかかるとおもいます。




「お墓」
<お墓>
 立原道造は昭和14年3月29日江古田の東京市立療養所で結核のため死去します。享年、二十六歳(満二十四歳八か月)でした。咽喉にからまった疾をどうすることもできず、息を引きとったようです。付き添いがいたはずなのですがどうしたのでしょうか。もう少しは生きることができたとおもいます。堀辰雄のように自身の体のことに気をつけていればもっともっと長生きできたはずです。立原道造自身の性格なのでしょか、どうしても頑張ってしまうようです。
 立原道造全集第六巻の年譜からです。
「二十九日、病状急変し、午前二時二十分、咽喉にからまった疾をどうすることもできず、肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歳(満二十四歳八か月)。
「廿九日夜は内輪の友人達に依って療養所にて通夜。翌日、茶毘に付して、彼は再び生家に帰った。四月六日午後橘町の自宅で告別式を行なった。その前夜は下町らしく賑やかな通夜が行なはれた。葬ひの日は雨であった。かなしいが、何か明るく華やかなものがあった。彼は最後まで、暗くじめじめしたものを残さず、不思議に明るく透き通ったものを描いて去った。親族の方と、僕等数人の友人達とが寺まで送った。寺は谷中(注・台東区谷中)の多宝院である。彼の戒名は温恭院紫雲道範清信士と与へられた。その後、十日を経て、四月十六日、同寺に埋骨の式を挙げた。親族友人相集まって愈々最後の訣別をした。この埋骨の日は晴れた美しいまひるであった」(神保年譜)。…」

 それにしても、結核は誰から感染したのでしょうか。戦前は結核が死の病であり、発病するとほとんど死に直結していたとおもいます。ただ、感染していても体力が落ちたりしなければ発病しないわけで、感染者の10%位しか発病しないそうです。

上記の写真は谷中の多寳院(多宝院)内にある立原家のお墓です。立原道造は左側のお墓です。多寳院(多宝院)はこぢんまりしたお寺ですので、立原道造のお墓は直ぐに分かります(立札もありました)。お寺の正面の寫眞と、本堂多寳院(多宝院)の手前にある立原道造のお墓の案内板の寫眞を掲載しておきます。

「立原道造全集 月報」
<立原道造全集 月報>
 立原道造について書かれた文章は多いのですが、一番の親友と言ってよい小場晴夫氏の書かれた文章が、彼をことを一番書き表しているとおもいます。
 立原道造全集第六巻の月報の中から小場晴夫氏の”立原のこと”です。、
「   立原のこと
                                 小 場 晴 夫
  立原とのめぐりあいは、ともに東大工学部建築学科の学生となった昭和九年に始まり、学生時代の三年間と、卒業して彼が死に至る十四年三月までの二年間の極めて短い期間であった。それから三十数年たった今、彼をめぐる一こまを語ることは、年代と生活の相は違っているが、数年にわたる軍隊生活の一こま、あるいはその後の社会生活での出来事の一つを語ることと、僕には同じように思える。過ぎ去ったことのむなしさがよぎる。

 大学一年のときだった。建築学科の学生がよくしていたように僕は製図用の白いケント紙を筒のようにまるめて小脇にかかえ、二、三の友人と教室から正門への道を歩いていた。陽の光が銀杏の新線に映え美しい五月のある日だった。「王子様が剣を持って歩いているようだ」と声をかけてきた男、それが立原道造であった。……」

 立原道造は口の方は達者なようです。初めての人にずけずけものをいいます。立原道造のタイプは普通では人見知りで、初めての人とはなかなか話せない性格とおもうのですが、かなりはっきり物を言っています。やはり、天才と言われる人は違うのかもしれません。

左の写真は立原道造全集第六巻の月報の表紙です。第六巻の月報には小場晴夫、伊達嶺雄、山根薫、近藤武夫の四氏が書かれており、僅か8ページですが、文庫本一冊程度の情報量があります。月報はいつ読んでも内容の濃い文章が多いです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「東京市立療養所跡」
<東京市立療養所>
 立原道造は昭和13年11月24日夜から西に向かって旅立ちます。10月20日に盛岡から帰京して約一ヶ月での旅立ちです。たぶん、少し元気になってきたのと、東京の寒さから逃れたいとの気持ちだったとおもいます。温かいところで過ごしたかったのかもしれません。しかし、この旅が彼の命を縮めます。長崎で体調を崩し喀血、12月14日帰京、すぐに東大病院で診察、26日中野区江古田の結核専門病院である東京市立療養所に入所します。
 昭和14年5月発行の四季、立原道造追悼號、若林つやさんの「野花を捧ぐ」からです。
「…  立原さんの逝く丁度一週間ぱかり前の雨の日に、私たちは中野の病舎にお見舞にいった。ライラックと赤い小さい花の薔薇の鉢植と本とを持って。立原さんは大へん元気であった。「何か欲しいものがあれば、注文なさるといいわ」と私がいふと、「それでは注文を出しませうか、一度づつでおしまひになる小さな罐詰をいくつも欲しいのです。さうすると食事の度に楽しみでせう。それがサンククロースのおぢいさんが持って來るやうな袋の中に入っていると一さううれしいな ── 」といひ、その日友人が贈ったみどり色の小さい洋書を開き、「最も寂寥な者こそ遂に道を發見する」といふ扉にかいた新しいペンのあとを、じっとながめるやうにしてゐたが、左手で本をふせると、それからもう一つ欲しいものがあります、五月のそよ風をゼリーにして持って來て下さいといひ、非常に美しくておいしく、口の中に入れると、すっととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです ── ともいった。…」
 ”五月のそよ風をゼリーにして持って來て下さい”はあまりに有名なフレイズです。どの場面で使ったフレイズかなとおもっていたら、若林つやさんの「野花を捧ぐ」のなかに詳しく書かれていました。若林つやさんは立原道造より9歳年上で、昭和12年の夏に追分の油屋で初めて出会っています。「日本浪漫派」の関連だったとおもいます。それにしても、若林つやさんの文章はなんとすがすがしいのでしょう。すばらしいですね!!

写真は東京市立療養所跡に開園した現在の江古田の森公園です。平成5年(1993)に国立療養所中野病院(旧東京市立療養所)は国立病院医療センターと統合。敷地は中野区に時価譲渡され、平成19年(2007)に跡地が江古田の森公園として整備され開園しています。当時の東京市立療養所の寫眞を掲載しておきます。

「小場晴夫宅」
<小場晴夫>
 上記にも書きましたが、小場晴夫は立原道造と東京帝国大学建築学科の同期生です。立原道造全集第五巻(書簡)の中で、書簡が一番多いのは”杉浦明平”、二番目が”生田勉”、三番目が”小場晴夫”、四番目が”柴岡亥佐雄”、五番目が”田中一三”となります。これはあくまで残っていた書簡からですから、実際の書簡数はよく分かりません。田中一三宛の書簡はよく残っていたなとおもいます(本人は昭和18年に戦死している)。小場晴夫は立原道造が東京市立療養所に入所してから、立原道造の面倒をよくみています。
 立原道造全集第六巻の月報の中から小場晴夫氏の”立原のこと”です。
「…  江古田の僕の家に弟さんがあけ方来た。母に起こされて、僕は立原の死を知った。前夜は雨戸もいらぬほど春めいていた夜だのに、なぜかあずま障子が音をたてて寝苦しかった。弟さんと療養所へ行く途中も、そのことが不思議だった。風のせいだと思いきめても、それは戦場の数年を含め、三十余年たった今でも不思議さに変りはない。
 療養所から諸所に電話や電報で連絡をした。大勢の人が集まった。通夜のときの保田与重郎氏の端正な姿が思い出される。
 立原のなきがらを棺に移すとき、軽々とかかえられた。その軽さが、彼の生のはかなさのあかしのように思えた。
 焼場で火がかまに入り、煙突から煙が空高く上っていったとき、それまでは一滴も出なかった涙が出てとまらなかった。一人で泣いた。泣きはらした顔を深沢紅子さんに見られるのがいやな気がした。…」

 小場晴夫の自宅は当時の住所で江古田二丁目741番地にあり、東京市立療養所までは約1Km程の距離でした。ですから、立原道造が亡くなった時にいちはん頼られたのが小場晴夫だったとおもいます。

写真の正面付近が旧中野区江古田二丁目付近です(直接の寫眞は控えさせて頂きました)。現在の住所で中野区江原町三丁目です。寫眞をよく見ると中央やや上に風呂屋のエントツから煙が出ているのが見えます。江古田湯のエントツです。風情がありますね!!


本郷・谷中地図


江古田付近地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
11月 油屋炎上
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 7月 油屋再開
9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊、17日 上ノ山温泉泊
19日〜10月20日 盛岡滞在
11月24日 東京を発ち西に向かう
12月14日 帰京、15日 東大病院で診察
26日 東京市立療養所に入院
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
26 2月 中原中也賞受賞決定
3月29日 死去