<お墓>
立原道造は昭和14年3月29日江古田の東京市立療養所で結核のため死去します。享年、二十六歳(満二十四歳八か月)でした。咽喉にからまった疾をどうすることもできず、息を引きとったようです。付き添いがいたはずなのですがどうしたのでしょうか。もう少しは生きることができたとおもいます。堀辰雄のように自身の体のことに気をつけていればもっともっと長生きできたはずです。立原道造自身の性格なのでしょか、どうしても頑張ってしまうようです。
立原道造全集第六巻の年譜からです。
「二十九日、病状急変し、午前二時二十分、咽喉にからまった疾をどうすることもできず、肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歳(満二十四歳八か月)。
「廿九日夜は内輪の友人達に依って療養所にて通夜。翌日、茶毘に付して、彼は再び生家に帰った。四月六日午後橘町の自宅で告別式を行なった。その前夜は下町らしく賑やかな通夜が行なはれた。葬ひの日は雨であった。かなしいが、何か明るく華やかなものがあった。彼は最後まで、暗くじめじめしたものを残さず、不思議に明るく透き通ったものを描いて去った。親族の方と、僕等数人の友人達とが寺まで送った。寺は谷中(注・台東区谷中)の多宝院である。彼の戒名は温恭院紫雲道範清信士と与へられた。その後、十日を経て、四月十六日、同寺に埋骨の式を挙げた。親族友人相集まって愈々最後の訣別をした。この埋骨の日は晴れた美しいまひるであった」(神保年譜)。…」
それにしても、結核は誰から感染したのでしょうか。戦前は結核が死の病であり、発病するとほとんど死に直結していたとおもいます。ただ、感染していても体力が落ちたりしなければ発病しないわけで、感染者の10%位しか発病しないそうです。
★上記の写真は谷中の多寳院(多宝院)内にある立原家のお墓です。立原道造は左側のお墓です。多寳院(多宝院)はこぢんまりしたお寺ですので、立原道造のお墓は直ぐに分かります(立札もありました)。お寺の正面の寫眞と、本堂多寳院(多宝院)の手前にある立原道造のお墓の案内板の寫眞を掲載しておきます。