●立原道造の世界  【東京編U】
    初版2011年6月4日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界 」を引き続き掲載します。前回は生誕から久松小学校までを掲載しましたので、今回は「立原道造の世界 【東京編U】」として、第三中学校入学から東京帝国大学までを掲載します。やはり秀才は違いすね!




「立原道造の世界」
<「立原道造の世界」 小川和佑>
 立原道造研究では様々な本が出版されていますが、今回は小川和佑氏の「立原道造の世界」を参考にしたいとおもいます。研究本なので立原道造の詩についての記述が殆どですが、評伝的な事柄や、年譜も詳細に掲載されていますのでたいへん参考になります。先ずは立原道造の恋愛に関する大学時代のエピソードからです。
 「立原道造の世界」に掲載された昭和10年10月の年譜からです。
「昭和10年(1935)21歳 10月
一高時代の知友松永茂雄・龍樹兄弟の「ゆめみこ会」に参加、やがて彼らの新古今研究に加わり、新古今の現代詩化を試みる。また、杉浦明平の音楽論に刺激される。この日、東大構内で研究室より帰路の近藤武夫に逢い、赤門通の茶房タムラで関鮎子の写真を見せられ、しきりに写真を望んだが、近藤より得られず。…」

 立原道造が好きな鮎子の写真ですから当然欲しかったのだとおもいます。このところの記述について立原道造全集にはどのように書いてあるか見てみました。
「…十月、上旬から中旬にかけて、しばしば夏の回想にとらわれながら、放心したような日々を過ごす。二十六日、アメリカ映画「歌の翼」をみる。このころ、「近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗って街道を走った少女・鮎子ちゃんの写真を見せてもらったけど近藤さんはケチソボで僕には与へなかった」(書簡、十月二十六日・柴岡亥佐雄宛)。また、夏の思い出を組み合わせた連作詩「夏の旅」を書く。二十九日、丸山薫を訪問。…」
 引用も含めて、全集の年譜の方がしっかり書かれています。「立原道造の世界」の年譜は読みやすいように少し脚色しているようです。文章としては小川和佑氏のほうがよいですね!それでは元々の柴岡亥佐雄宛書簡ではとう書かれていたのか見てみました。
「176 十月二十六日〔土〕 柴岡亥佐雄宛 (後2)
 おなじ学校のおなじクラスにゐて十日も合はないといふことはすこしへんだけれど、サナトリウムの製圖以来、かれこれさうなるほど合はなかったのだね。君は見うけるところ元気らしいし、僕もやつと首がまはりだしたよ。それで金曜の午后一時より、美術館の幻燈あり″と見たと思って、その時刻に学校へ出かけて行った。さうしたら、一年生のほかは誰もゐないのであった。あわてて僕は歸つて来てしまった。みんなはその頃鶴見にゐたであらうに。それからしばらく本郷どほりを歩いたが、それは索漠としてへんにかなしかったよ。……近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗って街道を走った少女・鮎子ちゃんの写真を見せてもらったけれど近藤さんはケチソボで僕には與へなかった。近藤さんとは、往来でばったり出合ってしまったのだよ。…」

 記念的に全集の年譜と同じですが、前後が書かれていますから此方の方がよく分かります。”タムラ”が”赤門通の茶房タムラ”に変わっています。当時の地図を見ると”タムラ”は”タムラグリル”と書かれていました(本郷グリルタムラが正解?)。赤門通りは本郷通りのことを当時通称で呼んでいたようです。現在は使われていません。

「グリルタムラ跡」
上記写真は小川和佑氏の「立原道造の世界」です。講談社文庫です。この本は文京書房版の「立原道造研究」より、第一章から第四章までの主として詩人論に関するところを抜粋、再構成した本です。研究本からの抜粋ですから少し難しいところもありますが全体として読みやすい本になっています。

左の写真は本郷都通りの本郷三丁目交差点から北に180m程歩いた角川本郷ビル前から反対側を撮影したものです。写真に”そぱ巴屋”が写っていますが、その右隣が”グリルタムラ”跡です。火保図で確認しています。詳細の場所は下記の地図を参照して下さい。この場所は昭和20年3月の空襲で焼けています。丁度赤門ビルの手前まで焼けて、その北側は焼け残ったようです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の本郷地図



「都立両国高等学校」
<東京府立第三中学校>
 立原道造は昭和2年4月錦糸町駅近くの大横川沿いにある東京府立第三中学校に入学します。
 角川版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「昭和二年(一九二七) 十四歳
 三月、久松小学校を卒業。東京高等学校尋常科(現、東京大学教育学部付属高等学校?)を受験して、失敗。府立第三中学校(現、都立両国高等学校)を受験して合格する。
 四月、府立第三中学校に入学する。…
…なお同校は、被の家とは隅田川をへだてた対岸の本所区江東橋一丁目(現、墨田区江東橋一丁目)にあり、その間には両国橋がかかっている。そこへ両国橋、国技館前、亀沢、江東橋という道順で、徒歩通学したが、市電で通学することもあった。「この学校からは芥川龍之介が出てゐるし、その後は堀辰雄を出してゐる。…」

 この卒業生は芥川龍之介、堀辰雄で有名です。東京高等学校尋常科とは何処にあったのかと探しました。日本初(かつ内地では唯一)の官立七年制高校で、尋常科(修業年限4年)、および文科・理科よりなる高等科(同3年)が設置されていました(尋常科は1934年に一旦廃止)。また官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなどしていました。東京帝大への進学率は8割に達し、卒業生の総数は4007名です。東高校地(翠ヶ丘 / 翠陵)は現在の東京都中野区南台1-15-1に位置し、米軍の空襲による校舎の焼失後は仮校舎(旧制一高の明寮(現在は廃寮)や旧中央航空研究所(現・東大三鷹国際学生宿舎)など)を転々としている間に学制改革・廃校を迎えることとなります。東高尋常科は東大教育学部附属中学校・高等学校(現・東大教育学部附属中等教育学校)に転換されたため、旧校地もまた同校に継承され現在に至っています。(ウイキペディア参照)
「…昭和五年(一九三〇) 十七歳
一月一日、「今年こそ健康に暮すんだと真紅な太陽に向ってさう叫ぶ。ほんとに去年は、病気で一年をすごしてしまった。今年こそ健康に暮したいものだ」(「その日その日・日記」)。…
…六日、「おひるから身体検査・眼は右が二・〇だった。目方は十二貫ぐらいしかなかった。胸囲は八〇糎なかった。背は一六九糎もあった」…
…七月三日、模擬試験の成噂か発表される。全体の十三番。「辛うじて入ったけれど、四年では外に三宮君しか入らなかった」(「その日その日・日記」)…」

 立原道造は体格が良くなかったといわれていますが、17歳の時、十二貫=45kg、八〇糎=80cm、一六九糎=169cm、身長は高い方ですが、体重が無いですね。55kg位あれば良かったとおもいます。

上記写真は現在の都立両国高等学校です。昔の府立第三中学校です。建て直されていますが、場所は変わっていません。

「東京大学農学部正門」
<第一高等学校>
 立原道造は第三中学校4年の時に第一高等学校に合格しています。普通は5年生の時に受験しますから、一年早く受験して合格しています。上記に書いてありますが、4、5年生合わせて約600名中の13番で、4年生は2人しか入っていないとのことなので、4年生では実質一番か二番だったのだとおもいます。凄いです(一学年6クラス、300名)。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「昭和六年(一九三一) 十八歳
 三月、「学友会誌」に「鵜の卵抄」という題で、主として 三行分かち書きの口語自由律短歌を十三首発表。
 三月、府立第三中学校四年を修了し、四月、第一高等学校(本郷区向ヶ丘弥生町、現・文京区弥生一丁目)に入学する。理科甲類(英語)を選び、当座は天文学志望であった。── 「まるでうそみたいに高等学校の生徒になってしまった、あのときの化かされてゐるやうな喜び。
 丁度、春から夏へかけての楽しい自然 ── 何もかも皆幸福だった」(「一年を顧みて」)。
 同学年の理科に、生田勉・奥好宣・友枝宗達・長沢誠・中村整・畠山重政・星野誠・松永茂雄・湯原二郎・米田統太郎らがおり、文科には、石本克栄・猪野謙二・江頭彦造・太田克己・大坪重明・国友則房・三瓶憲章・田中一三・寺田透・広田幸雄・丸田浩三らがいた。また二年には、磯田進・兼井連・栗岡亥佐雄・杉浦明平(文科)、白川義直(理科)、三年には、稲田大・高尾亮一・三井為友(文科)、秋元寿恵夫・鈴木一弥(理科)らがいた。
 入学してから一年間は、西寮五番で寮生活を送ったが、それは彼にとってひどく苦痛で、二年目の秋からは自宅から通学するようになった。…」

 立原道造の人生の中で一番幸せだったのは第一高等学校のときかもしれません。帝大へはフリーパスなので受験はここで終わり、中学から比べれば比較にならないくらい自由になります。此処での友人が生涯の友人になっています(生田勉、猪野謙二、江頭彦造、田中一三、杉浦明平他)。

写真は現在の東京大学農学部正門です。この場所に第一高等学校がありました。この後、第一高等学校は昭和10年に東京帝大農学部の駒場用地と交換し、駒場に移ります。立原道造は昭和9年に卒業していますから、ギリギリセーフとなっています。

「正門」
<東京帝国大学>
 昭和9年4月、立原道造は東京帝国大学工学部建築学科に入学します。天文学志望だったのが建築学科に変わっています。実利を考えた結果でしょう。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「昭和九年(一九三四) 二十一歳
 三月、第一高等学校卒業。物語「ホベーマの並木道」を書き、三月から四月にかけて、散文詩の連作「子供の話八一〜四)」(初案か?)を書く。
 四月、東京帝国大学工学部建築学科入学。天文学から建築に志望を変えたことについては、高尾亮一・近藤武夫らの意見によるところらしい。「彼が私宅へきて、天文学をやりたいと言い出したのは昭和八年も秋の頃であったろうか。私は彼の健康を思い、若くして散った同期生を思い、極力これをとどめた時の、うらめしそうな顔つき、また、『君は絵もうまいし、美の創造も出来る建築学科へ進んだらどうだ。』とすすめた時の、ほっとしたような身ごなしが目に浮ぶ」(近藤武夫「立原道造について」)。…」

 天文学では食えませんね。しかし路線変更したのは直前のようです。第一高等学校から帝大へは、ほとんと無試験ですからよかったのかもしれません。旧帝国大学では入学志願者選抜に際し、志願者の学歴によって優先順位を決定していました。理系学部では特に高等学校卒業者が優先されました。理科卒業者の立原道造は第一高等学校理科甲類(一学年約100名)ですから、優先的に入学できたわけです。

写真は現在の東京大学正門です。当時と変わっていないとおもいます。

 続きます。改版も随時行っていきます。


立原道造の日本橋地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊