立原道造研究では様々な本が出版されていますが、今回は小川和佑氏の「立原道造の世界」を参考にしたいとおもいます。研究本なので立原道造の詩についての記述が殆どですが、評伝的な事柄や、年譜も詳細に掲載されていますのでたいへん参考になります。先ずは立原道造の恋愛に関する大学時代のエピソードからです。
「立原道造の世界」に掲載された昭和10年10月の年譜からです。
「昭和10年(1935)21歳 10月
一高時代の知友松永茂雄・龍樹兄弟の「ゆめみこ会」に参加、やがて彼らの新古今研究に加わり、新古今の現代詩化を試みる。また、杉浦明平の音楽論に刺激される。この日、東大構内で研究室より帰路の近藤武夫に逢い、赤門通の茶房タムラで関鮎子の写真を見せられ、しきりに写真を望んだが、近藤より得られず。…」
立原道造が好きな鮎子の写真ですから当然欲しかったのだとおもいます。このところの記述について立原道造全集にはどのように書いてあるか見てみました。
「…十月、上旬から中旬にかけて、しばしば夏の回想にとらわれながら、放心したような日々を過ごす。二十六日、アメリカ映画「歌の翼」をみる。このころ、「近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗って街道を走った少女・鮎子ちゃんの写真を見せてもらったけど近藤さんはケチソボで僕には与へなかった」(書簡、十月二十六日・柴岡亥佐雄宛)。また、夏の思い出を組み合わせた連作詩「夏の旅」を書く。二十九日、丸山薫を訪問。…」
引用も含めて、全集の年譜の方がしっかり書かれています。「立原道造の世界」の年譜は読みやすいように少し脚色しているようです。文章としては小川和佑氏のほうがよいですね!それでは元々の柴岡亥佐雄宛書簡ではとう書かれていたのか見てみました。
「176 十月二十六日〔土〕 柴岡亥佐雄宛 (後2)
おなじ学校のおなじクラスにゐて十日も合はないといふことはすこしへんだけれど、サナトリウムの製圖以来、かれこれさうなるほど合はなかったのだね。君は見うけるところ元気らしいし、僕もやつと首がまはりだしたよ。それで金曜の午后一時より、美術館の幻燈あり″と見たと思って、その時刻に学校へ出かけて行った。さうしたら、一年生のほかは誰もゐないのであった。あわてて僕は歸つて来てしまった。みんなはその頃鶴見にゐたであらうに。それからしばらく本郷どほりを歩いたが、それは索漠としてへんにかなしかったよ。……近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗って街道を走った少女・鮎子ちゃんの写真を見せてもらったけれど近藤さんはケチソボで僕には與へなかった。近藤さんとは、往来でばったり出合ってしまったのだよ。…」
記念的に全集の年譜と同じですが、前後が書かれていますから此方の方がよく分かります。”タムラ”が”赤門通の茶房タムラ”に変わっています。当時の地図を見ると”タムラ”は”タムラグリル”と書かれていました(本郷グリルタムラが正解?)。赤門通りは本郷通りのことを当時通称で呼んでいたようです。現在は使われていません。
★左の写真は本郷都通りの本郷三丁目交差点から北に180m程歩いた角川本郷ビル前から反対側を撮影したものです。写真に”そぱ巴屋”が写っていますが、その右隣が”グリルタムラ”跡です。火保図で確認しています。詳細の場所は下記の地図を参照して下さい。この場所は昭和20年3月の空襲で焼けています。丁度赤門ビルの手前まで焼けて、その北側は焼け残ったようです。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)