<「立原道造記念館」>
2018年2月24日
「立原道造記念展示室」の記載を追加
立原道造記念館は平成9年(1997)に文京区弥生二丁目の東京大学弥生門前に私立の記念館として開設されます。立原達夫氏(立原道造のご令弟)の「立原道造を顕彰し後世に伝えたい」という強い志に賛同した弁護士の鹿野琢見氏の資金援助により運営されていたようです。平成21年(2009)に後見人の鹿野琢見氏が死去されたことにより資金的に困難になり、平成22年(2010)9月閉館しました。
閉館についてホームページに掲載されていました。
「★「立原道造記念館」は、2011年2月20日、諸般の事情<「館報」第53号7,8頁掲載>により閉館いたしました。
今後、記念館が行ってきた《立原道造の顕彰》等は、記念館の下部組織であった「立原道造記念会」が独立して継承いたします。
しかし、「立原道造の会」の後援がなければ、「立原道造記念会」の活動も立ち行きません。
ひとりでも多くの方々にご入会頂きご援助を賜りたく、改めてお願い申し上げます。
★「立原道造の会」にご入会を希望される方は、「会則」をご覧の上、事務局までお申し越しください。」
私設の美術館や記念館を入場料だけで運営するのは大変です。資金的に援助がなければ困難だとおもいます。
★写真は2010年に撮影した立原道造記念館です。写真の左側です。写っていませんが右側が東京大学弥生門です。左側少し先に竹下夢二美術館と弥生美術館があります(竹下夢二美術館、弥生美術館とも鹿野琢見氏が館長をされていました)。立原道造記念館には三回ほど訪ねました。何時訪ねてもガラガラで私のような立原道造オタクしか見に行かないようです。それにひきかえ竹下夢二美術館は休日になるといっぱいです。立原道造は認知度が低いということなのでしょう。
立原道造記念館の資料関係は窪島誠一郎氏(水上勉氏の長男)のほうで保管され、2012年2月11日、上田市東前山の信濃デッサン館内に「立原道造記念展示室」が新設され、遺品千点余のうち、パステル画や原稿など常時30点ほどが展示されていたそうです。しかしながら、資金的な問題で2018年3月15日信濃デッサン館は閉館されたそうです。(信濃デッサン館については、Uさんよりご連絡頂きました。ありがとうございました)
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)