●立原道造の世界  【東京編T】
    初版2011年6月4日  <V01L01> 暫定版

 1月に「立原道造の世界 【紀伊・大阪・京都・愛知編】」を掲載してから少し時間が経ちましたが、本来の「東京編」を掲載します。今回は立原道造の生誕から小学校くらいまでを予定しています。この頃、歳のせいか時間が経つと何処に書いてあったか思い出せず、ずっと読み直していました。困ったものです!




「立原道造記念館」
<「立原道造記念館」>
 立原道造記念館は平成9年(1997)に文京区弥生二丁目の東京大学弥生門前に私立の記念館として開設されます。立原達夫氏(立原道造のご令弟)の「立原道造を顕彰し後世に伝えたい」という強い志に賛同した弁護士の鹿野琢見氏の資金援助により運営されていたようです。平成21年(2009)に後見人の鹿野琢見氏が死去されたことにより資金的に困難になり、平成22年(2010)9月閉館します。ホームページは継続して開設されています。
 閉館についてはホームページに掲載されています。
「★「立原道造記念館」は、2011年2月20日、諸般の事情<「館報」第53号7,8頁掲載>により閉館いたしました。
  今後、記念館が行ってきた《立原道造の顕彰》等は、記念館の下部組織であった「立原道造記念会」が独立して継承いたします。
  しかし、「立原道造の会」の後援がなければ、「立原道造記念会」の活動も立ち行きません。
  ひとりでも多くの方々にご入会頂きご援助を賜りたく、改めてお願い申し上げます。
★「立原道造の会」にご入会を希望される方は、「会則」をご覧の上、事務局までお申し越しください。」

 私設の美術館や記念館を入場料だけで運営するのは大変です。資金的に援助がなければ困難だとおもいます。

写真は2010年に撮影した立原道造記念館です。写真の左側です。写っていませんが右側が東京大学弥生門です。左側少し先に竹下夢二美術館と弥生美術館があります(竹下夢二美術館、弥生美術館とも鹿野琢見氏が館長をされていました)。立原道造記念館には三回ほど訪ねました。何時訪ねてもガラガラで私のような立原道造オタクしか見に行かないようです。それにひきかえ竹下夢二美術館は休日になるといっぱいです。立原道造は認知度が低いということなのでしょう。立原道造記念館の資料関係は窪島誠一郎氏(水上勉氏の長男)のほうで保管されると聞きましたが、どうなったのでしょう。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の本郷地図


「立原道造全集」
<立原道造全集 角川書店版>
 ”立原道造の東京を歩く”に当たっては立原道造全集の年譜を参考にしました。筑摩書房版の立原道造全集が最新版(2006年)なのですが、私が所有している立原道造全集は角川書店版(少し古い)なので此方の年譜を参考にして東京を歩きました。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「大正三年(一九一四) 一歳
 七月三十日、東京市日本橋区橘町三丁目一番地(昭和九年九月以降、橘町五番地一号。現在、東京都中央区東日本橋三丁目五番地二号)に、父貞次郎(三十二歳)・母とめ(登免、通称尤子、二十四歳)の次男として生まれた。…
…父貞次郎は養子で、千葉県東葛飾郡新川村大字平方(現在、流山市平方原新田一〇二)の農、狼家の出であり、母とめは水戸の藩儒、立原翠軒を初とし、その四代目に当たるという(とめ談)。この父と母とは、いとこ同士の 縁組みである。…」

 角川書店版の立原道造全集(六巻)に掲載されている年譜は良くできていて、年譜というよりは箇条書きの評伝といった書き方をしています。

写真は角川書店版立原道造全集六巻の箱表紙です。立原道造全集は過去に5回刊行されています。第一回は昭和16年に山本書店から全三巻で発行されています。第二回は昭和25年にて角川書店から全三巻で発行されています。第三回は昭和32年に角川書店から全五巻で発行されています。第四回は昭和46年に角川書店から全六巻で発行されています(今回の参考全集です)。最後は平成18年に筑摩書房から全六巻で発行されています。

「四季 立原道造追悼號」
<四季 「立原道造追悼號」>
 立原道造全集の年譜も良く出来ているのですが、新保光太郎作製の年譜も良く出来ています。立原道造全集の年譜には”神保年譜”と書かれています。
 四季 「立原道造追悼號」に掲載された神保光太郎の”立原道造の生涯”からです。
「一、大正三年七月三十日 東京市日本橋区橘町五番地の一に生れた。父貞次郎三十二歳、母登兎(叉の名光子)二十四歳であった。彼は次男であったが、良男は三歳で逝つてゐる。この他に弟達夫あり、現に家業商品発送のための箱の製造を営んでゐる。父は道造六歳の時に逝去。その後は、母と弟との三人家族、それから多くの傭人の間で育った。
一、父は千葉県の農家の出であり、立原家に入った人であり、母はその祖をかの有名な水戸の儒者立原翠軒竝びにその子畫家立原杏所に系いてゐる。現立原家の家紋は水戸家よりの拝領の紋である由。…」

 上記の立原道造全集の年譜と比べてみて下さい。書き出しはほとんど同じです。四季 「立原道造追悼號」の発行は立原道造が死去した直ぐ後の昭和14年5月20日ですから、昭和16年に山本書店から発行された立原道造全集よりは早いわけです。

写真は四季 「立原道造追悼號」です。復刻版ですからとてもきれいです。

「日本橋区橘町三丁目一番地」
<立原道造生誕の地>
 上記に立原道造全集と神保光太郎の”立原道造の生涯”で生誕の地について書きましたので、ここでは杉浦明平の”下町育ちの立原”を参照します。
 杉浦明平の”下町育ちの立原”からです。
「 立原道造の家は、浅草橋の近く、橘町の木箱屋だったから、いわば下町のまんなかにあった。水天宮も近く、猪野謙二が近所に住んでいた。そういう点で、立原は江戸っ子だったにちがいないが、しかしわたしにはかれが江戸のことを語ったことをきいたおぼえがない。歌舞伎のことなど一度もロにしたことがなく、わたしが何かのはずみに歌舞伎役者のことにふれたりすると、立原の方があわてて話題をそらしたほどである。わたしは田舎から出てきて、江戸的なものに嫌悪と反感といくらかの軽蔑とを感じていて、それを露骨にロにしていた。立原は、ドイツ映画やフランス映画の話をよくしたし、ボーイッシュな女優のファンであるらしかったが、芝居の話をしないので、歌舞伎など見たことがないのかと、わたしはさいきんまで思いこんでいた。ところが猪野の話によると、立原は猪野と道を歩いているとき突然歌舞伎役者の声色を使ってみせたことがしばしばあったという。考えてみれば、その方がもっともであって、立原はやはり少年時代から芝居を見にいっていたに相違ない。東京下町の町人の生活にとって芝居見物は欠くことのできぬ一駒だったのである。たしか明治座も立原の家のすぐ近所にあって、当時左団次たちがこの小屋に拠っていたような気がする。もっとも立原が芝居を見に通ったのは、それよりはるかむかしの時期だったろうが。…」
 この場所は関東大震災で焼けて、その後の区画整理で道が広がっており、東側に10m位広げられています。ですから正確に”立原道造の生誕の地”を言うと、道路の上となるわけです。ただ、立原家は関東大震災後もこの地に住んでいますので、そうとう奥行きのあった土地を所有していたのだとおもいます。立原道造が昭和13年に水戸部アサイに送った自宅の地図かありますので掲載しておきます(1.日本橋三越から鞍掛橋付近の地図、2.馬喰町停留所から自宅への地図)。この地図だけだと分り難いので、3.関東大震災前の地図、4.昭和初期の地図も掲載しておきます。

上記写真の右側4階建ての建物から左に三軒目が立原道造生誕の地です。立原道造全集の年譜に現在の住居表示で中央区東日本橋三丁目五番地二号と書かれていますが、もう一度住居表示が変わっており、東日本橋三丁目九番地二号となります。

「養徳幼稚園跡」
<養徳幼稚園>
 立原道造は大正7年になると幼稚園に入園します。当時は裕福な一部の子供しか幼稚園に入れなかったとおもいますので、めぐまれた環境にいたのだとおもいます。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「大正七年(一九一八) 五歳
 四月、浜町の幼徳幼稚園にはいる。
 「晩年の道造と同じく、幼ない時から、羞にかみ屋で、温順しい、運動嫌ひな子供であった。あの辺一帯は問屋が軒並に続いてゐる町で、江戸の下町的雰囲気は今も残ってゐるが、道造はかうした空気の中に、下町の子供らしく、剣舞を習ったり、毎日(月?)のやうに母と共に芝居に行ったり、声色を真似たり、又、ばあやにつれられて、角力部屋を訪れ、力士と遊んだりした。その時の挿話として、角力と遊んでゐる中はいいが、力士達の稽古がはじまると『喧嘩はいやだ、いやだ』と云つてむづかり出したといふ。手細工や絵は幼ない時から絶えず続けてゐた。文字への興味は四五歳の時に始まり、能く電柱の広告などを読んだ」(神保年譜)。…」

 上記の「杉浦明平の”下町育ちの立原”」にも歌舞伎の話が出ています。私は歌舞伎については余り強くありませんが昔は娯楽の花形たったのかもしれません。
 立原道造記念館報(28号)に岡田孝一氏が「養徳幼稚園」として書かれていました。
「 大正時代の幼稚園は三年保育であった。「幼稚園令」が制定されたのは関東大震災後の一九二六年であり、立原が養徳に通った当時、国の定めた基準は明治三十三年制定の小学校令の末尾にあり、「幼稚園ハ満三歳ヨリ尋常小学校二入学スルマテノ幼児ヲ保育スルヲ以テ目的トス」と定められていた。…
…日本橋区作成『日本橋区史』(一九一六年) に次のように記載されている。
 私立養徳幼稚園 濱町一−二
 敷地六八、〇〇坪建物四六、四〇坪
 明治二丘年七月創L止
 組数三 保姆数二
 幼児数男一五 女一七
 園長 相賀よし
 関東大震災によって焼失した後に浜町に再建されたら、養徳幼稚園に占い記録が集められたであろうが、養徳幼稚園は、震災後、浜町を離れ、田園調布に移転している。…」

 岡田孝一氏の「養徳幼稚園」には現在の何処に当たるかは書かれていませんでした。私も中央区沿革図集 日本橋編等で調べてみましたがよく分かりませんでした。
 
上記の写真の右側が関東大震災前の濱町一−二付近です(写真の場所から隅田川までの右側区画全て)。現在の日本橋浜町一丁目59〜62付近となります。敷地六八、〇〇坪ですから150m四方となりますので、この一区画全てとなるはずです。本当かなとおもいました。

「久松小学校」
<久松小学校>
 大正10年、立原道造は近くの久松小学校に入学します。大正10年ですから関東大震災の2年前になります。地震は正午におこっていますが、この付近が火災になったのは夕方以降ですので、逃げる時間は十分にあったようです。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「大正十年(一九二一) 八歳
 四月、隣り町にある久松小学校に入学する。
 久松小学校では開校以来の俊童といわれ、「ずつと首席 で通したが寧ろ、眼だたないおとなしい子であった。運動会はいつも最後を一周回もおくれて走ってゐたといふ。
 学課、全部抜んでてゐたが、唱歌が能く乙をもらってきた」(神保年譜)。ただハーモニカを吹くことは上手で、学芸会で演奏したこともあった。
 「兄は小学校の頃は、あまり友達と遊ばないで、先生とばかり遊んでいました、特に山田先生とは仲がよかったようです」(立原達夫「兄の思い出」)。…」

 ”久松小学校では開校以来の俊童といわれ”は凄いですね。この時から三中、一高、東大は規定のコースだとおもいます。

写真の左側が久松小学校です。当時と場所は変わっていせん。立原家からは400m弱となります。この小学校の正門の左側に立原道造の記念碑が建てられています(写真の左側に写っています)。記念碑は開校以来の俊童ですから当然かもしれません。

 続きます。改版も随時行っていきます。


立原道造の日本橋地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊