<汽船乗場>
立原道造は昭和13年11月28日から12月1日まで松江に滞在しています。長崎に向う途中で、松江での宿泊先は堀辰雄の友人である山根薫氏宅でした(この辺りのお話は「松江編T」を見て下さい)。松江滞在三日目に船で松江から美保関に向います。
立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 十一月三十日
風が吹きあれて、空はくらい雲に蔽はれ、それが吹き拂はれる。多のこのあたりの気候は陽の光に恵まれずにこんな風にしてずつとつづくのださうだ。明るさと暗さとが今はまだ激しくたたかつてゐる。けふは日本海につき出してゐる岬の方へ行ってみようとおもってゐる。海があれてゐるかも知れないが、舟にのる。
── 僕の旅の豫定はまたのびはじめた。長崎に着くのはすこしおくれるだらう。しかも早く落着きたいとねがってゐる。ふたつのねがひがいつも胸のなかであらがってゐる。しかも、傷はやぶれたまま、不安なたよりない身體を旅に驅ってゐる。このごろは咳がやまない、咽喉がどうかなってゐるのだらうか。…
…
*
ちひさい内海通ひの汽船にのりこんだ。低い天井の船室は畳敷きだ、四人ほどが腰かけられるやうになってゐて、そこに僕は腰をおろしてゐる。乗合はみなこのあたりの人ばかりで用があって旅をするのだらう。何かしらみな話しあってゐる。耳馴れない言葉だ。陽がまたさしはじめて人たちが足をのばした畳の上に窓の形を映し出してゐる。發動機がガウガウ言ってゐる、油くさい臭ひが風にまざつてゐる。陽は絶えず弱まったり強まったりしてゐる、やうやく發動機が動きはじめた、船體はこまかく揺れてゐる。……窓の外はちひさいながら、港のやうな空気がある。白い發動機船がいくつももやってゐる。船はもう動きはじめた。…」
当時の松江から境港、美保関に向う船便は、合同汽船會社が運行していました。昭和10年の時刻表を見ると、松江・美保関間急行船とあり、一日6本運行されていたようです。立原道造が乗船した時間を推定すると
・松江発(9:40)→井奥(10:03)→馬潟(10:08)→外江(11:00)→境鐵道桟橋(11:10)→境八幡(11:15)→美保関(11:45)
の時間ではなかったのかとおもいます。松江→美保関間が2時間ほど掛かっています。
★上記の写真は松江大橋から南西側の八軒屋町方面を撮影したものです。この付近に合同汽船の乗船場がありました。当時の絵はがきを掲載しておきます。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)