●立原道造の世界  【長崎ノート 松江編U】
    初版2012年6月30日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界 長崎ノート 松江編U」を掲載します。「松江編T」で残っていた境港から美保関を回ってきました。よくこんな所まで立原道造が訪ねたなとおもいます。境港は水木しげる生誕の地で、「ゲゲゲの鬼太郎」が面白かったのですが、美保関は江戸時代には北前船交易の要所でしたがいまは寂れてしまっています。




「汽船乗場跡」
<汽船乗場>
 立原道造は昭和13年11月28日から12月1日まで松江に滞在しています。長崎に向う途中で、松江での宿泊先は堀辰雄の友人である山根薫氏宅でした(この辺りのお話は「松江編T」を見て下さい)。松江滞在三日目に船で松江から美保関に向います。
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 十一月三十日
 風が吹きあれて、空はくらい雲に蔽はれ、それが吹き拂はれる。多のこのあたりの気候は陽の光に恵まれずにこんな風にしてずつとつづくのださうだ。明るさと暗さとが今はまだ激しくたたかつてゐる。けふは日本海につき出してゐる岬の方へ行ってみようとおもってゐる。海があれてゐるかも知れないが、舟にのる。 ── 僕の旅の豫定はまたのびはじめた。長崎に着くのはすこしおくれるだらう。しかも早く落着きたいとねがってゐる。ふたつのねがひがいつも胸のなかであらがってゐる。しかも、傷はやぶれたまま、不安なたよりない身體を旅に驅ってゐる。このごろは咳がやまない、咽喉がどうかなってゐるのだらうか。…

     *
 ちひさい内海通ひの汽船にのりこんだ。低い天井の船室は畳敷きだ、四人ほどが腰かけられるやうになってゐて、そこに僕は腰をおろしてゐる。乗合はみなこのあたりの人ばかりで用があって旅をするのだらう。何かしらみな話しあってゐる。耳馴れない言葉だ。陽がまたさしはじめて人たちが足をのばした畳の上に窓の形を映し出してゐる。發動機がガウガウ言ってゐる、油くさい臭ひが風にまざつてゐる。陽は絶えず弱まったり強まったりしてゐる、やうやく發動機が動きはじめた、船體はこまかく揺れてゐる。……窓の外はちひさいながら、港のやうな空気がある。白い發動機船がいくつももやってゐる。船はもう動きはじめた。…」

 当時の松江から境港、美保関に向う船便は、合同汽船會社が運行していました。昭和10年の時刻表を見ると、松江・美保関間急行船とあり、一日6本運行されていたようです。立原道造が乗船した時間を推定すると
・松江発(9:40)→井奥(10:03)→馬潟(10:08)→外江(11:00)→境鐵道桟橋(11:10)→境八幡(11:15)→美保関(11:45)
の時間ではなかったのかとおもいます。松江→美保関間が2時間ほど掛かっています。

上記の写真は松江大橋から南西側の八軒屋町方面を撮影したものです。この付近に合同汽船の乗船場がありました。当時の絵はがきを掲載しておきます。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の松江市内地図



「境港」
<境港>
 立原道造が乗船した合同汽船は急行船の表示ですが、停まる港が多いです。最初に停まる井奥、馬潟は中海に出る手前です。外江は境港の手前で、境鐵道桟橋は現在の境港駅のすぐ北側になります。境八幡は境港の少し先になります(下記の地図参照)。
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「 海に出てはじめて眼を打ったのは長い岬がゆくてにつづいてゐることだった。そしてその岬の眞中の一部に、白やキラキラする白茶のサイコロを並べた町があり、その左手に可なりな長さにわたって砂丘のつづいてゐることだった。陽がそのときはさしてゐた。その砂丘のうしろには一段とほく山があり、そこに雲のかげがとほってゐた。明るくて花やかだった。間もなくその雲のかげがひろがつた。光を失ふと、その風景は、あまりに美しくなくなって、船が舵をかへるまで長いこと見えてゐたが、今はもう見えない。波がかなりあって船體はかすかに横ゆれする。ときどきしぶきがかうやって書いてゐる甲板の近くにまでとぶことがある。今僕は舷に腰をかけて非常に危い姿勢でこれを書いてゐる。…

 甲板の場所をかへた。 ── はじめて見た岬が眞近に、そのかげにとほくまた海が、そして長い松原が、その向うに大山が見える。後の方に光が一すぢ海の上にある。大きな景色になった。僕はだまつて見てゐよう。船がゆれてもう書けない。
          *
 甲板の上に立ってぢつとしてゐたら、すっかり寒くなった。いま、外江といふところを過ぎた。 ── しばらくまへに左舷に切り出てゐる赤土山が見えてゐた。あらはな崖が海にぶつかってゐて、わづかな樹木がいただきにあるばかりだ。裾のところに片ながれの藁葺の小屋がある。心細い小屋でだれが泊るのだらうかとおもふ。
……船室のなかもやはり寒い。先刻からのつたままの人たちが寝てゐたり、ぼそぼそとはなしあってゐる。内海通ひの佗しい發動機船の曇った午後といふ芝居のやうだ。空にはだいぶ雲がまして來て幾重にもかさなりあってゐるところもある。しかしそれでもときどき陽がもれたりする。……境港に着く。一人の人がおりる。挨拶をかはしたりしておりてゆくのがこのましい。…」

 ”長い岬がゆくてにつづいてゐる”は米子から境港まで続いている弓ヶ浜半島のこととおもわれます。この半島は砂が堆積してできた半島で、全長約17km、幅約4km、日本海(美保湾)と中海を分けいます。”砂丘”もこの半島をみたものとおもわれます。又、境港の付近は境水道と呼ばれ、非常に狭い水路になっています。、当時の船の絵はがきを掲載しておきます。

写真は現在の境港です。写真のバスの先に隠岐行きの船が停まっています。当時はこの付近を境鐵道桟橋と呼んでいたようです。写真の反対側にJR境港駅があります。駅前から商店街まで「ゲゲゲの鬼太郎」一色でした。水木しげるさんは別途、特集する予定です。


立原道造の松江市内地図 -2-



「美保関港」
<美保関港>
 立原道造は何故、美保関まで訪ねたのでしょうか。戦前とはいえ、かなり寂れていたはずです。立原道造が興味を引くような建物はなかったとおもいます。美保関は、古くからの海上交通の要所で、風待ちの港として栄えていました。又、朝鮮半島等との環日本海交易の拠点であった美保関は、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、足利時代には将軍の直轄領となっています。江戸時代には北前船交易の要所としても繁栄し、多くの廻船問屋などが存在していました(ウイキペディア参照)。
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 光と眼とがあってはじめて僕は風景にとりまかれる。船が境を出ると間もなく長く突出た突堤をすぎて日本海が見えるあたりに來た。水平線がジグザグを描いてゐるのだとはじめは見えた。しかしそれは水平線ではなくて途中で波がおこつては滑えて行くのであった。白いけものと黒いけものとがたはむれあふやうに波は沖でさはいでゐた。はじめて日本海が大きな海景で眼のまへにある。しかも右手には大山がその裾を直接に海にスロープをはらせてゐる。船の舶先に立って僕は見とれてゐる。
 岬にかくれたところに港はあった。針路をかへて、大海の眺めはまたちひさい湾にかはってしまふ。…」

 美保関の観光というと、事代主の神(ことしろぬしのかみ、通称恵比寿様)の総本宮である美保神社や、世界歴史的灯台百選に選出された美保関灯台、民謡、関の五本松節で知られる五本松公園(現在は4代目の松の幼木が植えられています)等と北前船が行き交っていた頃の街並みです(ウイキペディア参照)。

写真が美保関港です。戦前の絵はがきと見比べて下さい。正面のビルの左側に二階建て、三階建てのえびす館という旅館跡が残っているのがわかります。

「三代目 関の五本松」
<関の五本松>
 立原道造が訪ねたであろう、”関の五本松”です。 
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「  今、ひとつの岬のいただきにゐる。松の茂ったベンチに腰かけてゐると、日本海が左手に、中ノ海が右手にはるかにひらける。陽が海の或る部分にキラキラしてゐる。陽のあたるところは明るい青緑色にかがやくが、一體にくろずんだ灰色に光ってゐる。風がわたってさまざまな波紋を描いてゆく、沖には白い波が立ってゐる。大山はちょうど眞正面にある。下の入江には平和な港村がある。この海の表情をいつまでも眺めてゐられたら!
 松が風に鳴ってゐる。出帆の合図の笛が下の港できこえる。發動機船がかへって行く。あれが僕をのせて來た船だ。ここで僕はあれを見送ってやらう。何とちひさな船だらう。あの船首に立って僕は日本海の大きな海景を見たのだ。ボンボンといふ膏はなつかしくいつまでもせい一ばいに昔たかくひびいて來る。僕をいい風景に連れて來た船よ! 元気よくいつまでも航海するがいい。…」

 ”ひとつの岬のいただきにゐる。松の茂ったベンチ”となると、美保関では「関の五本松」しかありません。戦前の美保関港から見た「関の五本松」の絵はがきを掲載しておきます。港から五本松までは15分(看板には20分と書かれていた)山登りしなければなりません。かなり疲れました。立原道造は五本松のベンチに座って日本海を見たのだとおもいます。五本松から見た美保関港の現在の写真と、戦前の絵はがきを掲載しておきます。残念ながら大山は見えませんでしたが、美保湾の写真も掲載しておきます。

写真が三代目の「関の五本松」です。初代、二代と松食い虫にやられて三代目になっています。四代目も育成中のようです。

 立原道造はその日のうちに船で松江に戻り、翌日、下関、福岡経由で長崎に向います。


立原道造の長崎ノート地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう
11月28日 舞鶴から松江に向かう
11月28日から12月1日まで松江に滞在