<松江駅>
松江での立原道造については、本人の「長崎ノート」と、松江での宿泊先である山根薫氏のエッセイ(立原道造全集
第五巻の月報)しかありません。山根薫氏は下記にも書かれていますが、堀辰雄と東京帝大の同級生で、そのつながりから、手紙でのやりとりがあり、親しくなったものとおもわれます。
立原道造の「立原造造全集」、”第五巻 月報”から。
「立原道造君との出会い
山根薫
立原君が、当時松江に住んでいた拙宅に数日を過したのは昭和十三年の十一月であり、これが立原君との最初の、そしてまた最後の出会いであった。
堀辰雄から山陰旅行をする立原をよろしくとの手紙をもらったのが機縁であった。堀は一高の理科乙類で机を並べた同級生であった。そのころの堀はふくよかな丸顔の美青年であった。医学コースを選んだのであったが、堀も私も医者にはならないでしまった。堀はたしか国文学へ行ったと思うし、私は胸を患い、休学しては登校するという状態であったため医者になるのをあきらめ、心理学を選ぶことになった。こうした事情から堀との交友も疎縁になってしまった。
やがて作家として立った堀と旧交をあたためる機会をふたたび持つことになった。若いころ文学少女であった家内が堀の指導を望んだので、かれに手紙を出すことになった。かれは親切な手紙をくれた。そしてやがて沢西健氏を通じて同人雑誌「偽画」へ参加するよう呼びかけてくれた。沢西氏は手紙の中で、「偽画」は自分と立原道造とが中心になっていて、堀の指導をうけていること、立原は「四季」にも詩をのせていることなどを書きしるしていた。…」
当時の山根薫氏は、当時 旧制松江高等學校の先生で、東京帝大卒業後すぐに松江にきたものとおもわれます。旧制松江高等学校は大正9年(1920)に設立された旧制の高等学校です。旧制高等学校はナンバースクールとネームスクールに分けられ、ナンバースクールは明治期に設立されていますので、ネームスクールはかなり遅れての設立となります。因みに旧制高等学校は、一高、二高、三高、四高、五高、六高、七高、八高、新潟、松本、山口、松山、水戸、山形、佐賀、弘前、松江、大阪、浦和、福岡、静岡、高知、姫路、広島までです。旧制松江高等學校は現在は国立島根大学になっています。
立原道造の「長崎ノート」からです。
「十一月二十八日
僕は今極端に疲れてゐる。松江に着いたらどうかなるだらう。松江に明日境港から船で行く計企もつくって企もつくってみてはすぐにくづしてしまふ。今夜五時半ごろ松江に着いたら先刻から書きつづけたおまへへの手紙を投函することをたったひとつのねがひにしながら、もう米子をすぎて日はくれた。…」
立原道造は松江にかなり疲れて到着したようです。松江滞在は三泊四日で、滞在先で休養はあまりせず、寒い中を出歩いていたようです。これでは病気は良くなりません。悪くなる一方です。
★上記の写真は現在の松江駅です。明治41年(1908)に開設されています。当時の松江駅の写真(出典:アート今岡殿)を掲載しておきます。二代目の駅舎は昭和28年ですから、一代目の駅舎はそうとう長く使われていました。現在の駅舎は三代目になります。又、山陰本線が全通したのは昭和8年(1933)ですから、立原道造が山陰を訪ねるわずか5年前のことです。ですから、立原道造が訪ねてみたかった理由も分かります。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)