<新舞鶴駅>
立原道造は京都で2泊した後、舞鶴に向かいます。舞鶴には東京帝国大学工学部建築学科の同期、波江貞夫がいました。なにか、奈良から京都、舞鶴と、寒いところ、寒いところを選んで旅をしているようにおもえます。もっと温かい山陽路を訪ねればよかったのではないかとおもってしまいます(どうも友人たちの居る場所が悪い!)。
立原道造の「長崎ノート」です(昭和13年)。
「 十一月二十七日
夕ぐれ、汽車のなか、窓に月がかかってゐる。
舞鶴に間もなく着くだらう。
亀岡盆地を走るころちょうど日没まへの赤い空だった、いろいろな人が家へかへったりする時刻だった
── 僕にはそれがうらやましく、さびしかった。あの人たちには生活がある、しかし僕には生活がない。ただただよってゆくばかりだ。どこか落着くところはとほくにある。山陰を辿って長崎へ着くまでの彷径が奇妙にたよりなく、早く着いてしまひたいやうな気がする。…
… 僕はひとに迎へられる ── この町でも京都で一汽車のりおくれたために、この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる。京都でも僕は一汽車のりおくれなければならないくらゐ、親切だった。危くその汽車に間に合ったくらゐの時間まで、あそこで、僕はたのしかった。…」
立原道造が京都から乗車した列車を探してみます。上記に”亀岡盆地を走るころちょうど日没まへの赤い空だった”と書かれていますので、11月27日の京都での日没時間を計算すると16時47分ですので、この前後に亀岡付近を走っていたことになります。京都から舞鶴に向かうには、京都発16時30分(亀岡は17時01分)で、綾部着18時12分、舞鶴線に乗換えて、綾部発18時16分で新舞鶴着が19時06分(東舞鶴駅に改称は昭和14年)、となります。上記には”一列車のりおくれた”と書いてあるので、元々乗車する予定の列車は京都発15時45分、綾部着17時13分、舞鶴線に乗換えて、綾部発17時17分で新舞鶴着が18時3分となります。それにしても、上記の”この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる”とは、何処の町でのことを書いているのか分かりません。
館報 『立原道造記念館』第5号 (1998.3.29)からです。
「立原君の思い出
−昭和一三年舞鶴で−
波江 貞夫
昭和一二年三月に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した中で、関西方面に赴任が決まった黒田・塩見・恒岡・西と小生の五人は、四月の始めに揃って東京駅を出発しました。友人達は、大阪や神戸までその列車に乗って行ったのですが、小生一人、京都で別れて西陰線で東舞鶴駅へ向かいました。此処で一寸紹介しておきますが、全国的に知られている(舞鶴駅)は、軍港のあった東舞鶴駅の一つ手前(西寄り)になります。
小生は、東舞鶴駅で降りて、当時の舞鶴海軍要港部(後に昇格して鎮守府となる)建築部へ赴任しました。…
… そんな状況下の昭和一三年の秋も深まった或日(多分一一月の週日)、私の勤務先の建築部を突然立原君が訪ねて来てくれたのです。…
… 立原君は、そんな事とは関係なく一人の友人として尋ねて来てくれたものと信じて疑いませんが、とにかく突然だったので、民間の設計事務所ならば製図室にでも案内したのかも知れませんが、昭和一六年の世界大戦勃発の三年前とはいうものの、当時既に警戒厳重な処へよく来てくれたと、今でも不思議であり有り難いと思います。取敢えず本館の応接室で約一時間乃至二時間雑談したと思いますが、その内容については全然記憶にないのです。そして立原君は来た時と同じ様にひょうひょうとして帰って行きました。…
…当時小生は独身で、米屋の二階を借りて下宿生活をしていましたので、自室に彼を案内することも出来なかったのです。後刻立原君が亡くなった事を聞き、あれが彼との最後の別れだったのかと、益々私の対応がまずかった事を悔みましたが、どうしようもなかったのが実情です。…」
上記には、”立原道造が舞鶴海軍要港部の波江貞夫を突然訪ねてきた”と書いてあります。館報 『立原道造記念館』第5号 (1998.3.29)には、立原道造が波江貞夫を舞鶴海軍要港部に訪ねたのは舞鶴に着いた翌日の28日午前と書かれています。立原道造全集の年譜には、”二十七日、京都から裏日本に出て、舞鶴の波江貞夫(東大建築学科同期
生。鉄道省勤務、当時舞鶴に在住)宅に一泊”と書かれています。舞鶴に到着したのが19時で、舞鶴海軍要港部には遅すぎて訪問できず、波江貞夫の下宿が分からなければ、27日は訪ねようがなかったのかもしれません。前記に書いてある”この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる”の”この町”は舞鶴のことかとおもったのですが、どうなんでしょうか!!
★上記の写真は現在の東舞鶴駅です。昭和14年までは新舞鶴という名称でした。当時の駅舎の写真を掲載します。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)