●立原道造の世界  【長崎ノート 舞鶴〜松江間編】
    初版2011年10月8日  <V01L03> 暫定版

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。今回も「長崎ノート」を掲載します。前回は京都での立原道造を歩いてみました。今回は昭和13年11月27日から28日にかけて、京都を出発し、舞鶴で友人を訪ね、宮津腺経由で豊岡から山陰線に乗換えて、松江に向かう道筋を巡ってみました。




「東舞鶴駅」
<新舞鶴駅>
 立原道造は京都で2泊した後、舞鶴に向かいます。舞鶴には東京帝国大学工学部建築学科の同期、波江貞夫がいました。なにか、奈良から京都、舞鶴と、寒いところ、寒いところを選んで旅をしているようにおもえます。もっと温かい山陽路を訪ねればよかったのではないかとおもってしまいます(どうも友人たちの居る場所が悪い!)。
 立原道造の「長崎ノート」です(昭和13年)。
「 十一月二十七日
 夕ぐれ、汽車のなか、窓に月がかかってゐる。
 舞鶴に間もなく着くだらう。
 亀岡盆地を走るころちょうど日没まへの赤い空だった、いろいろな人が家へかへったりする時刻だった ── 僕にはそれがうらやましく、さびしかった。あの人たちには生活がある、しかし僕には生活がない。ただただよってゆくばかりだ。どこか落着くところはとほくにある。山陰を辿って長崎へ着くまでの彷径が奇妙にたよりなく、早く着いてしまひたいやうな気がする。…
… 僕はひとに迎へられる ── この町でも京都で一汽車のりおくれたために、この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる。京都でも僕は一汽車のりおくれなければならないくらゐ、親切だった。危くその汽車に間に合ったくらゐの時間まで、あそこで、僕はたのしかった。…」

 立原道造が京都から乗車した列車を探してみます。上記に”亀岡盆地を走るころちょうど日没まへの赤い空だった”と書かれていますので、11月27日の京都での日没時間を計算すると16時47分ですので、この前後に亀岡付近を走っていたことになります。京都から舞鶴に向かうには、京都発16時30分(亀岡は17時01分)で、綾部着18時12分、舞鶴線に乗換えて、綾部発18時16分で新舞鶴着が19時06分(東舞鶴駅に改称は昭和14年)、となります。上記には”一列車のりおくれた”と書いてあるので、元々乗車する予定の列車は京都発15時45分、綾部着17時13分、舞鶴線に乗換えて、綾部発17時17分で新舞鶴着が18時3分となります。それにしても、上記の”この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる”とは、何処の町でのことを書いているのか分かりません。
 館報 『立原道造記念館』第5号 (1998.3.29)からです。
「立原君の思い出
 −昭和一三年舞鶴で−
         波江 貞夫
 昭和一二年三月に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した中で、関西方面に赴任が決まった黒田・塩見・恒岡・西と小生の五人は、四月の始めに揃って東京駅を出発しました。友人達は、大阪や神戸までその列車に乗って行ったのですが、小生一人、京都で別れて西陰線で東舞鶴駅へ向かいました。此処で一寸紹介しておきますが、全国的に知られている(舞鶴駅)は、軍港のあった東舞鶴駅の一つ手前(西寄り)になります。
 小生は、東舞鶴駅で降りて、当時の舞鶴海軍要港部(後に昇格して鎮守府となる)建築部へ赴任しました。…
… そんな状況下の昭和一三年の秋も深まった或日(多分一一月の週日)、私の勤務先の建築部を突然立原君が訪ねて来てくれたのです。…
… 立原君は、そんな事とは関係なく一人の友人として尋ねて来てくれたものと信じて疑いませんが、とにかく突然だったので、民間の設計事務所ならば製図室にでも案内したのかも知れませんが、昭和一六年の世界大戦勃発の三年前とはいうものの、当時既に警戒厳重な処へよく来てくれたと、今でも不思議であり有り難いと思います。取敢えず本館の応接室で約一時間乃至二時間雑談したと思いますが、その内容については全然記憶にないのです。そして立原君は来た時と同じ様にひょうひょうとして帰って行きました。…
…当時小生は独身で、米屋の二階を借りて下宿生活をしていましたので、自室に彼を案内することも出来なかったのです。後刻立原君が亡くなった事を聞き、あれが彼との最後の別れだったのかと、益々私の対応がまずかった事を悔みましたが、どうしようもなかったのが実情です。…」

 上記には、”立原道造が舞鶴海軍要港部の波江貞夫を突然訪ねてきた”と書いてあります。館報 『立原道造記念館』第5号 (1998.3.29)には、立原道造が波江貞夫を舞鶴海軍要港部に訪ねたのは舞鶴に着いた翌日の28日午前と書かれています。立原道造全集の年譜には、”二十七日、京都から裏日本に出て、舞鶴の波江貞夫(東大建築学科同期
生。鉄道省勤務、当時舞鶴に在住)宅に一泊”と書かれています。舞鶴に到着したのが19時で、舞鶴海軍要港部には遅すぎて訪問できず、波江貞夫の下宿が分からなければ、27日は訪ねようがなかったのかもしれません。前記に書いてある”この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる”の”この町”は舞鶴のことかとおもったのですが、どうなんでしょうか!!

上記の写真は現在の東舞鶴駅です。昭和14年までは新舞鶴という名称でした。当時の駅舎の写真を掲載します。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の舞鶴地図



「豊岡駅プラットホーム」
<豊岡駅>
 立原道造は昭和13年11月28日の午前に舞鶴海軍要港部の波江貞夫を訪ねたことになっています。そこで1、2時間過ごした後、舞鶴から松江に向かいます。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「577 十一月三十日〔水〕水戸部アサイ宛〔豊岡−松江間發〕
 豊岡で山陰線にのりかへたばかりだ。── 汽車は今いくつものトンネルをとはつて海の方へ行かうとしてゐる。やがて日本海が見えはじめるだらう。ちひさいプレリユードのやうに、天の橋立のあたりで日本海の入江の水がはじめて見えた。それから網野から木津をこえたところではじめて砂丘とそのあちらに大きな濃青色の海を見た。それが僕の眼にはじめて映った日本海だった。…」

 舞鶴から松江に向かうには山陰線に乗る必要があります。
1案、舞鶴から綾部に戻り、山陰線に乗る方法、
2案、宮津腺で豊岡に出て、山陰線に乗る方法、があります。
 上記には”豊岡で山陰線にのりかへたばかりだ”と書かれていますので、どうも立原道造は、2案の宮津線経由で松江に向かったようです。松江着が17時30分頃ですから、逆算して乗車した列車を探すと、豊岡発は12時03分、松江着17時31分の京都始発209号列車とおもわれます。宮津線では、新舞鶴発8時46分で舞鶴で宮津線に乗換えます。舞鶴発9時11分、豊岡着11時52分となります。2案でも綾部で10時03分に乗換える必要があるので、新舞鶴発8時46分は変わりません。この時刻で、28日朝に舞鶴海軍要港部の波江貞夫を訪ねたとすると、舞鶴海軍要港部は中舞鶴線(舞鶴線の新舞鶴からの支線)の中舞鶴駅もしくは東門駅にあったとおもわれますので、舞鶴海軍要港部を訪ねた後、舞鶴経由松江に向かうには中舞鶴発8時30分の列車に乗る必要があります。28日の午前中に舞鶴海軍要港部の波江貞夫を訪ねることは、時間的には難しいとおもいます。

 <私の推定>
1案、立原道造が舞鶴海軍要港部の波江貞夫を訪ねたのは27日の夜遅くで、1、2時間の会話の後、波江貞夫に宿を紹介してもらったか、又は自身で宿を探して宿泊し、翌日朝、そのまま松江に向かったとおもわれます(波江貞夫は”当時小生は独身で、米屋の二階を借りて下宿生活をしていましたので、自室に彼を案内することも出来なかったのです。”と書いています)。
2案、11月30日付の水戸部アサイ宛書簡には”けふは朝の八時半からずつと汽車にのりつづけてゐた”と書かれており、8時30分の列車は中舞鶴発8時30分の列車のことなら、舞鶴海軍要港部の波江貞夫を早朝早く訪ねたことになります。この時間帯では波江貞夫とはほとんど会話できなかったとおもいます。
 どちらも確信はありません。

写真は現在の松江方面の豊岡駅プラットホームです。立原道造は宮津線から山陰線に乗換えるためこのプラットホームで列車を待っていたとおもいます。豊岡駅宮津線のプラットホームの写真を掲載しておきます。

「旧餘部鉄橋」
<高い鉄橋>
 立原道造は水戸部アサイ宛書簡の中で、山陰線沿線の情景を書いています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「577 十一月三十日〔水〕水戸部アサイ宛〔豊岡−松江間發〕
……今、眼の下に赤い瓦の家の部落があった。汽車はその部落の上を五十米ぐらゐ高い鉄橋の上を走った。部落は瀟洒にまとまってゐた。そこはもう海岸で、漁村らしかった。子供たちが道の上であそんでゐた。瓦の赤と土の白茶と海の青とまはりの山の枯葉の複雑な色が美しい調和をつくって、あたたかい風景だった。…」

 豊岡−松江間で高さが50mある鉄橋はこの餘部鉄橋以外にありません。餘部鉄橋は有名なのでとくに書く必要もないかとおもったのですが、この餘部鉄橋も近年、コンクリートの鉄橋に変わり、少し寂しくなっています。

写真は2006年夏の旧餘部鉄橋です。昔とまったく変わっていません(現在は右側にコンクリート橋が出来ています)。上部から見た写真と、横から見た写真を掲載しておきます。上記に書かれている”赤い瓦の家”はほとんと見つけることができませんでした。

「松江駅」
<松江駅>
 立原道造は昭和13年11月28日夕方に松江に到着します。新舞鶴を8時46分発ですから、9時間弱、列車に乗っていたことになります。かなりう疲れたとおもいます。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。、
「577 十一月三十日〔水〕水戸部アサイ宛〔豊岡−松江間發〕
…  けふは朝の八時半からずつと汽車にのりつづけてゐた…
…いまは、雪をかぶった大山をはじめ、夕霧が裾になびきはじめた山の側が美しい。海の方ではちょうど大山と封稱に隠岐島が見えてゐる。海と空のさかひはくらい灰色で見わけられない。そして、海連から汽車はすぐに隔てられてしまふ。……やがて陽が沈んでしまふだらう。松江に着いてすっかりくらくなるだらう。五時半ごろつくはずだ。そこでこの手紙をポストに入れよう。その時刻に會って話をするかはりに!…」

 豊岡駅の項のところで書いた朝8時30分はこの箇所に書かれています。
 舞鶴の行動をもう少し大胆に推測すると
「立原道造は直前に波江貞夫に電報等で連絡しており、そのため一列車遅れた立原道造を、波江貞夫は舞鶴の町を探し回った(立原道造の「長崎ノート」:この町の友人は、僕がはじめてのこの町で迷ったのではないかと心配して町をあてもなくさがしに行ってくれてゐる)。次の列車で来た立原道造と出会うことが出来たが、波江貞夫は自身の下宿に泊めることができないため、宿を紹介し、翌日早く舞鶴海軍要港部に来るように頼んだ。立原道造は松江に向かう時間か迫っていたため、早朝、舞鶴海軍要港部を訪ねたがすぐに中舞鶴駅8時30分発の列車に乗って松江に向かった。
 少し大胆すぎるかもしれまん。
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「 十一月二十八日
 僕は汽車のなかで大きな海景を待ち望みながら、おまへに手紙を書きつづけてゐる。海のほとりに出たとおもふとそれはすぐ海から離れてしまふ。
 僕はけふはかなり疲れてゐる。途中のどこかこのあたりの海岸におりたいとおもひながら、何か心細くて、早く松江に行ってしまはなければゐられない。
 泊のあたりではpatheticに日本海が僕を誘った。しかし、今にも雨の降りさうになった空は同時に僕をためらはせた。僕はまだ汽車に乗ってゐる。……窓の外を過ぎる景色は先刻からcarmineを基調にしてゐる。赤い土の色も桃色の壁の色も砂丘の砂の色も屋根の瓦の色も例外なしに、空気自身がうすら赤いやうだ。この桃色がしかし北方的にきびしい。
          *
 僕は今極端に疲れてゐる。松江に着いたらどうかなるだらう。松江に明日境港から船で行く計企もつくってみてはすぐにくづしてしまふ。今夜五時半ごろ松江に着いたら先刻から書きつづけたおまへへの手紙を投函することをたったひとつのねがひにしながら、もう米子をすぎて日はくれた。」

 ここでは立原道造らしい書き方です。17時31分松江着では疲れてしまいます。当時は山陰線では急行はなかったみたいです。

写真は現在の松江駅です。駅前は再開発されて、すっかり変わっていました。20年ぶりくらいに松江を訪ねました。

  松江駅までしかたどり着きませんでした。松江市内は次回に掲載します。

立原道造の長崎ノート地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう
11月28日 舞鶴から松江に向かう