<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。
田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「この闇のなかで
詩人立原道造は昭和十三年十二月三日午前、福岡の詩人矢山哲治と中洲の喫茶店「ブラジレイロ」でコーヒーを飲んだあと、西鉄大牟田線で人留米まで足を延ばす。その目的を、恋人水戸部アサイにあてだ当日付の福岡発速達便の中で「けふは人留米の連隊に 檀一雄といふ小説家に (矢山と) 一しょに會ひにゆく」と記している。立原の旅のプランに檀と会う予定はなかった。それは、立原の案内役をした矢山の強い希望だったようだ。立原との交流を描いた矢山の小説「十二月」には少し詳しく触れられている。
「久留米の特科隊に居る浪漫派の若い作家 ── 学校の先輩でもあつた太郎(矢山)が私淑してゐた ── を尋ねた(略)残念なことにその作家は台湾へ出張してゐて逢へなかつた」…」
立原道造はやっと暖かい九州に到達します。しかし12月で、暖かい九州といっても肌寒かったとおもいます。
★上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)