●立原道造の世界  【長崎ノート 九州編V】
    初版2015年7月18日
    二版2015年8月26日  <V01L01> 柳川で宿泊した旅館を推定 暫定版

 「立原道造の世界 長崎ノート 九州編」を続けて掲載します。九州を再度訪問する機会が無いかなとおもったのですが、仕事で再度訪問する機会がありましたので、久留米、柳川、佐賀、長崎まで足を伸ばして時間が許す限り取材をしてきました。今回はその中から久留米、柳川を掲載します。




「立原道造への旅」
<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
 「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「この闇のなかで
 詩人立原道造は昭和十三年十二月三日午前、福岡の詩人矢山哲治と中洲の喫茶店「ブラジレイロ」でコーヒーを飲んだあと、西鉄大牟田線で人留米まで足を延ばす。その目的を、恋人水戸部アサイにあてだ当日付の福岡発速達便の中で「けふは人留米の連隊に 檀一雄といふ小説家に (矢山と) 一しょに會ひにゆく」と記している。立原の旅のプランに檀と会う予定はなかった。それは、立原の案内役をした矢山の強い希望だったようだ。立原との交流を描いた矢山の小説「十二月」には少し詳しく触れられている。
 「久留米の特科隊に居る浪漫派の若い作家 ── 学校の先輩でもあつた太郎(矢山)が私淑してゐた ── を尋ねた(略)残念なことにその作家は台湾へ出張してゐて逢へなかつた」…」

 立原道造はやっと暖かい九州に到達します。しかし12月で、暖かい九州といっても肌寒かったとおもいます。

上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の久留米地図



「旭屋デパート跡」
<デパートの五階の食堂>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月3日朝、秋山六郎兵衛宅から矢山哲治とともに出かけます。午前中は中州のブラジレイロで過ごし、午後、檀一雄のいる久留米の「独立山砲兵第三連隊」を訪ねます。天神から西鉄大牟田線(当時は九州鉄道大牟田線、西日本鉄道となったのは昭和17年)に乗り、久留米に向かいます。当時の時刻表では九州鉄道福岡(天神)−久留米間は55分程度です。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 久留米まで筑紫の野を電車で走ってやって來た。今デパートの五階の食堂で走り過ぎて來た野をながめてゐる。光があまりにもあたたかく、うすい靄がなびいてゐる。とほく近くに低い山々が黄ばんだ色をして、それが紫色にまで弱められて、かこんでゐる。宅は限りなく明るく青く、さっきまであったちひさい向い雲もない。……あまりにも吝かここにはない。そしてこの気候が長くっづくのだといふ。山陰とのちがひが強すぎる。ここは南方だ。もう僕の所有出來ない、しかし、つねに僕を誘ふあの気圏だ。…」
 立原道造は久留米のデパートに寄っています。久留米の独立山砲兵第三連隊までは久留米駅より2.6Km、次の花畑駅からは1.8Km、試験場前駅は1.2Km程です。どの駅から訪ねたかは不明ですが、デパートに寄っているので久留米駅からとおもわれます。お昼過ぎだったとおもわれますので、デパートで遅い昼食を食べ、その後、檀一雄のいる独立山砲兵第三連隊にバスで向かったと推測できます。それにしても、立原道造はデパートが好きですね、新築のビルですから設計に興味があったのかもしれません。

 矢山哲治の「十二月」より、
「… 久留米の特科隊に居る浪漫派の若い作家──学校の先輩でもあつて太郎が私淑してゐた──を尋ねたので柳河駅で降りたのは暮方めいた午後の時分だつた。残念なことにその作家は台湾へ出張してゐて逢へなかつた。…」
 天神をお昼頃出て、久留米に13時頃着き、昼食後、バスで檀一雄のいる独立山砲兵第三連隊に向い、留守で久留米まで帰ってくると15時頃になります。

写真は立原道造と矢山哲治が訪ねた旭屋デパート跡です。このデパートは昭和12年9月開店の新しいデパートでした。昭和43年に久留米井筒屋に吸収されますが平成21年閉店しています。現在は再開発の真っ最中で、新ビルが建設されています。

「久留米商業高校」
<久留米 独立山砲兵第三聯隊>
 檀一雄は昭和12年7月、日中戦争勃発による動員令によって召集を受け、久留米の「独立山砲兵第三連隊」に入隊しています(25歳)。実家が久留米なので、自動的に召集も久留米になっていたようです。召集解除は昭和14年12月になります。尚、主力部隊は昭和19年3月にサイパンに派遣され玉砕しています。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「… 檀は昭和十二年、日中戦争勃発による動員令によって召集を受け、久留米の独立山砲兵第三連隊に入隊した。立原と矢山が訪ねた時、檀は「軍馬補充」のために出張していたのだ。立原は矢山の仲介がなくとも、すでに東京で檀とは面識があった。…」
 前項に書きましたが九州鉄道大牟田線の久留米駅からは「独立山砲第三連隊」までは久留米駅より2.6Km、次の花畑駅からは1.8Km程です。JR(当時は国有鉄道)の鹿児島本線や国鉄 久留米駅から分かれる久大本線が通っていますが、便利さでは当時の九州鉄道大牟田線久留米駅だとおもいます。

写真は現在の久留米商業高等学校です。昭和11年の久留米市全図を見て貰うと分かりますが、久留米商業高等学校は「独立山砲兵第三連隊」の跡地にあります。この附近には「独立山砲第三連隊」の左隣に野砲第二十四連隊、輜重兵第12連隊と続いており、第十八師団配下でした。立原道造が訪ねたころは、本隊は中国に派遣されていたとおもいます。

「旧西鉄柳川駅」
<九州鉄道大牟田線柳河駅>
 立原道造は久留米で檀一雄に会えず、そのまま柳河(現在は柳川)に向かいます。当時の時刻表によると福岡(天神)−柳河間は1時間21分とありますので、久留米−柳河間は26分となります。15時30分から16時頃に九州鉄道柳河駅に着いたとおもわれます。この日の日の入りは17時11分です。

 矢山哲治の「十二月」より、
「… 久留米の特科隊に居る浪漫派の若い作家──学校の先輩でもあつて太郎が私淑してゐた──を尋ねたので柳河駅で降りたのは暮方めいた午後の時分だつた。残念なことにその作家は台湾へ出張してゐて逢へなかつた。
 まづ白秋先生の生地である沖の端へゆかう(ママ)とバスに乗つた。柳並木の水濠を渡つた。しばらく町並を過ぎて畑地と水濠の交錯した城跡とも思へない平坦な旧城内を走る。…」

 柳川駅からバスに乗って北原白秋生家へ向かったようです。バスでの道筋を推定すると、柳河駅から柳川橋(当時は柳河橋だったかも?)を渡って、京町通り(繁華街)を西に進み、駅から1.1Kmの辻町の交差点を南に折れて進みます。900m程進んだ城南町交差点を右折して柳川城跡の前を通り、沖端に向かいます。沖端のバス停が何処にあったのかが不明です。もう少し調べてみる必要があります。

写真は旧西鉄柳川駅です(駅名が柳川になっていますから昭和46年以降の写真です)。現在の駅舎から2代前です。推定ですが立原道造が降りた駅はこの駅だとおもわれます。この駅が開業したのは昭和12年9月ですから、立原道造が訪問した1年程前になります。当初の駅名は柳河駅でした。昭和46年に西鉄柳川駅に改称しています。現在の柳川駅の写真を掲載しておきます。

「北原白秋生家」
<北原白秋生家>
 当時は北原白秋生家は外から見るだけで見学はできなかったとおもいます。北原家は酒蔵で、明治34年の沖端大火で母屋を残して焼失、復元されたのは昭和44年になります。その間、明治42年には北原家は破産、借金の形に、家土地は檀一雄の実家に取られてしまいます。檀一雄の実家は北原家の南側に住んでいました。この件は、北原白秋も、檀一雄も良く知っていたとおもいます。立原道造や矢山哲治が知っていたかは?です。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 柳河にて ──
 夕ぐれの水路のそばにたたずんでゐる。
 柳の並木が水路に沿うてつづいでゐる・水はゆるやかにながれる。底は浅く青黒く藻がゆらゆらしてゐるのや茶椀のかけらが見える。水路の向ひ側の家に西陽があたってゐて、それが水にうっって水が明るい。しづかな屋並がっづいてゐる。子供たちだけがあそんでゐて犬が吠えてゐる。犬が喧嘩してゐる。人がときどき通って行く。ものしづかな夕ぐれだ。…」

 柳川の水路がお気に入りのようです。北原白秋生家近くの水路はなかなか趣があります。昭和30年代の映画、松本清張の「張込み」で、撮影に使われたのを覚えています(DVDで確認しました)。現在の水路は広告塔が立ったり、お堀巡りで船が多く浮かんでいたりして、風情が無くなっています。残念です。

 矢山哲治の「十二月」より、
「… 沖の端は田舎びた小漁港にすぎない。干潮時だつたので白い牡礪殼の散つた水底を露し帆船も黒い船腹を傾けてゐた。いい宿屋もありさうになくて詩人はがつかりしたらしかつた。太郎は愛好してゐる春夫の「女誠扇綺談」を持ちだし、かの廃港になぞらへて弁解するのだつた。民造の浪漫癖がやうやく納得したらしかつた。
 この肥沃な平野に冬の暮やすい気配は近づいてゐた。春になれば一面に青麦が繁るにちがひない畑地の間を柳河町の方へ歩いてかへつた。…」

 矢山哲治は北原白秋よりも、沖端の漁港の方に興味があったようです。現在でもその風情が残っていました。写真を掲載しておきます(写真1写真2)。

写真は現在の北原白秋生家です。見学ができます。平日訪ねたのですが、私一人でした。交通の便が良くないですね、駅から路線バスだと近くの停留所から400m位歩くし、結局、自家用車でないとダメみたいです。

「京町64番地」
<柳河(柳川)の旅館>
  2015年8月26日 詳細の場所を推定
 柳河で遅くなったため、宿を柳河で探す必要がありました。なかなか決まらなかったようです。田舎の旅館なので、立原道造が気に入った旅館を見つけることが出来なかったのだとおもいます。帝大出のエリートが泊るにしては、良い旅館がなかったようです。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 今夜はどこへ泊るのかまだわからない。長崎行はたうとう一日のびてしまった。柳河の町に二軒の宿屋が佗しく僕を待ってゐるが、どれをゑらぶかまだきまってゐない。矢山君がそばにゐて、長いことだまって水を見てゐたがいま何かはなしをしてゐる。陽が今沈むらしい気配が西の空で、水の色がすこしづつかはって來る。いつまでもここにかうしてゐたい。この夕ぐれが水の上で、しづかにかはってゆく迹を辿りたい。だがそれも拒まれてゐるのだらう。今夜の佗しい宿りへもうそろく行かう。僕の長い放浪のをはりをかざる美しいレースのやうなたそがれよ、もう僕はおまへを見捨てる。…」
 昭和10、16年の全国旅館名簿を見ると、柳河町には8軒の旅館が掲載されていました。北原白秋生家に近い沖端町には旅館が一軒、後は繁華街の中町等が多いようです。

全国旅館名簿  柳河町 大正15年(1926)、昭和10年(1935)、昭和16年(1941)
旅館名 大正15年版 昭和10年版 昭和16年版
電話番号 住所 電話番号 住所 電話番号 住所
池田屋 132 中町 132 中町
伊像屋 44 恵比寿町38 44 恵比寿町 44 恵比寿町
紙屋 56 瀬高町64 56 京町 56 京町
久留米屋 107 中町19 17 中町 17 中町
皿屋 404 沖端町 404 沖端町
備前屋 245 旭町33 245 旭町 245 旭町
平野屋 37 中町10 37 中町 37 中町
旅館名無 141 辻町 141 辻町


 矢山哲治の「十二月」より、
「… さて宿屋を選ぶとなると決らなかつた。大通では平凡すぎるし何処か雅趣のある家でもあらうかと、植込の多い平屋ばかり見える、菜園や蜜柑の族葉が杉垣に覗いてゐる小路をいく折も辿つてゐた。と、思ひがけない小風景が石橋の上に二人の脚を停めさせたその小路に添つて誂へたやうに古風な商人宿が見えた。あれだと民造は喜んだ。そしてその門口を二三度往来してみた彼等だつたが、躊躇の色をありあり示した青年の態度に、すつかり嬉しくなつてしまつた少年は、いいぞ僕も宿つてゆかうかなあなど云ひ出すので、何だか恐くなつちやつたと本尊は弱い本音を吐く始末だつだ。
 バスの上から認めてゐた大通の平凡な飾気一つない宿屋に決めた。…」

 ”バスの上から認めてゐた大通の”と書かれていますので、柳河駅からのバス路線である京町通りの旅館であったとおもわれます(駅からのバス路線で旅館があるのは京町のみ)。とすると、全国旅館名簿から「紙屋  56(電話番号) 京町」ではなかったかなとおもわれます。

 柳川市公式ウエブサイトに”現在の柳川市京町は、昭和七年に名称を変更してできた地名で、それまでは江戸時代以来「瀬高町」と呼ばれていました。”との記載を見つけました。町名の変更のみで、番地は変らないと推定すると、紙屋は大正15年の全国旅館名簿から”瀬高町64”→”京町64”となります。(当時の番地記載の地図が手許にないので確認がとれていません)

 矢山哲治の”十二月”には、本人は泊らず、その日のうちに福岡に帰ったと書かれています。鳥井平一宛の絵葉書でも”遅く帰った”と書かれていますので間違いないとおもわれます。書簡が入った矢山哲治全集が出版される以前に書かれた本には、一緒に泊ったと書かれているのもありますが、間違いとおもわれます。

写真の正面の家屋のところが現在の京町64番地になります。ここに紙屋という旅館があったとおもわれます。あくまで推定です。

 翌日、立原道造は佐賀に向かいます。少し離れたところに国鉄の佐賀線筑後柳河駅があり、そこから佐賀に向かったとおもわれます。(次回掲載)


立原道造の柳川地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう、舞鶴泊
11月28日 舞鶴から松江に向かう
11月28日から12月1日まで松江に滞在
12月 1日 下関泊
12月 2日 矢山哲治と出会う、秋山六郎兵衛宅泊
12月 3日 午前中、矢山哲治とブラジレイロで過ごし、午後、久留米、柳川に向かう、柳川泊