●立原道造の世界  【長崎ノート 九州編U】
    初版2015年6月13日  <V01L02> 暫定版
    二版2015年7月13日  <V01L03> 秋山六郎兵衛宅と矢山哲治の死去場所 暫定版

 「立原道造の世界 長崎ノート 九州編」を掲載します。なかなか進まない九州編ですが、九州を訪問する機会が少なくて、なかなか取材できないのが原因です。今回は博多を訪問する機会がありましたので、立原道造が歩いた博多を回ってきました。




「立原道造への旅」
<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
 「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「… 若松駅から渡船で再び戸畑にもどった立原は、鹿児島本線戸畑駅から午後一時十七分発の鈍行列車に乗り、午後二時五十三分、博多駅に着く。車内は暑く、冬着の立原は汗をかいた。しかし、神経質な立原はそれに不快も覚えず、むしろ南国圏に入った「印」として好ましく思う。車中からの風景を興奮気味にノートに記している。
「(博多駅から)二つ三つ前の騨から松原がつづいてゐて、その松原の向うに海が見える(略)細い砂潰かつづいてゐる。その色が明るい橙がかつた白で、海や空の明るい青さと優しく調和する(略)はじめて出會つた南方が何より先にこの空の色をひらいたのだ」
 立原をスキップでもするかのような感情にさせているのは一つには南国の空と海の「光」であった。そして博多には、立原とともに新しい文学の光を放とうとする詩人矢山哲治がいたのだ。…」

 立原道造はやっと暖かい九州に到達します。しかし12月で、暖かい九州といっても肌寒かったとおもいます。

上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の博多地図



「三代目博多駅」
<博多駅>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月2日15時頃に博多駅に到着しています。下関を午前中に出発、途中、若松の丸柏百貨店に寄って、戸畑駅から博多にむかっています。
昭和10年10月の時刻表で乗車した列車を探します。
・門司駅(9時10分)→戸畑駅(9時38分)
・戸畑駅(9時40分)→渡し船→丸柏百貨店着(10時40分頃)
・丸柏百貨店二階喫茶室(一時間程度滞在)
・丸柏百貨店発(12時頃→渡し船→戸畑駅13時00分頃)
・戸畑発(13時17分)→博多着(14時53分)
 門司驛を一本遅くなると10時30分発なので、これでは15時に博多に着けません。
 昭和15年1月の時刻表で再度確認すると
門司駅(9時20分)→戸畑駅(9時48分)、
戸畑発(13時18分)→博多着(14時59分)
 となります。ほとんど変りません。(昭和13年の時刻表がないので昭和10年と昭和15年を見ています)

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 博多に着いたのは三時だった。南の町らしく室は明るく青くなって来る。汽車のなかは暑いくらゐだった。

冬のままの身なりで博多の驛へ降りたときはすこし汗をかいてゐた。二つ三つ前の驛から松原がつづいてゐて、その松原の向うに海が見える。その海も山陰の海よりもおだやかで、「花がたみ」を優婉に美しいと評した言葉をまねていいやうな美しさだ。細い砂濱がつづいてゐる。その色が明るい橙がかった白で、海や空の明るい青さと優しく調和する。室の色はセルリアン・ブルーだ。このすきな青がうすくひろがってゐるのを見たときの僕の眼のよろこび! はじめて出會っだ南方が何より先にこの空の色をひらいたのだ。…」

 博多駅舎の経緯。
・明治22年(1889)12月九州鉄道(初代)の駅として開業
・明治42年(1909)3月に新駅(二代目)舎が完成
・昭和38年(1963)12月に昭和の駅舎(三代目)が開業
・平成23年(2011)3月に新しい駅ビル(JR博多シティ)(四代目)が開業(写真はウイキペディア参照)
ですから、立原道造が降立った駅舎は二代目の博多駅となります。(写真はウイキペディア参照)

写真は山昭和38年(1963)12月に開業した昭和の駅舎(三代目)です。2002年に撮影しています(1998年以降の写真はデジタル化して保存しています)。昔撮影した写真を探してきました。

「福岡市中央区地行4-3-4」
<秋山六郎兵衛宅>
  2015年7月13日 詳細の場所を推定

 立原道造は昭和13年(1938)年12月2日15時頃に博多駅に到着、後、駅前から福博電車のに乗って、知行東町停留所まで行き、当時、旧制福岡高等学校教授で、第一高等学校、東京帝大の先輩であった秋山六郎兵衛氏を訪ねています。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「…。博多の町を市内電車でゆく。事務所デザインの建物がいくつか見える。みなよくない建物ばかりだ。町のはづれで降りて訪ねる家へ行くと、つきあたりは海がひろがってゐる。…」
 立原道造が勤めていた石本建築事務所が博多で設計した建物は「博多株式取引所」です。福博電車は博多駅前から呉服町を左に曲がって明治通りを西に進み、中州から西大橋を渡って天神に進みます。福岡市天神町五十五番地にあった博多株式取引所(現在の福岡証券取引所)の前を通りますので、見たのだとおもわれます。”いくつか見える”と書いていますがその他については未調査です。

【秋山六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日 - 1971年8月23日)】
 香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。東京帝国大学在学中、同ドイツ文学専攻の手塚富雄等と第8次、第9次「新思潮」に参加。大正15年(1926)旧制福岡高等学校にドイツ語教師として赴任。昭和11年(1936)10月、同高等学校の同僚の浦瀬白雨・大塚幸男等と文芸同人誌「九州文壇」を創刊。昭和12年(1937)8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊。昭和13年(1938)9月、「九州文学」は、福岡を中心に活動する「九州芸術」「文学会議」「とらんしつと」等と合同、「九州文学」(第2期)となる。昭和24年(1949)九州大学文学部教授に就任。昭和32年(1957)中央大学教授に転任後、学習院大学教授を務めた。日本のドイツ文学者。専門は、E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の翻訳、ヘルマン・ヘッセの研究。(ウイキペディア参照)

写真は福岡市地行四丁目3−4附近です。前回は秋山六郎兵衛宅を福岡市地行東町の伝照寺近くと書きましたが、昭和20年代の「文藝年鑑」で再度確認したところ、”福岡市地行東町1-213”との記載を確認しました。この地番で法務局で再度確認したところ、”213”は1〜15(2が無い)に分かれており、戦前の「文藝年鑑」の”福岡市地行東町1海岸2130-6”の最後の”6”から推測して、”213−6”と考えました。この地番は現在の”福岡市中央区地行四丁目3−5”に当たります。ただ、ブルーマップで確認したところ、”地行四丁目3−5”はありません。合筆等されてしまっているようです。”地行四丁目3−4”を見つけましたのでこの隣ではないかと推測しました。写真の右のマンションが”地行四丁目3−4”なので、その左隣付近と推測できます。伝照寺近くとの表記がありましたが、伝照寺先の四つ角をそのまま少し先に進んだ右側となります。この伝照寺がある路地の先には福岡ドームが見えます。当時は直ぐに海岸線だったのだとおもわれます。

「ブラジレイロ跡」
<ブラジレイロ>
 立原道造は博多の中州にあるブラジレイロというカフェで矢山哲治という旧制福岡高等学校生と会っています。九州にはナンバースクールとして熊本に第五高等学校、鹿児島に第七高等学校 造士館があり、その後に出来たネームスクールとして佐賀高等学校、福岡高等学校がありました。 

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 午前の光のなかでブラジレイロといふ陽のさんさんとさす喫茶店のなかで、矢山君とはなしをしてゐる。川に沿うてゐて川のあちらに縣廳の建物が見えてゐる。あまりあたたかく気持がいいので、いつまでも、ぼんやりとしてゐる。…」
 ”午前の光のなかでブラジレイロといふ陽のさんさんとさす喫茶店”とありますので、日時は12月3日の午前中とわかります。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「… 立原が若松(北九州市)から博多に着いたのは前日の午後である。その日、旧制福岡高のドイツ語教師で「九州文学」同人の秋山六郎兵衛と市内散策中「ブラジレイロ」で一息つき、店を出た途端、夕暮れの中洲の橋上でばったりと矢山に出くわしている。立原の長崎行の目的の一つは「九州文学」の最年少同人である四つ年下の早熟で、詩才に富んだこの詩人と交流することであった。
 「長崎に行く途中で福岡にもちよつと立寄る」−立原は矢山あて書簡(昭和十三年八月二十八日付)で事前に知らせている。矢山は「来月、立原道造氏来福の由」と友人あて書簡(同年十月二十四日付)で誇らしげに「立原来福」を吹聴している。…」


 「矢山哲治郎全集 書簡」より
「四七 十二月四日(消印) 鳥井平一宛(絵葉書)
          哲治より
          市内浜田丁一丁目七 鳥井平一兄宛
金曜の晩、Reilo(六三)を出ると、秋山先生とも一人。背の高い面白い帽子の人に逢つた。立原さんでした。昨日は、午前は Reilo で日南ぼつこし、午後、クルメから柳河にまわりました。柳河はよかつた。貝料理をおちそうになり、おそく帰つた。宿りたかつたけど、この頃は度々なので。このハガキ(六四)と「測量船」がお土産。ホフマンスタアル(六五)をください。…」

 矢山哲治の書簡から、12月2日夜に、立原道造が矢山哲治と会ったことが分かります。3日は午前中にブラジレイロにいました。午後に久留米、柳川に向かっています。

写真は西大橋を中州にむかって撮影したものです。写真正面の西大橋東詰右にカフェ ブラジレイロがありました。西大橋の近くの工事現場の壁に戦前の西大橋の寫眞が掲げられていたので、撮影してきました(出典は福岡市博物館)。ブラジレイロが写っていました。このブラジレイロは戦爭中の強制疎開で取り潰されています。戦後は福岡市博多区店屋町に移転して営業されています。

「春吉下寺町339-2」
<矢山哲治宅>
 矢山哲治については単独で掲載しようとおもったのですが、福岡は少し遠く、きめ細かい反復調査が出来ないので、今回は一部分のみ掲載します。

 今回は特に矢山哲治が亡くなった日を歩いてみました。昭和18年1月29日、朝早く自宅を出て住吉神社で行なわれているラジオ体操に参加した後。西鉄大牟田線薬院―西鉄平尾間の無人踏切で、上り電車に轢かれて亡くなります。自殺であるとも事故であるとも言われています。

【矢山哲治(ややまてつじ、大正7年(1918)4月28日 - 昭和18年(1943)1月29日)】
 日本の詩人。九州帝国大学在学中、同人雑誌「こをろ」を主宰。 福岡県福岡市出身。 福岡県立修猷館中学(現福岡県立修猷館高等学校)、福岡高等学校を経て九州帝国大学農学部繰り上げ卒業。福岡高校在学中から当時火野葦平の率いていた『九州文学』同人となり『九州文学』、『文藝首都』などに詩やエッセイを掲載。この時期詩人の立原道造との通交が始まり、当時立原が企図していた詩誌『午前』への参加を誘われた。昭和14年(1939)、第一詩集『くんしやう』を上梓。この頃、保田與重郎、太宰治、檀一雄ら『日本浪曼派』の作家、評論家を愛読する。 九州帝国大学入学前後は火野葦平批判を行い九州文学を脱退し、新たに福岡高校卒業生や九州帝大在学生とともに『こをろ』を創刊する。同人には島尾敏雄、真鍋呉夫、阿川弘之、那珂太郎、小島直記、一丸章らが居り、周辺には伊達得夫がいた。『こをろ』創刊号には立原道造の矢山宛書簡が「詩人の手紙」と題され掲載された。昭和15年(1940)、第二詩集『友達』、第三詩集『柩』を相次いで出版。昭和17年(1942)、陸軍入営。両肺が冒されていると診断され入院。このころ失意大きく情緒不安定になる。昭和18年(1943)1月29日、西鉄大牟田線の上り踏切で列車に轢かれ死亡。自殺であるとも事故であるとも言われている。(ウイキペディア参照)

 「矢山哲治郎全集 年譜」からです。
「… 昭和十八年(一九四三年)                     二十五歳
前年に引き続き精神状態が不安定であった。このころの矢山は、まだ暗いうちに起きて、朝食までの時間を修身の教科書をひろげた机の前に座って過ごしていたという。
一月五日午後、小見山敦子、小山俊一と三人で「門」、片土居町の「リズム」などで過ごし、小見山の紹介で天草に転地療養することを決める。九日、入隊を翌日に控えた真鍋呉夫の弟、越二の壮行会に招かれ、島尾敏雄と真鍋宅を訪ねる。十日、島尾、真鍋の母とともに西部二四連隊に入隊する越二を下ノ橋の営門まで見送る。十四日、島尾、矢山宅を訪問、矢山の妹一枝に「少しへんなのです。あまり興奮させないように……」といわれる。二十二日、「門」の近くで島尾と会い、近くの丸万食堂で夕食。天草から戻ったら、就職したい旨、島尾に話す。二十三日、登校中の島尾の下宿を訪ね、机上の便渓に「二時半、矢山」とだけ書きのこして帰る。二十七日、山崎邦栄宅を訪ね。「天草から帰ったら、あなたのことを母に話してはっきりふたりの問題をきめようと思う」という形で結婚の意志を表明。二十八日、邦栄、矢山の気持に応えて、天草行を励まそうとしてはじめて矢山宅を訪問したが不在。矢山はこの日、高岩家を訪ね、とみに、同家に下宿させてもらえないかと相談したが不調におわる。
二十九日、午前六時三十分ごろ、住吉神社でのラジオ体操の帰り、西鉄大牟田線薬院―西鉄平尾間の無人踏切で、上り電車に轢かれて死去。享年二十四。法名、詩心院釋哲亮居士。それが自殺であったか、事故死であったかは現在に至るまで不明である。…
…二月六日、鍛冶町高円寺で葬儀。東京より小山俊一、吉岡達一が参列。島尾敏雄が鳴咽しながら弔辞を読む。…」

 矢山哲治の自宅は矢山哲治全集 書簡から福岡市春吉下寺町339-2(現在の渡辺通5-4-9)。住吉神社は現在も同じ場所にあります。葬儀が行なわれた”鍛冶町高円寺(全集年譜)”は”光円寺”が正しいようです。今も同じ場所にあります。お墓の場所が全集等にも書かれておらず分かりません。ご存知の方がいらしゃいましたらご教授願います。

写真は福岡市春吉下寺町339-2(現在の渡辺通5-4-9)です。丁度、角のところが”渡辺通5-4-9”となります。西鉄天神駅から近く、便利なところです。

「西鉄大牟田線の上り踏切」
<西鉄大牟田線の上り踏切>
 2015年7月13日 追加
 矢山哲治は昭和18年1月29日、朝早く自宅を出て住吉神社で行なわれているラジオ体操に参加した後。西鉄大牟田線薬院―西鉄平尾間の無人踏切で、上り電車に轢かれて亡くなります。自殺であるとも事故であるとも言われています。この踏切を探してみたいとおもいます。
 まず、矢山哲治は住吉神社でのラジオ体操後、何処へ向かったのか、
・平尾の高岩家(檀一雄の母とみの再婚先):平尾浄水場前
・高宮本町の真鍋呉夫宅:福岡市高宮本町58
 のどちらかではないかと言われていますが、真鍋呉夫宅は現在の住居表示で”高宮町三丁目10”なので、西鉄大牟田線の踏切をここで渡る必要がありません。平尾の高岩家(現 平尾浄水町7−1)に向かったのではないかと推測できます。

 松原一枝の「お前よ 美しくあれと声がする」からです。
「… 矢山は住吉神社のラジオ体操をすませてのち、真すぐ自宅ヘほ帰らず、渡辺通りをぬけて自宅とは反対の平尾、高宮方面へ向ったらしい。
 矢山はここを通っている郊外電車の無人踏切で、上り電車に轢かれた。その踏切は土手の上にある。この辺いったいは当時は畑が多く、家も疎らで散歩するには恰好な場所であった。今日はアパート、住宅、商店街が密集している。しかしその踏切だけは、矢山が死んで二十五年近い歳月が流れているのに、当時と少しも変っていない。土手の上にあるレールを横断して人がひとり通るだけの、狭い踏み板がおいてある無人踏切である。踏切の左右はそこだけ繁栄から取り残されたかのように、鄙びている。
 矢山の死の瞬間の目撃者がいた。畑を通っていた目撃者は、矢山がちょうど水泳のダイビングの恰好で、車輪へ向って身を投げた、という。…
… このとき、電車が急カーヴを驀進してきた。
 矢山の立っていた踏切は、一旦、立ち留りよくよく上り電車の爆進音に注意して渡らないと、誰でも事故にあい易い地点である。レールが急カーヴしており、高宮方面の見透しがきかない。上り電車を見てからでは遅い。つばめのように身を翻さないかぎり。
 矢山は電車の進行してくるのに気がつかず、兵隊の行列を横断した如く、踏切を渡った。
 その瞬間、車輪に吸いこまれた。…」

 ここでのポイントは”土手の上にあるレールを横断して人がひとり通るだけの、狭い踏み板がおいてある無人踏切”です。こんな踏切があるのか調べてみました。調べる方法は航空地図です。国土地理院のホームページで陸軍、米軍撮影の航空地図を見ることが出来ます(昭和14年陸軍撮影昭和31年米軍撮影、国土地理院参照)。薬院駅南の踏切から順に数えていくと、6ヶ所の踏切があります。そしてその次に細い踏切を見つけました。七つ目の踏切です。宇賀神社の参道となる踏切です。

 近藤洋太の「矢山哲治」からです。
「… 福岡に住んでいる人であれば、誰でも知っていることだが西鉄平尾──薬院間、あるいは高宮−西鉄平尾間には、松原の書いているような土手の上の踏切はない。厳密にいえば、西鉄平尾の駅に反対ホームへ渡る踏切があるが、勿論急カーブなどしてはいないし、そこで事故がおこったとは考えられない。念のためにこのあたりの位置関係を説明すれば、高宮──西鉄平尾間は線路は直線に走っており、西鉄平尾──薬院間はゆるく右に向かってカーブしている。高宮駅ば現在は高架化しているが、当時は平地にあった。西鉄平尾駅は高台にあり、薬院駅は平地にある。すなわち高宮方面から上り電車が進行してゆけば、途中で上り坂になり、西鉄平尾駅を過ぎて下り坂となり、途中で平地にもどる。高宮──西鉄平尾間の土手には幾本かの隧道があるが、土手の上に踏切はなく、また西鉄平尾──薬院問には土手を降りきるまで踏切はなく、降りきった所から六ヵ所の踏切がある。島尾の一月三十一日の日記には、最初、事故の現場を高宮──西鉄平尾間と間違え「高宮平尾間ではなく平尾薬院間」と訂正した後「見るにふみ切は六ヵ所」と書かれており、当時もそれ以外の踏切がなかっただろうことを示している。
 松原の小説のこの部分には、まだおかしなところがある。線路が急カーブしていて見通しがきかないというくだりだ。「上り電車を見てからでは遅い。つばめのように身を翻さないかぎり」と松原は書いているが、この世にそのような踏切が存在するものだろうか。ヘアピンカーブの道路ならば、あるいはこのような表現が適切かも知れないが、電車の軌道にそんな急カーブがついていたら、誰も踏切など渡れなくなる。実際に西鉄平尾──薬院間の踏切のそれぞれに文ってみればわかることだが、多少見通しは悪くなるが、勿論、ちょっと注意すれば充分に電車をよけることができる。…
… 矢山の葬儀は二月六日、鍛治町にある高円寺でおこなわれた。…」

 ここでは”松原の書いているような土手の上の踏切はない”と書いていますが、上記の”宇賀神社の参道となる踏切”は土手の上に無いのでしょうか。平尾駅は当時、国鉄筑肥線を跨ぐため、高架にありました。平尾駅北側の百年橋通りのガードは見たかぎり、当時と変っていないようです。高さは6m程だとおもわれます。電車専用線路の勾配は35/1000以下でなくてはなりません。すると、6mの高さをクリアするには約167m以上となります(実際はこんな急な勾配はなく、300m位か)。航空写真を見ると、薬院駅から数えて6ヶ所目の踏切で平尾駅からの勾配はなくなっているように見えます。”宇賀神社の参道となる踏切”は1mから1.5mの高さがあったのではないかと推定できます。

 次にカーブです。実際の宇賀神社の参道となる踏切附近のカーブ写真を見て貰うと分かります。大きなカーブではありません。

 最後に一つだけ、葬儀のお寺の漢字が間違っています。確認もせずに矢山哲治全集の丸写しで書くから”高円寺”と書いてしまうのです。”光円寺”が正しいです。

写真は宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切跡です。反対側に宇賀神社があります。平尾の高岩家に向かうには、宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切を通る必要は無く、60m程北側にある大きな踏切を超えれば良かったとおもわれます。それにしても、誰も現場を歩いていませんね、歩けば”宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切”は直ぐに分かったとおもいます。”物書”はいい加減です。


立原道造の博多 中州、天神地区地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう、舞鶴泊
11月28日 舞鶴から松江に向かう
11月28日から12月1日まで松江に滞在
12月 1日 下関泊
12月 2日 矢山哲治と出会う、秋山六郎兵衛宅泊
12月 3日 午前中、矢山哲治とブラジレイロで過ごし、午後、久留米、柳川に向かう、柳川泊