<西鉄大牟田線の上り踏切> 2015年7月13日
追加 矢山哲治は昭和18年1月29日、朝早く自宅を出て住吉神社で行なわれているラジオ体操に参加した後。西鉄大牟田線薬院―西鉄平尾間の無人踏切で、上り電車に轢かれて亡くなります。自殺であるとも事故であるとも言われています。この踏切を探してみたいとおもいます。
まず、矢山哲治は住吉神社でのラジオ体操後、何処へ向かったのか、
・平尾の高岩家(檀一雄の母とみの再婚先):平尾浄水場前
・高宮本町の真鍋呉夫宅:福岡市高宮本町58
のどちらかではないかと言われていますが、真鍋呉夫宅は現在の住居表示で”高宮町三丁目10”なので、西鉄大牟田線の踏切をここで渡る必要がありません。平尾の高岩家(現
平尾浄水町7−1)に向かったのではないかと推測できます。
松原一枝の「
お前よ 美しくあれと声がする」からです。
「… 矢山は住吉神社のラジオ体操をすませてのち、真すぐ自宅ヘほ帰らず、渡辺通りをぬけて自宅とは反対の平尾、高宮方面へ向ったらしい。
矢山はここを通っている郊外電車の無人踏切で、上り電車に轢かれた。その踏切は土手の上にある。この辺いったいは当時は畑が多く、家も疎らで散歩するには恰好な場所であった。今日はアパート、住宅、商店街が密集している。しかしその踏切だけは、矢山が死んで二十五年近い歳月が流れているのに、当時と少しも変っていない。土手の上にあるレールを横断して人がひとり通るだけの、狭い踏み板がおいてある無人踏切である。踏切の左右はそこだけ繁栄から取り残されたかのように、鄙びている。
矢山の死の瞬間の目撃者がいた。畑を通っていた目撃者は、矢山がちょうど水泳のダイビングの恰好で、車輪へ向って身を投げた、という。…
… このとき、電車が急カーヴを驀進してきた。
矢山の立っていた踏切は、一旦、立ち留りよくよく上り電車の爆進音に注意して渡らないと、誰でも事故にあい易い地点である。レールが急カーヴしており、高宮方面の見透しがきかない。上り電車を見てからでは遅い。つばめのように身を翻さないかぎり。
矢山は電車の進行してくるのに気がつかず、兵隊の行列を横断した如く、踏切を渡った。
その瞬間、車輪に吸いこまれた。…」
ここでのポイントは”土手の上にあるレールを横断して人がひとり通るだけの、狭い踏み板がおいてある無人踏切”です。こんな踏切があるのか調べてみました。調べる方法は航空地図です。国土地理院のホームページで陸軍、米軍撮影の航空地図を見ることが出来ます(
昭和14年陸軍撮影、
昭和31年米軍撮影、国土地理院参照)。薬院駅南の踏切から順に数えていくと、6ヶ所の踏切があります。そしてその次に細い踏切を見つけました。七つ目の踏切です。宇賀神社の参道となる踏切です。
近藤洋太の「
矢山哲治」からです。
「… 福岡に住んでいる人であれば、誰でも知っていることだが西鉄平尾──薬院間、あるいは高宮−西鉄平尾間には、松原の書いているような土手の上の踏切はない。厳密にいえば、西鉄平尾の駅に反対ホームへ渡る踏切があるが、勿論急カーブなどしてはいないし、そこで事故がおこったとは考えられない。念のためにこのあたりの位置関係を説明すれば、高宮──西鉄平尾間は線路は直線に走っており、西鉄平尾──薬院間はゆるく右に向かってカーブしている。高宮駅ば現在は高架化しているが、当時は平地にあった。西鉄平尾駅は高台にあり、薬院駅は平地にある。すなわち高宮方面から上り電車が進行してゆけば、途中で上り坂になり、西鉄平尾駅を過ぎて下り坂となり、途中で平地にもどる。高宮──西鉄平尾間の土手には幾本かの隧道があるが、土手の上に踏切はなく、また西鉄平尾──薬院問には土手を降りきるまで踏切はなく、降りきった所から六ヵ所の踏切がある。島尾の一月三十一日の日記には、最初、事故の現場を高宮──西鉄平尾間と間違え「高宮平尾間ではなく平尾薬院間」と訂正した後「見るにふみ切は六ヵ所」と書かれており、当時もそれ以外の踏切がなかっただろうことを示している。
松原の小説のこの部分には、まだおかしなところがある。線路が急カーブしていて見通しがきかないというくだりだ。「上り電車を見てからでは遅い。つばめのように身を翻さないかぎり」と松原は書いているが、この世にそのような踏切が存在するものだろうか。ヘアピンカーブの道路ならば、あるいはこのような表現が適切かも知れないが、電車の軌道にそんな急カーブがついていたら、誰も踏切など渡れなくなる。実際に西鉄平尾──薬院間の踏切のそれぞれに文ってみればわかることだが、多少見通しは悪くなるが、勿論、ちょっと注意すれば充分に電車をよけることができる。…
… 矢山の葬儀は二月六日、鍛治町にある高円寺でおこなわれた。…」
ここでは”松原の書いているような土手の上の踏切はない”と書いていますが、上記の”宇賀神社の参道となる踏切”は土手の上に無いのでしょうか。平尾駅は当時、国鉄筑肥線を跨ぐため、高架にありました。平尾駅北側の百年橋通りのガードは見たかぎり、当時と変っていないようです。高さは6m程だとおもわれます。電車専用線路の勾配は35/1000以下でなくてはなりません。すると、6mの高さをクリアするには約167m以上となります(実際はこんな急な勾配はなく、300m位か)。航空写真を見ると、薬院駅から数えて6ヶ所目の踏切で平尾駅からの勾配はなくなっているように見えます。”宇賀神社の参道となる踏切”は1mから1.5mの高さがあったのではないかと推定できます。
次にカーブです。実際の
宇賀神社の参道となる踏切附近のカーブ写真を見て貰うと分かります。大きなカーブではありません。
最後に一つだけ、葬儀のお寺の漢字が間違っています。確認もせずに矢山哲治全集の丸写しで書くから”高円寺”と書いてしまうのです。”光円寺”が正しいです。
★写真は
宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切跡です。反対側に
宇賀神社があります。平尾の高岩家に向かうには、宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切を通る必要は無く、60m程北側にある大きな踏切を超えれば良かったとおもわれます。それにしても、誰も現場を歩いていませんね、歩けば”宇賀神社の参道となる西鉄大牟田線の踏切”は直ぐに分かったとおもいます。”物書”はいい加減です。