●立原道造の世界  【長崎ノート 九州編T】
    初版2014年10月4日  <V01L02> 暫定版

 「立原道造の世界 長崎ノート 九州編」を掲載します。下関を訪問する機会があったので取材をしてきました。立原道造は昭和13年12月1日、松江から宿泊を予定していた萩には向わず、直接、下関に向います。寒くなってきた山陰を避けて早く長崎に着きたかったのだとおもいます。立原道造を知らない方には全く面白くありません。




「立原道造への旅」
<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
 「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「旅人の夜の歌

 詩人、立原道造が山陰本線回りで本州の西端駅「下関驛」(旧駅)に着いたのは日中戦争が始まった翌年、昭和十三(一九三八)年の十二月一日午後十一時十四分である。東京駅の夜のプラットホームで、見送りの恋人水戸部アサイに「長崎で待っている」との約束の言葉を残して長崎へ向けて旅立ったのは一週間前の十一月二十四日だった。奈良―京都―松江を巡り出雲大社に参拝したあと、最寄りの「出雲今市駅」(現出雲市駅)から午後二時八分発の下関駅行き鈍行列車に乗った。
 下関駅まで約九時間。車窓に顔を押しつけ「岩礁にぶつかる白い波、群かつて飛ぶ海鳥」と荒涼とした日本海風景をスケッチするが……」

 立原道造が「出雲今市駅」(現出雲市駅)から乗車した列車を検証してみました。立原道造の「長崎ノート」で書かれているのは”下関には十一時すぎて着く”だけです。これを参考にして当時の時刻表をみると
・昭和10年10月の時刻表:福知山発下関行(205)、出雲今市駅(13:54)→下関(23:18)
・昭和15年 1月の時刻表:福知山発下関行(205)、出雲今市駅(13:56)→下関(23:18)
 残念ながら田代俊一郎氏の「立原道造への旅」に書かれた時刻とは少し違うようです。昭和13年の時刻表がないので、どちらが正しいかは分りませんが、ローカル線なので時刻はそんなに変っていないとおもわれます。

上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の下関、北九州地図



「旧下関驛跡」
<下関驛>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月1日23時18分に出雲今市駅(現 出雲市駅)から下関驛に到着します。立原道造が到着した下関驛は現在の下関駅ではなく、旧下関驛になります。これは関門トンネルが開通するまでは、下関−門司間は連絡船に頼っていたからです。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「…すっかり夜になって海のほとりを汽車は走ってゐる。僕は横になってゐる。もう硝子に額をおしっけて、不思議に明るい海のあたりを眺めようともしない。しかし畫だったらいままでのどこにもまして汽車は海の近くをとほつてゐるらしい。低く波打際とすれすれに松の林のあひだやぢかに海に、それから、あかりをともした家々のそばなどを。……僕の眼はかなり暗くなるまで一しよう懸命外を見てみたが、今は、明るい車室のなかで身を横たへてゐる。今夜は萩に泊らうかと考へてゐたが、下関までまっすぐに行ってしまはうといふ考へがおこつて、それがだんだんに大きくなって、たしかになってゆく。下関には十一時すぎて着くのだが、萩に着いて明日の朝早くまた汽車にのるのよりましだらうとおもふ。…」
関門トンネル完成の経緯。
・昭和11年(1936) 9月 - 起工
・昭和16年(1941) 7月 - 下り本線貫通
・昭和17年(1942) 7月 - 下り本線で貨物列車を正式に運転開始。この日をもって開業
・昭和17年(1942)11月 - 下り本線旅客営業開始、これに伴い下関駅が移転、門司側では接続駅の大里駅(だいりえき)が門司駅に改称、旧門司駅は門司港駅に改称
・昭和19年(1944) 9月 - 上り本線完成、複線化
ですから、立原道造が訪ねた昭和13年は関門トンネルまだ完成していなかったわけです。

写真は山陽の浜通り(現9号線)から旧下関驛前を撮影したものです。当時の繪端書(昭和14年)と見比べてください。昭和17年(1942)11月、下関驛は現在の下関駅に移転しています。


下関市内中心部



「旧下関驛前の旅館」
<旧下関驛前の旅館>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月1日23時18分に下関驛に到着後、宿泊場所を探します。当時の下関駅前は、関釜連絡船の発着場所でもあり非常に賑わいを見せていました。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 下関の驛前旅館。 ── 侘しい三階建の旅館だが何かしらいいところがある。たとへば僕が便所を教へられて便所だとおもって戸をあけると、こはれた椅子だの何かがくらがりに積んであって、便所は脊中の方にあったことだの、お風呂はいらないといふとお風呂は銭湯へ行ってくれといはれたことだの。……驛前に立ってゐた圓タクの助手のやうな男にここまで連れられて来てしまったのだ。三階の窓から見ると、前は電車通りで、神谷町で待ってゐた築地行の電車とおなじ車體の電車がとまる。その音が轟々したり、もう十二時近いので店はみなしめてゐるが、人がときどきとほり、灯がまだともってゐる。久しぶりに町に「かへって」來たやうな気がする。一週間以上になる、こんな夜更けての町の雰圍気を見なくなってからもう……下關ホテルといふ安ホテルらしいのがあったから、そこへ連れて行ってくれといふと、案内の男が何やかや言ってここへ來だのだが、この佗しさもわるくはない。しかし、もうすこし宿をさがして冒険してもよかったのかもしれない。…

 ゆうべの宿は下關ホテルよりも、これで上等だったのかもしれない。下關ホテルよりもすこし高かったから。さうすると下關ホテルは一體どんなところなのかしら。……今度來たときには、泊ってみよう。…」

 当時の下関驛前の状況については、下関市立中央図書館で教えて頂きました。ありがとうございました。下関信用金庫が作成した「昭和初期の細江町界隈図(昭和11年/1936年頃)」が大変参考になりました。元はカラーだったのですがモノクロコピーしたのでモノクロになってしまいました。下記の図を参照してください。この図を参照して立原道造が宿泊した旅館を探すと、駅前付近の旅館は全部で5軒あり、立原道造は”三階の窓から見ると、前は電車通り”とあるので、電車は山陽の浜通り(現9号線)を通っていたので「鉄道旅館 浜吉」は除外、”下關ホテル”は泊らなかったので除外すると、残りは3軒になります。廣島旅館、長陽館、伊藤旅館の3軒で、どれも決定打がありません。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」には”長陽館と推定され”と書かれています。”当時の観光絵葉書きにもその旅館が写っている”とも書かれています。当時の繪端書を探したところ昭和14年の”山陽の浜本通りの繪端書”を見つけることができましたが、長陽館は写っていませんでした(右側に山陽百貨店が写っています)。下記の「昭和初期の細江町界隈図(昭和11年/1936年頃)」と繪端書を比べると、3年間でお店がかなり変っているようです。繪端書の右端の鶴屋食堂が「昭和初期の細江町界隈図(昭和11年/1936年頃)」にはありませんでした。

写真は下関市立中央図書舘前から山陽の浜通り(現9号線)の反対側を撮影したものです。当時の”要通り”がそのまま残っていました。写真正面のビルの右側に細い路地があり”要通り”と書いてありました。要通りから左に2軒目に長陽館があり、右に2軒目に伊藤旅館があったのですが伊藤旅館跡は今は道路になっています。山陽の浜通り(現9号線)も道幅が広がっています。


昭和初期の下関細江町界隈図(昭和11年頃)



「関門連絡船」
<関門連絡船>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月1日下関駅前の旅館に宿泊した翌日、関門連絡船で九州に向います。 

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 下關驛の夜更けの感じは上野驛のプラットフォームによく似てゐる。終端驛だからだらう。九州朝鮮行と指さしてあるのがかなしかった。
 ここでは門司の灯が家のあひだに水の向うに見えてゐる。あれが九州なのかとをかしいくらゐに近い。……ときどき連絡船が汽笛を鳴らす、發動機船のポンポンといふ音がきこえる。汽笛の音、電車の音、人の音、雑音、何もかもひっくるめて町の雰圍気がなつかしい。こんなに町はいいものだったらうか。それにここの町の港町のことや、本州の西端れだといふことや、まだ僕の心を魅する何かがあるのだらうか。汽車のなかでのものがなしい気持が、そのまま形をとって、そのものがなしいままにいまは僕をいたはつてくれるやうだ。…」


【関門連絡船(かんもんれんらくせん)】
 日本国有鉄道(国鉄)が明治34年(1901)から昭和39年(1964)までの間、山口県下関市の下関駅と福岡県北九州市門司区(1963年までは門司市)の門司港駅との間を運航していた鉄道連絡船です。昭和17年(1942)11月に実施されたダイヤ改正により、関門トンネルで旅客列車の運行も開始されます。これにより関門連絡船は鉄道連絡船としての役割を喪失しましたが、下関 - 門司港間の需要が多かったため廃止はせず、郵便輸送を廃止し、運航回数をそれまでの53往復から30往復に減便して存続しています。戦後間もない昭和22年(1947)度の輸送人員は年間403万人(1日平均約11,000人)でしたが、以後数年間は年間250万人前後で推移します。下関 - 門司間の普通列車が増発された1953年(昭和28年)から輸送人員が毎年前年度比3%程度の減少傾向となっていたが、昭和33年(1958)に関門国道トンネルが開通し、同時期に民間の関門汽船・関門海峡汽船の利便性が向上されたこともあり、輸送人員が急減を始めます。昭和30年(1955)度の輸送人員は年間205万人でしたが昭和34年(1959)度の輸送人員は年間110万人に減少しています。昭和36年(1961)に関門トンネルを挟む山陽本線・鹿児島本線が電化され、小郡駅 - 久留米駅間で電車の運行が開始されたことに伴い、同年6月15日からはそれまでの28往復から20往復に減便し、1隻のみの使用となります。また従来の船舶に代わり、大島航路から玉川丸(定員372名)を転属させて使用し、輸送減に対応します。昭和39年(1964)10月25日に廃止が告示され、10月31日限りで廃止されました。(ウイキペディア参照)

写真が当時の下関側の関門連絡船桟橋と連絡船です。旧下関驛からそのまま乗船できたようです。乗船場が驛の西側(裏側)にあり、プラットホームから直接桟橋に行けたものとおもわれます。現在はこの辺りとおもわれます。

「旧門司駅(現 門司港駅)」
<門司駅>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月1日午前、旧下関驛から関門連絡船で旧門司駅(現 門司港駅)に到着します。

【旧門司駅(現 門司港駅(もじこうえき))】
 関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わっていました。駅舎は重要文化財に指定されています。当初は、九州鉄道の起点、門司駅として明治24年(1891)4月に開設されています。初代の駅舎が建てられたのは現在の門司駅舎が所在する地点よりも東側、今の北九州銀行門司支店の裏手に当たっていました。明治34年(1901)5月には関門連絡船の運航が開始され、本州の鉄道と結ばれて多くの旅客がこの駅を経由することになります。大正3年(1914)に、現在も存在する2代目の駅舎が完成し、移転開業します。しかしながら関門トンネルの開通に伴って門司駅の名前は関門トンネルが接続することになる従来の大里駅に使うことになり、当駅は門司港駅へと改称しています。現在は本格的な保存修理工事中で工事完了は平成30年(2018)3月の予定です。(ウイキペディア参照)

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 関門海峡を渡って、九州にはじめて入った。門司の町は驛のなかだけで素通りしてしまふ。船がだんだんと九州の島に近づいたとき、霧にかくれてゐた山々がはっきりと見え出し、それが意外に高いところに、頂上の黒いスカイラインを描いてゐた。ふりかへると午前の光をうけて下關の町は、はっきりと見える。山がすこしかすんでゐるきりで、こちら側が見えなかっだのとは大分ちがふ。 ── だうとう末てしまった! 汽車はもう走ってゐる。車室のなかの鐵道略圖も。もう九州地方のそれにかはってゐる。…」
 旧門司駅(現 門司港駅)もプラットホームからそのまま関門連絡船に乗船できるようになていました。現在も乗船口が残っています。当時の旧門司駅(現 門司港駅)桟橋と、旧門司駅(現 門司港駅)上空から撮影した繪端書を掲載しておきます(関門連絡船と桟橋を赤丸で囲っています)。驛の北側直ぐに桟橋があったのですが現在は道路が出来ています。

写真は平成16年(2004)頃の旧門司駅(現 門司港駅)です。逆光でひどい写真でごめんなさい。現在は工事中で写真が撮れませんでした。


立原道造の戸畑、若松地図


「戸畑駅」
<戸畑駅>
 立原道造は旧門司駅(現 門司港駅)から戸畑駅に向かいます。石本建築設計事務所の同僚、武基雄が設計した丸柏百貨店を見るためでした。

 門司からの列車を探して見ました。条件としては
・朝、下関を出発
・戸畑駅で下車し渡し船で若松の丸柏百貨店に向い、同じ経路で戸畑駅に戻って15時頃博多着
 となります。
 昭和10年10月の時刻表で乗車した列車を探します。
・門司駅(9時10分)→戸畑駅(9時38分)
・戸畑駅(9時40分)→渡し船→丸柏百貨店着(10時40分頃)
・丸柏百貨店二階喫茶室(一時間程度滞在)
・丸柏百貨店発(12時頃→渡し船→戸畑駅13時00分頃)
・戸畑発(13時17分)→博多着(14時53分)
 門司驛を一本遅くなると10時30分発なので、これでは15時に博多に着けません。
 昭和15年1月の時刻表で再度確認すると
門司駅(9時20分)→戸畑駅(9時48分)、
戸畑発(13時18分)→博多着(14時59分)
 となります。ほとんど変りません。(昭和13年の時刻表がないので昭和10年と昭和15年を見ています)

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「…  立原は門司(北九州市)から鹿児島本線で戸畑へ、そこから渡船で洞海湾を渡った。若松に着いた立原は「丸柏百貨店」(旧若松井筒屋)に直行し、その二階喫茶室で二通の手紙を書いた。その一通は当時「休職願い」を提出していた「石本建築設計事務所」の同僚、武基雄にあてたものだ。…」

 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「584 十二月二日〔金〕 武基雄宛 〔若松發〕 (前3)
 丸柏百貨店喫茶室にて ー
 たうとう九州に着いてしまった。午前の光のなかを、関門海峡をこえ、戸畑で下車し渡船でここに来た……九州で先づ第一に僕を迎へたのは君のデザインのこの建築であった、君の苦労した電灯があったり、アイランドのショウウヰンドウが僕をやうやくほっとさせる。今まで見知らないなかばかり過ぎて來たのが、不意に親しい微笑をつきつけられたやうな感じだ。……山陰ではへんに疲れてしまってゐたが、これからはいいだらう。僕がやりそこなひさへしなければ旅はどんなにかたのしいだらうが、言って見ればこんな旅さへすでに大きなひとつの過失のやうなものではないだらうか。けふの三時ごろ博多に着く筈だ。」


 若松の丸柏百貨店に興味があったのだとおもいますが、それにしても義理堅いです。戸畑駅から若松に向うには若松港の海峡(水道?)を渡し船で渡らなければなりません。戸畑側の渡し場若松側の渡し場の写真を掲載しておきます。

写真が現在の戸畑駅です。現在の駅舎は4代目で、立原道造が訪ねた頃は2代目駅舎だとおもわれます。1代目がが明治34年なので、2代目と推定していますが、空襲で焼けていれば1代目となります。


立原道造の戸畑地図


「丸柏百貨店跡」
<丸柏百貨店喫茶室>
 立原道造が若松で訪ねたのは丸柏百貨店でした。門司から鹿児島本線に乗車し、博多に行く手前の戸畑でわざわざ下車して、渡し船に乗り若松まで行きます。当時の若松は石炭の積出港として日本一であり、筑豊本線の若松駅は日本一の貨物取扱駅でした。そのため若松は人、物、金が集まり昭和10年代は活況を呈していました。

若松駅(若松市→北九州市若松区)】
 筑豊興業鉄道により明治24年(1891)8月30日開設された。当初から石炭の積み出しを主な目的としていました。構内は広大で多数の石炭車が常時出入りしていました。ガントリークレーン、ホイストなどの積み下ろし設備が各種整備され、最盛期の昭和15年(1940)には年間830万トンの積み出しを行い、一時第二次世界大戦のために衰えるますが戦後も再び同じくらいの貨物取り扱いをして、ほぼ常時日本で一番貨物取り扱いの多い駅でした。しかしエネルギー革命の進展により、石炭の取り扱いは急速に減少していき、昭和45年(1970)にはホイストとガントリークレーンの使用が停止され、昭和57年(1982)11月には貨物輸送が廃止されます。翌昭和58年(1983)4月から構内の整理が開始され、旧駅舎が取り壊されて建て直されると共に側線群のほぼ全てが撤去されて、現在に見る純粋な旅客駅となります。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 丸柏百貨店喫茶室にて ──
 九州ではじめて微笑で迎へてくれたこの建物。僕はこのハイカープな部屋で古い思ひ出や何かと一しよにゐる。武の苦労した電燈が天井にさがってゐるし、あのアイランドの飾窓がある入口のあたりのプランはいいプランだとおもふし、久しぶりで不意に親しいものに出會ったやうな感じだ。僕はコオヒイをのみ、ボソボソしたパソのサンドウヰツチを食べて、おひるにする。そんな食事が、どんなにたのしいか。しかし武もおまへもそばにはゐない。東京驛の夜のことが、また記憶にかへって来る。そんな記憶をここで僕はだいじにおもひ出す。陽がさしてゐて、ここは東京のどの喫茶店にもまけないくらゐだ。…」


【丸柏百貨店(まるかしひゃっかてん)】
 明治22年(1889)に丸柏呉服店として創業したのが始まりで、明治43年(1910)に本城太物店と改称した後、昭和13年(1938)に丸柏百貨店として百貨店化しています。筑豊炭鉱の石炭を関西や瀬戸内の需要地に積み出す港町として栄えた若松市(現在の北九州市若松区)の中心市街地本町3丁目の中川通りと本町通の交差点角に位置して商店街の中核として営業し、炭鉱会社や船舶会社などの関係者達の需要を背景に順調に業績を伸ばし、屋上遊園地は他の百貨店と同様に子供達に親しまれていました。また、石炭の輸送拠点として栄えた若松を象徴する貨物輸送の市電が走る中川通りに面していたため、かつては目の前の大通りを貨物電車が通り抜ける珍しい百貨店でした。その後エネルギーの石油への転換や輸入炭の流入に伴って筑豊炭鉱の壊滅の影響を受けて若松の商業機能が衰えた影響で業績が低迷し、昭和54年(1979)8月に小倉に本拠を置く井筒屋に営業を譲渡して閉店し、丸柏百貨店としての歴史に終止符を打っています。そして、井筒屋が昭和54年(1979)10月に若松井筒屋として百貨店を開いて営業を引継いだものの、小倉北区への商業機能の集中化などによる影響も受けて地元若松区以外の集客が困難な地域性もあり、平成7年(1995)に閉店に追い込まれて完全に消滅しています。その後、跡地は更地化されていましたが、平成19年(2007)8月にホテルルートイン北九州若松駅東が開業しています。跡地には丸柏百貨店跡の碑が建てられ、往時をしのんでいます。(ウイキペディア参照)

 景気の良いところに新しい豪華な百貨店が建てられたようです。ですから、わざわざ東京の設計事務所である石本建築設計事務所を使い、最先端の設計で豪華に建てたとおもわれます。

写真が丸柏百貨店の跡地に建てられているホテルルートイン北九州若松駅東です。丸柏百貨店跡の碑は左側横に小さくぽつんと建てられていました。


立原道造の若松地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう
11月28日 舞鶴から松江に向かう
11月28日から12月1日まで松江に滞在
12月 1日 下関泊
12月 2日 博多泊