<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。
田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「旅人の夜の歌
詩人、立原道造が山陰本線回りで本州の西端駅「下関驛」(旧駅)に着いたのは日中戦争が始まった翌年、昭和十三(一九三八)年の十二月一日午後十一時十四分である。東京駅の夜のプラットホームで、見送りの恋人水戸部アサイに「長崎で待っている」との約束の言葉を残して長崎へ向けて旅立ったのは一週間前の十一月二十四日だった。奈良―京都―松江を巡り出雲大社に参拝したあと、最寄りの「出雲今市駅」(現出雲市駅)から午後二時八分発の下関駅行き鈍行列車に乗った。
下関駅まで約九時間。車窓に顔を押しつけ「岩礁にぶつかる白い波、群かつて飛ぶ海鳥」と荒涼とした日本海風景をスケッチするが……」
立原道造が「出雲今市駅」(現出雲市駅)から乗車した列車を検証してみました。立原道造の「長崎ノート」で書かれているのは”下関には十一時すぎて着く”だけです。これを参考にして当時の時刻表をみると
・昭和10年10月の時刻表:福知山発下関行(205)、出雲今市駅(13:54)→下関(23:18)
・昭和15年 1月の時刻表:福知山発下関行(205)、出雲今市駅(13:56)→下関(23:18)
残念ながら田代俊一郎氏の「立原道造への旅」に書かれた時刻とは少し違うようです。昭和13年の時刻表がないので、どちらが正しいかは分りませんが、ローカル線なので時刻はそんなに変っていないとおもわれます。
★上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)