<小都會のこのメイン・ストリート> 盛岡は盛岡藩(旧南部藩)が母体で盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となっています。盛岡藩自体は陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)で現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩です。一般に「南部藩」とも呼ばれています。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)です。家格は外様大名で、石高は当初表高10万石でしたが、内高は多く幕末に表高20万石に高直しされています。明治維新は奥羽越列藩同盟に加わっていたため、藩主南部利剛は隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収されます。南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を命じられています。どっちにしても廃藩置県なので藩は無くなってしまいます。(ウイキペディア参照)
「立原道造全集 第五巻 書簡」からです。
「五三八
九月二十八日〔水〕 猪野謙二宛〔盛岡發〕〈山〉
みよしのの山の秋風さよふけてふるさとさむく衣うつなり ── 明日香井集
ここはだれのふるさとだか、僕にはとうにわからなくなっだ。戸口に立って、秋はとうに僕のそばにゐる(空はまだ秋晴れのやうに澄まない)僕はしづかに、啼く蟲のごとくさびしくくらしてゐる。…
…
町に出るとき、白い白い長い一本道をとほる。下小路といって、その雨側は木の多いくらい家にへりどられてゐる。その左側の家の裏はもう磧になってゐる。中津川といってここの町はづれで、北上川に雫石川といっしよにそそぐ。その川ぞひにはさいかちと樫の木が並木になってゐる。その下をほそい道が川に沿って石垣の上をとほってゐる。そこからも町に行けるのだ。
僕はあまり町には出て行かない。しかし地方の小都會のこのメイン・ストリートを愛する。それは東京に生れ東京に育つだ僕には、快くあたらしい情緒だ。慌しく過きた仙毫や山形の町では僕はそれにめぐりあはなかつだ。ここへ来て、ある夕ぐれ、小デパートの屋上から降りたときはじめて、それに僕は出會つだ。」
明治、大正、昭和初期の盛岡の繁華街は中津川の東側、現在の肴町付近が中心でしたが、昭和期に入ると大正までたんぼであった菜園を埋立て現在の駅前から続く大通りが中の橋まで新たに完成し、繁華街が中津川の東側に移っていきます。立原道造が訪ねた昭和13年頃はまだ繁華街は肴町附近が中心でした。ですから中津川を東に渡っています。
★写真は旧盛岡銀行本店です。この附近が昭和初期まで繁華街でした。
この附近のGoogleストリートビューをリンクしました。また少し先に
肴町のアーケード街(Googleストリートビュー)があります。昭和初期はこの附近が繁華街だったとおもわれます。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)