●立原道造の世界  【盛岡ノート 盛岡編V】
    初版2014年1月4日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界【盛岡ノート 盛岡編】(V)」です。前回は盛岡編(U)として「盛岡ノート」からを紹介しました。今回は盛岡編(V)として、「立原道造全集 第六巻 書簡」から、未紹介分を順に紹介したいとおもいます。Wで終る予定ですが撮影出来なかったところも有り時間がかかります。




「第五巻」
<「立原道造全集 第五巻 書簡」>
 「立原道造全集」は全六巻ですが、五巻が書簡となっています。立原道造の書簡は亡くなられた後の対応が早かったのか、ほとんど揃っています。現在は電子メールやLINEでは保存が難しいですが、当時は端書や封書が唯一の伝達手段だったので保存が出来たのだとおもわれます。

 深沢紅子さんの 「追憶の詩人達」からです。                
「五三三
九月二十一日〔水〕 立原光子・達夫宛(東京市日本橋區橘町五の一)盛岡局發〈封書・二枚〉
 仙臺、山形をまはり、豫定よりは一日おくれ十九日の夜おそく無事にこちらに着きました。きのふ一日は雨で、しづかに休みました。五日間のあちらこちらの旅はやはりつもりつもって疲れたのでせう。
 ここはたいへんにしづかなところです、裏の山にのぼれば、盛岡市が半分見わたせるさうですが、まだお天気にならないのでのぼりません。けふのひるからはお天気になるさうです。
 近くにものを書く人がゐて僕の来るのをたいへんによろこんで待ってゐて 僕の着くまへからここに洋梨など届けてありました きのふ會ひましたけさもまた初茸御飯を届けて来ました この山を降って町へ行く途中にそのひとは住んでゐるのです ひとりぼっちでくらさなくてはならないかとかもって来たらここにもお友だちが待ってゐました 盛岡のいいところをすっかり案内してあげるといってゐます どこへ行ってもいい人ばかり待ってゐるのでうれしくなります」

 洋梨を届けてくれた人は加藤医師ですね、Uで紹介しています。この手紙は盛岡に着いて初めて出した実家への手紙です。昔の人は良く手紙をだします。

上記は角川書店版 昭和48年発行の立原道造全集です。最新は筑摩書房版なのですが懐が寂しくて手が出ません。いつか購入しようとおもっています。


立原道造の盛岡ノート全体地図



「旧盛岡銀行本店」
<小都會のこのメイン・ストリート>
 盛岡は盛岡藩(旧南部藩)が母体で盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となっています。盛岡藩自体は陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)で現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩です。一般に「南部藩」とも呼ばれています。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)です。家格は外様大名で、石高は当初表高10万石でしたが、内高は多く幕末に表高20万石に高直しされています。明治維新は奥羽越列藩同盟に加わっていたため、藩主南部利剛は隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収されます。南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を命じられています。どっちにしても廃藩置県なので藩は無くなってしまいます。(ウイキペディア参照)

 「立原道造全集 第五巻 書簡」からです。
「五三八
九月二十八日〔水〕 猪野謙二宛〔盛岡發〕〈山〉
  みよしのの山の秋風さよふけてふるさとさむく衣うつなり ── 明日香井集
 ここはだれのふるさとだか、僕にはとうにわからなくなっだ。戸口に立って、秋はとうに僕のそばにゐる(空はまだ秋晴れのやうに澄まない)僕はしづかに、啼く蟲のごとくさびしくくらしてゐる。…

 町に出るとき、白い白い長い一本道をとほる。下小路といって、その雨側は木の多いくらい家にへりどられてゐる。その左側の家の裏はもう磧になってゐる。中津川といってここの町はづれで、北上川に雫石川といっしよにそそぐ。その川ぞひにはさいかちと樫の木が並木になってゐる。その下をほそい道が川に沿って石垣の上をとほってゐる。そこからも町に行けるのだ。
 僕はあまり町には出て行かない。しかし地方の小都會のこのメイン・ストリートを愛する。それは東京に生れ東京に育つだ僕には、快くあたらしい情緒だ。慌しく過きた仙毫や山形の町では僕はそれにめぐりあはなかつだ。ここへ来て、ある夕ぐれ、小デパートの屋上から降りたときはじめて、それに僕は出會つだ。」

 明治、大正、昭和初期の盛岡の繁華街は中津川の東側、現在の肴町付近が中心でしたが、昭和期に入ると大正までたんぼであった菜園を埋立て現在の駅前から続く大通りが中の橋まで新たに完成し、繁華街が中津川の東側に移っていきます。立原道造が訪ねた昭和13年頃はまだ繁華街は肴町附近が中心でした。ですから中津川を東に渡っています。

写真は旧盛岡銀行本店です。この附近が昭和初期まで繁華街でした。この附近のGoogleストリートビューをリンクしました。また少し先に肴町のアーケード街(Googleストリートビュー)があります。昭和初期はこの附近が繁華街だったとおもわれます。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の盛岡全体地図


昭和3年の盛岡、中の橋附近地図
大通りがまだ出来ていない(赤い線のところ)



「火の見櫓」
<火の見櫓>
 盛岡は江戸時代から明治にかけて何度かの大火に見舞われており、火事に対する備えをかなり行なっていたようです。そのため昭和40年頃まで各地に火の見櫓が見られたようです。

 「立原道造全集 第五巻 書簡」からです。
「五四〇
九月二十八日〔水〕 丸山薫宛〔盛岡發〕<前3>
 おたより拝見いたしました、こちらにまゐるまへに一度お目にかからうとおもひながら。つい慌しくてお伺ひ出来ませんでした。
 信州からも御無沙汰してゐました。あたらしい御宅の住所を忘れてゐたのです。きのふからこの町の住人になつてゐます。地方のさびしい小都會のひとりぐらしははじめてなので、たのしいながら心落ち着かずにくらしてゐます。
 美しい磧のある川がながれてゐて、木の長い橋がかかり、火の見櫓などがあります。
 町には古風な建物があり、塔の上で風見鶏がまはつてゐます。長い長い路、があつて、夕陽がそこに映り、キラキラ
と樹のあひだに灯がともります。」

 この書簡以外にも”火の見櫓”が書かれた手紙がありました。山形でお世話になった竹村俊郎へも”火の見櫓”について書いています。

「五四四
九月二十九日〔木〕 竹村俊郎宛(山形邨大倉村林崎)
盛岡市関口愛宕山下・生生洞より〈封書・倦紙〉
 御無沙汰いたしてをります
 先日仙山線をとほつて無事仙臺に着き 次の日 松島石巻をとほり こちらに落着きました…

 盛岡の町は山形より樹木の多い町で やはり明治の稚拙な空気が方々に感じられます 火の見櫓がみな古風な塔で それに燈のはいる夕ぐれは たいへんになつかしい眺めです」

 現在は一ヶ所しか火の見櫓がありませんが、当時(昭和初期)は各所に火の見櫓があったようです。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「 僕は 木の橋をわたった そして 青いさいかちの 木の下を行った 古風な擬賓珠のついた橋があった そのあちらにも 火の見櫓があった…」
 「盛岡ノート」にも書いていますから、よっぽどお気に入りだったのかもしれません。建築的には面白い設計だったのかもしれません。

写真は現在残っている与の字橋東詰めの「火の見櫓」です。立原道造が見た火の見櫓と同じものとおもわれます。

「願教寺」
<「皇帝」>
 立原道造は盛岡でレコードを聞く機会に恵まれたようです。戦前はSPレコードで、蓄音機で聞いていたとおもいますので、高価な蓄音機を購入出来る家庭は限られていました。当時の価格は安いもので30円から高価なもので200円位です。戦前、都内で二間の家賃が30〜40円位でしたから、蓄音機は相当高価だったとおおもいます。

 「立原道造全集 第五巻 書簡」からです。
「五五五
十月十四日〔金〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 盛岡局發〈端書〉
 おハガキありがたう ── 「皇帝」のアダジオをこのごろの僕は愛す。秋の風が吹いてゐるのは、たいへんにいいことだ。そしておそらく君のところでは それは夜にだらう。僕のところではいま晝の空に白い雲が低くながれてゐる。これはいまのはなしだ。しかし、今だけのことではない。生田は元気らしい。君だつて元気らしい。この間の新建築をよんだとき、さうおもつた。僕はこれからLEBENS-WERKにとりかかる。それゆゑ僕をささへてくれる君らが元気でないと僕までぐらつきさうだ。これから僕は太陽と光とをもつぱらとらへる。ひとつの確信にまで、僕の生き方をたかめる。たいへんに大切なことだ。どのみち僕はまちがつてゐて あらあらしいだらう。しかし問題はもつとちがふところにある。」

 書簡や「盛岡ノート」には「皇帝」のレコードを何処で聞いたかは書いてありませんでした。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「…僕のきいた音楽
そのなかで 僕の魂はふたたび解き放たれた
とほいとほい行けないところへの郷愁
僕の一歩はいつもそちらを向いてゐる
虹のやうな もつと美しい夕映えの雲
僕は あんなに(皇帝)を愛したことがあらうか…」


 深沢紅子さんの 「追憶の詩人達」からです。
「 三日間のこと

 昭和十三年九月末、私はその日が何日だったかも今は覚えていない。盛岡に行った。
 出立間きわに二人の連れが出来た。日頃親しかった医師K先生と、デザイナー伊藤憲治。伊藤憲治は立原道造の小学校の同級生であり、又中学時代から私共の絵の弟子でもあった。私はその年の十月二日発の汽車で北支方面に従軍画家としで出立する事になっでいたので、墓参や両親に別れるなど、何となく戦の地への旅の準備の心の用意を兼ねていた。…
… 翌日、朝の間に道造をさそって願教寺に行った。ここは父が親しくしていたお寺で、若い住職は出征中、奥さんと住職の妹が留守番をしていた。その妹さんは絵も描く人たった。この寺にはレコードが沢山ある。ピアノもある。何かの時に道造の役に立つかもしれない、と思ったからである。彼は「レコードを聴かせでいただきに又来ます」と言った。帰りの道端に咲いていた花を見て「この花、何と言いますか」「モクゲ」 (むくげの方言である)「「道ばたのモクゲは馬に食われけり」芭蕉のこの句知っていますか」
 「むくげでしょう」、いっしょに笑った。…」

 深沢紅子さんの 「追憶の詩人達」のなかに書いてありました。

上記は現在の「願教寺」です。盛岡は駅附近以外は空襲を受けていないので、「願教寺」は当時のままとおもわれます。本堂の写真も掲載しておきます。

「公會堂」
<公會堂>
 立原道造は岩手県の公会堂を見に行っています。この公会堂は昭和2年(1927)開館、設計は、大隈講堂や日比谷公会堂の設計で有名な建築家・佐藤功一が担当しています。当初は岩手県議会議事堂の機能を持っており、当時としては高層の建築物で、塔屋からは盛岡の町が見渡せたそうです。塔屋を除き2階建て、大小16の会議室、大ホール、ギャラリーなどで構成されています。(ウイキペディア参照)

 「立原道造全集 第五巻 書簡」からです。                
「五五八
十月十九日〔水〕 入江雄太郎宛〔盛岡發〕〈山〉
 けふはたいへんによい天気です。二、三日塞い日がつづいたあとでいまは全く澄んだ青い空は美しい日があたたかく親切にさしてゐて、てんたう蟲や足長蜂があそんでゐます。川原のある河のほとりに、正午ごろ僕はあそびに行つてゐました。陽が頭の上からてらし、さいがちの樹が青黒く光り、川原には黒や斑の牛かあそんでゐました。…

ここの郵便局は木造のクラシックなペンキ塗の建物です。電話局も大分古いものらしいし、公會堂は日比谷の亜流。その他の官府は皆地方の小都會らしい古風さで、しづかに町の一角をつくつてゐます。その近くにいまは公園の不来方城があるのです。古い民家や何かはすくないが、あるのはどれも美しいものがあります。平面がみなおもしろさうだが、僕にはしらべる勇気もなく、そのまま外から眺めるきりです。怠慢だとおもひつつも、外からの眺めの方につひ酔つてしまふのです。そんな群落の一角を僕はそのまま風景書のやうにして、光のなかでながめてゐます。建築家失格のところで。僕は、ものを見たりかんがへたりしてゐるらしいのです。」

 設計屋なので公会堂等の建築物には興味があるようです。

上記は現在の岩手県公会堂です。日比谷公会堂と雰囲気が似ていますね。日比谷公会堂のミニ版といった雰囲気です。岩手県公会堂の正面写真、日比谷公会堂の正面側写真道路側の写真を掲載しておきます。

 次は時間が掛かりますが続きます。


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊
18日 仙山線経由仙台泊
19日 石巻で江頭彦造を訪ね、夜 盛岡着
25日〜28日 深沢紅子帰郷
10月19日 盛岡から帰京(東京着20日)