●立原道造の世界  【盛岡ノート 盛岡編U】
    初版2013年12月21日  <V01L02> 暫定版

 「立原道造の世界【盛岡ノート 盛岡編】(U)」です。前回は盛岡編(T)として到着から立原道造が宿泊した「生々洞」付近を紹介しました。今回は盛岡編(U)として、立原道造の「盛岡ノート」から、未紹介分を順に紹介したいとおもいます。前回紹介できなかった本二冊も合せて紹介します。




「追憶の詩人達」
<「追憶の詩人達」 深沢紅子>
 深沢紅子さんが堀辰雄や立原道造について書かれたエッセイや月報等をまとめて出版された「追憶の詩人達」です。この中に立原道造の盛岡について書かれたところを今回は参照させて頂きました。

 深沢紅子さんの 「追憶の詩人達」からです。                
「 堀さんと立原さんのこと

 立原さんと初めて会ったのは昭和十年の八月、満月の夜、信州松原湖畔のつたやという宿でした。そして堀さんにお会いしたのは、それから三年半後、立原さんが亡くなった翌朝、昭和十四年三月三十日の朝八時、時間のはっきりしているのは、その時間が出棺の時刻だったからです。その頃鎌倉に住んでいらした堀さんと奥さんが、道造と最後のお別れのために、中野療養所の裏門の側に立っでいらっしゃいました。だれが紹介するともなく私達は黙っで初対面のあいさつを交しました。その黙ってが、ついに堀さんが亡くなられるまで続きました。…」

 この文は立原道造全集第三巻の月報に同じ題で掲載されたものです。

上記は深沢紅子さんの教育出版センター版 「追憶の詩人達」で昭和54年(1979)11月発行です。立原道造全集、堀辰雄全集等からピックアップして集めて出版したものとおもわれます。

「立原道造ノート」
<「立原道造ノート」 佐藤実>
 前回、もう一冊紹介したい本があると書いたのですが、この本がその本です。佐藤実氏は昭和40年代から立原道造関連の本を出版されており、その中で盛岡を最も詳しく書かれたのがこの本とおもいます。細かい地図が掲載されており、非常に分かりやすいです。残念なことは出版年が昭和54年で古く、改版されていないことです。

 佐藤実氏の「立原道造ノ−ト」より。                
「    杜の都・詩の都

 杜の都盛岡は不思議に詩人を輩出する。それはここの風土が、山や川や自然の美しさが先ず、人々をして詩を書かしめるのだと思う。
 この街は、石川啄木や宮沢賢治の文学遺蹟や、詩碑を数多く持っでいる。そしてそのために訪れる旅行者も多いから、文学的魅力のある街といってもよいだろう。いわば文学的雰囲気のある街なのだ。…」

 この本が特に良いとおもわれるのは、ガイド編に分かりやすい地図が掲載されていることです。

上記は佐藤実氏の昭和54年7月発行、教育出版センター版「立原道造ノート」です。掲載されている地図が改版されて最新地図になればいいなと期待しています。



立原道造の盛岡ノート全体地図



「黒川産婦人科」
<Kの家>
 立原道造の「盛岡ノート」に書いている順に紹介したいとおもいます。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。 
「… はげしい寒さ ── 白く霜が降りた
 Kの家で 冬のはじめて来る朝の ひとときの朝餐 それはこの町での僕のくらしを見送る心ずくしだった 僕は この町に来た日にこのノオトに書いたことをおもい出す ── あれは青い葡萄の朝だった 僕の日々を どんなにか あれから Kたちはゆたかにたのしいものにしてくれたろうか いま朝餐の食卓の上で
僕は感謝しながら追憶する
 そして僕は果してすなおに 十分にうけいれたろうか あの好意の一部をでも 僕の心に達せずに 土の上におとしはしなかったろうか そのようなことがあったらKのために心からゆるしを乞おう
 さようなら 優しい さびしい家族

  (泡立てたオムレツ 無花果の砂糖煮 毎のジャム 家で焼いたフランスパン 熱いココア のこんなにゆたかな 僕のための宴 青い葡萄も フレミッシュものせてある ビスケットも)
 この仕事部屋ともさようなら
 あなたたちの 雪のなかの幸福を祈りながら 青い花の咲く美しい五月になったら また訪れる約束をしよう…」。

 ”K”とは深沢紅子さんが下記に書いていますが、加藤健さんのことです。佐藤実氏の「立原道造 豊穣の美との再会」によると、加藤健さんは本名健一、昭和医専卒のお医者さんで詩人でした。昭和20年1月に37才の若さで病没されています。

 深沢紅子さんの「追憶の詩人達」 ”盛岡に行った立原さん”さんからです。
「… 盛岡に行って間もなく、誰が引き合わせたともなく、詩人でお医者さんの加藤健さんと、たちまち親しいお友達になっていました。二人は盛岡べんで話などしていました。健さんは毎日のように、果物やお菓子や、奥さんお手製のお料理や、実に親切な食料をもって、一日に一回は、生々洞を訪われるのが習慣になっていたようでしたが、立原さんがねむっていると、ご馳走をそっと縁先きにおいて、足音をしのぼせて帰って行かれることが度々でした。…」
 親切なお医者さんですね、立原道造も、もう少し盛岡におれば病も少しは良くなったかもしれません。

写真の左側が加藤健さん宅跡です。現在は黒川産婦人科になっていますので、加藤健さんと何らかの関係がある方かなとおもっています。立原道造はこの加藤健さん宅の二階を仕事部屋として借りていました。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「姫神山(推定)」
<ヒメカミ山>
 前回、掲載し忘れた「生々洞」から裏山に登った先から見える山です。立原道造はここで油絵を描いています。油絵を描いた場所へは立原道造の詩碑からは450m位歩かないと着きませんでした。レンタサイクルでしたが坂が急で押して歩いたのでクタクタになりました。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… きょうはここで ヒメカミ山の方を一枚の油絵に描いた こころよい疲れと ちょうどよい時刻とが この風景をまた僕のいちばん愛する酔いにまで高めている かつての日々とおなじように! それを僕が予覚でだけ眺めた この絵の部分部分がいまはひとつの追憶となって この風景に かさなりあっている
 汽車が盛岡駅から立って行く 煙と汽笛とが僕の注意をひくそれはのぼりだ あのひとつの車に僕の席も もう用意されている!
 南昌山は またシルウェットだ そして このくろい緑の一枚の絵は あの微妙な浮彫になって 僕の目のまえで 生き生きとしている…」

 姫神山は盛岡市内からは北東に見える標高1124mの山です。南昌山は姫神山とは眞反対の南西にある標高848mの山です。ただ、南昌山の手前に赤林山という標高855mの山があり、市内からは赤林山の左手に微かに見える程度だとおもっています。実際に見ることが出来なかったので良くわかりません。

写真は立原道造が油絵を描いたおもわれる場所から姫神山方面を撮影したものです。遠目に見える山が姫神山だとおもうのですが、確証がありません。ウイキペディアに掲載されている姫神山の写真です。近くから撮影しているので参考になりません。立原道造の描いた油絵のカラー写真が入手できません。もう少し探してみます。


立原道造の盛岡全体地図



「文化橋」
<石の橋>
 石の橋は「生々洞」から東に400m、中津川に架かる橋です。現在は横に盛岡バイパスの東大橋が架かっており昔の面影はありません。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… 僕は 南昌山を見るために 中津川に出て行った
 三日月ぐらいののこりの月はかかっていた 東の空は赤くなって 雲が美しかった 僕は 石の橋の上に 立っていた 南昌山の高いあたりは 赤く日に てらされていた 岩手山には 薔薇色の雲が かかっていた 岩手山をよく見るために 川の向岸にわたった そこは ポプラがもう葉をふるいはじめた並木だった岩手山にも日があたっていた ヒメカミ山は黒い紫で 右の肩だけスミレ色に 日にてらされていた そのうち 愛宕下に日がさした それが だんだん下におりて来てポプラに日がさした それからついに川原にまで来た…
…     §

 僕はきょう 僕がかえるなんておもわない
 いま お風呂に行って そのかえり シャボン箱とぬれタオルを持ったまま けさとおなじ橋の上に立っている 風が気持よい空は南の地平に近いあたりにすこしの雲がむらかっているばかりで こんなにいいお天気があることなんか 今まで一度も知らなかったくらいだ 空は深い青 陽はキラキラとあたたかい 川原には 黒や斑の牛が七頭牛追いに連れられて歩いている 水はきらめいてながれている 何もがこんなに親切にいい気持だ…」

 ここでも南昌山が出てきます。私が見ても南昌山は分らなかったです。岩手山は写真を掲載しておきます。お風呂はこの石の橋の袂にあったようです。

 「立原道造全集 第五巻 書簡集」を参照します。
「五五八
十月十九日〔水〕 入江雄太郎宛〔盛岡發〕〈山〉
 けふはたいへんによい天気です。二、三日塞い日がつづいたあとでいまは全く澄んだ青い空は美しい日があたたかく親切にさしてゐて、てんたう蟲や足長蜂があそんでゐます。川原のある河のほとりに、正午ごろ僕はあそびに行つてゐました。……
… ここの川原はミルクプラントの建物があります。ごくうすい緑灰色の壁に緑色の瓦棒葺の屋根のあるその建物は、ポプラに包まれて美しい建物です。だれの設計か知らないし、なかにはいつてしらべたりするほど熱心な僕ではないから、外からいつもぼんやり見てゐます。つつましい好ましい感じの建物で、野心も何もないそれだけのよさです。窓は灰色がかつだクリーム色の木製サッシュで、大きな窓と、小さな窓とが、バランスして南面についてゐます。僕がいつも見るのはその面なのです、これがこの市でおそらくは唯一の、僕たちの意味で、新らしい建築です。…」

 石の橋を渡った先にミルクプラントがあったようです。現在は小岩井中津川マンションが建っています。小岩井とあるので小岩井農場関連とおもいます。ミルクプラントもその関連ではないでしょうか。

写真は現在の「文化橋」です。昔は石の橋の呼び名だったのかもしれません。右側は盛岡バイパスの東大橋です。

「映画館通り」
<ふたつの活動写真館>
 何処の町でも戦前から昭和30年代までは映画館が娯楽の中心でした。盛岡も戦前は二つの映画館があったようです。現在も映画館通りとなって場所は少し変っているようですが、映画館は健在のようです。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… いろいろなこの町の風景の追憶にまざって来京の風景がきれぎれに心をすぎる おまえと歩み去った風景 とりわけいま夕陽のなかに 初夏がすぎて行った日の 塔や 白い建物や 時計台の群がすぎる 雨の夕ぐれの公園の並木道や 夜の大きな河の岸がすぎる そしてそれのそばに この町での一月の光景がある それは火見櫓や川原のある川やこの町のメイン・ストリートの真昼や夕陽 それからまたふたつの活動写真館だ そして孤独な眼ざしだ この朝の早い時間は初夏の信濃のひとときに近くはなかろうか…」
 盛岡のメインストリートは大通りです。盛岡駅前から開運橋を渡って中の橋までが大通りのようです。戦前の映画館は昭和10年(1935)にトーキー完備の「中央映画劇場」が、昭和13年(1938)に「中央映画劇場」の南隣に東宝の直営館として「第一映画劇場」が出来ています。”ふたつの活動写真館”とはこの二つの映画館とおもわれます。

上記は「映画館通り」と名付けられた通りの道標です(クリックすると通りの写真になります)。映画館通りの三菱東京UFJ銀行のところ(第8大通ビル)が「第一映画劇場」で、その北隣のダイワロイネット ホテル盛岡のところが「中央映画劇場」跡です。現在は三菱東京UFJ銀行のところ(第8大通ビル)に映画館があります。

「富士見橋」
<木の橋>
 石の橋(文化橋)の下流(南)にある橋が木の橋(富士見橋)です(正確には盛岡バイパスの東大橋があるので二つ目です)。昭和19年(1944)の盛岡大水害でこの橋は流されてしまいます。昭和56年(1981)に37年ぶりに鉄の橋として再建されています。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。                
「☆木の橋で ── ここではじめて僕はKからこの町を見せられたのだ いまもまた ここに立つ さいかちの 青い木が 真上から日にてらされてくろく光っている そのそばの桃色のペンキの塗ったのは 女学校だ
 上の橋の上を光った馬車がゆく 火の見の塔も白い壁の家も平和な正午だ バスが行く それがとまって人がおりる 川原に子供があそんでいる Kの家の赤い瓦が見える あそこによってまたあの丘の家へかえろう

☆鳶のかげが 川原にうつり 石垣にうつり 家の壁からのがれ去る ゆるやかな歌がのこる 川原では砂利を掘って くるいモンペの女たちがいる
☆また下小路の白い道 きょうは日の丸の旗が出て 人が大ぜい歩いている…」

 ”桃色のペンキの塗ったのは 女学校”は当時の私立盛岡女子商業学校です。この学校は昭和15年に盛岡市に移管され市立となり、昭和24年、盛岡市立第一女子高等学校と合併して男女共学の盛岡市立高等学校となっています。上の橋は木の橋の下流(南)に有る橋で車が通れます。”Kの家(加藤家)”は木の橋(富士見橋)の直ぐ傍の下小路にあります。地図を参照してください。

上記は中津川の下流から見た現在の富士見橋です。女学校跡には専門学校があります。

 続きます。


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊
18日 仙山線経由仙台泊
19日 石巻で江頭彦造を訪ね、夜 盛岡着
25日〜28日 深沢紅子帰郷
10月19日 盛岡から帰京(東京着20日)