●立原道造の世界  【盛岡ノート 盛岡編T】
    初版2013年11月30日  <V01L03> 暫定版

 「立原道造の世界【盛岡ノート 盛岡編】(T)」です。前回は仙台から石巻まででしたので、今回は石巻を出発して盛岡の生々洞に着くまでを掲載します。今回使用した本、三冊も紹介しておきます。もう一冊あったのですが、いくえ不明で、見つけたら掲載したいとおもいます。この本が一番詳細に書いてあったのですが残念です。




「盛岡ノート(再刊)」
<盛岡ノート>
 まず最初に紹介する本は立原道造自身が書いた「盛岡ノート」です。再刊版を入手する事ができました。小さい本ですが、立原道造の気持ちが良く分かります。

 立原道造 「盛岡ノート」の一節です。                
「…  空がやうやく晴れて来る 光が白い雲のあひだで 澄みわたって来る ここの縁側にも陽がさしはじめる風が強い 木がざはめき 雲は早くながれ 日が照ったりかげつたり あわただしくする
 僕はさつきから スコットランドの童話をよんでゐる 三時ごろに 町に出かける約束をした しかし そんな約束は いつしたのだらうか 何かしら いろいろなものが幼年の日に見た風物のやうに とはくに行ってしまって しかもそれが はっきりと見える 僕の身体がちひさくなったやうな気もする それから いろいろな知り合ひになった人たちがみな とほくに小さくなって行って 橙々色の夕やけのなかで 古風な町を措いた絵のなかへ 消えてしまった その絵は 中洲の あの 美しい町を描いてゐるのだらうか そしてあれは とうにどこかへ沿えてしまった 僕の ふるさとではないだらうか
 いま僕は 幼兄がひとりばっちであるやうにひとりばっちだ 僕のよむ スコットランドのメエルへンのなかで 僕は あたらしい僕になって 生れる あの夕やけのしてゐる古風な瓦をおいたふるさとの町へ!
 この世で めぐりあった人たちのところに ふたたびかへれるか どうか とうにわからない ここは ちがった世界だ〔§〕そして 僕の年齢は どうなったのだらうか あのうづたかい僕の昨日は? おまへのところへもふたたび 僕はかへれるのだらうか
 だが 眼にうつる風景 それさへも 奇妙にあたらしく あざやかに とほい夢のなかで 見たもののやうに そのなかに 僕のからだがあるものではないやうに いま僕のまへに立ってゐるはじめて 出てゆくここの町 それが 僕にまた どんな 変容を加へるだらうか…」

 ヨーロッパへのあこがれがあるようです。スコットランドが日本の東北、盛岡と重なっていたのでしょうか、気候的には似通っていたのではないでしょうか!

上記は平成十九年一月盛岡ノート刊行委員会発行の立原道造 「盛岡ノート」です。初版は、昭和五十三年五月かわとく壱番館が発行しています。今回の本は佐藤実氏の「立原道造文学地図」等も付いています。ただ、元の原稿(絵とか)を見たい人は下記の本がいいとおもいます。

「佐藤実著」
<深沢紅子と立原道造>
 佐藤実氏は昭和40年代から立原道造関連の本を出版されており、その中で一番新しいのがこの「深沢紅子と立原道造」です。佐藤実氏自身も盛岡出身で、立原道造の盛岡に関しては一番詳しいとおもいます。

 佐藤実氏の「深沢紅子と立原道造」よりです。                
「…    もしくはイタリア紀行

 立原道造が、深沢紅子手書きの盛岡案内絵地図を手に、心身の改善を図るため最愛のひと水戸部アサイ、「四季」の先輩詩人神保光太郎、そして年少の友人中村真一郎とに見送られて(白石アサイ、旧姓水戸部談)、夢みた日本縦断の旅を、先ず北方盛岡へ向けてその第一歩を踏み出したのは、昭和一三年(一九三八)九月一五日(木)、上野駅午前一〇時丁度発の急行青森行、和食堂車付一〇三号便列車であった。
 この立原による日本縦断の紀行の北方盛岡行は、立原の南方長崎行での記述〔長崎ノート〕(仮称)中の、「僕が北方系で」、「北方のドイツ人たちがアルプスをこえてイタリーに行った…」を念頭に置けば、立原が自ら企てた「立原のイタリア紀行」での、白身をなお北方系であることを確立するための、さらなる北方体験のための出立つであった。この九月の出立つは、ゲーテのイタリア紀行と同月の、九月をもって開始がはかられている。
 詩聖ゲーテのイタリア紀行は言わずもがなのことであるが、自己の新生を期した旅で、「立原のイタリア紀行」は、そのゲーテの故事に倣い、あやかったものではあったが、それとは別個に、もう一つ、リルケイアン的なる試練をひそかに自らに課した旅でもあった。…」

 この本が特に良いとおもわれるのは、立原道造の自筆の「盛岡ノート」がそのまま掲載されていることです。非常に参考になります。

上記は平成十七年(2005)発行の佐藤実氏「深沢紅子と立原道造」です。二人の関係も書かれていますが、盛岡での立原道造の行動について詳しく書かれています。

「風かおる盛岡」
<風かおる盛岡>
 最後が山崎益矢氏の「啄木・道造の風かおる盛岡」です。一つ一つ丁寧に解説されており、非常に参考になります。現地を歩くには必需品です。残念なのは、出版が古いことです。平成十三年発行ですから12年前になります。改版版を期待しています。

 山崎益矢氏の「啄木・道造の風かおる盛岡」よりです。                
「… 立原道造は昭和十三年(一九三八)九月十九日に、盛岡を訪れた都会派の詩人兼建築家である。愛宕山の裾野に位置する生々洞に逗留すること一ヵ月、追分での「村暮し」に続く山荘暮らしを体験した。この期間、詩人は愛宕山の後ろに広がる林檎や葡萄の果樹園で実り豊かな秋の美に感動し、自己改革を期して、南方の大旅行へと発って行った。その旅の途中で病に倒れ、東京に戻った。亡くなる前、江古田の市立療養所で、「リンゴの花の咲く頃までには動けるやうになって、盛岡に行きたい」と切望しながら、約束を果たすことなく、また、「五月の風をゼリーにして持って来て下さい」との言葉を友人に残して、息を引き取った。二十四歳と八ヵ月の若さであった。…」
 初心者向きで、分かりやすく地図付です。私はカメラをぶら下げてレンタサイクルで廻りましたが、地図付はありがたいです。

上記は平成十三年発行の山崎益矢氏の「啄木・道造の風かおる盛岡」です。本当はもう一冊紹介したい本があったのですが、家の中を探したのですが見当たらず行方不明です。此方の方が地図が見やすくて良かったのですが、発見しだい掲載したいとおもいます。


立原道造の盛岡ノート全体地図



「小牛田駅」
<小牛田駅(こごだ)>
 立原道造は昭和13年(1938)9月19日、石巻から小牛田経由で盛岡に向います。石巻発16時55分(17時)に乗車していますので、小牛田着17時51分(同じ)となります。時刻表は昭和13年がなく、昭和10年と、括弧が昭和15年をみています。東北本線は同じ時刻でした。小牛田からは東北本線に乗車していますので、時刻表で調べると、小牛田発18時11分(同じ)発となります。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。 
「… 夕ぐれ 石ノ巻の町のちひさい料理店で 食事をする 日がすっかりくれてしまはないころ また 汽車にのる 驛で僕を見逢った江頭のなんと見なれない顔だったこと!

 小牛田といふ駅で 東北線を待つ 二十分もおくれる これがいよいよいちばんしまひの汽車だ…」。

 20分遅れてヤキモキしています。この遅れが東北本線ならば20分遅れで、東北本線は31分発となり、余裕となります。推定ですが、石巻線が20分遅れれば、18時11分着で、これは慌てます。乗換えはホームを跨ぎますが、当時なら待ち合わせをしてくれたはずです。立原道造の性格だとおもいます。

 「立原道造全集第五巻 書簡集」を参照します。
「…五三二
九月十九日〔月〕 杉浦明平宛(東京市本郷區菊坂町九四野澤方)小牛田−石巻間發〈繪端書・江頭彦造と連記〉
 ながれながれるやうに北の町々をめぐつて ここ太平洋を見はるかす丘の上に來て憩ふ。波が白くさわぎ、風が夕陽をのせて鳴る。今夜はいよいよ旅のをはりの盛岡に着く、そのまへのみじかい夕ぐれの一ときを一年ぶりに江頭と語りあふ。 ── 道造」

 端書を車掌に渡したのだとおもいます。松本清張の「点と線」で車掌に電報を頼むシーンがありました。

写真は現在の小牛田駅です。石巻線の4番線からホームを跨いで東北本線盛岡方面の2番線に行くわけです。小さな駅なので数分で乗換えられるとおもいます。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「二代目盛岡駅」
<盛岡駅>
 東北本線小牛田発18時11分、盛岡着は21時28分です。”深沢紅子手書きの盛岡案内絵地図”を持っていたので宿泊先までタクシーでたどり着けたとおもいます。当初は18日着でしたから、待っていた方々は心配だったとおもいます。

立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… ねむってゐる問に たうとう盛岡!
 汽車から降りると、灯のともしい町。小さい車にのつて、町をよこざる。もうハネた活動小屋。県庁や市役所のあたり。……
生々堂は、田圃や くらい道をとほつて 町はづれだった。
 ここで僕のくらしはやうやく 旗ををへて すこししづかになるだらう。疲れはぢきに恢復するだらう。…」

 ”生々堂”は”生々洞”の間違いですね。

 「立原道造全集 第五巻 書簡集」を参照します。
「五三三
九月二十一日〔水〕 立原光子・達夫宛(東京市日本橋區橘町五の一)盛岡局發〈封書・二枚〉
 仙臺、山形をまはり、豫定よりは一日おくれ十九日の夜おそく無事にこちらに着きました。きのふ一日は雨で、しづかに休みました。五日間のあちらこちらの旅はやはりつもりつもって疲れたのでせう。
 ここはたいへんにしづかなところです、裏の山にのぼれば、盛岡市が半分見わたせるさうですが、まだお天気にならないのでのぼりません。けふのひるからはお天気になるさうです。…」

 実家に出した葉書です。昭和13年9月15日に東京を発っていますから、19日で5日間です。

写真は立原道造が下車した二代目盛岡駅です(撮影は戦後)。新幹線が開業してから四代目の綺麗な駅になっています。盛岡は米軍の空襲をほとんどうけていませんので、昔の街並みが残っています(B29一機とグラマンのみ)。駅舎は二代目(上記写真)が大正6年に建てられ、三代目は昭和36年に建てられています。(写真は盛岡駅前商店街振興組合殿からお借りしたものです)


立原道造の盛岡全体地図



「生々洞記念碑」
<生々堂>
 立原道造の盛岡での宿泊先が深沢紅子さんの実家の別荘(山荘)「生々洞」でした。盛岡着が19日夜遅く、実際は20日午前1時17分着で、タクシーで10分程度で着いたとおもいます。先方は18日予定が着かず、19日の真夜中着ですから大変だったとおもいます。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… ねむってゐる問に たうとう盛岡!
 汽車から降りると、灯のともしい町。小さい車にのつて、町をよこざる。もうハネた活動小屋。県庁や市役所のあたり。……
生々堂は、田圃や くらい道をとほつて 町はづれだった。
 ここで僕のくらしはやうやく 旗ををへて すこししづかになるだらう。疲れはぢきに恢復するだらう。

    *

 とほくで汽車の音がする。ひとつところを行ったり来たりしてゐるらしい。そのほかは物音もない。眞夜中だ。僕は やうやくおまへとのとほさをかんがへはじめる。僕の心にこの想念が襲ふ。おまへは 今まで想ひ得なかったほどとほくにゐるのだと。だが、何のために? おまへが しかし けふはまた、長い旗のあひだすこしとほのいてゐたのに、身近かに感じられもする。僕はあれらの日々とかはらずに おまへのそばにゐるやうだ。…」

 深沢紅子さんと立原道造の出合いを書くと長くなるので、ここでは軽井沢 追分の油屋での出合いと簡単に書いておきます。昭和10年8月のことでした。

佐藤実氏の「深沢紅子と立原道造」よりです。
「… 女流洋画家深沢紅子(一九〇三−一九九三)と立原道造(一九一四−一九三九)の初めての出会いは、深沢(旧姓四戸、本名コウ)が東京女子美術学校(現・女子美大)を卒業(一九二三、同期に甲斐仁代、三岸節子、森田元子等がいる)、同郷の画家深沢省三と結婚して、二科展に女性でただ一人入選、画壇に新風を吹き込み、話題を提供して、繰り返し入選をつづけていた時期にあたり、一方の立原は詩人としての活動をつづけながら、東京帝国大学工学部建築学科二年に在籍の学生であった昭和一〇年(一九三五)夏のことで、信州においてであった。深沢はこのとき、立原にも影響を及ぼしたとされる詩誌「四季」の先輩で、新進詩人津村信夫からの依頼で彼の出世作となる第一詩集『愛する神の歌』の装幀、挿画のためのスケッチ旅行に出掛け、依頼者津村本人の、小諸あたりの野の花を、の需めに応じて、先ずは、その手始めとして信濃追分に足を運んでいたときのことであった。立原は大学の夏季休暇を追分に過ごしていたときのことである。…」

写真の現在の「生々洞」跡の記念碑です。この記念碑が余りに小さいので、探してしまいました。立原道造が宿泊した「生々洞」は深沢紅子さんの父親 四戸慈文の建てた山荘で、戦後も残っていたようですが、現在は残念ながら建て直されていました。深沢紅子さんの父親 四戸慈文の盛岡の家は現在の盛岡市内丸16-13付近にあったとおもわれます。セブンイレブン内丸店のところではないかとおもっています。

「果樹園」
<裏の山あたりは果樹園>
 立原道造が宿泊した「生々洞」は盛岡市内でも中心部からは離れており、愛宕山の山麓と行った感じです。ここなら静に過ごせたはずです。

 「立原道造全集 第五巻 書簡集」を参照します。
「五三五
九月二十六日〔月〕 水戸部アサイ宛 〔盛岡發〕〈山〉
 おたよりありがたう。十八日夕ぐれに着くのが一日おくれて十九日の夜終列車で着いた。途中のことやなにかはかへってからおはなしをする。
 秋ふかい北國の小都會での毎日のくらしは、夢のなかでのやうにぼんやりとしてゐてとりとめもない。あなたに毎日のやうに手紙を書くやうに、あの手帳にいろいろなことを書いてゐて手紙を書かずに安心してしまってゐたが、その手帳は僕のかへるまでにあなたのところへとどけるわけにはゆかないから、これからはときどき手紙を書かう。
 栗ひろひや芋の子掘りなど、ここの町にもなつかしい行事がある。裏の山あたりは果樹園があるので、林檎や葡萄がたくさんに實ってゐる。それらの果實が枝にっいてゐるのを見るのがはじめての僕にはたのしい。さいかちと樫の並木のある川ぞひの散歩道や、三つの川かひとっにあっまる杉土手といふところなどにもよくゆく。…」

 現在でも「生々洞跡」付近は昔と変っていないようにおもえます。人家は少し増えたとおもいますが山の上の方は木々に囲まれて静かなものです。直ぐ横に大きな盛岡グランドホテルが出来ているのが気になります。

上記は「生々洞跡」の横の道を愛宕山に向って登って、お墓のところを右に曲がり、立原道造の詩碑の少し先を左に折れて山を下る途中にある果樹園です。当時と変っていないとおもいますので、立原道造が見た果樹園だとおもいます。ただ、葡萄の木は見当たりませんでした。

「記念碑」
<記念碑>
 盛岡市に立原道造の詩碑が建てられたのは昭和50年(1975)10月19日です。

 立原道造の詩碑                
「アダジオ

光あれと ねがふとき
光はここにあつた!
鳥はすべてふたたび私の空にかへり
花はふたたび野にみちる
私はなほこの気層にとどまることを好む
空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ」

 車でここまでは上がってこられるようです。車が数台停まっていました。ただ、少し辺鄙なところなので、訪れる人はほとんどいないようです。

上記は愛宕山の立原道造の詩碑です。私はレンタサイクルで盛岡を廻ったので、ここまでレンタサイクルを押して上がってきました。疲れました.先ほどの「生々洞」跡からくねくねとした山路を上り(車道です)、お墓の所のT字路を右に曲がって少し登った先の右に入ったところにあります。少し分り難いです。

 続きます。


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊
18日 仙山線経由仙台泊
19日 石巻で江頭彦造を訪ね、夜 盛岡着
25日〜28日 深沢紅子帰郷
10月19日 盛岡から帰京(東京着20日)