<斎藤茂吉記念館>
立原道造は昭和13年月9月15日から17日まで山形
楯岡の竹村俊郎邸に宿泊しています。17日朝、竹村俊郎氏は立原道造を誘って山形市内を経由して斎藤茂吉生誕の地、上ノ山に向かいます。「立原道造の盛岡ノート」には斎藤茂吉と上ノ山温泉についてはほとんと書かれておらず、竹村俊郎氏が少しだけ書いているだけでした。今回も竹村俊郎氏が「四季
立原道造追悼号」の中で書いた「山形の立原道造君」を参考にして歩いてみました。
竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「… 斎藤茂吉氏の生れた上ノ山を見たいと言ふのが立原君の望であり、僕も山形で案内するところは上ノ山くらゐと思ったのでその翌日は上ノ山へ連れ立った。途中北山形で汽車を捨て千歳公園まで歩き、そこの磧に佇つてゐるとばらばら時雨れて来た。…」。
斎藤茂吉(さいとう
もきち)は、明治15年(1882)5月14日(戸籍では7月27日)山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)に生まれています。伊藤左千夫門下て大正から昭和前期にかけてのアララギ派の歌人として有名です。精神科医でもあり、青山の脳病院も有名です(永井荷風もこの青山脳病院について書いています)。
★写真は斎藤茂吉記念館です。上ノ山温泉の手前山形市寄りにあります。JR奥羽本線に茂吉記念館前駅があります。昭和27年北上ノ山駅として開業して平成4年に茂吉記念館前駅として改名しています。山形駅からは蔵王駅、茂吉記念館前駅、かみのやま温泉駅となります(この区間は山形新幹線と奥羽本線の並行区間であり、線路の幅は新幹線、車体の幅は在来線という面白い区間です)。この記念館は大きくて立派な記念館なのでびっくりしました。山形を訪ねる機会があれば是非とも訪ねたい記念館だとおもいます。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)