●立原道造の世界  【盛岡ノート 山形編V】
    初版2010年10月16日  <V01L02> 暫定版

 「立原道造の世界【盛岡ノート 山形編V】」です。山形編で残っていた”斎藤茂吉と上ノ山温泉”を歩いてきました。「立原道造の盛岡ノート」には斎藤茂吉と上ノ山温泉についてはほとんど書かれておらず、竹村俊郎氏が少しだけ書いているだけでした。




「斎藤茂吉記念館」
<斎藤茂吉記念館>
 立原道造は昭和13年月9月15日から17日まで山形 楯岡の竹村俊郎邸に宿泊しています。17日朝、竹村俊郎氏は立原道造を誘って山形市内を経由して斎藤茂吉生誕の地、上ノ山に向かいます。「立原道造の盛岡ノート」には斎藤茂吉と上ノ山温泉についてはほとんと書かれておらず、竹村俊郎氏が少しだけ書いているだけでした。今回も竹村俊郎氏が「四季 立原道造追悼号」の中で書いた「山形の立原道造君」を参考にして歩いてみました。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。 
「… 斎藤茂吉氏の生れた上ノ山を見たいと言ふのが立原君の望であり、僕も山形で案内するところは上ノ山くらゐと思ったのでその翌日は上ノ山へ連れ立った。途中北山形で汽車を捨て千歳公園まで歩き、そこの磧に佇つてゐるとばらばら時雨れて来た。…」。
 斎藤茂吉(さいとう もきち)は、明治15年(1882)5月14日(戸籍では7月27日)山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)に生まれています。伊藤左千夫門下て大正から昭和前期にかけてのアララギ派の歌人として有名です。精神科医でもあり、青山の脳病院も有名です(永井荷風もこの青山脳病院について書いています)。

写真は斎藤茂吉記念館です。上ノ山温泉の手前山形市寄りにあります。JR奥羽本線に茂吉記念館前駅があります。昭和27年北上ノ山駅として開業して平成4年に茂吉記念館前駅として改名しています。山形駅からは蔵王駅、茂吉記念館前駅、かみのやま温泉駅となります(この区間は山形新幹線と奥羽本線の並行区間であり、線路の幅は新幹線、車体の幅は在来線という面白い区間です)。この記念館は大きくて立派な記念館なのでびっくりしました。山形を訪ねる機会があれば是非とも訪ねたい記念館だとおもいます。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「斎藤茂吉生誕の地」
<斎藤茂吉生誕の地>
 斎藤茂吉記念館を訪ねる前に生誕の地と小学校を訪ねました。立原道造と竹村俊郎氏がこの地を訪ねたかどうかは何処にも書かれておりません。多分、竹村俊郎氏が連れて行ったのではないかと考え、今回訪ねることにしました。斎藤茂吉生誕の地と小学校、お墓は隣通しで、綺麗に整備されていました。ただ、訪ねる人が殆どいなかったのは寂しい限りです。ここでは藤岡武雄氏の「評伝 斎藤茂吉」を参照します。
「…茂吉は、明治十五年五月十四日、山形県南村山郡金瓶村七十三番地(現在上山市金瓶)守谷熊次郎、いくの三
男として生まれた。……
… さて茂吉の生地金瓶は、蔵王山の西麓に位置し、明治四年まで金谷村。明治五、六年下金谷村。明治七年から金瓶村と称し、明治二十二年に掘田村大字金瓶となった。その後昭和二十五年に掘田村を蔵王村と改め、昭和三十二年上山市に合併した。金瓶の地名については、昔宝泉寺裏に釜を築き、土器を焼いたらしく瓶や皿の発掘されることから、金谷の金と瓶とを合せ金瓶と称したとつたえられている。…」

 名字が違うのは、東京で寄宿して学費の負担をして貰っていた青山脳病院の医院長 齊藤紀一の次女輝子と結婚し、齊藤家を継いだため、齊藤姓となっています。

写真の正面の白い倉が斎藤茂吉生誕の家です。茂吉の実家である守谷家は決して貧しい農家ではなく、金瓶村一の財力を持ち、部落の有力者であったようです。

「金瓶学校跡」
<金瓶学校>
 茂吉が小学校に入学したのは明治21年です。明治19年(1886)の小学校令で尋常小学校と高等小学校が設置される。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は3年間もしくは4年間となっています。ですから、小学校令ができてから2年後に入学したわけです。
 藤岡武雄氏の「評伝 斎藤茂吉」からです。
「…茂吉は、明治二十一年七歳のとき、生家の西隣にあった金瓶尋常小学校に入学したが、その頃長兄広告は授業助手をしていた。翌年一月には、文部大臣森有礼が東北の学校校視察でやってきた。茂吉ら小学生は、山形から上山へゆく途中を、早坂新道で並んで出迎えた。「僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その穫古をし、滅多に穿くことのない袴を穿き、中にはこれも滅多には着ぬ徴表を着たりなどして学校に行った」と記しているが金瓶尋常小学校における思い出は茂吉自身あまり語っていない。
 明治二十二年七月、金瓶・成沢・飯田・下桜田・山田・半郷・上野・山上・高湯の九か村が合併し、旧領主の名にちなんで掘田村と改称された。したがって翌年四月には、小学校も合併され、掘田村半郷尋常小学校第三学年に移ることとなった。…」

 金瓶学校の場所は分かりましたが、次に通った掘田村半郷尋常小学校、山上尋常高等小学校の場所は調査不足で分かりませんでした(今回の目的は立原道造だったので!)。次の機会に少し調べたいとおもっています。

写真の正面が金瓶学校跡です。記念碑が建てられていますので直ぐに分かりました。この学校は明治37年に上野尋常小学校(現 蔵王第二小学校)の開設により廃止されています。

「斎藤茂吉のお墓」
<斎藤茂吉のお墓>
 茂吉は明治29年8月25日、14歳の時に東京浅草の齊藤紀一宅に寄宿するため上京します。茂吉がこの地に再び戻ったのは昭和20年4月、東京からの疎開のためでした。戦後の昭和22年、茂吉は再び東京世田谷に戻ります。そして昭和28年2月25日心臓喘息のため死去しています。
 藤岡武雄氏の「評伝 斎藤茂吉」からです。
「… 明治二十九年八月二十五日、いよいよ斎藤紀一の許へ上京する日がきた。四十六歳でもう腰のまがった父に従って十五歳の茂吉は早朝に家を出発した。この時のことを後年まで茂吉の父熊次郎は「茂吉が十五の時東京の学校に出かけたが、その時赤ケットを被り俺より先に立ってすたすた出たもんだ。途中で家の方を振返るかと思っていたが、たうとう一度も振返らずに行ったもんだ」と述懐していたという。……
… こうして、作並温泉を経て仙台につき二泊。仙台から汽車にのって八月二十八日夜、東京上野駅につき、人力車で浅草医院、斎藤紀一家に到着したのである。…」

 元々養子を前提として齊藤家に入ったわけですが、一高(二度目のチャレンジで合格)、東大ですから、抜群に頭が良いわけで、三男ということもあり、そのため面倒を見て貰うことが出来たのだとおもいます。金瓶学校の隣の宝泉寺に斎藤茂吉のお墓があります。宝泉寺紹介の看板からです。
「宝泉寺と茂吉
 茂吉はこの菩提所宝泉寺の住職佐原㝫応を尊敬し、その幼少期は大きい感化を受けました。
 宝泉寺本道に向かって左側に悲母を思う茂吉の歌碑が建ち、さらに左奥には佐原㝫応の墓に並んで、茂吉が昭和12年55歳の時に書いた墓碑銘の「茂吉之墓」裏面に「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」の法名が刻まれ、後には生前自ら植えたアララギの木の枝が繁る下に、昭和28年2月25日没後、ここに分骨されております。…」


上記は宝泉寺にある斎藤茂吉のお墓(左側)です。右側は宝泉寺の住職佐原住職佐原㝫応のお墓です。茂吉の本来のお墓は東京青山霊園にあります(齊藤家のお墓の中にあります)。宝泉寺のお墓は上記に書かれているとおり、分骨されたもののようです。

「かみのやま温泉駅」
<上ノ山駅>
 上ノ山温泉の駅、上ノ山駅も紹介しておきます。平成4年の山形新幹線開業で”かみのやま温泉駅”に改名しています。
 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「…  山形の町も 隣り村の温泉も過ぎた
 古風な洋風建築の町 放迭局の鉄塔が 霧雨のなかに浮んでゐた 僕は はがきに書いた それが旅情ほどのほのかさだと。
 それから 古ぼけた町のなかを歩きまはつた、
 次の日 上ノ山の温泉 ── ここはつまらなかった、
…」

 立原道造と竹村俊郎氏が上ノ山でどこを訪ねたかは不明です。上ノ山温泉はあまり面白くなかったようです。昭和13年月9月18日この駅から山形駅を経由して仙山線で仙台に向かっています。

上記は奥羽本線(山形新幹線)かみのやま温泉駅(旧上ノ山駅)です。山形新幹線が開通して綺麗な駅になっています。

「上ノ山温泉旅館 松本屋」
<上ノ山温泉>
 立原道造と竹村俊郎氏は昭和13年月9月17日に上ノ山温泉に宿泊しています。立原道造は女性に関しては真面目であり、温泉場でも遊びは出来なかったようです。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「…折から時雨の上り、麗かな上ノ山への産業道路に車を走らしたが、車中の立原君はまたたいへん元気がよかった。
 出羽の山里の上ノ山が都育ちの立原道造を感心さすやうなことは勿詠なかつたであらうがさう悪い感じは興へなかったらしい。その晩、妓たちを相手に僕が酒を飲み、立原君は葡萄酒を吸つてゐたが、妓たちの雑談にまざれて葡萄酒の小瓶を年分ほど空けたと、食事後立原君は自分で駿いてゐた。おとなしい彼は九時頃になるともう寝室に引上げたが、翌朝、僕が見舞ふと、きちんと枕をして端正に横になってゐた。…」

 立原道造も少し遊郭等の遊びが出来れば人生観も変わっていたのではないかとおもいます。ただ、彼の詩も変わってしまったかもしれません!!

上記の写真は上ノ山温泉で残っていた木造の温泉宿です(松本屋さん)。このような宿に立原道造と竹村俊郎氏は宿泊したのだとおもいます(宿泊した宿は不明です)。上ノ山温泉には公衆浴場がいくつかありましたので、その中の一つ「下大湯公衆浴場」に入ってきました。少し熱い湯でしたが、なかなか良かったです。

 「盛岡ノート 山形編」は今回で終わります。「盛岡ノート」自体はまだ続きます。


立原道造の山形地図 3


立原道造の山形地図 4


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊
18日 仙山線経由仙台泊