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●立原道造の世界  【盛岡ノート 山形編U】
    初版2010年8月28日  <V01L02> 暫定版

 引き続き「立原道造の世界【盛岡ノート 山形編U】」です。前回は昭和13年9月15日に東京を出発してから山形 楯岡の竹村俊郎邸に宿泊までの掲載でしたが、今回は竹村俊郎氏が案内した山形市内を巡ります。山形市内は空襲を受けておりませんので、昔の町並みが比較的残っています。今回も立原道造を知らないと全く面白くありません。




「薬師公園 薬師堂」
<千歳公園>
 立原道造は昭和13年月9月15日から17日まで山形 楯岡の竹村俊郎邸に宿泊しています。17日朝、竹村俊郎氏は立原道造を誘って山形市内を経由して斎藤茂吉生誕の地、上ノ山に向かいます。山形市内を案内してから山ノ上に向かうためです。今回も竹村俊郎氏が「四季 立原道造追悼号」の中で書いた「山形の立原道造君」を参考にして歩いてみました。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。 
「…斎藤茂吉氏の生れた上ノ山を見たいと言ふのが立原君の望であり、僕も山形で案内するところは上ノ山くらゐと思つたのでその翌日は上ノ山へ連れ立つた。途中北山形で汽車を捨て千歳公園まで歩き、そこの磧に佇つてゐるとばらばら時雨れて来た。…」。
 斎藤茂吉(さいとう もきち)は、明治15年(1882)5月14日(戸籍では7月27日)山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)に生まれています。伊藤左千夫門下て大正から昭和前期にかけてのアララギ派の歌人として有名です。精神科医でもあります。斎藤茂吉については次回に掲載予定です。

 北山形駅は山形駅から一駅 楯岡寄りで、奥羽本線と左沢線(あてらざわせん)の分岐駅です。駅から薬師堂までは2Km弱ですから、徒歩で30分はかかりません。薬師堂は出羽国分寺跡に建てられたお堂で、現在のお堂は明治44年の市内大火により類焼した後に再建されたものです。

写真は現在の薬師公園にある薬師堂です。元々千歳公園は千歳園と呼ばれ、明治時代に創られた公園で、現在の山形県立東高校付近にありましたが、学校設立のため、現在地の薬師堂のある地に移され、名前も戦後に薬師公園となったようです(戦前の地図では千歳公園)。そのため旧名の千歳公園と呼ばれることもあったようです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「馬見ヶ崎」
<馬見ケ崎>
 千歳公園(薬師公園)の東側に馬見ヶ崎川があり、川に架かっている橋が馬見ヶ崎橋です。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「…馬見ケ崎の橋畔にバスの停留場が見えたのでそこへ雨を避けながらバスを待つ間に立原君は磧と對岸の松を葉書にスケッチしはじめた。さらさらとうまいものであった。僕が感心してゐると、立原君は、── 僕の師匠は満谷國四郎(みつたに くにしろう)です。と言ふのであつた。僕はなるほどとますます感心した。…」
 何故竹村俊郎氏が立原道造を千歳公園(薬師公園)に連れて行ったかはよく分かりません。公園を見て貰いたかったかともおもいますが、現在の公園を見ると全然よくありません。当時としては最先端の公園だったのかもしれません。満谷國四郎は洋画家で深沢紅子繋がりかなともおもっています(満谷國四郎は昭和11年には亡くなられています)。

写真は現在の馬見ヶ崎橋から撮影した馬見ヶ崎川と対岸です。この風景を立原道造はスケッチしたのだとおもいます。スケッチが残っていないのが残念です。道の反対側に大きなバスの停留所(車庫?)がありました。多分このバス停留所のところで竹村俊郎氏と立原道造はバスを待っていたのだとおもいます。

「梅月跡」
<梅月>
 竹村俊郎氏と立原道造が昼食を食べた「梅月」は、山形一の繁華街である七日町十字街にある有名な喫茶店でした(和菓子屋)。昭和11年に三階建てのビルを建てており、当時としてはハイカラなお店だったのだとおもいます。残念ながら現在は営業されていませんでした。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「… バスがあまり来ないので近くの自動車小屋からタクシイで山形市の中央に出て梅月と言ふ喫茶店の二階でランチを喰べたが、そこから見える山と屋根の風景が立原君の気に入つたらしかつた。山形放送局のアンテナの柱が屋根の上に霞んでゐたが、それが立原君の旅愁だと同君は言ふてゐた。…」
 山形放送局とはNHK山形放送局のことだとおもいます。現在のNHKは「梅月」から山形駅方向の南西に直線で500m位ですが、当時のNHK山形放送局は馬見ヶ崎川側の師範学校(現在の山形北高校)近くにありました(現在の緑町四丁目、下記の地図参照)。開設は昭和11年11月ですから、立原道造が訪ねた頃は開設から2年程です。「梅月」から見ると、東側ですから、二階建て程度の建物であれば屋根の上にNHK山形放送局の高いアンテナを見ることができたとおもいます。

写真の正面やや右の白いビルが「梅月」跡です(建物自体は当時のままです)。山形七日町の繁華街の角地にあります。一番いい場所にあるのですが、町自体がすこし寂れており、さびしいかぎりです。戦前の七日町の絵はがきを掲載しておきます(絵はがきの交差点の右側白いビルが「梅月」です)。

「蜂屋の時計台」
<蜂屋の時計台>
 竹村俊郎氏は立原道造を連れて山形七日町を歩きます。七日町が山形で一番の繁華街であり、その周りの洋館建築を見せたかったのだとおもいます。竹村俊郎氏は東京在住が長く、又ヨーロッパ遊学の経験もありますから、山形の洋館建築の幼稚さはよくわかっていたとおもいます。その上で立原道造が建築家であり、山形の町並みを理解して見てもらおうとしたのだとおもいます。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「…その他山形市で立原君の気に入つたものは蜂屋の時計台 市立病院済生館、いづれも明治好みの稚拙さがいいと言うてゐた。…」

上記は「七日町大通り」の絵はがきです(バスから推定して戦後 昭和30年代前半の絵はがきと推定します)。左手が「おおぬまデパート」、右手が「蜂屋の時計台」です。昭和45年(1970)この時計台は立て直されビルになりますが、平成13年(2001)には時計屋を廃業されています(ビルは残っています)。推定ですが、立原道造が見た「蜂屋の時計台」はこの絵はがきの時計台とおもわれます。現在のこの場所の写真も掲載しておきます。

「市立病院済生館」
<市立病院済生館>
 もう一つ、山形で立原道造が気に入った明治の建物を紹介しておきます。病院なのですが、余りに古風な洋館でした。
 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… 山形の町も 隣り村の温泉も過ぎた
 古風な洋風建築の町 放迭局の鉄塔が 霧雨のなかに浮んでゐた 僕は はがきに書いた それが旅情ほどのほのかさだと。
 それから 古ぼけた町のなかを歩きまはつた、
…」

 上記に”古風な洋風建築の町”と書かれていますが、東京からすれば昭和13年で考えられないような古風な洋館がまだ残っていました。明治初期の”洋館”という呼び名がピッタリという感じの建物です。

上記の絵はがきは戦前の”市立病院済生館”です。この建物は現存していました。解体移築され、山形城内の山形市郷土館として残っていました。当時の場所には市立病院が建て直され、近代的な病院になっていました。現在の山形市郷土館の写真と、現在の市立病院済生館の写真を掲載しておきます。

「旧制山形高等学校正門」
<山形高等学校>
 最後に、旧制山形高等学校です。戦後、国立山形大学になります。特に掲載した意味はないのですが、こんなところまでよく二人で歩いたものだとおもいます。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「…神保光太郎君や阪本越郎君の出た山形高等学校を覗いての帰り、古い昔からの通りを歩いたが、そこもたいへんその落着きが気に入つたらしく、蝋燭町へかかり、僕が僕等二人を行商に見立て、── 行商や蝋燭町の秋のくれと 駄句ると、石垣ぞひに鮎を焼く家、なぞワキをつけるほどの上機嫌であった。折から時雨の上り、麗かな上ノ山への産業道路に車を走らしたが、車中の立原君はまたたいへん元気がよかつた。…」
 旧制山形高等学校から山形駅に向かう途中に蝋燭町があります。明治と言うより江戸時代がそのまま残っていた蝋燭町ではなかったのかとおもいました。
 神保光太郎は立原道造の詩や短歌の先輩で親しくしていたようです。また阪本越郎は永井荷風の叔父であり、高見順の異母兄と書くとよくわかります。

上記の絵はがきは旧制山形高等学校正門です。同じ場所の山形大学正門の写真も掲載しておきます。旧制山形高等学校は大正9年(1920)に設立された旧制の高等学校です。旧制高等学校はナンバースクールとネームスクールに分けられ、ナンバースクールは明治期に設立されていますので、ネームスクールはかなり遅れての設立となります。因みに旧制高等学校は、一高、二高、三高、四高、五高、六高、七高、八高、新潟、松本、山口、松山、水戸、山形、佐賀、弘前、松江、大阪、浦和、福岡、静岡、高知、姫路、広島までです。

 まだ続きを掲載する予定です。


立原道造の山形地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊



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