<仙台駅>
立原道造は昭和13年(1938)9月15日から18日まで山形に滞在しています。18日朝、上ノ山温泉を発ち、仙台に向かいます。仙台での立原道造の足跡は良く分っていません。「盛岡ノート」の仙台のところには固有名詞はほとんど書かれておらず、立原道造全集の年譜にもごく僅か書かれているだけです。立原道造の書簡が頼りなのですが、此方もほとんど書かれていませんでした。
立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… 僕はある横町で 道に迷ってゐた すると眼のまへにひとりの中学生があらはれた その中学生に道をたづねた お城まで案内しようと彼は言った 僕はもうさがす家をあきらめてゐたので 彼と一しよに町を歩きまはつた ラグビイの試合を見た 大学の構内を歩いたり たうとうお城のある公園まで行った 僕も友だちに合ったし 彼も友だちに合ったけれど ふたり宜もその友だちにはちょっと挨拶したばかりで 夕ぐれまで一しよに歩いた そのうちに さがす家もわかったので ふたりして その家のまへまで行った 別れようとするときに 僕たちは名を告げあほうかとおもつた しかし 彼の方がそれを拒んだ それで僕たちは名も知りあはずに 別れることにした 顔の赤い中学生だった
向うは僕を何とおもつただらうか トランクひとつ よれよれのレインコオトひとつの風がはりな旅行者この出来事が 僕をすっかり よろこばせてゐる
§
いま 仙台の中学校の校庭にゐる。樹かげの草に坐って、友だちが授業を経へるのを待ってゐる。ここから見える窓が、その友だちの教室らしいが、はっきりとわからない。剣道の聾や柔道の聾や教練や さういふものが よく見える。古ぼけた木造の校舎。僕は、いま ぼんやりとねむい。この町での出来事が頭のなかにかすかにまたおもひかへされる。しかし頭はぼんやりとしてゐる。旗にそろそろ疲れはじめたのだらうか。この町にも もう二時間ぐらゐしか僕はゐないだらう。それよりも、中学校の校庭に僕はゐるのだ。僕はもつとちがった自分の少年時代をおもひだしてゐたっていいのだ。もうそろそろ一時間がをはるのだらう。僕は、教員室へ行ってみよう、そしてかれのかへって来るのを待ってゐよう。…」。
「盛岡ノート」の上半分からは
・見知らぬ中学生に仙台を案内してもらったこと
・探す家に連れて行ってもらったこと
「盛岡ノート」の下半分からは
・仙台の中学校の校庭にいる→石巻中学校のことか
・二時間くらいしかいない→盛岡に行くためか
位しか分りません。
「立原道造全集第六巻」年譜より
「…翌十八日朝、山形駅で竹村と別れ、仙山線で仙台に向かう。仙台では未知の仙台二中(現、仙台二高)の生徒に市内を案内されて、東北大学・青葉城址などを見物し、その夜は仙台の友人(未詳)宅に宿った。」
「盛岡ノート」を要約すると、年譜になるようです。宿泊場所は全く分りませんでした。宿泊先が一高か帝大、会社関係の友達だとすると、他の友達たちにその事を書簡に書くはずなので、親類ではないかとおもっています。
★写真は戦前の仙台駅です。奧羽本線の上ノ山駅を9時47分発で山形駅10時2分着、仙山線に乗換えて、10時18分発に乗り、仙台着12時40分着ではなかったかと推定いています。戦前の仙台駅は昭和20年7月10日の空襲で焼失しています。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)