●立原道造の世界  【盛岡ノート 仙台、石巻編】
    初版2013年11月23日
    二版2019年4月26日  <V01L01> 森永キャンデーストア跡の写真を入替 暫定版

 「立原道造の世界【盛岡ノート 仙台、石巻編】」です。今回のシリーズでやっと盛岡までたどり着けそうです。前回は山形でしたが今週は仙台市内から石巻です。仙台で一泊後、旧制石巻中学校で教師をしている友人の江頭彦造に合いに石巻に向います。(立原道造を知らないと全く面白くありません)




「戦前の仙台駅」
<仙台駅>
 立原道造は昭和13年(1938)9月15日から18日まで山形に滞在しています。18日朝、上ノ山温泉を発ち、仙台に向かいます。仙台での立原道造の足跡は良く分っていません。「盛岡ノート」の仙台のところには固有名詞はほとんど書かれておらず、立原道造全集の年譜にもごく僅か書かれているだけです。立原道造の書簡が頼りなのですが、此方もほとんど書かれていませんでした。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。 
「… 僕はある横町で 道に迷ってゐた すると眼のまへにひとりの中学生があらはれた その中学生に道をたづねた お城まで案内しようと彼は言った 僕はもうさがす家をあきらめてゐたので 彼と一しよに町を歩きまはつた ラグビイの試合を見た 大学の構内を歩いたり たうとうお城のある公園まで行った 僕も友だちに合ったし 彼も友だちに合ったけれど ふたり宜もその友だちにはちょっと挨拶したばかりで 夕ぐれまで一しよに歩いた そのうちに さがす家もわかったので ふたりして その家のまへまで行った 別れようとするときに 僕たちは名を告げあほうかとおもつた しかし 彼の方がそれを拒んだ それで僕たちは名も知りあはずに 別れることにした 顔の赤い中学生だった
 向うは僕を何とおもつただらうか トランクひとつ よれよれのレインコオトひとつの風がはりな旅行者この出来事が 僕をすっかり よろこばせてゐる

       §

 いま 仙台の中学校の校庭にゐる。樹かげの草に坐って、友だちが授業を経へるのを待ってゐる。ここから見える窓が、その友だちの教室らしいが、はっきりとわからない。剣道の聾や柔道の聾や教練や さういふものが よく見える。古ぼけた木造の校舎。僕は、いま ぼんやりとねむい。この町での出来事が頭のなかにかすかにまたおもひかへされる。しかし頭はぼんやりとしてゐる。旗にそろそろ疲れはじめたのだらうか。この町にも もう二時間ぐらゐしか僕はゐないだらう。それよりも、中学校の校庭に僕はゐるのだ。僕はもつとちがった自分の少年時代をおもひだしてゐたっていいのだ。もうそろそろ一時間がをはるのだらう。僕は、教員室へ行ってみよう、そしてかれのかへって来るのを待ってゐよう。…」。

 「盛岡ノート」の上半分からは
・見知らぬ中学生に仙台を案内してもらったこと
・探す家に連れて行ってもらったこと
「盛岡ノート」の下半分からは
・仙台の中学校の校庭にいる→石巻中学校のことか
・二時間くらいしかいない→盛岡に行くためか
位しか分りません。

 「立原道造全集第六巻」年譜より
「…翌十八日朝、山形駅で竹村と別れ、仙山線で仙台に向かう。仙台では未知の仙台二中(現、仙台二高)の生徒に市内を案内されて、東北大学・青葉城址などを見物し、その夜は仙台の友人(未詳)宅に宿った。」
 「盛岡ノート」を要約すると、年譜になるようです。宿泊場所は全く分りませんでした。宿泊先が一高か帝大、会社関係の友達だとすると、他の友達たちにその事を書簡に書くはずなので、親類ではないかとおもっています。

写真は戦前の仙台駅です。奧羽本線の上ノ山駅を9時47分発で山形駅10時2分着、仙山線に乗換えて、10時18分発に乗り、仙台着12時40分着ではなかったかと推定いています。戦前の仙台駅は昭和20年7月10日の空襲で焼失しています。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「新生銀行付近」
<森永の二階>
 2019年4月26日 写真を入替
 立原道造の動きは書簡が一番良く分ります。友人には自身の行動を詳細に書くためです。そこで、立原道造全集 第五巻の書簡集を参考にしてみました。

 「立原道造全集 第五巻 書簡集」を参照します。
「九月十九日〔月〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一)山形局發〈端書〉
 山形・梅月堂といふ、明治製菓のやうなところで。
 窓に、山が見えてゐる。その山にかこまれて、町がある放送局の鐵塔が、雨のなかに、ぼんやりと浮んでゐる。僕の旅情ほどのほのかさで。冬服を着た高等學校の生徒、かたくさんゐる。雨があかつて、うっすらと陽がさして来る。仙臺・東京の森永と全然おなじスタイルの森永の二階で。東一番丁のせまい通りをたくさん大學生や高等學校の生徒が歩いてゐる。僕は、道でばったり出會った二中のひとと一しよにゐる。僕もそのひともお互に何も知らない。しかし非常に親しくこれから市中を歩きまはる約束をしてゐる。濱口君と入江君の住所を盛岡にをしへてください。…」

 この端書には、疑問点が幾つかありあます。先ず日付と発信局です。19日は仙台にいたはずで、山形局發は日があいません。内容は山形市内の様子と、仙台市内の様子を書いています。元の端書を見てみないと分りませんが、山形局は間違いではないかとおもっています。それか、端書を車掌に渡して、その車掌が山形で投函した可能性があります。

写真は現在の仙台 広瀬通りと東一番丁交差点から一筋南に50m程下がったところのある新生銀行のところです。上記の書簡に書かれている仙台の固有名詞は”森永の二階”と”東一番丁のせまい通り”です。立原道造は”森永”が大好きなようです。松江でも登場していました。そこで”森永”の場所を探してみました(宮城県立図書館で調べてみました)。昭和13年8月の電話番号簿で森永を探すと、”森永キャンデーストア 東一番二五”と掲載されていました。戦後の昭和29年の森永キャンデーストアの場所と同じようです。当時の番地から推定して新生銀行当たりではないかと考えています。


立原道造の仙台地図



「石巻駅」
<石巻駅>
 立原道造は仙台で一泊した後の19日、石巻に向います。東京帝大時代の友人 江頭彦造に会うためでした。当時の仙台−石巻間は宮城電気鉄道という私鉄が運営していました。宮城電気鉄道の仙台駅(ウイキペディア参照)は地下化されており、当時は珍しかったので立原道造は必ず見たとおもいます。仙台−石巻間で一時間に一本、一時間四十分でした。ですから、立原道造は午前中は仙台にいたのではないかとおもわれます。

 立原道造の「盛岡ノート」からです。
「… また おなじやうに! いま石巻の中学校のグラウンドにゐる。海が南に、キラく光ってゐる。太平洋のすぐそばの丘に立ってゐるこのやうな中学校!一級の生徒たちが、アルバイト。ディーンストをしてゐる。みな 健康さうだ、こんなところにゐたら健康になる〔§〕よりほかに 仕方がないのだらう。江頭はどんな顔をしてゐるだらうか。もうぢき、ここでもまた一時間の授業はをはりになりさうだ。

     *

 江頭はずゐぶん太って 黒くて 健康さうだ僕は一しよに 南ケ丘といふ彼の下宿まで行く ── それはあの校庭の海よりもまだキラくとする海がある その窓で ふたりしてはなしあったのは?
 僕は かへりにここによって一と月くらす約束をする こんなところで僕が海と対話してくらしたら どんなにいいことだらう それから平泉に 秋のよい日曜日に一しよに行く約束をする。それから 僕はもつとたくさんにはなしをする
 夕ぐれ 石ノ巻の町のちひさい料理店で 食事をする 日がすっかりくれてしまはないころ また 汽車にのる 驛で僕を見逢った江頭のなんと見なれない顔だったこと!…」

 石巻は石森章太郎で有名な町です。石ノ森萬画館が旧北上川の中瀬にあります。東日本大震災からは復旧していました。石森章太郎は宮城県登米市で生まれていますので石巻との関係は特にないようですが、石森章太郎で町おこしをしているのだとおもいます。町の彼方此方に漫画の主人公の像が建てられていました。

写真の正面がJR石巻駅です。東日本大震災により一時水没しています。同年5月19日には仙台−石巻間が復旧しています。立原道造が下車した昭和13年当時の宮城電気鉄道 宮電石巻駅は写真の左側動輪の付近にあったようです。当時の寫眞を探したのですが見つけることができませんでした。

「県立石巻高等学校」
<旧制石巻中学校>
 江頭彦造は昭和12年6月、父親より独立をいわれ、仕方なく東京帝大大学院を中退し、教授より紹介のあった旧制石巻中学校の先生になります。昭和12年東京帝国大学国文学科卒業ですから、学部は違いますが立原道造と同級生です。「偽画」、「未成年」などを一緒に発行していたので親しかったのだとおもいます。

 「立原道造全集 第六巻」の年譜より
「十九日、石巻に行き、そこの中学教師をしていた江頭彦造に会う。南ケ丘の江頭の下宿では、太平洋の見渡せる眺望を喜び、盛岡からの帰りにそこで一か月ほど暮らし、また平泉見物もしたい旨を語ったが、この約束は果たされなかった。夕刻市内の小料理店で江頭と名物の釜飯を食べてから、石巻駅で江頭と別れ、石巻線経由、小牛田で東北線の終列車に乗り換え、深夜盛岡に着く。…」
 仙台でブラブラするよりは石巻で一泊した方が良かったのにとおもいます。

上記は現在の宮城県立石巻高等学校です。山の上にあり、徒歩や自転車通学は大変だなとおもいました。県立石巻高等学校の歴史は、大正12年(1923年)に創立された石巻中学校(旧制)が前身で、校章は戦国時代に、この地を治めていた葛西氏の家紋に因んだ「三つ柏」が使用されています。自由な校風を標榜しており、制服などはありません。また創立以来、一貫して男子校でしたが2006年度から男女共学化されています。(ウイキペディア参照)

「石巻市日和ヶ丘」
<江頭彦造の下宿>
 立原道造が訪ねた江頭彦造の石巻の下宿を探してみました。なかなか書いたものが見つからなかったのですが、江頭彦造著作集 第五巻『曠野』の中に書かれていました。

 「江頭彦造著作集 第五巻『曠野』」よりです。                
「…  わたしが下宿した家は日和山公園の近くの日和ヶ丘の山下の大島という家の二階で、そこからは太平洋が百八十度の展望を見せ、わたしは朝夕その美しい海を眺めた。わたしはそこで孤独な詩作のなかにいた。
 大島の家族はもと地方公務員だった主人がいまは停年退職して少しばかりの土地で野菜をつくっていて、この主人は純朴そのものの来北の老人だった。その妻は痩せ型の五十年配の話しずきで、頭の回転は早い方であったが、根は善人だった。二人の娘がいて、美しい妹の方は町の会社に勤め、温良な肉づきのいい姉は家で手伝っていた。姉娘はわたしのものまで洗濯してくれた。総じて牧歌的な家で、夜食の時のいろいろの東北特有の餅と漬物が珍らしかった。…」

 江頭彦造は約2年ここで過ごし、昭和14年8月結婚、海岸近くの家を借りています。

上記は石巻市日和ヶ丘です。大島さん宅を見つけることはできたのですが、時間が無く、直接お聞きしての確認ができませんでした。(直接の写真は控えさせていただきました)

「日和山公園からの眺望」
<日和山公園>
 立原道造と江頭彦造は下宿から釜飯を食べに行く途中で日和山公園に立寄ったとおもいます。景色が絶景です。

 四季 立原道造追憶号、江頭彦造「立原道造君」よりです。                
「… 立原君は死の数ヶ月前盛岡へ行く途中私の處に寄ってくれた。百八十度太平洋の見える私の部屋を口を極めてほめ盛岡の帰りに一二ケ月滞在しょうかしらと言った。私もそれに賛成して、それはともかく今夜は泊って行くやうにとすすめたが、切符の都合があるとか言つてどうしても泊ると云はなかつた。石巻名物の釜飯を一緒に食ったが、大へん喜んでゐた。下宿でも料理屋でも滅多に咳もしないし、ひどく悪いやうには少しも見えなかつた。二人ともわざと避けたわけでもなく自然に病気の話をしなかつた。いつも東京で合つてゐた時のやうに軽く食つて軽く別れた。駅では見えなくなるまで見送つてゐたが、これが最後の別れだらうなどとは夢にも思ってゐなかつた。私はホームで立原君は車上で手をあげて笑ひながら別れた。今となりて、あのときもう少しよく見ておけばよかったと思ってゐる。…」
 この頃はまだまだ元気だった立原道造です。

上記の写真は日和山公園から眺めた旧北上川と中瀬です。石ノ森萬画館がみえています。北上川は明治から昭和初期にかけて放水路の新北上川をつくり、分水して水害から守る体制をつくっています。そのため 昔の川筋を旧北上川というようです。

「滝川」
<料亭瀧本>
 立原道造と江頭彦造が石巻で食事をしたことが書かれていましたのでお店を探してみました。

 風信子通信三号、長谷川泉「哀悼、江頭彦造と立原道造」より
「… 江頭彦造が生前の立原道造と最後に会ったのは、昭和十三年九月、石巻中学校教諭時代に、盛岡に向かう立原が江頭のもとを訪れた際であった。江頭はまだ独身時代で、半年後に立原と幽明境を異にすることになるとは思いもよらなかった。料亭瀧本で石巻名物の釜飯を食べて別れたという。…」
 ”料亭瀧本”を探したのですが、見つかりません。おかしいなとおもい、書いている本をもう少しさがしてみました。

  「江頭彦造著作集 第五巻『年譜』」よりです。                
「昭13年(一九三八)1月上旬、立原より第二詩集『暁と夕の詩』を贈られる。4月1日、石巻中学校教諭。詩心起り、詩作に熱を入れる。東大で一年後輩の西島弘邦が赴任して、親しむ。7月下旬、夏休で帰省。9月下旬盛岡に向かう途中の立原の訪問をうける。料亭瀧本(瀧川に訂正あり)で釜飯をたべて別れたが、これが立原との今生の別れとなった。冬休に雫石氏と鳴子温泉にスキーに行く。」
 ”料亭瀧本”→”瀧川”に訂正の紙が「江頭彦造著作集 第五巻」に入っていました。

上記の写真が現在の「瀧川」です。東日本大震災で無くなってしまったのではと心配したのですが再建されていました。ただ、残念なことに、このお店で釜飯を食することができませんでした。訪ねたのですが団体の予約でいっぱいで一般客は断られてしまいました。仕方がないので、何処か釜飯の食べられるところはないかと、現地の方にお聞きしたら、石巻で一番上手いという釜めし「まきいし」を紹介してもらいました。釜飯の写真を掲載しておきます。目の前で20分位釜飯を炊いてから食します。非常に美味しかったです。

 立原道造の石巻駅での出発は”日がすっかりくれてしまはないころ”と書いていますので、当時の日の入りは17時44分ですから、昭和10年の時刻表では石巻発16時55分(17時)か、18時15分(24分)で(カッコは昭和15年)、石巻発16時55分(17時)だとおもわれます。



立原道造の石巻地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊
18日 仙山線経由仙台泊
19日 石巻で江頭彦造を訪ね、盛岡に向う