●立原道造の世界  【田中一三と京都 比叡山編】
    初版2012年6月2日  <V01L03>  暫定版

 遅くなりましたが昭和11年10月末の比叡山登山を掲載します。昭和11年は二度京都を訪ねており、二度目の京都訪問で比叡山に登り延暦寺の宿坊に宿泊しています。この比叡山登山に関しては記述したものが殆ど在りませんが推定も含めて掲載しました。




「叡山電鉄出町柳駅」
<出町柳>
 立原道造は二度目の京都訪問時に比叡山に登っています。初めて京都を訪ねた時は京都帝国大学仏文科に在籍していた田中一三に会えず、その年の10月に再度の訪問をしています。田中一三は立原道造とは第一高学校の同級生で、東京帝国大学には進まず、京都帝国大学に進んでいます。彼を頼っての京都訪問でした。
 昭和11年10月24日の22時30分東京発、奈良経由で翌日の25日夜に京都に着いています。
 26日は夕方まで雨で、雨があがった後、京都大学、ドイツ文化研究所を訪ね、夜は梶井基次郎の文学遺跡を巡っています。
 比叡山に向った27日は、田中一三の下宿が浄土寺だったので、近くの銀閣寺から疏水に沿って南下して若王子を通り南禅寺を訪ねています。その後、北に向い比叡山に登っています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三一五  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉

   秋雨や
    京のやどりは
         墓どなり

 着いたよるは夜半から雨がしつかに降りそめ 次の日一日夕ぐれまで降りつづいた 夕映が空を染めたころ京都大学の構内をさまよひ そこですつかりうすやみほ夜になった 近くの獨逸文化研究所も見た 次の日 銀閣から疏水に沿うて若王子をとほり 南禅寺に行った。雨は降りみ降らずみ 雲の多い室と青空とは交代した 南禅寺の山門のところで遊んでゐる幼稚園の子供たちに見恍れ その言葉が京言葉なのに聞き恍れた 出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った …」

 立原道造の比叡山登山に関しては記載が殆ど無く上記の書簡のみです。今回はこの書簡のみで歩きますので同じ記載が複数回出てきますがご容赦下さい。
 立原道造は南禅寺から出町柳に向っています。歩くとかなりの距離ですので、東山三条か東山二条辺りから北行きの京都市電に乗り、百万遍で左に曲がり出町柳で降りたものとおもわれます。

上記写真は現在の叡山電鉄出町柳駅です。この出町柳駅は大正14年(1925)9月、京都電燈叡山電鉄部により出町柳 - 八瀬(現在の八瀬比叡山口)間の開業のともない開設された比較的新しい駅です。当時はこの前を京都市電が東西に走っていました。京都市電の廃止に伴い、他の電車線に連絡のない駅でしたが京阪鴨東線の開通で出町柳駅までの阪神間からの連絡が可能となりました。

「ケーブル八瀬駅」
<八瀬>
 立原道造は出町柳駅から叡山電鉄で八瀬に向います。大正14年には八瀬から比叡山に向うケーブルが開通しており、京都市内から比叡山に向うのには一番早いルートでした。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三一五  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉

 出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った…」  」

 当時の西塔橋駅(現在のケーブル八瀬駅)の絵はがきを見ると、現在の駅舎とは違うようです。又、戦前の比叡山は木がほとんどなく、坊主山のようです。薪用に木を切っていたのでしょうか、他地区の山でもおなじようなものでした。

上記写真は現在のケーブル八瀬駅です。大正14年(1925)12月20日 京都電燈が叡山鋼索線として西塔橋駅(現在のケーブル八瀬駅) - 四明ヶ嶽駅(現在のケーブル比叡駅)間を開業しています。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「ガーデンミュージアム比叡」
<四明ヶ岳>
 比叡山についてウイキペディアで調べてみました。

【比叡山(ひえいざん)】
比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山をいいます。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称です。大比叡の一等三角点は大津市に所在します。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄しました。京都盆地から比叡山を見た場合、大比叡の頂を確認することが難しく、四明岳を比叡山の山頂だと見なすことがあります。京福電気鉄道叡山ロープウェイにおいては、四明岳の山頂をもって比叡山頂駅と設定しています。四明岳の表記、あるいは読みには多数の説があり、国土地理院による「四明岳(しめいがたけ、しめいだけ)」のほか、「京都市の地名」では「四明ヶ岳(しめがたけ)」、「四明峰(しみょうのみね)」などを挙げています。比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来します。(ウイキペディア参照)

 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一五  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉…

…出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った 四明ヶ岳のいただきで 京と琵琶湖を見はらして それから弁慶の力餅をたべ その店の娘さんの淋しい顔立が忘れかね その夜叡山の僧房にやどり 次の朝早く行くと早すぎ まだ来てゐないで盡きない恨みをのこしたまま 滋賀のみやこの方に降った …」

 四明ヶ岳はなだらかな山頂で、昔は将門岩があるだけでしたが、現在は「ガーデンミュージアム比叡」という有料の観光施設になっています(入園料は千円です)。昔の山頂の絵はがきを掲載しておきます。

 現在、京都側から比叡山に登るには「叡山ケーブル」と「叡山ロープウエイ」を乗り継ぎます。「叡山ケーブル」は大正14年の京都電燈叡山鋼索線がそのまま残っています。「叡山ロープウエイ」は昭和31年に新たなルートで開通したロープウエイです。元々は昭和3年(1928)に京都電燈が「比叡山空中ケーブル」として開業したもので、当時は現在のロープウエイ比叡駅より若干離れた位置にあった高祖谷駅から延暦寺の釈迦堂付近にあった延暦寺駅までのルートでした。このロープウエイは太平洋戦争中に廃止され、建物も撤去されています(下記の地図参照)。延暦寺駅跡は簡単に行くことができるのですが、高祖谷駅跡にたどり着くには道無き道で、途中で挫折しました。

左上の写真は現在の「ガーデンミュージアム比叡」です。将門岩はこの先にあります。将門岩の昔の絵はがきと,、現在の写真を掲載しておきます。立原道造は八瀬からはケーブルに乗ったものとおもわれます。四明ヶ岳駅からは四明ヶ岳山頂に向っていますので、空中ケーブルには乗らず歩いたものとおもわれます。



立原道造の比叡山地図
下記の地図は現在の地図に昭和16年の地図を重ねて透過したものです。赤色が昭和16年の地図です。



「茶店」
<弁慶の力餅>
 「弁慶の力餅」については「旅中日記 寺の瓦」でも登場しています。若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時の旅行記です。
 この「弁慶の力餅」を食べた茶屋の場所がよく分かりません。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一五  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉…
… 出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った 四明ヶ岳のいただきで 京と琵琶湖を見はらして それから弁慶の力餅をたべ その店の娘さんの淋しい顔立が忘れかね その夜叡山の僧房にやどり 次の朝早く行くと早すぎ まだ来てゐないで盡きない恨みをのこしたまま 滋賀のみやこの方に降った 坂本から大津までの船で小学生の一行といっしょになったが …」

 ”辨慶の力餅”というと三井寺となるのですが、昔は比叡山にもあったようです。

上記写真は現在の根本中堂前の茶屋です。昭和大正初期の比叡山の地図で茶店を探すと、四明ヶ岳、根本中堂前に茶屋(現在もある)にあったようです。”弁慶の力餅”は上記の書き方からすると四明ヶ岳の茶屋かなとおもっています。

「延暦寺会館」
<叡山の僧房>
 立原道造は27日の夜、比叡山の宿坊に宿泊しています。現在では延暦寺会館が宿泊できます。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一五  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉…
…出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った 四明ヶ岳のいただきで 京と琵琶湖を見はらして それから弁慶の力餅をたべ その店の娘さんの淋しい顔立が忘れかね その夜叡山の僧房にやどり 次の朝早く行くと早すぎ まだ来てゐないで盡きない恨みをのこしたまま 滋賀のみやこの方に降った 坂本から大津までの船で小学生の一行といっしょになった…」

 当時の延暦寺の宿房について調べてみると、昭和12年版の「比叡山名勝記」では、延暦寺本坊の右隣に宿院が書かれています。

写真は現在の延暦寺会館です。この付近に宿院があったとおもわれます。立原道造は翌日、茶屋に寄った後、ケーブルで坂本に下りたものとおもわれます。このケーブルは昭和2年(1927)3月15日 比叡山登山鉄道株式会社によって坂本(現在のケーブル坂本) - 叡山中堂(現在のケーブル延暦寺)間が開業しています。坂本からは、船で大津に向っています。



立原道造の比叡山地図(里見クの比叡山地図を流用)


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
昭和10年 1935   22
昭和11年 1936 2.26事件 23 8月25日 追分を発って東京に戻る
8月27日 尾鷲着、土居邸に宿泊
8月28日 瀞八丁に遊ぶ
8月29日 新宮駅で土井と別れ、那智の滝を見物
夜、勝浦港から大阪に向かう
8月30日 早朝大阪着、京都の船岡山公園に向かう
大阪の伊達嶺雄宅で宿泊(2〜3日宿泊)
9月2日〜3日 奈良を訪ねる
9月3日 名古屋の生田勉宅に宿泊
9月4日 伊良湖岬の杉浦明平宅に数日逗留
9月7日 帰京
10月24日 奈良経由で京都に向かう
10月27日 比叡山の登る
10月30日 帰京
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊