<出町柳>
立原道造は二度目の京都訪問時に比叡山に登っています。初めて京都を訪ねた時は京都帝国大学仏文科に在籍していた田中一三に会えず、その年の10月に再度の訪問をしています。田中一三は立原道造とは第一高学校の同級生で、東京帝国大学には進まず、京都帝国大学に進んでいます。彼を頼っての京都訪問でした。
昭和11年10月24日の22時30分東京発、奈良経由で翌日の25日夜に京都に着いています。
26日は夕方まで雨で、雨があがった後、京都大学、ドイツ文化研究所を訪ね、夜は梶井基次郎の文学遺跡を巡っています。
比叡山に向った27日は、田中一三の下宿が浄土寺だったので、近くの銀閣寺から疏水に沿って南下して若王子を通り南禅寺を訪ねています。その後、北に向い比叡山に登っています。
角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三一五 十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉
秋雨や
京のやどりは
墓どなり
着いたよるは夜半から雨がしつかに降りそめ 次の日一日夕ぐれまで降りつづいた 夕映が空を染めたころ京都大学の構内をさまよひ そこですつかりうすやみほ夜になった 近くの獨逸文化研究所も見た 次の日 銀閣から疏水に沿うて若王子をとほり 南禅寺に行った。雨は降りみ降らずみ 雲の多い室と青空とは交代した 南禅寺の山門のところで遊んでゐる幼稚園の子供たちに見恍れ その言葉が京言葉なのに聞き恍れた 出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った …」
立原道造の比叡山登山に関しては記載が殆ど無く上記の書簡のみです。今回はこの書簡のみで歩きますので同じ記載が複数回出てきますがご容赦下さい。
立原道造は南禅寺から出町柳に向っています。歩くとかなりの距離ですので、東山三条か東山二条辺りから北行きの京都市電に乗り、百万遍で左に曲がり出町柳で降りたものとおもわれます。
★上記写真は現在の叡山電鉄出町柳駅です。この出町柳駅は大正14年(1925)9月、京都電燈叡山電鉄部により出町柳
- 八瀬(現在の八瀬比叡山口)間の開業のともない開設された比較的新しい駅です。当時はこの前を京都市電が東西に走っていました。京都市電の廃止に伴い、他の電車線に連絡のない駅でしたが京阪鴨東線の開通で出町柳駅までの阪神間からの連絡が可能となりました。