●立原道造の世界  【紀伊・大阪・京都・愛知編(下)】
    初版2011年1月15日  <V01L02> 暫定版

 先週に引き続き「立原道造の世界【紀伊・大阪・京都・愛知編(下)】」を掲載します。立原道造は昭和11年の夏に紀州路を訪ねています。前回は尾鷲の土井治宅から瀞八丁、那智の滝を回り、勝浦港から海路、大阪に向かうまでを掲載しました。今回は大阪から京都、奈良を巡って名古屋から伊良湖経由で東京に戻る路を歩いてみました。




「船岡山公園」
<船岡山公園>
 立原道造は勝浦から夜の船便で早朝の6時40分に大阪(安治川)に着いています。この時間だと、早すぎて何処へも行けません。電車に乗って京都に向かいます。田中一三の下宿先(左京区浄土寺真如町迎称寺)に向かうつもりが、どういう訳か、御所を挟んで反対側の船岡山公園に向かいます。
 立原道造の「田中一三宛」の葉書からです。 
「九月九日〔水〕 田中一三宛
 お手紙は土井さんから廻送されたのを明平さんのところでよみました。行きちがひになったわけです。八月三十日の夕ぐれ船岡山公園のベンチで一體自分が誰なのかここがどこなのかすっかりわからない放心にぼんやりしたうすやみに沿えてゆくあなたの町を見つづけてゐました。よるの電車で大阪の知り人のところへ帰ってしまひました。まだ京都には帰られてゐないとそのとき諦めてゐました。やがて秋が来て、をりがあったらまた京都に行きたい。そしてあなたと奥大和の村々をめぐりたいとたのしい夢に描いてゐます。
 たとへばこの旅のあわただしさのなかでわづかに心にのこつてけふの思ひに浮ぶのは法隆寺村の家々の姿です。あの眞晝の明るい土に白壁とうつくしい切妻見せてゐた何気ない人たちの住まひです。もう一度あれだけ見たいとおもひます。(今けふの太陽が沈んで行くところ船岡山でのあなたの町の入日など思ひ出のなかの一ときだと、はっきり感じます)。夕ぐれの風がこの手紙をなぶってすぎてゐます。そんなこといい気拝でした。未成年にはゆふすげのことあるくちいふ詩を書いたのです。
 あなたの僕に下さったゆふすげの詩とならべ、をはりに六号で何かしるしたいなど考へたのしかった。あのころの信濃の日をたのしかったと心にとめたいと思ひます。
 今度の旗のこといつか京都あたりでとほい日の出来事として語る日のことけふ考へては、はるかなうれしさが湧いて来ます。
 その日まで何も語りますまい。でほいづれまた。草々。
                       道造」。

 上記に書いている”お手紙は土井さんから廻送されたのを明平さんのところでよみました。”の手紙を読めば、立原道造が田中一三の下宿を何故訪ねなかったか分かるですが、残念ながら手紙を読んでおりません。田中一三は一高時代の友人で京大仏文科在学中でした。立原道造はこの年の10月に再度、京都の田中一三を訪ねています(別途掲載します)。

写真は京都市北区の船岡山公園山頂から左京区浄土寺真如町方面(田中一三の下宿)を見たものです。立原道造が船岡山公園山頂から見た風景と同じなのですが、建物が多くて、京都大学や浄土寺が見えません。当時は見えたものとおもわれます。ただ、今でも見えるものがあります。”右大文字”です(上記写真を拡大して、中央やや左のところに微かに大文字が見えます)。立原道造も同じ”大文字”を見たはずです。

 船岡山公園は昭和6年に出来た公園で、織田信長を祭っている建勲神社もある由緒ある公園です。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の中部・関西地図


立原道造の京都地図(谷崎潤一郎の京都地図を流用、番号は谷崎潤一郎のページを参照)



「松龍園アパート跡」
<松龍園アパート>
 どういう訳か立原道造は京都から大阪に戻ってきます。その場所も、大阪市西成区の姫松です。姫松と聞いてもよく分からないかとおもいますか、新今宮の南側(あいりん地区)、飛田遊郭から少し南に下がったところです。到底、立原道造が訪ねるようなところではありません。
 立原道造の「杉浦明平宛」の葉書からです。
「八月三十日〔日〕 杉浦明平宛(愛知県渥美郡福江町折立)  大阪市西成区姫松通り一の三一松龍園アパート・伊達峯雄方(伊達嶺雄は府立三中の先輩)・大阪南局発(手製端書)
 信濃路をあとにして、伊勢・紀伊を経て熊野灘をわたり けさ大阪に着きました。女給アパアトにゐる知り人のところに二、三日とまって この町でくらしてからそちらに行きます。大阪はどうも暑いところらしいです。途中名古屋から生田と一しょに行くかも知れません。信濃で生田もバッハききに行きたいと言ってゐましたから。草々。」

 立原道造がこういう場所を経験するということではいいのかもしれませんが、当時の東京で言う”玉の井”の近くです。”玉の井”より酷いかもしれません。伊達嶺雄は府立三中の先輩でした。

 飛田新地の飛田遊郭は大正時代に作られた日本最大の遊郭とされています。この地区は戦災を免れており、店は料理屋となっていますが現在も同じ業態です。

写真は現在の大阪市西成区玉出東二丁目10番付近です。写真に写っている路面電車は阪堺電軌阪堺線です。恵美須町(通天閣の近く)から堺市の浜寺公園までを連絡しています。大阪は都心から少し離れたところで路面電車が残っています。”大阪市西成区姫松通り一の三一松龍園アパート”の場所は、丁度路面電車の後ろ側になります(現在は駐車場)。


立原道造の大阪地図



「生田勉宅跡」
<生田勉宅>
 立原道造は大阪市西成区姫松通の松龍園アパートに2〜3日滞在して奈良を訪ねています。よくこんなところに2〜3日泊っていたなとおもいます。この松龍園アパートから次に向かう名古屋の生田勉宛に葉書を出しています。
 立原道造の「杉浦明年宛」の葉書です。
「九月一日〔火〕 生田勉宛(名古屋市東区若水町一の四八) 大阪天下茶屋局発 (手製端書)
 お別れしてから熊野路をあはただしくめぐつて今大阪にゐます。
 九月二日、午后八時四一分(おくれたら。三日のその時刻)に名古屋に行きます。ではそのときにお目にかかってから、何もかも──。とりいそいで一筆しました。」

 上記に”九月二日、午后八時四一分(おくれたら。三日のその時刻)に名古屋に行きます”と書いていますが、結局、9月3日着になっています。”午后八時四一分”という列車があるか調べてみました。関西本線名古屋行き、港町発17時33分(昔は港町発で天王寺発17時40分)がありました。推定ですが、当日の立原道造は奈良見物をしており、先ほどの列車が奈良発18時16分になり、この列車に乗ったのだとおもわれます。この列車が亀山経由名古屋着20時41分となります。

写真は現在の名古屋市千種区若水三丁目10番付近です(当時の住所で名古屋市東区若水町1−48)。右の角から三軒目辺りです。父親の仕事の関係で名古屋に住んでいたとおもいます。この付近は戦前、三菱の航空機工場(零戦を作っていた)があり、戦時中は大変だったとおもいます。

 杉浦明平氏が生田勉氏について書いています。
「生田勉君と私                  杉浦 明平
 生田勉を知ったのは、たぶん立原道造を通してであった。わたしの同級生には文学青年が少なかったが、一級下には、立原道造、国友則房、寺田透、猪野謙二、太田克己、江頭彦造、稲田大、森敦と多士斉々だった。わたしは、マルクス主義者の多かった同級生より立原たちと親しくしたし、その後もずっとその関係は変わらなかった。…
… そのころ生田の家は名古屋にあった。生田が早大の仏文学教授で随筆家として知られていた吉江喬松の甥だということをたれからとなく教えられたが、生田のお父さんがどのような職業であったか、そのころは知っていたような気がするが、今は忘れてしまった。木曾御料林の関係で名古屋に勤務していたのか (木曾御料林に勤めていたのは、わたしたちの濠想をまったく裏切って宮内省入りした二両の進歩的文化人高尾亮一だったかもしれない)、それとも港湾関係の役所に勤めていたのか、今でははっきりしない。ただ、同じ愛知県の名古屋だから、立原も生田の家に寄ったついでにわたしの家を訪ねてきたし、ある夏休みにわたしも伯母のいる名古屋に出たおり、生田の家に泊めてもらった。…」

 生田勉は一高から東大農学部の林業科に入学しますが、二年間で建築科に入り直しています。ですから、立原道造とは同じ建築科で2年遅れとなります。


立原道造の名古屋地図



「杉浦明平宅」
<杉浦明平宅>
 この旅行で最後に立寄ったのが愛知県渥美郡福江折立の杉浦明平氏でした。杉浦明平氏は一高、東大では立原道造の一年先輩でした。立原道造とは一高の短歌会で知り合ったのが初めてのようです。
 立原道造の「杉浦明平宛」封書から
「九月十日〔木〕 杉浦明平宛(愛知県渥美郡福江折立)日本橋区橘町五の一より へ封書・巻紙)
 先日はいろくとありがたう
 あの日の夕ぐれ近く 東京に着きました、
 旅のをハりの夏岬のうた ふたつ出来た ひとつは「末成年」に ひとつは「四季」にのせるつもり
 末成年は君のが唯一つのものとなるらしい 東京の連中だれも書いてゐない 猪野のは 書けば百枚になるが書いてはゐないとか 寺田の小説もさうとかいふ 是非早く逸りなさい
 東京では 僕が室生さんにたのまれて文藝懇話会に書いたこと 評判わるい 竹村など そんな男と一しょに雑誌やりたがらない口ぶりだつたと猪野からきいた 僕は未成年をやってゆく資格ないかも知れないと思った 何やかや合せて東京の雰囲気さうである 君の上京の日まで待って そのをり考へてみて 末成年から出るかも知れない
友情としては そんなこと考へたくない しかし 僕のゐることが いけないことだったらやめなくてはならぬとおもふ…」

 杉浦明平氏を有名にしたのは1949年の野間宏らの推薦による日本共産党入党と、1962年の除名です。アララギの歌人としての代表作に野坂参三と旧制一高の同級生伊藤律を歌った”延安に憧れたりしは四年前か帰り来し人の記事ぞ身にしむ”があります。

写真の付近全体が杉浦家です。田原市博物館発行の「杉浦明平の世界」によると、小地主兼酒や雑貨を商う店の長男として生まれてています。田舎の裕福な家庭という感じでしょうか!! 現在も杉浦家は健在で酒屋も残っていました。


立原道造の田原市折立地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和11年 1936 2.26事件 23 8月25日 追分を発って東京に戻る
8月27日 尾鷲着、土居邸に宿泊
8月28日 瀞八丁に遊ぶ
8月29日 新宮駅で土井と別れ、那智の滝を見物
夜、勝浦港から大阪に向かう
8月30日 早朝大阪着、京都の船岡山公園に向かう
大阪の伊達嶺雄宅で宿泊(2〜3日宿泊)
9月2日〜3日 奈良を訪ねる
9月3日 名古屋の生田勉宅に宿泊
9月4日 伊良湖岬の杉浦明平宅に数日逗留
9月7日 帰京
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊