<船岡山公園>
立原道造は勝浦から夜の船便で早朝の6時40分に大阪(安治川)に着いています。この時間だと、早すぎて何処へも行けません。電車に乗って京都に向かいます。田中一三の下宿先(左京区浄土寺真如町迎称寺)に向かうつもりが、どういう訳か、御所を挟んで反対側の船岡山公園に向かいます。
立原道造の「田中一三宛」の葉書からです。
「九月九日〔水〕 田中一三宛
お手紙は土井さんから廻送されたのを明平さんのところでよみました。行きちがひになったわけです。八月三十日の夕ぐれ船岡山公園のベンチで一體自分が誰なのかここがどこなのかすっかりわからない放心にぼんやりしたうすやみに沿えてゆくあなたの町を見つづけてゐました。よるの電車で大阪の知り人のところへ帰ってしまひました。まだ京都には帰られてゐないとそのとき諦めてゐました。やがて秋が来て、をりがあったらまた京都に行きたい。そしてあなたと奥大和の村々をめぐりたいとたのしい夢に描いてゐます。
たとへばこの旅のあわただしさのなかでわづかに心にのこつてけふの思ひに浮ぶのは法隆寺村の家々の姿です。あの眞晝の明るい土に白壁とうつくしい切妻見せてゐた何気ない人たちの住まひです。もう一度あれだけ見たいとおもひます。(今けふの太陽が沈んで行くところ船岡山でのあなたの町の入日など思ひ出のなかの一ときだと、はっきり感じます)。夕ぐれの風がこの手紙をなぶってすぎてゐます。そんなこといい気拝でした。未成年にはゆふすげのことあるくちいふ詩を書いたのです。
あなたの僕に下さったゆふすげの詩とならべ、をはりに六号で何かしるしたいなど考へたのしかった。あのころの信濃の日をたのしかったと心にとめたいと思ひます。
今度の旗のこといつか京都あたりでとほい日の出来事として語る日のことけふ考へては、はるかなうれしさが湧いて来ます。
その日まで何も語りますまい。でほいづれまた。草々。
道造」。
上記に書いている”お手紙は土井さんから廻送されたのを明平さんのところでよみました。”の手紙を読めば、立原道造が田中一三の下宿を何故訪ねなかったか分かるですが、残念ながら手紙を読んでおりません。田中一三は一高時代の友人で京大仏文科在学中でした。立原道造はこの年の10月に再度、京都の田中一三を訪ねています(別途掲載します)。
★写真は京都市北区の船岡山公園山頂から左京区浄土寺真如町方面(田中一三の下宿)を見たものです。立原道造が船岡山公園山頂から見た風景と同じなのですが、建物が多くて、京都大学や浄土寺が見えません。当時は見えたものとおもわれます。ただ、今でも見えるものがあります。”右大文字”です(上記写真を拡大して、中央やや左のところに微かに大文字が見えます)。立原道造も同じ”大文字”を見たはずです。
船岡山公園は昭和6年に出来た公園で、織田信長を祭っている建勲神社もある由緒ある公園です。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)