●立原道造の世界  【紀伊・大阪・京都・愛知編(上)】
    初版2011年1月8日
    二版2011年1月15日  <V01L01> 一部修正・追加他

 「立原道造」の「盛岡ノート」の中で、先般は山形を歩きましたが、今回は昭和11年の夏に紀州を訪ねた足跡を巡ってみました。土井治氏に誘われての紀州路でした。その後は大阪から京都、奈良を巡って名古屋から伊良湖経由で東京に戻っています。




「尾鷲駅」
<尾鷲駅>
 2011年1月16日 風信子通信に変更
 立原道造は軽井沢の追分で土井治氏に紀州道に誘われます。昭和11年(1936)8月25日のことです。立原道造は一度、東京の実家に戻ってから紀州の土井治の実家がある三重県尾鷲に向かいます。
 「立原道造の会」の風信子通信(平成6年12月25日)に土井治氏の「立原道造と紀の国」が掲載されています。 
「 今年(一九九四年)の二月十七日、夜の七時のNHKのニュースで、立原道造の未発表の原稿が多数発見された、ということが報道された。(私はそのニュースを見ていなかったが、知人が早速電話で知らせてくれた。) その原稿の一つが大映しされ、「綴方」と題する立原道造の署名のある原稿は「夏の日に信濃追分で土井治君と知りあひになった。」という文章で書きはじめられているのがはっきりと読みとれたというのであった。しばらく日をおいて、こんどは親しい友人から、未発表原稿の一部の写真を掲載した「東京新聞」(二月十八日)のコピーが送られてきた。…
… 紀の国の旅に立原道道を誘ったのは私であった。「鮎の歌」にみられる「激しい心の動き」にすっかり元気をなくしていた彼に、追分を引き上げて郷里の三重の尾鷲(おわせ)へ帰省することにしていた私は、底ぬけに明かるい紀の国の風景を見せてやりたかったのであった。一九三六年(昭和十一年)八月二十五日のことである。
 東京生れの東京育ちの立原には、海、とりわけ黒潮の流れる熊野灘を見ることなどはじめての経験であったろうと思う。紀の国という名も、彼が親しんでいた信濃の国などとはまたちがった印象をもっていたにちがいない。…」。

 立原道造が生きているとしたら今年(平成23年)には97歳です。彼の本を読んでいると、今も二十歳の青年と話しているようです。立原道造の紀伊旅行については本人の書簡の他は、土井治氏の書かれたものしかありません。山形は、竹村俊郎氏がかなり詳細に描き残してくれていたため、役に立ったのですが、紀伊に関しては土井治氏はあまり詳細には描き残してくれていませんでした。ご本人は平成11年(1999)4月30日に尾鷲で死去されています。

写真はJR紀勢本線尾鷲駅です。戦前の写真を探したのですがまだ見つけることが出来ていません。亀山駅 - 新宮駅間は東海旅客鉄道(JR東海)、新宮駅 - 和歌山市駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄になっています。戦前は紀勢本線は全通しておらず、当時は紀勢東線・中線・西線に分かれていました。尾鷲駅は紀勢東線の終点の駅で、昭和9年12月に開設されています(名古屋からは乗り換えなく行けました)。尾鷲駅から西に伸びるのは戦後の昭和32年まで待たなければなりません。紀勢本線が全通したは昭和34年7月です。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の中部・関西地図



「土井治邸」
<土井治邸>
 立原道造は昭和11年8月27日、三重県尾鷲の土井治邸に宿泊します。立原道造はこの時も多くの書簡を友人達に出しており、非常に参考に成ります。
 立原道造の「柴岡亥佐雄宛」の葉書からです。
「 八月二十七日〔木〕 柴岡亥佐雄宛 〔尾鷲発〕
 紀の国の空はなごやかに青い。夏の色はまだ移らずに、とまってゐる。海の青。島は緑に憩んでゐる。── 僕の心を傷るものはひとつもない。蝉の歌がひびいてゐる。……
 ここは紀勢東線の終點の町。僕がいまゐるのは、土井さんのおうち。もう勝負事などもせずに、くらしてゐる。思ひも及ばなかったしつかな平安な日々だ。では。」

 柴岡亥佐雄は立原道造の東京帝国大学建築学科の同級生です。親しかった友人の一人で、文面から見ると立原道造の文学的な一面を十分に理解していた友人だとおもいます。

 8月25日に軽井沢の追分油屋を引き払って土井治氏と一緒に東京に戻っています。その日に尾鷲に向かうのは無理なので、翌日26日の夜の東京発22時30分、鳥羽行に乗ったのではないでしょうか。この列車で乗り継ぐと、名古屋着6時4分、紀勢東線乗換の相可口発8時46分(現在の多気駅)、ここで紀勢東線の9時30分発に乗り換えます。尾鷲着が11時51分となります。

写真は三重県尾鷲市の土井治宅です。ご本人は平成11年(1999)4月30日に尾鷲で死去されていますので、ご家族の方がお住まいだとおもいます。土井家は尾鷲で林業をされており、非常に裕福な家だったようです。写真のとおり、この一角は全て土井家となっています。戦災にあっておらず、昔の建物がそのまま残っているようです。中には入れませんでしたが,戦前のハイカラな建物がそのままありました。

「尾鷲市(中村山公園から撮影)」
<尾鷲の中村山>
 尾鷲の戦前の写真がありましたので掲載しておきます。
 「立原道造の会」の風信子通信(平成6年12月25日)、土井治氏の「立原道造と紀の国」からです。
「 私の郷里の尾鷲には、まちのまんなかに丘といってよいような小高い中村山という山がある。それはその当時から公園になっていたが、その丘の上からは入江になった尾鷲湾やはるか沖あいの岬や島々、それに町並が一望のもとにひらけ見える。私はこの公園の散歩に立原を誘い、山の土の上に腰をおろして、目の前の岬の名や、桃頭(とがしら)佐波留(さばる)雀島などを彼に指し示して教えた。夕日をうけて、目の下のまちの風景、特に家々の屋根瓦が美しく陽光を反射していた。「屋根瓦がきれいだね」立原は深い感慨をこめていった。私は瓦の美しさに気づいた彼の建築家として、また詩人としての目の確かさにおどろいた。台風銀座といわれるくらい毎年のように台風に襲われたり、年間の雨量が四千ミリを超えることもある「雨のくに」であるだけに、どの家も屋根瓦は慎重に選び、屋根を激しい風雨に耐えうる構造にしていたのである。私のこういう説明に立原はそういう生活の知恵が、地方の独自の文化を生むのだといったことを覚えている。…」
 立原道造と土井治氏は昭和11年8月27日の夕方に中村山(現在は中村山公園)に登って尾鷲の町を見たものとおもいます。この頃の尾鷲は写真の通り、大変な田舎だったのだとおもいます。

写真は戦前の尾鷲です。この写真の中に土井家が写っています。写真の右側、真ん中辺りに四角く囲まれたところが土井家です(左下は尾鷲小学校)。現在の写真(中村山公園から撮影した)も掲載しておきます。全体の写真(真ん中に土井家があります)と、拡大した写真(真ん中に土井家があります)です。よく見て頂くと分かりますが、昔と建物は全く変わっていません。中村山公園から眺めると、立原道造が見た風景と同じ風景を見ることができます。


立原道造の尾鷲地図



「瀞八丁」
<瀞八丁>
 立原道造は土井治氏と翌日(昭和11年8月28日)、紀州の名所、瀞八丁に向かいます。上記にも書きましたが、尾鷲は紀勢東線の終点の町です。ここより西に向かうには鉄道はありません。
 先ずは立原道造の「津村信夫宛」葉書からです。
「八月二十九日〔土〕 津村信夫宛(東京市渋谷区南平台四六) 新宮局発 (手製端書)
 瀞八丁のうすやみにけふ僕らを載せて来たプロペラ船がもやってゐます。…」

 この移動に関しては風信子通信(平成6年12月25日)、土井治氏の「立原道造と紀の国」に少し書かれていました。
「… 私どもは次の日、瀞八丁まで同行し、最後に新宮の駅で別れることに相談がまとまった。紀勢線の全通していなかったその当時は、鉄道省営のバスで木本まで陸を行くか、巡航船で海路を行くか、どちらかであった。立原は海路をとることに賛成した。尾鷲湾を出ると熊野灘で、八月の下旬の頃は常に波が荒い。岬の先端が断崖となってそそり立つ。巨岩の磯には波が白く泡をかんで打ちよせている。立原はそういう「海」に大きな感動を覚えたようだった。私は彼の船酔いを心配していたのだが、二時間はどの船の旅の間、非常に快活であった。
 瀞八丁の宿は二人で泊り、翌日新宮の駅で更に紀伊半島を南にまわる立原と別れた。彼は紀伊勝浦から大阪商船で満月に近い日の夜、大阪に向うことになっていた。(瀞八丁の宿での一夜のこと、天佑丸という船が潮岬の鼻をまわる時のことなど、この文章では割愛する。)
 立原道道の彼のいう「紀の国の旅」は、彼の生涯の一転機となった、と私は信じている。…」

 上記によると尾鷲から船便で木本(現在の熊野市)まで行っています。この船便について調べたのですか、昭和10年10月の時刻表で見ると、熊野商船という会社が尾鷲−木本間を運行していました。急行便で尾鷲発8時、木本着10時です。木本(現在の熊野市)から新宮まではバスになります。その後、新宮から瀞八丁までは、熊野川飛行艇のプロペラ船が通っていたようですので、プロペラ船に乗ったとおもわれます。この日の行動はこれまでで、宿泊に関しては瀞八丁に宿泊したとしか書かれていませんでした。翌日の29日に立原道造と土井治氏は新宮駅で別れています。

写真は戦前の瀞峡(瀞八丁)と瀞ホテルです。この辺りを立原道造と土井治氏はプロペラ船で観光したのではないでしょうか。ひょっとするとこの瀞ホテルに泊ったのかもしれません。この付近の現在の写真を掲載しておきます。瀞ホテルは建物は残っていましたが、営業はされていませんでした。

「那智の滝」
<那智の滝>
 立原道造は土井治氏と別れた後、那智の滝に向かいます。上記でも述べましたが、紀勢本線は全通しておらず、東線・中線・西線に分かれていました。新宮駅は中線の東の端の駅でした。
 立原道造の「津村信夫宛」葉書からです。
「八月二十九日〔土〕 津村信夫宛(東京市渋谷区南平台四六) 新宮局発 (手製端書)
 瀞八丁のうすやみにけふ僕らを載せて来たプロペラ船がもやってゐます。
 明日は那智の瀧を見て夕ぐれ0・S・K・天佑丸にのり汐岬の鼻をまはり 十三夜の月と航海して大阪に八月三十日の早朝着くつもりです。
 ほのかな洋燈の光をかりて、このエバガキをつくりました。
  八月二十八日 道造しるす。」

 立原道造は紀勢中線で新宮駅から那智勝浦駅に向かい、そこから船で大阪に向かうつもりだったようです。当時は紀伊半島を行き交いするのは船便が普通でした。

写真は現在の那智の滝です。滝は昔と変わりません。勝浦港での大阪行き船便の時間が夕方のため、時間に余裕が出来、那智の滝を観光したのだとおもいます。那智の滝は熊野那智大社の中にあり、一通り観光するには半日くらいかかります。

「勝浦港」
<勝浦港>
 最後に、勝浦港から船で大阪に向かいます。戦前は紀勢本線は全通しておらず、東線・中線・西線に分かれていました。
 立原道造の「津村信夫宛」葉書からです。
「八月二十九日〔土〕 津村信夫宛(東京市渋谷区南平台四六) 新宮局発 (手製端書)
 瀞八丁のうすやみにけふ僕らを載せて来たプロペラ船がもやってゐます。
 明日は那智の瀧を見て夕ぐれ0・S・K・天佑丸にのり汐岬の鼻をまはり 十三夜の月と航海して大阪に八月三十日の早朝着くつもりです。
 ほのかな洋燈の光をかりて、このエバガキをつくりました。
  八月二十八日 道造しるす。」

 勝浦から大阪に向かう船便について調べて見ました。昭和10年10月の時刻表では攝陽商船が大阪−名古屋便を一日一往復運行していました。元々は大阪商船が運航していたのですが、昭和10年3月に子会社である攝陽商船に譲渡しています。大阪商船は時刻表では大阪−勝浦急行線のみを運行していました(攝陽商船に移管済み?)。時刻表を詳細に見ると、攝陽商船の勝浦港での大阪行きは朝8時30分発、大阪着(安治川)が15時、大阪商船(攝陽商船?)は勝浦港を17時発、大阪着(安治川)朝6時40分となっています。”0・S・K・天佑丸”は大阪商船ですので、勝浦港発17時発に乗船したものとおもわれます。

写真は戦前の勝浦港です。貨客船が泊っています。時刻表から推測すると、大阪行の8時30分か、名古屋行の13時30分発の船ではないかとおもいます。現在の勝浦港の写真も掲載しておきます。

 続きがあります。


立原道造の紀伊勝浦地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和11年 1936 2.26事件 23 8月25日 追分を発って東京に戻る
8月27日 尾鷲着、土居邸に宿泊
8月28日 瀞八丁に遊ぶ
8月29日 新宮駅で土井と別れ、那智の滝を見物
夕刻、勝浦港から大阪に向かう
8月30日 朝、大阪天保山港に着く
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊