<尾鷲駅>
2011年1月16日
風信子通信に変更
立原道造は軽井沢の追分で土井治氏に紀州道に誘われます。昭和11年(1936)8月25日のことです。立原道造は一度、東京の実家に戻ってから紀州の土井治の実家がある三重県尾鷲に向かいます。
「立原道造の会」の風信子通信(平成6年12月25日)に土井治氏の「立原道造と紀の国」が掲載されています。
「 今年(一九九四年)の二月十七日、夜の七時のNHKのニュースで、立原道造の未発表の原稿が多数発見された、ということが報道された。(私はそのニュースを見ていなかったが、知人が早速電話で知らせてくれた。) その原稿の一つが大映しされ、「綴方」と題する立原道造の署名のある原稿は「夏の日に信濃追分で土井治君と知りあひになった。」という文章で書きはじめられているのがはっきりと読みとれたというのであった。しばらく日をおいて、こんどは親しい友人から、未発表原稿の一部の写真を掲載した「東京新聞」(二月十八日)のコピーが送られてきた。…
… 紀の国の旅に立原道道を誘ったのは私であった。「鮎の歌」にみられる「激しい心の動き」にすっかり元気をなくしていた彼に、追分を引き上げて郷里の三重の尾鷲(おわせ)へ帰省することにしていた私は、底ぬけに明かるい紀の国の風景を見せてやりたかったのであった。一九三六年(昭和十一年)八月二十五日のことである。
東京生れの東京育ちの立原には、海、とりわけ黒潮の流れる熊野灘を見ることなどはじめての経験であったろうと思う。紀の国という名も、彼が親しんでいた信濃の国などとはまたちがった印象をもっていたにちがいない。…」。
立原道造が生きているとしたら今年(平成23年)には97歳です。彼の本を読んでいると、今も二十歳の青年と話しているようです。立原道造の紀伊旅行については本人の書簡の他は、土井治氏の書かれたものしかありません。山形は、竹村俊郎氏がかなり詳細に描き残してくれていたため、役に立ったのですが、紀伊に関しては土井治氏はあまり詳細には描き残してくれていませんでした。ご本人は平成11年(1999)4月30日に尾鷲で死去されています。
★写真はJR紀勢本線尾鷲駅です。戦前の写真を探したのですがまだ見つけることが出来ていません。亀山駅
- 新宮駅間は東海旅客鉄道(JR東海)、新宮駅 -
和歌山市駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄になっています。戦前は紀勢本線は全通しておらず、当時は紀勢東線・中線・西線に分かれていました。尾鷲駅は紀勢東線の終点の駅で、昭和9年12月に開設されています(名古屋からは乗り換えなく行けました)。尾鷲駅から西に伸びるのは戦後の昭和32年まで待たなければなりません。紀勢本線が全通したは昭和34年7月です。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)