●「砂場」を歩く 大阪編
   初版2007年12月16日  <V01L01> 
 今週は蕎麦屋「砂場」の発祥の地 大阪を歩いてみました。「砂場」は元々は大阪で、後に東京(江戸)に進出した蕎麦屋です。現在「砂場」は大阪にはありません。

「砂場 発祥の地」
「砂場」発祥の地>
 「砂場」発祥の地については大阪ということで、かなり詳しく分かっています。「…砂場 (新町西口南の町の地名なり。ここに麺類を商ふ家あり。難波の名物とて遠近ここに来集する事日々数百に及べり。ひさしに蠣殻を葺きて火災を除く用とす。南の方を和泉屋といふて初めは和泉国熊取郷御門村の産、その類族かの地にありとなむ。中氏といふ。すべて屋号といふはむかしは戸主の二字なり・今略して屋の字を射ゆ。和州法隆寺の鐘の銘に戸主の字見えたり。またこの家の先主に風騒あり)。…」。上記は寛政十年(1798)に発行された「摂津名所図絵」からなのですが「摂津名所図絵」が手に入りませんでしたので、「摂津名所図絵」が掲載されている「日本名所風俗図会 10 大阪の巻」 を参照しました。上記の通り、はっきり「砂場」と書かれています。「蕎麦屋の系図」を参照すると宝暦七年(1757)に出された『大坂新町細見之図澪標』の「廓名物之分」では、当時この地域には「和泉屋」と「津国屋」の二軒の麺類屋があったと書かれているそうです(実物をまだ読んでいない)。

左上の写真は昭和60年(1985)大阪市西区新町二丁目の新町南公園に「大阪のそば店誕生四百年を祝う会」によって建てられた記念碑です。記念碑の裏には、「本邦麺類店発祥の地   大阪築城史蹟・新町砂場   天正十一年(1583)九月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ通称を「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いずみや・津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。   坂田孝造 識」、と書かれていました。太閤秀吉の頃ですからそうとう昔です。坂田孝造さんの本を購入しようとおもったのですが手に入りませんでした。

「砂場 いずみや」
砂場 いずみや>
 「蕎麦屋の系図」をもう少し参照してみます。「…「砂場」という店名はもともとは俗称で、大坂城築城のさいに築城資材の砂や砂利の置き場になった新町砂場という地名(これも俗称らしい)に由来する。宝暦七年(一七五七)に出された『大坂新町細見之図澪標』の「廓名物之分」によると、当時この地域には「和泉屋」と「津国屋」の二軒の麺類屋が持た。細見とは本来、江戸・吉原の妓横や遊女名、玉代などを事細かに記した遊郭案内書で、享保年間(一七一六〜三六)に初めて売り出され、毎年内容が更新されたものという。…… この新町遊郭の旧西大門のあった新町二丁目、三丁目の境を通る南北筋の南側が俗に砂場と呼ばれていた地域で、西門際にあったのが「和泉屋」、砂場角にあったのが「津国屋」とされる。 いずれの店も、わざわざ細見の「名物之分」に紹介されているのだから、それ相当に繁盛していたようである。…」。新町遊廓の西門際にあったのが「和泉屋」で、砂場の角にあったのか「津国屋」なのですから場所は分かるかと思ったのですが、なかなか分かりませんでした。新町遊廓の東門は新町橋の所にあったので直ぐ分かりましたが、西門の場所が分かりません。上記には現在の新町二丁目と三丁目の境に西門があったと書かれていまが、大阪春秋等を参照すると、どうももう少し東側にあったようです。なにわ筋から一筋西側辺りが新町遊廓の西側端であったようです。ですから「和泉屋」はこの辺りではないかとおもいます。

左上の写真が「摂津名所図絵」に掲載されている「いずみや」正面です。「…砂場いづみや 砂場の蕎店(そばや)浪花の珍/蠣殻楯(かきがらのき)を葺いて不易の春/石臼多く回る頭上の力/来賓腹を脹(ふく)らすこと数千人  籬島…」。蠣殻を屋根において火事の延焼を防いでいるようです。

「砂場 いずみや店内」
砂場 いづみや店内>
 もう少し「いずみや」をもう少し詳しく調べてみます。岩崎信也の「蕎麦屋の系図」では、「…寛政一〇年(一七九八)に全巻が刊行された『摂津名所図絵』は、「砂場いづみや」として絵入りで詳しく紹介しているが、その挿絵に描かれた店の壮大さには驚かされる。 挿絵は店の表口の様子と店内の光景の二つに分かれており、表口からしていかにも大店らしい立派な構えである。牡蛎殻葺きの庇の下には「すな場」と染め抜かれた暖簾がかけられている。 圧巻なのは見開きで描かれた店内の図で、広大な土間に座敷の島がいくつも置かれ、座敷の間を縦横に交差する通路は、まるで町中の往来のように幅広い。もちろん、当時のこの手の絵にかなりの誇張があることは念頭に置かなければいけないけれども、そんな描き方をしてもおかしくはないほどの立派な店だったのだろう。さらに、店内の図の上には、店の裏側にあるとおぼしき鰹節の蔵、そばの蔵、麦の蔵、醤油の蔵に、臼十二と書かれた白部屋などの土蔵の屋根まで描かれている。 また、図の右上には蘇鉄の植え込みもあるが、この蘇鉄は売り物のそば、うどんと同様に「和泉屋」の名物とされていた。…」。大きなお店です。お客もすごい人数です。繁盛していたのだと思います。上記に蘇鉄が「和泉屋」の名物だったと書いていますが、蘇鉄についてこんな小話が書かれていました。「…寛永四年(一六二七年)発刊の咄本『軽口浮瓢箪』の巻一に、こんな咄が載っている。 砂場のそば屋にやってきた三人連れの男たちが、店のなかに置かれてあった大きな蘇鉄の鉢植えをみながらの会話である。現代風にアレンジすると、こうなる。このはなしは、坂田孝造氏が『すなは物語』 の中でも書いている。一人目の男がその蘇鉄を見て、「おい、あれを見ろよ。すごいね。さすが『砂場』だね。あんなに大きな山葵が植えてあるぜ」 それを聞いた二人目の男。かなり自信があると見えて、物知り顔に、「馬鹿だね、お前。あんなデカイ山葵があるかよ。あれはね、山葵じゃない。トテツというものじゃ」 と言う。すると、いま一人の男が憤然として、こう言った。「わしを無学だと思って馬鹿にしてるのか。トテツというのは、血を吐くことだ」、駄洒落のよしあしはともかく、江戸時代の酒落本に「砂場」の名があることに驚くかもしれない。…」。「巴町 砂場」の萩原長昭さんの書かれた「そばやの湯筒」からです。寛永四年(一六二七年)発刊の咄本『軽口浮瓢箪』ですから「摂津名所図絵」より少し前に書かれています。

左上の写真は「摂津名所図絵」から店内の様子です。「…すな場 平慾といふちり粉の蕎麦をもてなされし折に 平麺(ひら めん)の生所(しようじよ)もしらず宿もなしちり粉つもって山盛のそば 籬島…」。現代の蕎麦屋より立派で大きな蕎麦屋です。


大阪 新町 地図



「新町 九軒町」
新町遊廓>
 ここで、「いづみや」があった新町遊廓について書いておきます。大阪 新町遊廓は江戸の吉原、京都の島原とともに日本三大遊廓の一つです。「摂津名所図絵」から掲載します。「新町傾城廓(しんまちけいせいのくるわ)は新町橋の西方四町をいふなり。往昔天正年中より民家建て続き海舶の要津となれば、その着船の所々に花魁の家あり。その頃はまだ野原なりしを、寛永年中この地に初めて傾城廓官家より御許しあれば、諸方の花魁を一ツ所にあつめ田圃を開きて新たに町とせしゆゑ、世の人新町とよんで柳隋の惣名となれり。その勘に木村亦次郎といふ伏見浪人の願によって、官より花巻の長をつとめさせらる。この著瓢箪の御馬印を拝領して常に玄関に鎖りしゆゑ、通り条を瓢箪町といひ居宅の町を亦次郎と呼ぶ。また、佐渡島与三兵衛といふ者上博労に在って、その頃今の地に移り開発の由縁によって佐渡島町とよび、この西を越後町といふは佐渡越後と国双のゆゑなり。吉原町は北天満吉原よりここに移すゆゑ旧名を呼んで町の名とす。佐渡屋町は船場高麗橋条の佐渡屋何某といふ者、この廓を開きし打余りの地をゆゑ有って拝領し一町一家敷とし住みけるより佐渡昆町といふ。その次を九軒町といふ。初め玉造九軒茶屋を引き移して名とせり。今はこの地に六軒、新堀町に三軒、佐渡島町に三軒ばかり見ゆるなり。それこの津は海舶輻湊の地なれはむかしの江口・神崎もここに在りて、長柄傘に高足駄へ紋日の道中、身請の門出、一笑千金の花の曙より二千里の月のゆふべも蘭靡のかをり渡かにして、歌舞の声糸竹の音洋々たり。むかしこの廓に総角・夕霧・吾妻・松山などいふ花美全盛の太夫ありとて世に名高し。傾城傾国は前浜の李延年が伝より出でて、国色の麗人を一城の専卑こころを傾け一国の人民眼を送りてその容儀を賞ずるのみなり。強ちに城を解り国を推す名にはあらず。この廓初也は大坂三郷の西端にして田園に続きしに、後世次第に市中蔓りて今難波津の真中となりぬ。かるがゆゑに略して中ともいふ。…」。新町遊廓の歴史は、元和元年に加藤清正の家来で木村重成の乳兄弟という木村又次郎が新町遊廓を開いたといわれています。

左上の写真は「摂津名所図絵」に掲載されている新町遊廓の「新町 九軒町」です。「新町 九軒町」は桜で有名で、千代女の「だまされて 来てまことなり 初さくら」の碑が建てられています。

「新町橋 橋柱」
新町橋>
 「新町橋」は新町遊廓の東側入り口として寛文12年(1672)、西横堀川に架けられた橋です。「新町橋 (西城北より十二目の橋なり。東は順慶町、西は傾城廓。瓢箪町の入口なれば瓢箪橋ともいふ。四時橋上に市店ありて賑し。西横堀の北は密戸問屋・石工多し。東の方順慶町の内、この橋より一町ばかり東の辻に井あり。これを浄国寺の井といふ。すなはち浄国寺の旧地にして今において町の名に呼ぶ。この寺、今は高津下寺町にあり。法然上人古跡にしてすなは千石塔婆もあり)」。明治以降、何度か架け替えられましたが、昭和46年、西横堀川の埋め立てと阪神高速の建設に伴い橋は無くなります。「摂津名所図絵」に書かれている新町橋の絵を掲載しておきます。

右上の写真が西横堀川に架かっていた新町橋の橋柱です。記念碑として新町橋跡の直ぐ横に建てられています。