●「砂場」を歩く 東京編
   初版2007年10月27日 
   二版2007年11月7日  旧室町砂場の場所の写真を追加
   三版2008年6月1日 <V01L01> 上野時代の「乃なみ」を追加、虎ノ門砂場の写真を入換
 今週は「点と線」と「金閣寺」をお休みして、蕎麦屋で残っていた「砂場」を歩いてみました。「砂場」は元々は大阪で、後に東京(江戸)に進出した蕎麦屋です。今週は東京の「砂場」四店を歩き、次回に大阪を歩いてみます。

「室町砂場 赤坂店」
室町砂場 赤坂店>
 室町砂場 赤坂店を語るには室町砂場から語らないといけないのですが、どうしてもこの「赤坂店」から書き始めたいとおもいます。「『赤坂砂場』は、吉行たちが麻雀や花札をする時の潜まり場として利用していた旅館『乃なみ』から、ほど遠からぬ位置どり。そのため吉行は、乃なみの女主人や、阿川弘之、黒鉄ヒロシ、俳優の芦田伸介の各氏などと一緒に、よく蕎麦を食べに訪れた。「吉行さんは、酒の肴に皆で食べられる『そばがき』 の大や、『別製ざる』をよく注文されました」女将の村松ヨシ子さん(63歳)は、そう話す。店を訪れると、吉行は、入って一番左のテーブルの、左奥の席に座るのが常。麻雀の合間に足を遅ぶことが多かったためか、長居はせず、酒を注文しても量はさほど飲まなかった。また、麻雀仲間ではなく、宮城まり子さんや友人と連れ立って来店したことも何度かあったと、女将は記憶している。「テーブル席でお話しされていて、時折、にこっと笑う。その笑顔が素敵でしたね。作家さんというのは物静かなんだな、と思いました」…」。下記に掲載している「サライ」にから引用したものです。吉行淳之介が好きな蕎麦屋として「室町砂場 赤坂店」が書かれています。もっとも、赤坂のよい場所にあるので様々な人がよく知っている蕎麦屋だとおもいます。私は相変わらず「おおもり」を頼んでしまいました。すると、写真を見ると分かりますが、薬味の小皿(ねぎとわさび)が二つ来ました。美味しかったです。

左上の写真は「室町砂場 赤坂店」です。周りは高層ビルばかりです。この付近では二階家の木造はこの「室町砂場 赤坂店」のみでした。「…「戦後室町砂場の名声が高まり、砂場に対する認識を深めた功績は特筆に価しよう」 と書いているが、この功績とは、三代目の茂とその弟の亀次郎の時代である。亀次郎は昭和三九年に赤坂に支店(赤坂砂場)を出し、現在は息子の幸一が跡を継いでいる。「室町砂場」と「赤坂砂場」と、一見別の店のようにも見られるようだが、たんに場所を名乗っているだけで経営は一体である。…」。岩崎信也の「蕎麦屋の系図」からです。室町砂場のパンフレットには自店だけではなく「室町砂場 赤坂店」も書かれていました。

「サライ」
<サライ>
 今年(2007年3月15日)に発行された「サライ」の「特集 ダンディズムを貫いた『機微の人』吉行淳之介」から引用します。”機微”とは辞書で引くと「表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情」の意味で、吉行淳之介にびったりとおもいます。「…男と女をテーマにした、独特の筆致の作品を数多く残した作家・吉行淳之介。気遣いの人、含羞の人などともいわれた彼は、繊細だが弱くはなく、人や物事に距離を置きながらも醒めてはいなかった。執筆の傍ら、飲み、打ち、遊ぶことに精を出し、「銀座」と「女性」と「病気」に生涯愛された。そんな作家が好んだ味や逸品などを紹介しつつ、ダンディズム溢れる、最後の紳士の全貌を探る。」。後は本を買って読んでください。本では無くて雑誌かな!!

左上の写真は「サライ」2007年3月15日発行です。吉行淳之介の表情がなんともいいですね。「…「食事をするときの剥き出しのなまなましい感じは、どこか性行為に似ているところがある」 …」。食事と性行為は同じだと言った方もいたような気がします。

「乃なみ」
乃なみ>
 ついでなのですが、上記に書かれている吉行淳之介がよく麻雀をした「乃なみ」について掲載しておきます。ここでは黒鉄ヒロシ氏に「乃なみ」について説明するため登場してもらいました。「…場所は赤坂の「乃なみ」という旅館。「麻雀のメンバーが今夜足りないんだけど、タロちゃん、やる?」と、福地泡介さんに誘われたのが、三十数年前。当時、二十歳代の前半だったぼくは他の二人のメンバーの名前を聞かされて腰が引けた。 吉行淳之介と芦田伸介。芦田さんは、大人気のTVドラマ「七人の刑事」が終了したばかりのころで、街中で出喰わした警察関係者が敬礼をした時代。吉行さんは、ぼくの年齢では既に高校の文学史の教科書の最後のほうにお名前が載っていた。…… 旅館とは名ばかりで、「乃なみ」は普通の客は泊めず、と書いても、宿泊者が異常であった訳ではなく、鴨川から出てこられた際の近藤さんの定宿である以外の利用の専らは、二、三の出版社の誌上麻雀の席と、二十人ほどの「乃なみ」のメンバーが場を占めた。場所柄の所為か、時折、連れ込み旅館と間違えた男女が迷い込んできたが、抜け番であったり、見学のために居合わせたぼくは喜んで応対に出て「お泊まりですか、ショートですか、ご夫婦ですか」と根掘り葉掘り訊き出しておいては、断った。…」。黒鉄ヒロシ氏のエッセイはいつ読んでも面白いです。特に芸能人とのお付き合いのお話は特にいいですね。

左上の写真の左側のビルから三軒目が「乃なみ」です。もうビルになっており一階は料理屋さんでした。上記に書いてある通り、一見のお客はいまも入れてくれないのでしょうか(旅館はもう営業していないようです)。

「上野時代の乃なみ跡」
上野時代の乃なみ跡>
   2008年6月1日 上野時代の「乃なみ」を追加
 上記の「さらい」に上野時代の「乃なみ」で吉行淳之介と女将が花札をしている写真が掲載されていました。上野時代の「乃なみ」について少し調べてみようとおもい、野坂昭如の「東京十二契」を参考にして上野時代の「乃なみ」を探してみました。
 「…谷中から車に乗り、天神下へむかった、湯島の切通しを下って、すぐ右へ、美術商「羽黒洞」の、ものものしい構えを過ぎたところに、割烹「魚志ん」の店がある。歩いて一分もかからぬ一劃だが、年月を経た木造三階建ての、珍しい家並み。「魚志ん」には、食通丸谷才一氏に連れていっていただいたのだが、その味のほどは、すでに氏が麗筆をもって、余すところなく紹介なきっている。天神下の十字路を中にして、はすっかいの辺りに、以前、旅館「乃なみ」があった。昭和四十年代初頭か、ぼくはここで、吉行淳之介氏、近藤啓太郎氏、阿川弘之氏とよく麻雀の卓をかこませていただき、文壇の一端をうかがう栄に浴したのだが、昭和四十四年の秋、ある出版社から対談のゲラがここへ届いて、すぐに手を入れなければならない。…」
 野坂昭如の「東京十二契」の中の「想い湯島の切り通し」に詳しく書かれていました。上野時代の「乃なみ」の場所を吉行淳之介は”上野”と書き、野坂昭如は”下谷”(電話番号は下谷局だった)と書いていましたが、上記の文章で詳細の場所が分かりました。

左上の写真の路地を入った左側にありました(天神下交差点(美術商「羽黒洞」は写真の右側奥のマンションのなかにあります)から御徒町駅方向に北側二筋目の路地です)。現在はクラブ?になっていました。直接の写真は控えさせていただきました。「魚志ん」の写真(左側)も掲載しておきます。建物は建て直されていました。

「室町 砂場」
室町砂場>
 赤坂店の本家、「室町砂場です。ここでも岩崎信也の「蕎麦屋の系図」を参照します。「…現在の「室町砂場」が「糀町七丁目砂場」 から暖簾分けで独立したのは、幕末の慶応年間(一八六五〜六八)のことである。慶応年間といえば、諸物価の騰貴から従来一六文だったそばの値段が二〇文になり、さらに二四文まで値上がりした時代だ。というより、三年秋には二六四年続いた徳川政権が崩壊(大政奉還)するなど、明治維新に向けて世相も大混乱の時代であった。最初に出店したのは、芝高輪の魚藍坂 (現・港区三田、高輪近辺) のあたりである。魚藍坂という地名は、この地に祀られていた魚藍観音に由来するもので、いまも坂の名として残っている。日本橋に移転して新たに店を構えたのは維新後の明治二年。…」。立派なビルです。しかし中に入ると昔の蕎麦屋の雰囲気そのままです。いいですね!!

左上の写真は「室町砂場」の正面玄関です。少し前の話ですが仕事現場に近かったので昼によく食べにいきました(いつも「おおもり」でした)。お客様の年齢層はかなり高いです。昼からお酒を飲みながら蕎麦を食べている方がかなりいらっしゃいました。私もまねをしたかったです。「…店は昭和四九年に表通りからすぐ近くの横町を入った奥に引っ込み、四階建てのビルになっている。けれども、ビル内とはいえ、表口周囲に配した植え込みや、店内から眺められる中庭は手入れが行き届いていて、都心商業地とは思えない落ち着いた空間をつくり出している。…」。昭和49年に江戸通り近三ビル左隣(写真は江戸通りで正面のビルが近三ビル)から100m程引っ込んだ場所に移っています。以前より大きなお店になったようです(場所は下記の地図参照)。


砂場 乃なみ 地図



「南千住 砂場」
南千住 砂場>
 東京(江戸)の砂場で最も古いお店の一つです。元々は麹町にあったのですが諸般の事情で南千住に移っています。「…文化一〇年(一八一三)境の文献に登場し、嘉永元年(一八四八)には江戸名物のひとつとまで評価された「糀町七丁目砂場藤吉」の店(現在は「南千住砂場」)は、江戸から明治と世情が変わっても繁栄を続けたようである。幕末維新の動乱の時代をかいくぐりながらよく暖簾を守り、さらに「本石町砂場(現・室町砂場)」と「琴平町砂場(現・虎ノ門砂場)」と、二軒の名店を輩出している。当主の長岡孝嗣は一四代目にあたる。 この店は「巴町砂場」とともに江戸時代から続く老舗であり、江戸・東京を代表する「砂場」の暖簾である。…」。昔のお店は代が変わってしまうことが多いのですが、「砂場」はよく守りとおしています。このお店の「おおもり」の写真を掲載しておきます。

左上の写真は南千住 砂場です。戦災で焼けていますので、戦後の建物だとおもいます。それにしても蕎麦屋の風情があります。このお店も気に入りました。室町砂場とは相反する所にいます(蕎麦の味のことではありません)。

「虎ノ門 砂場」
虎ノ門 砂場>  2008年6月1日 写真を入換
 「南千住 砂場」の系列のお店です。系列といっても暖簾分けが明治5年ですから、独立してしまっていますね。「…明治五年、「椛町七丁目砂場」から暖簾分けされた「琴平町砂場」が創業する。初代の名は稲垣音次郎といい、名古屋地方の出身である。…」。とにかく場所がいいです。虎ノ門一丁目で官庁街にも近く、昼はお客様でいっぱいです。ここでも「おおもり」の写真を掲載しておきます。

右上の写真が虎ノ門 砂場です。2008年早々に建て直されましたので写真を入れ換えました。

「巴町 砂場」
巴町 砂場>
 建物がビルに変わっています。こちらも東京で最も古い暖簾のお店の一つです。「…天保一〇年(一八三九)、「久保町すなば」は虎ノ御門からそれほど離れていない天徳寺門前町(現在「巴町砂場」のある虎ノ門三丁目)に移転する。萩原によれば、久保町にあった町家がすべて立ち退きになったためという。…… なお、昭和五二年の住居表示の変更によって西久保巴町は虎ノ門三丁目に変わっているが、店名では明治以来の「巴町」の名はそのまま残されている。…」。少し前にビルになっているので以前の写真を取り損ないました。

左上の写真は巴町 砂場です。地下鉄日比谷線神谷町駅から直ぐの所にあります。お昼はいつもいっぱいです。「おおもり」の写真を掲載しておきます。

次回は砂場発祥の地、大阪を歩きます。系列図も掲載予定です。