<孫文と横浜 展>(この項は前回の「孫文(孫中山)を歩く 横浜編
-1-」と同じです)
孫文関連で神奈川(横浜)、東京に関して良い本はないかと探したのですが、辛亥革命等の革命に関する本はあるのですが、孫文の所在について詳細に書いてある本はなかなか見つかりません。その中で、横浜で平成元年(1989)に開催された「孫文と横浜
展」の図録がたいへん参考になりましたのでこの図録を元にして少し歩いて見ることにしました。
「孫文と横浜
展」の図録からです。
「ご挨拶
本展は、有隣堂創業80周年を記念し、北京大学図書館と有隣堂の共催により、近代中国における民主主義革命の先駆者であるとともに横浜にゆかりの深い辛亥革命の指導者・孫文と、5年にわたる亡命の地・横浜にスポットをあて、孫文と日本のかかわりを日中両国の貴重な資料でたどりながら、その巨大な足跡と横浜あるいは日本の果たした役割を、広く一般の方がたに紹介するものです。孫文が大きな時代の流れの中で民主的国家建設と平等な国際社会の樹立をめざし革命運動の拠点とした横浜との関係、さらにその現代史的意義をこの横浜における展覧会でふり返ることは、学術的にも歴史的にも意義あることと確信する次第です。ぜひご高覧くださいますようお願い申しあげます。
最後に本展開催にあたり心よく資料の出品にご協力いただきました所蔵者の方がた、ならびに関係各位に厚く御礼申しあげます。
平成元年11月 株式会社有隣堂
代表取締役社長松信 泰輔」
孫文が亡くなってから89年経ちます。あと11年で100年です。日中関係はぎくしゃくしたままですが、11年後は良くなっていると期待しています。
★写真は平成元年(1989)11月に開催された「孫文と横浜
展」の図録です。主催は有隣堂と北京大学図書館です。会場は横浜馬車道・有隣堂ギャラリーでした。
【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun
Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)
<孫中山年譜長編 中華書局>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。前回から原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、ロンドンでの幽閉後のカナダ経由の日本への訪問のところの記述です。明治30年(1897)8月です。
「… 8月2日(七月初五日)乗“印度皇后號”輪船赴横濱。
偵探報告:”8月2號上午約11點,離開李元昌公司前往加拿大太平洋輪船公司辦事處,將中等艙換成頭等艙,辦事處職員在海關將該人交給孟科,他離開後,偵探看到了他交出的中等票和多付的一百元。
‘印度皇后號'預定晩7點半到達,但是晩點直到8點牛爾未抵達。
約晩8點,該人離開李元昌公司,由公司的一些人陪伴乗馬車去碼頭。他的朋友卸下行李並加以核對,行李上標明‘孫逸仙',上面提到的船票上也寫着‘孫逸仙醫生'的字様。船到達時,他看見上面有一些著名的日本官員,於是讓朋友們注意他們。上船後被安排到一間貴賓室。興朋友們告別後,開船鈴聲就響了。
査實沒有中國人乗此船歸國,但有一些著名的日本官員,他們是參加英國女王慶典後歸國的。
秘密會見了加拿大太平洋輪船公司在維多利亜的正式代理人,一位名叫莫成(譯音)的著名華人,證實孫前往横濱實行某種在倫敦時已長期傾注心力的計劃,其它尚不清楚。莫成説孫兩年來一直在倫敦研究醫學,讓我們的偵探知道他打算在東方行醫。”(《中山先生倫敦被難史料考訂》第169-170頁)
新任駐英公使羅豐祿通知司頼特偵探社不再繼讀跟蹤,但曾廣銓隨同登輪。
8月16日(七月十九日)∇抵達横濱。
日本外務省檔案記:“清國廣東省廣州府香山縣人孫逸仙,因反對清國現政府政策,並於光緒二十年九月在清國廣東省城其顛覆企圖被發覺,而逃往英領香港。其後經美國航赴英國。在倫敦停留期間,1896年8月被駐英清國公使逮捕並拘禁該公使館中。英國政府聞之,以其係逃亡國事犯爲名,請求釋放。結果,孫逸仙獲釋,仍居其地。此次乗英國輪船‘印度皇后號'來濱,在居留地第一百一十九番陳璞處住宿。據他説,有一名清國官吏従英國跟蹤而來。”(《明治30年8月18日紳奈川縣知事中野繼明致外務大臣大隈重信,秘甲第403號)“在英國清國公使館三等書記官少侯爵曾廣銓自英國追蹤孫逸仙而來,目下於居留地二百廿一番清國人曾卓軒處住宿。孫逸仙抵達時,東京清國公使館屬員書記官某來濱,於孫逸仙上陸之際進行辨認,發電報後歸京。”(明治30年8月21日神奈川縣知事中野健民致外務大臣大隈重信,秘甲第410號)…」
JIS第三水準でも漢字が表示出来るようになったのですが、相変わらず意味がはっきり分かりません。仕方が無いので翻訳サービスを使っています。(正確な翻訳が出来ずに困っています)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。
<「辛亥への道 孫文」 陳舜臣、中公文庫>
上記の「孫中山年譜長編 上冊」が中国語でよく分からないので、陳舜臣の「辛亥への道
孫文」を参照します。この本と、上記の「孫中山年譜長編 上冊」 を見比べてもらいます。直接の訳ではありませんが、同じような筋書きになっていますので、非常に参考になります。
陳舜臣の「辛亥への道 孫文」から、ロンドンでの幽閉後のカナダ経由の日本訪問のところです。今回は明治30年(1897)8月です。
「… 中山樵
孫文がロンドンからカナダ経由で横浜に着いたのは、一八九七年八月十六日のことであった。横浜はかつての亡命の地で、いくらか孫文も地理を知っていた。 もともと孫文は中国で革命を起こそうとしたので、日本のように遠くはなれた土地よりも、中国の一部といえる香港を革命の基地としたかった。
人を介して打診したが、香港政庁は五年の入境禁止を変更するつもりはないことがわかった。
孫文がバンクーバーから乗ったエンプレス・オブ・インディア号には、イギリスの清国公使館の三等書記官の曾広銓が、これみよがしに乗りこんできた。そして、またこれみよがしに横浜で下船したのである。…」
「孫中山年譜長編」の”印度皇后號”はYahoo翻訳すると:”インド皇后の号”なのですが、陳舜臣の「辛亥への道 孫文」では”エンプレス・オブ・インディア号”です。”イギリスの清国公使館の三等書記官の曾広銓が、これみよがしに乗りこんできた。そして、またこれみよがしに横浜で下船したのである。”は「孫中山年譜長編」では”在英國清國公使館三等書記官少侯爵曾廣銓自英國追蹤孫逸仙而來”で、何となく分かります。
★写真は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」中公文庫版です。たいへん面白く読むことができました。よく調べて書けている本だとおもいます。大変参考になります。
<居留地第一百一十九番陳璞處住宿>
明治30年(1897)8月16日、孫文は横浜に到着します。ロンドンで清国公使館に幽閉された後、イギリス政府の尽力で釈放され、カナダ経由で日本に向います。香港では活動できないため、日本で革命運動を指揮しようとしたためでした。そして明治28年の訪問時に日本に残った陳少白が横浜におり、孫文の面倒を見ます。(下記に”陳璞處住宿”と書いてあるが”陳”は名前なのだが次の”璞”の意味がよくわかりません、”陳璞”で”陳少白”のことなのか、何方か分かりませんか?)
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「 8月2日(七月初五日)乗“印度皇后號”輪船赴横濱。
偵探報告:”8月2號上午約11點,離開李元昌公司前往加拿大太平洋輪船公司辦事處,將中等艙換成頭等艙,辦事處職員在海關將該人交給孟科,他離開後,偵探看到了他交出的中等票和多付的一百元。
‘印度皇后號'預定晩7點半到達,但是晩點直到8點牛爾未抵達。
約晩8點,該人離開李元昌公司,由公司的一些人陪伴乗馬車去碼頭。他的朋友卸下行李並加以核對,行李上標明‘孫逸仙',上面提到的船票上也寫着‘孫逸仙醫生'的字様。船到達時,他看見上面有一些著名的日本官員,於是讓朋友們注意他們。上船後被安排到一間貴賓室。興朋友們告別後,開船鈴聲就響了。
査實沒有中國人乗此船歸國,但有一些著名的日本官員,他們是參加英國女王慶典後歸國的。
秘密會見了加拿大太平洋輪船公司在維多利亜的正式代理人,一位名叫莫成(譯音)的著名華人,證實孫前往横濱實行某種在倫敦時已長期傾注心力的計劃,其它尚不清楚。莫成説孫兩年來一直在倫敦研究醫學,讓我們的偵探知道他打算在東方行醫。”(《中山先生倫敦被難史料考訂》第169-170頁)
新任駐英公使羅豐祿通知司頼特偵探社不再繼讀跟蹤,但曾廣銓隨同登輪。
8月16日(七月十九日)∇抵達横濱。
日本外務省檔案記:“清國廣東省廣州府香山縣人孫逸仙,因反對清國現政府政策,並於光緒二十年九月在清國廣東省城其顛覆企圖被發覺,而逃往英領香港。其後經美國航赴英國。在倫敦停留期間,1896年8月被駐英清國公使逮捕並拘禁該公使館中。英國政府聞之,以其係逃亡國事犯爲名,請求釋放。結果,孫逸仙獲釋,仍居其地。此次乗英國輪船‘印度皇后號'來濱,在居留地第一百一十九番陳璞處住宿。…
…
陳少白記述:“到横濱登岸,天還沒有亮,他到我家裏來,我還沒有起來。…」
上記には”8月16日、カナダ太平洋汽船会社のエンプレス・オブ・インディア号で横浜に到着”と書いていますが、私が調べた限りでは、
客船エンプレス・オヴ・インディア(Empress of India)はイギリスの船会社カナディアン・パシフィック・ラインズ(CPL)の所属で、北太平洋航路(ヴァンクーヴァー〜横浜〜香港間)に就航していました。この船は政府補助により1891竣工し1902年8月17日、香港沖で清国巡洋艦寰泰と衝突し寰泰を沈没させています。
★写真右側にある広東会館が118-2番なのでその左隣のNTTのところが居留地119番と120番になります。ですから次の角までの右半分が119番となります。明治30年(1897)8月16日、横浜到着後の宿泊先です。”陳少白記述:“到横濱登岸,天還沒有亮,他到我家裏來,我還沒有起來。”と書いていますので、Yahoo翻訳すると”横浜まで岸に登って、空はまだ張り上げなくて、彼は私の家まで、私がまだ起きなくに来ます。
”となり、整理すると”陳少白記述:明け方早く横浜で上陸し、まだ私が起きていないうちに自宅に来られました。”となります。9月上旬、ここで孫文は宮崎滔天と初めて会います。
<居留地二百廿一番清國人曾卓軒處住宿>
イギリスの清国公使館の三等書記官曾廣銓が孫文と同じ船に乗って横浜で下船しています。監視のために同道したものとおもわれます。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「…據他説,有一名清國官吏従英國跟蹤而來。”(《明治30年8月18日紳奈川縣知事中野繼明致外務大臣大隈重信,秘甲第403號)“在英國清國公使館三等書記官少侯爵曾廣銓自英國追蹤孫逸仙而來,目下於居留地二百廿一番清國人曾卓軒處住宿。孫逸仙抵達時,東京清國公使館屬員書記官某來濱,於孫逸仙上陸之際進行辨認,發電報後歸京。”(明治30年8月21日神奈川縣知事中野健民致外務大臣大隈重信,秘甲第410號)…」
イギリスの清国公使館の三等書記官曾廣銓は横浜到着後、居留地221番曾卓軒宅に宿泊しています。明治16年(1883)8月、居留地135番地(現在の山下町公園)に清国領事館の新館が落成しており、三等書記官曾廣銓が横浜到着後なぜ領事館を訪ねなかったかは不明です。
★写真の正面が居留地221番地附近です。丁度角になります。日本の官憲が孫文と
イギリスの清国公使館の三等書記官曾廣銓、東京清國公使館屬員書記官某の三人を監視していたのが良く分かります。
<横濱加賀町警察署長官邸>
孫文と陳少白は到着の翌日、加賀町警察署長官邸を訪ねています。孫文の保護を求めるためでした。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 8月17日(七月二十日)前往横濱加賀町警察署長官邸拜訪。
十日本外務省檔案記載:“17日午後3時,孫逸仙由居留地第一百十九番陳璞介紹,柱加賀警察署長官邸拜訪,稱此次於本月16日乗英船‘印度皇后號'抵達此地,在陳璞處住宿。但有一名清國官吏従英國跟蹤而來,唯恐在日本帝國居留期内遭到清國官吏非法逮捕或限制自己的意志。雖確信這是漠視日本帝國主権的行焉,然而懇切要求給予在英國時受到的同樣的直接或間接保護。署長将此中述内容記下,内部予以呈報。該人於昨日(22日)提出入境特許中請書,已獲批准。営加以警衛,使該人見遭清國官吏濫捕之災。”(明治30年8月21日~奈川縣知事中野繼明致大隈重信外務大臣,秘甲第410號)8月27日大隈重信將中野繼明所報函告駐華公使矢野文雄。(日本外務檔存原函副本)…」
陳舜臣の「辛亥への道 孫文」から
「…横浜に着くと、すでに日本語が不自由なく操れるようになっていた陳少白とともに、加賀町警察署長公舎を訪ね、イギリスの新聞を見せ、事件を説明して、保護を求めた。
「とうぜん適当な警備は致します。一昨年の下関の事件のような国辱的な問題は起こさせません。あれは日本の武士道を辱めましたよ。去年ロシアの戴冠式の帰りに、李さんはまだ怒って、こちらに寄っても船から下りなかったそうですな。残念です。一部の不心得者のために、日本人ぜんたいがそうだと思われてはねぇ」 加賀町署長は、一昨年の下関事伴のことをしきりに詫びて、警備を保証した。
「これからが大事です。過き去ったことは、戻りません」
陳少白はそう言った。…」
”一昨年の下関の事件”とは、明治28年(1895)3月24日、日清戦争後の講和条約交渉中の清の全権大使李鴻章が宿舎へ戻る途中、小山豊太郎がピストルで襲撃した事件とおもわれます。李は顔面の負傷で済みましたが、日本側はテロ事件の発生に対する列強の批判や干渉を恐れ、清との3週間の休戦に応じ、また、講和での対清要求も、若干譲歩したようです。
★右上の写真が現在の加賀町警察署です。当時と場所は変っていません。ただ、署長公舎がここにあったかはわかりませんでした。もう少し調べてみます。
<横濱中西學校>
孫文が横浜に来る前から中国学校を作る計画があったようです。陳少白の提案は正式に中国学校を開いて華僑子弟を育成して革命教育も合せて行なう。場所は横浜中華会館を所在地とし、経費の半分は会館から出すこととし、残りの半分は募金としたようです。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 秋 籌建横濱中西學校。
先生到横濱前,黎煥墀、郭雅生常請陳少白於晩間教授中國文字。少白提議正式開辨中國學校,培養華僑子弟,籍以宣傅革命主張,並與曾根俊虎計議。經横濱中華會館全體會議討論,決定以該會館爲校址,經費半由會館産業劃出,半由募捐。陳少白赴臺灣前,將此事轉託先生。(《興中會革命史要)先生乃與犬養毅等商,擬在東京開設中國語學堂,“因可招我輩同志過來,名爲教習,内可商議舉事之策。”(《孫中山全集》第1巻第177-178頁)後中華會館校董欲由國内延聘新學之士爲教員,就商於先生,先生乃薦梁啓超充任校長,並代定名爲中西學校。該校總理鄺汝磐持先生介紹函専程往上海見康有爲。(徐勤《日本横濱中國大同學校書後》,1897年12月14日〈知新報〉第4O册)康以梁啓超方任《時務報》主編,特派徐勤代之,並助以陳蔭農,陳獣庵,湯覺頓等。且謂中西二字不雅,更爲易名大同,親書“大同學校”四字門額爲贈@。(《中華民國開國前革命史》第1册第33-41頁)…
…
@ 關於中西學校籌建事,史料記載分岐頗多,姑綜述於此。寫介紹函者,陳少白《興中會革命史要》及馮自由《革命運動二十六年組織史》記爲陳少白。…」
陳舜臣の「辛亥への道 孫文」からにはこの項は書かれていませんので、「孫文と横浜展」の図録を参照します。
「大同学校(140番)
1897年(明治30)、與中会横浜支部長の馮鏡如ら横浜華僑は、子弟教育のために学校設立を孫文に依頼した。孫文は「中西学校」を創立したが、康有為によって1899年「大同学校」と改められた」
とあります。
★右上の写真の関帝廟のところが居留地140番です。関帝廟は明治24年(1871)には現在地に出来ていますので、居留地141番(関帝廟の左隣)も含めてこの場所に中華会館もあったのではないかとおもわれます。神戸大学の伊東さんの「横浜華僑華人に関する多様な歴史資料について」の論文の中に、関帝廟と中華会館の関係について書かれたところがあり、その論文を参考にすると、ほとんど一帯と考えてよいようです。ですから、初期の大同学校跡は現在の関帝廟のところ+左側の居留地141番となります。大同学校は関東大震災後、中華公立学校となり、大戦中は閉鎖されますが戦後再建され横浜中華学院となります。その後ご多分にもれず学校が二つに分裂してしまいます。一つは場所を引き継いだ
横浜中華学院であり、もう一つは
横浜山手中華学校です。横浜中華学院内には
孫文の銅像があります。
下記の明治29年、明治38年、現在の地図を参照してください。
続きます。