●孫文を歩く 横浜編 (鶴見 總持寺)
    初版2014年3月 8日  <V01L03>  暫定版

  久しぶりに「孫文(孫中山)を歩く」を掲載します。何年ぶりかとおもったたら、3年ぶりでした。今回は神奈川(鶴見、横浜)と東京を歩きます。孫文の日本滞在については比較的資料が揃っているのですが、何せ明治時代後半から大正時代にかけてですので、詳細は不明のことが多く調査不足のところもあります。まず最初は鶴見の總持寺を歩きます。


「孫文と横浜 展」
<孫文と横浜 展>
 孫文関連で神奈川(横浜)、東京に関して良い本はないかと探したのですが、辛亥革命等の革命に関する本はあるのですが、孫文の所在について詳細に書いてある本はなかなか見つかりません。その中で、横浜で平成元年(1989)に開催された「孫文と横浜 展」の図録がたいへん参考になりましたのでこの図録を元にして少し歩いて見ることにしました。

 「孫文と横浜 展」の図録からです。
「ご挨拶
  本展は、有隣堂創業80周年を記念し、北京大学図書館と有隣堂の共催により、近代中国における民主主義革命の先駆者であるとともに横浜にゆかりの深い辛亥革命の指導者・孫文と、5年にわたる亡命の地・横浜にスポットをあて、孫文と日本のかかわりを日中両国の貴重な資料でたどりながら、その巨大な足跡と横浜あるいは日本の果たした役割を、広く一般の方がたに紹介するものです。孫文が大きな時代の流れの中で民主的国家建設と平等な国際社会の樹立をめざし革命運動の拠点とした横浜との関係、さらにその現代史的意義をこの横浜における展覧会でふり返ることは、学術的にも歴史的にも意義あることと確信する次第です。ぜひご高覧くださいますようお願い申しあげます。
 最後に本展開催にあたり心よく資料の出品にご協力いただきました所蔵者の方がた、ならびに関係各位に厚く御礼申しあげます。
                             平成元年11月  株式会社有隣堂
                                 代表取締役社長松信 泰輔」

 孫文が亡くなってから89年経ちます。あと11年で100年です。日中関係はぎくしゃくしたままですが、11年後は良くなっていると期待しています。

写真は平成元年(1989)11月に開催された「孫文と横浜 展」の図録です。主催は有隣堂と北京大学図書館です。会場は横浜馬車道・有隣堂ギャラリーでした。

【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)

「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局>
 もう一冊、孫文の日本での行動を詳細に書いた本を見つけました。日本だけではなく、孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「…11月12日(九月二十六日)午後四時,”廣島丸”離神戸開往横濱。(《神戸又新日報》1895年11月12日)
  11月13日(九月二十七日)抵横濱、旋組建興中會分會。
  抵横濱後、登岸?到譚發、由譚為之租得一個樓面、復歸船偕陳少白、鄭士良上陸。(《興中會革命史要》)一二日後、経譚發介紹、訪馮鏡如干外國人居留地五十三番地文経印刷店A。馮即請三人下榻于店中二樓、並激馮紫珊、譚發(均昌洋服店主人)、梁達卿、黎炳垣(煥ち、法國郵船公司華経理)、趙明楽、趙?琴(均為廣福源商號主人)、温遇貴(某洋行買辨)等十能人會商組織興中會事。衆奉鏡如為會長、趙明楽為管庫、趙?琴為書記、紫珊、有登、炳垣等為幹事。半月後復設會所於外國人居留地一百七十五番、陸績加入者有温芽(炳臣)、鄭暁初、陳才、陳和、黄?文、梁簡卿、(東昌打包店主人)陳植雲、馮?龍(後易名自由)等十餘人。是時族日華僑尚多目革命排湯具大逆不道、故會員咸有戒心。…」

 全て中国語で書かれていますので、日本語の漢字に変換できないものは”?”で表しています。店名、番地は分かりますが、人の名前は当てはまる漢字がないと分かりません。日本語の本と見比べて判断するしかありません。困ったものです。

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「JR鶴見駅」
<JR鶴見駅>
  先ずは「孫文と横浜 展」の図録から、神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺を歩いてみます。總持寺の最寄駅はJR京浜東北線の鶴見駅か、京急鶴見駅です。JRの鶴見駅は川崎から横浜に向って次の駅で、鶴見線の始発駅としても有名です。鉄道ファンの撮り鉄の皆さんがウロウロしている駅です。駅としては古く、明治5年(1872)10月15日の日本の鉄道開業における新橋 - 横浜間の駅として同時に開業しています。

右の写真は現在のJR鶴見駅です。木の陰で見にくいですが、JR鶴見線の電車が止まっています。黄色い電車です。駅は再開発のまっただ中でした。何年後かには綺麗な駅になっているとおもいます。古い駅が無くなっていくのはさびしい限りです。

 鶴見線で古風な駅があります。鶴見の次の駅、国道駅です。第一京浜国道の横にある駅なので名前が付いたとおもいます。昭和5年に出来た駅で、改札口プラットホーム当時そのままで改築等がされていません。2007年の木村拓哉主演テレビドラマ『華麗なる一族』最終話など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用されています。(ウイキペディア参照)

「總持寺入口」
<總持寺入口>
 總持寺に向うには、駅西口を出て南に向います。線路沿いに南に400mで總持寺の入口です。入口を見てびっくり、本当に大きなお寺です。関東一円でも一二を争う大きさではないでしょうか!

 【總持寺(そうじじ)】
總持寺は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院です。山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。境内にある鶴見大学を運営しています。能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、「總持寺」の前身です。能登の「總持寺」は明治31年(1898)火災で焼失し、明治44年(1911) 現在地の鶴見に移転。現在、旧地に總持寺祖院(石川県輪島市門前町)があります。「總和会」(總持寺派)の中心寺。總持寺は石川県から神奈川県に移転してきた寺院であるため、堂宇の大部分は近代の建立ですが、他所から總持寺へ移築された建物のうちには、近世末期のものも若干あります。大祖堂、三門などは太平洋戦争後に建立された鉄筋コンクリート造ですが、仏殿をはじめとする主要建物の多くは20世紀前半(大正時代〜昭和時代前期)の本格的な木造建築です。2005年に仏殿など16件の建造物が登録有形文化財に登録されています。境内には横浜市で起こった鉄道事故である桜木町事故(1951年)と鶴見事故(1963年)の慰霊碑が建立されています。又、太平洋戦争中、東京警備軍横浜警備隊が置かれており、この部隊が昭和20年(1945)8月15日終戦反対の反乱を起こし、総理大臣官邸や鈴木貫太郎総理大臣宅に押し入り火を放ったりしています。(ウイキペディア参照)

写真は總持寺の入口です。学校も運営されており、学校法人総持学園として、三松幼稚園、鶴見大学附属中学校・高等学校、鶴見大学、さらに社会福祉法人諸岳会として、總持寺保育園、精舍児童学園等を経営されています。そのためか、若い学生が多い町になっています。境内を多くの学生達が歩いていました。

「黄君克強之碑」
<黄君克強之碑>
 「孫文と横浜 展」の図録を参考にして總持寺を歩きます。孫文がこの總持寺を訪ねた訳ではありません。孫文関連、辛亥革命関連と言った方が良いとおもいます。この總持寺には孫文関連の碑が二つあります。一つ目がこの「黄君克強之碑」です。入口を入って少し歩くと總持寺の総門「三松関」があり、そのまま進むと「三門」です。三門の先を右に曲がって進むと「本堂」、真っ直ぐは駐車場になります。「黄君克強之碑」の場所が分からず、お聞きしてやっと場所が分かりました。駐車場に入る直ぐ手前の左側にある小径を入って、坂を登っていくと、左側の木立の中に「黄君克強之碑」があります。犬養木堂(毅)の筆です。

【黄興(こうこう)1874年10月-1916年10月】
 黄興は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称される。湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになる。1901年に来日し東京で弘文学院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進める。1905年に孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織し、「滅満興漢・民国革命」をスローガンとし、中国革命運動に転機をもたらす。黄興はその後、1908年には雲南省河口で挙兵したが失敗し、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺った。1911年4月、同盟會組織の第三次広州起義では、趙聲が総指揮、黄興が副総指揮となった。その後の清軍の反撃によって市街戦となり計画は失敗し、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出した(黄花崗起義)。ところが同じ年に武昌起義が勃発したので、黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくる。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となったが、その後副元帥となる。南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握した。1912年(民国元年)に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになった。1913年3月の第二革命には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしたが敗れ、日本をへてアメリカに逃亡した。1915年に袁世凱が皇帝を称し第三革命が始まると日本に赴き、その翌年に上海に帰った。当時は孫文一派と感情的に衝突していたが、次第に融和し、護国軍や旧国会議員と連絡を保ち種々画策するところがあったが、1916年に上海で病死した。(ウイキペディア参照)

右上の写真は現在の「黄君克強之碑」です。この碑は当然ですが、黄興が死去した後に建てられたようで、大正7年(1918)12月8日の讀賣新聞朝刊に”黄君の碑”という記事が掲載されています。7日に除幕式があったようです。「孫文と横浜 展」の図録には”鶴見總持寺での黄興追憶会”の写真が掲載されており、其の写真の真ん中に犬養毅が写っています 。「黄興追憶会」の写真は本堂で撮影されていましたので、同じ場所の現在の写真を掲載しておきます。

「放光堂」
<陳其美の追悼会開催場所>
 「孫文と横浜 展」の図録の中に總持寺、孫文関連で掲載された写真が一枚あります。總持寺放光堂前で写された「陳其美追悼会」の写真です。この写真の前列真ん中には 上記で書かれた黄興(こうこう)が写っています。

【陳 其美(ちん きび)1978年1月-1916年5月】
 陳 其美は清末民初の政治家、軍人、革命家。中国同盟会に属した革命派の人士で、陳果夫・陳立夫兄弟の叔父にあたる。1906年夏、日本に留学し、警察関連の学校に入学する。この時、同時期に日本へ留学していた蒋介石と知り合う。同年冬に中国同盟会に加入し、翌年に東斌学堂で軍事を学んだ。1908年陳其美は帰国し、浙江省や北京、天津で同盟会支部の組織に奔走する。1909年夏、浙江省で革命派の蜂起を画策したが、仲間の裏切りにより事前に漏れ、失敗した。1910年(宣統2年)からは、上海で『中国公報』、『民声叢報』といった革命派の新聞社を立ち上げている。1911年(宣統3年)7月、上海に同盟会支部が成立すると、陳は庶務部長に任じられた。10月、武昌起義の勃発と共に、陳其美も上海での蜂起を計画し、11月3日に実行に移した。蜂起は成功し、11月6日、陳は、上海の各層からの推戴を受け、滬軍都督となった。12月2日、南京を占領した。これにより、陳は、南京に孫文を迎え入れ、中華民国の成立に大きく貢献したのである。1912年3月、袁世凱が臨時大総統に就任すると、唐紹儀内閣の工商総長に就任する。1913年7月の二次革命(第二革命)では9月には敗北し、11月に日本へ亡命した。1914年7月、東京で中華革命党が成立すると、陳其美もこれに加入し、総務部長に任命された。その後、帰国して袁世凱討伐活動に従事する。1915年2月から、上海で蜂起を画策し、12月5日に挙兵したが、失敗に終わった。1916年からは、護国戦争(第三革命)に呼応して、引き続き上海等で反袁活動を続けた。1916年5月18日、北京政府側の軍人である張宗昌が放った刺客により、上海の山田純三郎邸で陳其美は暗殺された。享年40(満39歳)。

左上の写真は總持寺放光堂です。全く同じ構図で「陳其美追悼会」の写真があります。大正5年(1916)6月3日の撮影です。

「日本同志援助中国革命追念碑」
<日本同志援助中国革命追念碑>
 もう一つ、碑があります。汪兆銘の銘題による「日本同志援助中国革命追念碑」です。建てられたのは昭和6年(1931)で、9月には満州事変が起こり、翌年には満州国建国となる時代です。この頃の汪兆銘は国民党政権に入っており、辛亥革命に協力した日本人の碑としては問題なかったとおもうのですが、下記にも書いていますがその後の日本に協力したということで、厳しい評価になっています。

 【汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)】
中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派として知られた。光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。明治37年(1904)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、1905年革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。1912年3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化し(第二革命)、1913年、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、1917年、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。1926年3月、中山艦事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。1927年4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。中央常務委員、組織部長に返り咲いた。昭和12年(1937)7月、日中戦争が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。一方、1938年3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。1940年3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された。1944年に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。汪兆銘は中国において「日本に寝返った最悪の裏切り者」として評価されている。また、「中国を裏切った」ということより「国民党を裏切った」という意味合いが強く、このことから台湾での方がより厳しい評価にさらされている。(ウイキペディア参照)

左の写真が現在の「日本同志援助中国革命追念碑」です。駐車場の一番奥の土手のところ、鶴見事故慰霊碑の横に有ります。



鶴見、總持寺j附近地図



孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
12月 孫文は横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱か死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918   52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925   58 3月 孫文死去