<孫中山年譜長編 中華書局>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。前回から原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、明治30年(1897)8月、横浜から東京に移る頃の記述です。
「… 9月(八月)上旬 赴東京拜訪犬養毅。
先是,犬養毅(岡山縣人,號木堂)派可兒長一等赴華調査秘密結社幷研究中國國情。可兒在上海從《毎日新聞》所載倫敦電訊見有“中國興中會領袖孫逸仙目下在英京倫敦蒙韃獲釋,不久他預備従倫敦出發,到日本旅行”的消息。於是調査先生滔動。後在書店偶見《倫敦被韃記》,即將此書摘要釋成日文向犬養報告。到香港後,又従整理舊報中得知先生生年、籍貫、學歴、經歴及近況。分四、五次報告犬養。(《追懐孫中山先生座談會》)宮崎、平山既與先生會晤,即趕回来京,將此事報告犬養毅。犬養表示:“這是扮大禮物,怎能不會他一面”?他們又訪外務省次官小村壽太郎。犬養既表示希望與先生會面,平山、宮崎、可兒三人乃往横濱,陪同先生赴東京牛込區馬場下町犬養寓所。“従犬養的家中辭出之後,我們請孫文住在數寄屋橋旁的對鶴館内。在這館内姓名簿子上寫名字的時候,他要把眞姓名守秘密,寫一個假名字,於是我同曾根俊虎A想了一會,才想到我們來的時候,路過有楽町中山侯爵家的前面,所以最好是將他改寫中山名樵。我們決定之後,就在旅館名簿上寫了中山樵。”B(平山周在追懐孫中山先生座談會上的發言,陳固亭編《國父與日本友人》第129頁,1977年臺北幼獅文化事業公司再版)…」
JIS第三水準でも漢字が表示出来るようになったのですが、相変わらず意味がはっきり分かりません。仕方が無いので翻訳サービスを使っています。(正確な翻訳が出来ずに困っています)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。
<「辛亥への道 孫文」 陳舜臣、中公文庫> 上記の「孫中山年譜長編 上冊」が中国語でよく分からないので、陳舜臣の「辛亥への道
孫文」を参照します。この本と、上記の「孫中山年譜長編 上冊」 を見比べてもらいます。直接の訳ではありませんが、同じような筋書きになっていますので、非常に参考になります。
陳舜臣の「辛亥への道 孫文」から、明治30年(1897)8月、横浜から東京に移る頃の記述です。
「… 横浜に落ち着いた孫文は、やがて東京に居を移した。宮崎滔天たち日本の同志が紹介してくれる政財界の有力者は、たいてい東京に住んでいたのである。
とりあえず孫文は銀座の旅館に移った。清国政府は駐日公使館を通じて、孫文の追放を要求した。…
…
孫文は清朝の表の権威と裏の謀略と、いずれとも戦わねばならなかった。日本の官憲も、必ずしも善意の中立にたつ意見の者ばかりではない。いざとなれば、孫文を清朝に売るほうが、日本のためになると考える者さえいたのだ。
「ともかく彼はおたずね者なんだから、自分で気をつけねばならんよ」
一応、滔天はそう言った。
孫文は日本ふうの偽名を用いた。 中山樵である。
日比谷公園を散策したとき、立派な邸があり、「中山」という門札がかかっていた。孫文はそれを見て、
「中山という姓は、日本では珍しいものですか? それともごくふつうのものですか?」
と、たずねた。もちろん筆談である。
「いや、よくある姓ですよ。私の宮崎よりも一般的でしょうな。この邸の中山は侯爵家だが、乞食にもスリにも中山はいる」
滔天はそう書いた。「ここで目についたのだから、なにかの縁だろう。私の偽名にこれをいただくことにしよう。姓は中山、名は樵。これはキコリという意味だが、子供のころ、私はキコリにあこがれていたんだ」
この孫文の発言は、陳少白が通訳した。日本滞在の長かった陳少白は、「服部次郎」という日本名を用いていた。
孫文がみずからえらんだ中山樵は、あまりにも有名になり、孫文の号のようになって「孫中山」と連用されるほどになった。…」
孫文が偽名に使った「中山侯爵家」は”日比谷公園を散策したとき、立派な邸があり、「中山」という門札がかかっていた。”と書かれていましたので少し探して見ました。参謀本部陸軍部測量局地図(明治十六〜十七年測量)の東京中部に中山邸が掲載されていました。日比谷門の直ぐ東側です。当時は晴海通りがまだ無く、家が建っていたわけです。
当時の地図を掲載しておきます。日比谷公園は明治36年6月に開園ですから、孫文が滞在した明治30年はまだ出来ておらず話しの辻褄が合いません。
★写真は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」中公文庫版です。たいへん面白く読むことができました。よく調べて書けている本だとおもいます。大変参考になります。
<數寄屋橋旁的對鶴館(タイカクカン)> 明治30年(1897)8月、孫文は横浜から東京に向います。東京で最初に宿泊したのが銀座の旅館
対鶴館(タイカクカン)でした。明治22年には東海道線(新橋−神戸間)が全通しており、横浜駅から東海道線に乗り、新橋まで来ものとおもわれます。当時の
横浜駅(初代)は現在の横浜駅とは違って、桜木町駅でした。その後、現在の
地下鉄高島町駅付近に
横浜駅(2代目)が開業(
遺稿があります)、現在の横浜駅(三代目)に移ったのは昭和3年(1928)です。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「 宮崎、平山既與先生會晤,即趕回来京,將此事報告犬養毅。犬養表示:“這是扮大禮物,怎能不會他一面”?他們又訪外務省次官小村壽太郎。犬養既表示希望與先生會面,平山、宮崎、可兒三人乃往横濱,陪同先生赴東京牛込區馬場下町犬養寓所。“従犬養的家中辭出之後,我們請孫文住在數寄屋橋旁的對鶴館内。在這館内姓名簿子上寫名字的時候,他要把眞姓名守秘密,寫一個假名字,於是我同曾根俊虎A想了一會,才想到我們來的時候,路過有楽町中山侯爵家的前面,所以最好是將他改寫中山名樵。我們決定之後,就在旅館名簿上寫了中山樵。”B(平山周在追懐孫中山先生座談會上的發言,陳固亭編《國父與日本友人》第129頁,1977年臺北幼獅文化事業公司再版)…」
明治38年(1905)の東京便覧で「對鶴館」を調べてみると、”對鶴館 京橋区元数寄町二-九 龜岡幸”とありました。この対鶴館は現在はビルになって亀岡家が経営されているようです。
鷲尾義直編「犬養木堂伝(中)」より、
「…平山周は左の如く語つで居る。
「中山」命名の由来
「孫文が初めて犬養さんに會つての歸り途、今晩は東京へ泊つて悠つくり話をしようといふので、京橋の對鶴館
── 今の對鶴ビルデングに泊つた譯です。日本人のやうな風をして。ところが番頭が宿帳を持つて来た。後で書いて置くから下へ行け、と番頭を階下へやつて「サテ何と名前を記けやうかナ」と言ふと、孫は「お前の名前で宜い」と言ふ。「同じ名前ぢや雙だ」「何とでも書いて置け」、何とでも書いていゝ譚だけれども、さてちよつと困る。その時分に中山さん(註、侯爵忠能)の邸が日比谷にあつた。先刻その前を通つで對鶴館に泊つたのだからいそれを思ひ出して中山ときめた。姓は中山でいゝが、名前は何とするかと考へてゐると、孫が筆を執つで中山の下へ「樵」と書いた。日本人の名としてはちよっと可笑しいと言ふと、孫は、「俺は中國の山樵だといふ意味で、樵といふ名前にした」といふ。そんな譚で、初めて中山を名乗つたのです。其晩は其處へ泊つで、翌朝横濱に歸り、それから吾々は、孫を東京に置ぐ許可を得なければならないので、犬養さんに相談すると、「小村の處へ往って相談して見ろ」と云はれた。…」
よく言われているお話しです。
★写真正面やや左の茶色のビルが対鶴館です。現在も残っていました。銀座四丁目の交差点から晴海通りを日比谷寄りに歩いた数寄屋橋交差点の手前、左側です。
<麹町區平河町五丁目三十番地>
孫文の東京での最初の住まいは麹町区平河町五丁目三十番地の片山營次郎宅です。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 10月12日(九月十七日)東京知事府正式簽發先生僑居證。
先是,宮崎滔天、平山周等力勸先生移居東京,得到住在東京有楽町的片山營次郎幫助,在東京麴町區平河町五丁目三十番地租房居住。平山向外務省次官小村壽太郎報告此事,欲留先生在東京居住。小村以中日戦争方告結束,將反清革命黨人庇護在日本,恐引起清政府誤解日本援助革命黨人,故表爲難。後犬養與大隈重信商議,大隈決定援引外國人居留地以外地,特許聘用外國人方式辦理。営由外務省勅任參事官尾崎行雄與東京府知事久我通久商談。結果先生得以平山周語言教師名義在東京租房,與陳少白同住。是時恰値犬養毅經濟拮据,遂由平岡浩太郎:(iェ人號玄洋,玄洋社首任社長)負擔先生一年生活費用。…」
麹町区平河町五丁目三十番地は震災後の区画整理で道が大きく変っています。目標は近くにある平河天満宮です。この天満宮から場所を推定しました。
★写真の正面左側辺りが当時の麹町区平河町五丁目三十番地、現在の千代田区平河町二丁目10番です。
<因住所靠近清公使館>
どういう訳か、孫文の住まいの平河町が永田町二丁目七番地の清国公使館と近すぎるという話しがでてきます。直線で800m、道なりには900m位ありますので、近いと言うわけではないとおもうのですが、万が一を気にしたようです。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 坂本金禰(岡山縣議員,《山陽新聞》報創始人)亦曾資助先生在東京住月餘,因住所靠近清公使館,又由犬養介紹,遷往早稲田鶴巻町四十番地高橋琢也家,同住者尚有平山周,可兒長一。其間,由宮崎陪同游覧東京名勝,並經犬養介紹與大隈重信晤見,又由平山周陪同訪問もV論吉,及到熊本參観陸軍演習。(《續支回顧録》下册第1210頁:《辛亥革命與我》,《孫中山先生與日本友人》第24-25頁:《追懐孫中山先生座談會》,〈辛亥革命史料選輯》,第21頁:《三十三年之夢》第124-125頁)…」
★右上の写真が正面が衆議院第一議員会館、左手前が旧總理官邸です。この附近に清国公使館がありました。
当時の地図を掲載しておきます。この付近は写真撮影も難しそうだったのでウイキペディアを参照しました。
<早稲田鶴巻町四十番地高橋琢也家>
孫文は平河町二丁目10番からが牛込区早稲田鶴巻町四十番地に引越します。これで清国公使館からは遥かに遠くなります。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 坂本金禰(岡山縣議員,《山陽新聞》報創始人)亦曾資助先生在東京住月餘,因住所靠近清公使館,又由犬養介紹,遷往早稲田鶴巻町四十番地高橋琢也家,同住者尚有平山周,可兒長一。其間,由宮崎陪同游覧東京名勝,並經犬養介紹與大隈重信晤見,又由平山周陪同訪問もV論吉,及到熊本參観陸軍演習。(《續支回顧録》下册第1210頁:《辛亥革命與我》,《孫中山先生與日本友人》第24-25頁:《追懐孫中山先生座談會》,〈辛亥革命史料選輯》,第21頁:《三十三年之夢》第124-125頁)
先生自與宮崎滔天,平山周等交往以來,多次筆談。其重要内容有數端,其一,爲勸阻先生返回中國,“孫:他日舉事,弟必親督士卒攻城襲地。而陳君當留日本與貴政府商辨各事。”“宮崎:就先生旅行券之事,犬養,尾崎,小村三君商議,今清國公使恐先生甚,巌偵査其舉動,故先生遠入内地非得策。暫宜往京地,惧交通來往,使清國公使安心,而後宜待時入内地。今甚不便,唯先生住東京任其自由也。”其二,爲争取日本政府或民間人士支持。“宮崎:弟等舉全力盡先生之事,先生之事東洋之事,東洋之事則世界人権之問題也。”“何若政府不能助者,結合民間之侠士尤易。”並曾提議軍事方面的合作。(宮崎):“我政府幸允先生之所思,先使長軍事之人偵察。…」
この家は松隈内閣時代(明治29年(1896)9月松方正義總理に大隈重信が協力した)に山林局長を勤めた高橋琢也の所有する七百坪の大邸宅でした。700坪は2,310uで一辺50m弱の四角い土地と考えて良いでしょう。高橋琢也はなかなかこの家を貸さなかったため犬養毅の力を借りることになります。
鷲尾義直編「犬養木堂伝(中)」より、
「… 用心をして居るが、どうも支那公使館が餘りに近いから、何處かへ移らうぢやないかといふので、家を探がした。丁度早稽田鶴巷町に高橋琢也君の家がある、高橋君は山林局長をして居つだのを、松隈内閣で罷めさせられたので、自分の住まつで居つた家を貸家にして、自分は後ろの方に引込んだ譚だ、その家が空いてゐる。七百坪位の大きな屋敷だ。そこで犬養さんの家から借りにやつ たが「犬養には貸さぬ」と云ふ。松隈内閣で罷めさせられたから怒つてゐるのだ。ところが犬養さんはあゝいふ人だから、貸さんといふなら、何とかして借らうぢやないかといふので、犬養さんの家に居つた島村と云ふ書生を闘博直(薔岡山新見藩主子爵)さんの家令といふことにして借りにやり、話がきまつたので早速引越した。さうすると犬養さんが「宜し宜し、這入夫」と、直ぐ奥さんと二人で見えた、高橋の住まつで居る家と、こちらと垣根も何も無いから能く見える、さうすると犬養さんがわざと高橋の方を向くんだ。「モウ借り万這入つてしまつたら心配ない」と言つて其處に住むことになつた。宮崎は、郷里に用事があると言つで歸つたので、私と後から来た可兒君とが一緒に住まつて居た。ところが孫も其頃は金が殆んど無い、一文も無い位、こつちも困つて居る。どうしませうと犬養さんに言ふと、「金の事は少ζ困る、有る時は出すが、毎月きちんと出すといふ譚にいかぬ、一つ平岡(浩太郎)に相談したら宜いぢやないか、私が話をして置ぐから、君がよく相談して呉れないか」それから犬養さんに話をして置いて貰つて行つた。平岡さんは宜しいと引受けて呉れて、毎月丁度一年間貰つた譚です。…」
昔は豪快な人が多いですね!!
★右上の写真正面当たりが牛込区早稲田鶴巻町四十番地、現在の住所で新宿区鶴巻町523番地です。写真の手前左側からマンションの向こう側までが50mですので、この一区画ということになります。
<犬養毅邸>
孫文が住んだ牛込区早稲田鶴巻町四十番地は犬養毅の邸宅から非常に近いところにありました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 坂本金禰(岡山縣議員,《山陽新聞》報創始人)亦曾資助先生在東京住月餘,因住所靠近清公使館,又由犬養介紹,遷往早稲田鶴巻町四十番地高橋琢也家,同住者尚有平山周,可兒長一。其間,由宮崎陪同游覧東京名勝,並經犬養介紹與大隈重信晤見,又由平山周陪同訪問もV論吉,及到熊本參観陸軍演習。(《續支回顧録》下册第1210頁:《辛亥革命與我》,《孫中山先生與日本友人》第24-25頁:《追懐孫中山先生座談會》,〈辛亥革命史料選輯》,第21頁:《三十三年之夢》第124-125頁)
先生自與宮崎滔天,平山周等交往以來,多次筆談。其重要内容有數端,其一,爲勸阻先生返回中國,“孫:他日舉事,弟必親督士卒攻城襲地。而陳君當留日本與貴政府商辨各事。”“宮崎:就先生旅行券之事,犬養,尾崎,小村三君商議,今清國公使恐先生甚,巌偵査其舉動,故先生遠入内地非得策。暫宜往京地,惧交通來往,使清國公使安心,而後宜待時入内地。今甚不便,唯先生住東京任其自由也。”其二,爲争取日本政府或民間人士支持。“宮崎:弟等舉全力盡先生之事,先生之事東洋之事,東洋之事則世界人権之問題也。”“何若政府不能助者,結合民間之侠士尤易。”並曾提議軍事方面的合作。(宮崎):“我政府幸允先生之所思,先使長軍事之人偵察。…」
★右上の写真の右側一帯が犬養毅の邸宅でした。当時の住所牛込馬場下町三十五番地、現在の住所で新宿区早稲田68〜72附近です。
当時の地図を掲載しますので参照してください。
続きます。