<「広州・開平と広東省」 日経BP企画>
広州、中山市といっても全く知識がないため、先ず、インターネットで探しました。しかし広東語はまるで読めないため、日本語での観光案内サントを探しましたが、ツアーコース中心の案内はありましたが、一歩踏み込んだサイトは見つかりませんでした。そこで、ガイド本を探したところ、日経BP企画の「広州・開平と広東省」が、オタク風にかなり踏み込んで書かれているのを見つけました。広州での孫文(孫中山)については、ほぼ網羅しているようにおもえましたので、この本を参考書として歩いてみることにしました。ただ、孫文の年表とも合わせて見る必要があります。観光本は前後関係がいい加減である場内が多いためです。
「…孫文、毛沢東、周恩来、蒋介石、林彪、魯迅 ─。近代中国史に登場する政治家や文化人の息吹が今も感じられる町。それが広州である。広州なくして近代中国史を語れないというのは、決してオーバーな表現ではない。…」
広州は中国革命では中心的な役割を果たした土地なのです。
★写真は日経BP企画の「広州・開平と広東省」です。”旅名人ブックス”の一つです。良く書けた本です。何人かの方に分けて執筆されているようです。ただ、歴史本ではないので、先ずは前回の香港訪問で参考にした内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」からです。
「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになる人物である。なお、革命家の常として、彼もさまざまな名前を名乗っており、一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun
Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 …」。
内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、中国の歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については詳細にかかれていました。
<孫文(孫中山)生誕の地>
行動範囲を広く取る為、宿泊は広州市にして、ガイドと車をチャーターして中山市に向かいました。今の中国は高速道路が発達していて、車で動くのが一番便利のようにおもえます。又、香港から一歩中国国内に入ると、英語は全く通じません。広東語が喋れないとタクシーにも乗れません。数人ならガイドと車をチャーターした方が安いとおもいます。
中山市では先ず最初に孫文生誕の地「孫中山故居記念館」を訪ねました。中山市の中心からもかなり離れており、広州市から2時間弱かかったとおもいます。記念館として整備されており、訪問者も多数でした。
「…「広州の孫文」は、実際に彼自身が暮らした場でもあり、やはり存在感がある。孫文は広州近郊の香山県翠亭村(現在の中山市)で一八六六年に生まれ、広州を基点にして中華民国の建国事業を進めたことも関係しているのであろう。…」
上記に書かれている通り、中山市内といっても、市内からかなり離れた田舎で、ビックリしました。
★写真は孫文生誕の地です。写真の家は孫文が後に建て直した家です。当時のままに残っていました。
周りの建物も当時のままを保って保存されていました。建物からしてかなり裕福な家庭だったとおもわれます。1900年初頭の時代の生活がよく分かります。