●孫文を歩く 中山市編 (生誕の地)
    初版2009年8月1日  <V01L02> 

 昨年香港を訪ねた折に、孫文(孫中山)の香港での足跡を歩いてきました。今年はもう少し足を延ばして広州から中山市を訪ねました。中山市は孫文の生まれ故郷であり、広州は中国革命発祥の地です。軽く散歩という訳にはいかないのですが、訪ねられる範囲で歩いてきました。


「広州・開平と広東省」
<「広州・開平と広東省」 日経BP企画>
 広州、中山市といっても全く知識がないため、先ず、インターネットで探しました。しかし広東語はまるで読めないため、日本語での観光案内サントを探しましたが、ツアーコース中心の案内はありましたが、一歩踏み込んだサイトは見つかりませんでした。そこで、ガイド本を探したところ、日経BP企画の「広州・開平と広東省」が、オタク風にかなり踏み込んで書かれているのを見つけました。広州での孫文(孫中山)については、ほぼ網羅しているようにおもえましたので、この本を参考書として歩いてみることにしました。ただ、孫文の年表とも合わせて見る必要があります。観光本は前後関係がいい加減である場内が多いためです。
「…孫文、毛沢東、周恩来、蒋介石、林彪、魯迅 ─。近代中国史に登場する政治家や文化人の息吹が今も感じられる町。それが広州である。広州なくして近代中国史を語れないというのは、決してオーバーな表現ではない。…」
 広州は中国革命では中心的な役割を果たした土地なのです。

写真は日経BP企画の「広州・開平と広東省」です。”旅名人ブックス”の一つです。良く書けた本です。何人かの方に分けて執筆されているようです。ただ、歴史本ではないので、先ずは前回の香港訪問で参考にした内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」からです。
 「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになる人物である。なお、革命家の常として、彼もさまざまな名前を名乗っており、一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 …」
 内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、中国の歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については詳細にかかれていました。

「孫中山生誕の地」
<孫文(孫中山)生誕の地>
 行動範囲を広く取る為、宿泊は広州市にして、ガイドと車をチャーターして中山市に向かいました。今の中国は高速道路が発達していて、車で動くのが一番便利のようにおもえます。又、香港から一歩中国国内に入ると、英語は全く通じません。広東語が喋れないとタクシーにも乗れません。数人ならガイドと車をチャーターした方が安いとおもいます。
 中山市では先ず最初に孫文生誕の地「孫中山故居記念館」を訪ねました。中山市の中心からもかなり離れており、広州市から2時間弱かかったとおもいます。記念館として整備されており、訪問者も多数でした。
「…「広州の孫文」は、実際に彼自身が暮らした場でもあり、やはり存在感がある。孫文は広州近郊の香山県翠亭村(現在の中山市)で一八六六年に生まれ、広州を基点にして中華民国の建国事業を進めたことも関係しているのであろう。…」
 上記に書かれている通り、中山市内といっても、市内からかなり離れた田舎で、ビックリしました。

写真は孫文生誕の地です。写真の家は孫文が後に建て直した家です。当時のままに残っていました。 周りの建物も当時のままを保って保存されていました。建物からしてかなり裕福な家庭だったとおもわれます。1900年初頭の時代の生活がよく分かります。

「孫中山記念館(中山市)」
<孫中山記念館(中山市)>
  孫文生誕の家の横に「孫中山記念館」が建てられていました。香港の記念館も良かったのですが、やはり地元ということで、幼いときから経歴が丁寧に語られていました。
「…中山故居の敷地内に孫文の偉業を称えるかのように大きな孫中山故居陳列館が建てられ、すぐ隣には昔の翠亭村の集落の一部を利用し、昔の村民の生活が分かる「翠亭村民族展覧会」にしていた。陳列館には孫文に関連する資料がふんだんに並べてあり、広州にあるほかの博物館よりも充実していた。最初の妻、そして後に結婚した宋慶齢など、孫文ゆかりの人々を人物別に紹介するコーナーもある。…」
 この記念館で孫文関連の本を二冊ほど購入しました。香港の記念館では売っていなかったので、地元のみの本ではないかとおもいます。孫文の生い立ちからの歴史が写真と共に掲載されていました。なかなか貴重な本だとおもいます。

右の写真が「孫中山記念館」です。かなり大きな記念館でした。じっくり見ていると半日は掛かりそうです。ただ、日本語の解説はありませんので、写真のみを見てきました。この記念館の前庭には孫文が遊んだであろう木の傍に幼い孫文の銅像がありました。

【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)



広州、中山、香港位置関係地図



中山市地図



孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の広済医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 西醫書院を卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
12月 広州蜂起に失敗し横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
         
大正13年 1923 中国で第一次国共合作 56 2月 香港大学で講演を行う



「中国景区(中山城)」
中国景区(中山城)>
 孫中山故居記念館からすぐのところに「中山城」というテーマパークがあります。入り口が凄かったので中も凄いだろうととおもったら、それ程でも有りませんでした。中国中央テレビが連続TVドラマ「孫中山」で撮影用に作ったセットをテーマパークとして開いたのが「中山城」だそうです。中山城内は中国風景区、日本風景区、英国風景区、アメリカ風景区、展覧館区の五つに分かれており、南京中山陵、広州蜂起指揮部、黄埔軍校、上海孫中山故居、日本孫中山故居、ロンドンの警察局や大教会、アメリカの中華街、ニューヨークで孫文が住んでいたアパートなどが作られています。本物を移設したわけではなさそうです。全体に小ぶりに作られていますので、本物を見たことのある方は、つまんないかも!!

左上の写真が中国風景区に作られた昔の広州の町並みです。これで人出と本物の商品が並んでいれば当時そのままではないかとおもいました。見学客がほとんどいないので、空き家ばかりを見た感じです。TVの撮影をしていましたので、ほとんどセット利用ではないかとおもいました。

「孫文西路(中山市)」
孫文西路(中山市)>
 最後に中山市内を少し歩いてみました。香港、深圳、アモイ等に近いためか、近代化が進んだ町の印象でした。町の郊外には立派な高層ビルが何本も建てられており、おそらく日本や欧米との合弁による工場もおおいのではないかとおもいました(上記の地図を参照)。
ウィキペディアによると、人口:250万人、戸籍人口:142万人と書かれていましたので、差は他地域からの出稼ぎがなとおもいます。100万人が出稼ぎですから凄いです。中山の古称は1152年(紹興22年)に香山県が設置されて以来香山が使用されていましたが、1925年に辛亥革命指導者であり、中華民国初代総統であった孫文を顕彰し、その号から中山県と改称された。1983年12月に仏山市管轄の県級市として中山市に昇格し、その後の経済発展に伴い1988年1月に地級市に昇格し現在に至っています。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

右の写真は中山市中心街の中山西路です。昔ながらの町並みが保存されていました。これで安全な町ならいいのですが、一人ではなかなか歩けません。

「石岐佬中山菜馆」
石岐佬中山菜馆>
 最後にレストランの紹介です。間違いなく観光案内になっています。文学散歩からは離れましたが、まあ、中国ですのでご勘弁ねがいます。今回、紹介するレストランは「石岐佬中山菜馆」と書くレストランです。見ての通り、漢字が第二水準にはない漢字です。探すに苦労しました。場所は中山市内”广东省中山市康华路82号”なのですが、ここでも漢字で苦労しました。地元では有名なレストランだそうで、自分で食材を選んで料理してもらうことができます。レストランの中は食材の宝庫です。魚から鳥、……までなんでもありました。ただ、日本人の口に合うかは別のお話です。私が食べた料理の写真を掲載しておきます。ホワイトバランスを調整しそこなっていますので、ごめんなさい。ビールは青島ビールしか頼みませんので、大丈夫でした。野菜料理関連は、特に問題なく、美味しく食べれました。豆腐料理も美味しかったです。チャーハンは駄目でした。上海や香港では大丈夫なのですが、少し大陸の中に入ると駄目ですね。ツアーですと日本人旅行者の好みに合うように味を合わせているようです。ただ、お菓子関連は抜群に美味しいです。少し甘いですが、なかなかのものです。流石の歴史です。

左上の写真は「石岐佬中山菜馆」の正面です。上記の地図に場所を記しておきます。ただ、旅行者が個人で訪ねるのは止めた方が良いとおもいます。料理のメニューも何を書いているのか分かりませんでした。せめて、中国語の入った電子辞書が必須です。

次回は広州市内を訪ねます。