<日本政府下令封禁>
明治41年(1908)10月、「民報」は発禁処分になります。清国政府からの申し入れがあり、それを受け手の発禁処分でした。それから3年後の明治44年(1911)には辛亥革命が始まり大正元年(1911)には中華民国が成立します。当時の日本政府は全く見る目が無いですね、倒壊寸前の清朝政府とやり合っても短絡的で目先のみしか得るものはありません。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 10月19日(九月二十五日) 日本政府下令封禁《民報》。
“《民報》出版至第二十四號時,清公使向日政府交渉,以封禁
《民報》爲請,日政府従之,《民報》以是停刊。黄興,宋教仁興章(太炎)謀,欲將《民報》遷往美國出版,旋因他事所阻,終不果行。”(《革命逸史》初集第56頁)日本當局禁止《民報》出版,表面理由是該報第二十四號刊用《革命的心理》有鼓動暗殺嫌疑,實際是當時唐紹儀訪美路過日本,要求日本封禁《民報》,日本爲沮中美聯盟,乃恂清政府所請予以査封。(曼華《同盟會時代民報始末記》,《辛亥革命》第2册第444頁)…」
ここで”出版至第二十四號時,清公使向日政府交渉,以封禁”と書かれているので、清国の公使が日本政府に発禁を依頼し、24号以降が発禁になったととれます。
安住恭子さんの「『草枕』の那美と辛亥革命」からです。
「…ついに明治四十一年十月十九日、日本政府は『民報』第二十七号を、「新聞紙条例第三十三条違反」として、「発売頒布ヲ停止シ及ビ之ヲ差押エ」たのである(外交資料「民報関係雑纂」乙秘第一〇七四号、明治四十一年十月二十二日)。「発行所の変更を届けなかった」というのがその理由である。日本の法律に照らした結果、このような言いがかりともいえる方法でしか、発行停止に持ち込めなかったのだ。
この『民報』の発行停止は、思想の拠り所を失わせただけでなく、収入の上からも打撃になった。編集長の章炳麟がその不当性を裁判で訴えた。宋教仁も通訳として裁判に立ち会い、法律論を駆使して闘ったが、五十円の罰金刑が確定し、『民報』は事実上の廃刊に追い込まれた。彼らはこの罰金の捻出にも苦労し、納付期日まで間に合わなかったため、章は一時入獄している。この問題には、じつは当時留学生だった魯迅も関わっていた。彼は清朝考証学の学者である章炳麟が、民法社で開いていた国学講習会に通っていた。その当時について、魯迅の弟周作人が書いた『魯迅の故家』に次のような一節がある。
「民報社に通って聴講していたときに、『民報』誌が日本政府によって発行を禁止された。原因はもちろん清国政府の請求によるものだが、表面の理由は出版法違犯ということであった。…」
ここでは27号が発禁になったと書かれています。確認のため、アジア歴史資料センター 所蔵データ一覧で”民報関係雑纂”で検索すると、乙秘第一〇七四号を見ることができました。上記に書かれている通りでした。片倉芳和さんの「宋教仁研究―清末民初の政治と思想」によると、27号は間違いで24号が発禁になったようです(24号は実在します)。
「民報」の奥付を順に見ると、発行所は
・第20号、明治41年(1908) 4月25日発行:大久保村百人町238番地
(20号から
発行所が内藤新宿字番集町34番地から変っている)
・第21号、明治41年(1908) 6月10日発行:大久保村百人町238番地
・第22号、明治41年(1908) 7月10日発行:大久保村百人町238番地
・第23号、明治41年(1908) 8月10日発行:淀橋町角筈738番地
・第24号、明治41年(1908)10月10日発行:淀橋町角筈738番地
・第25号、明治43年(1910) 2月 1日発行:4. Rue Broca. Paris
・第26号、明治43年(1910) 2月 1日発行:4.
Rue Broca. Paris
”外交資料「民報関係雑纂」乙秘第一〇七五号、明治四十一年十月二十五日”によると、24号(”乙秘第一〇七五号”に書かれている27号は間違い)は既に配布済みで、残りを差し押さえたようです。ですから24号までは実在しています。
24号の表紙と奥付を掲載しておきます。
上記に書かれている発行所”大久保村百人町238番地”と”淀橋町角筈738番地”は宮崎滔天宅ではありません。誰の家を借りたかは分かりません。”淀橋町角筈738番地”は明治37年(1904)に福田英子さんが住んでいたことは確認済みです。要調査です。
福田 英子(ふくだ ひでこ(旧姓は景山)、慶応元年10月5日(1865年11月22日)-昭和2年(1927年)5月2日)
江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称されていました。(ウイキペディア参照)
★右上の写真は「民報 第貳拾五號(25号)」です。2年後の明治43年(1910)2月1日、パリで発行されています。