●孫文を歩く 「民報」編
    初版2014年4月19日  <V01L03>  暫定版

 引き続き「孫文(孫中山)を歩く」を掲載します。今回は明治38年(1905)に孫文の指示により発行された「民報」を歩きます。月刊誌(新聞?)で多いときは1万部も発行され、日本や欧米、アジア各国にとどまらず、中国国内でも広く配布されていました。当時としては画期的な雑誌だったとおもいます。何せ発行部数が凄いです。


「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局>
 今回も「孫中山年譜長編 上冊」 を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中みみみ華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。前回から原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、明治30年(1897)8月、横浜から東京に移る頃の記述です。
「… 11月26日(十月三十日)《民報》發刊,公開提出“民族”、“民權”、“民生”三主義。
 内謂:“今者中國以千年専制之毒而不解,異種残之,外邦逼。之,民族主義,民權主義殆不可以須臾緩。而民生主義,歐美所慮積重難返者,中國獨受病未深,而去之易。是故或於人爲既往之陳跡,或於我爲方來之大患,要爲繕吾群所有事,則不可不並時而馳張之。”“近時志士舌敝唇枯,惟企強中國以比歐美。然而歐美強矣,其民實困,勸大同盟罷工與無政府黨,社會黨之日熾,社會革命其將不遠”。“吾國治民生主義者,發達最先,賭其禍害於未萌,誠可舉政治革命、社會革命畢其功於一役。還禄歐美,彼且瞠乎後也”。又謂:“惟夫一群之中,有少數最良之心理能策其群而進之,使最宜之治法適用於吾群,吾群之進歩適應於世界,此先知先覺之天職,而吾《民報》所爲作也。”(《民報》第1號)…」

 JIS第三水準でも漢字が表示出来るようになったのですが、相変わらず意味がはっきり分かりません。仕方が無いので翻訳サービスを使っています。(正確な翻訳が出来ずに困っています)

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「革命いまだ成らず」
<「革命いまだ成らず」 (下) 譚璐美(たん・ろみ)>
 今回は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」から 譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)に切り替えます。「民報」のところが詳細に書かれているからです。

譚璐美(たん ろみ、1950年5月17日 - )
 ノンフィクション作家。東京生まれ。本籍中国広東省高明県。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学講師。中国広東省中山大学講師などを経て執筆に専念。『中国共産党を作った13人』『新華僑老華僑』『阿片の中国史』『中国共産党 葬られた歴史』『中華料理四千年』など著書多数。著者の父は、革命運動に参加し、日本ぺ亡命して早稲田大学に留学。帰国後は国民政府外交部に任官した後、日本に駐在。母方の祖父は日本陸軍中将で、インパール作戦の撤退を指揮した。大伯父の譚平山は中国共産党の創設者のひとりで、中華人民共和国の誕生時には、毛沢東とともに天安門の壇上に立った。本書は、百年に及ぶ日本と中国の相克の歴史が自身の血に流れている氏にしか書けない物語である。(新潮社「革命いまだ成らず」より)

 譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)からです。
「  第17章 百年後に悔いを残さないか ── 黄興、日本への警鐘

     留学生二千人の集団帰国

 「中国同盟会」が発足すると、機関雑誌「民報」の発刊準備がはじまった。
 準備の任に当たったのは黄興だった。この頃の黄興は、横浜の華僑宅にじっと籠ったまま読書ばかりしている孫文に代わって、「中国同盟会」のほとんどの運営を取り仕切り、雑務をこなしていた。
 黄興は末永節に、「雑誌の編集部を置くための家を借りたい」と告げた。末永は、黄興につきあって東京の貸家を数軒見て回った時のことを、こう証言している。
「民報」をやったのは牛込の○○というところだった。その家を探す時も黄興と二人であちこち歩き回った。
 麹町の大きな門構えのケヤキの巨木のある家をみつけて、この家にしようではないかと言ったが、黄興はこれにするとは言わなかった。それからずっと回って、牛込を歩いておったところが、貸家と書いてあったので、そこに入った。うちに泉水がある家だったが、間取りを見た上で、黄興が、
「此処にしましょう」と言う。
「どうして……」と問うと、
「あの麹町の家は暗いと思います。目が悪くなります。この家がいいです。ここに水があるでしょう。ここに鯉を入れればよいでしょう。あなたは鯉が好きでしょうが……。二人で食べましょう」
 と言うから、ここを借りることに決めて、その保証人がいるので、古賀廉造さんのところに頼みに行きましたo 
 古賀さんが気持ちよく保証人になってくれた(ので)、私か、
「この支那人は立派な紳士ですから、ご迷惑をおかけするようなことはありません。心配はいりません」と言うと、印を押してもらった。帰りがけにまた、
「決してご迷惑はかけませんから……」と言うと、
「ちっと、そっと、迷惑をかけりゃどうあるか。印を押しとるではないか!」と、大きな声で怒鳴られた。
 古賀廉造は大審院の検事で、なかなか立派な人だった。家主も快く承諾してくれた。(前出「末永節口述記録」)
 こうして「民報」の家が決まった。…」


古賀廉造(こが れんぞう、1858年3月1日(安政5年1月16日) - 1942年(昭和17年)10月11日)
古賀廉造は日本の裁判官、検察官、刑法学者。大審院検事・判事。法典調査会刑法起草委員。貴族院勅選議員。原敬に引き立てられ出世しましたが、満州での阿片密売事件の罪で失脚しています。相場も好きで、金山購入で大損害も出しています。贈収賄でもいろいろ有ったみたいです。当時は当たり前だったのでしょう。(ウイキペディア参照)

写真は新潮社版、譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)です。史実に忠実で詳細に書かれており、大変参考になります。よく調べて書けている本だとおもいました。一読を勧めます。

「民報 第壹號」
<11月26日(十月三十日)《民報》發刊>
 「民報 第壹號」は明治38年(1905)11月26日、東京市牛込區で発行されます。「民報 第壹號」の表紙を見ると、”日本明治三十八年十一月廿六日初版發行、日本明治三十八年十二月八日再版發行”と書かれていますので、人気が高く、再版されたことが分かります。最盛期は1万部も発行され、日本や欧米、アジア各国にとどまらず、中国国内でも広く配布されていたようです。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 11月26日(十月三十日)《民報》發刊,公開提出“民族”、“民權”、“民生”三主義。
 内謂:“今者中國以千年専制之毒而不解,異種残之,外邦逼。之,民族主義,民權主義殆不可以須臾緩。而民生主義,歐美所慮積重難返者,中國獨受病未深,而去之易。是故或於人爲既往之陳跡,或於我爲方來之大患,要爲繕吾群所有事,則不可不並時而馳張之。”“近時志士舌敝唇枯,惟企強中國以比歐美。然而歐美強矣,其民實困,勸大同盟罷工與無政府黨,社會黨之日熾,社會革命其將不遠”。“吾國治民生主義者,發達最先,賭其禍害於未萌,誠可舉政治革命、社會革命畢其功於一役。還禄歐美,彼且瞠乎後也”。又謂:“惟夫一群之中,有少數最良之心理能策其群而進之,使最宜之治法適用於吾群,吾群之進歩適應於世界,此先知先覺之天職,而吾《民報》所爲作也。”(《民報》第1號)…

 @ 馮自由稱:“發刊詞出孫總理手撰。”(《革命逸史》第2集第143頁)開于三民主義由來,劉成禺《先總理舊徳録》記:“先生在舊金山論及:設會必先有主義,主義定固乃能成功。林肯主義曰:For the people, by the people, of the
people。所謂民治,民有,民享。孟魯主義日:美洲人不干與美洲以外,亦不容非美洲人幹與美洲。主義愈簡単明了,愈生效力,此漢高祖約法三章之主義,乃戦勝項羽。…」

  三民主義(さんみんしゅぎ、ピンイン:Sān Mín Zhǔyì)とは1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論で、また後にまとめられて出版された理論書です。これは中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されています。1905年に中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけます。そして1906年に「四綱」を「三民主義」へと改めています。1924年1月から8月まで、孫文は16回にわたって三民主義の講演をおこない、民生主義の部分が孫文の病死によって未完のままに終わりますが、講演内容は『三民主義』にまとめられ出版されています。(ウイキペディア参照)

写真が明治38年(1905)11月26日発行の「民報 第壹號」です。国会図書館と東京都立多摩図書館で見つけることが出来ました。北京の科学出版社が複写版で昭和32年(1957)に三巻にして出版しています。古い本ですが閲覧する人が余りいないようで綺麗でした。

「新小川町二丁目8番地」
<民報編集部 牛込區新小川町二丁目8番地>
 「民報」の編集所は当時の地番で牛込區新小川町二丁目8番地です。「民報」の奥付に書かれている住所です。

 譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)からです。
「… 「民報」の発行人は、末永節がなった。編集部には、数人の筆の立つ者たちが選ばれて、執筆陣容が整っりた。末永の記憶によれば、執筆陣の中で主筆は未教仁だった。次いで、山西省出身の谷思慎、第三番目に汪兆銘(精衛)、第四番目に名高い学者の章太炎(炳麟)、五番目に陳天華という序列ができたという。
「民報」の創刊号は一九〇五年十一月二十六日に発行された。毎月一冊発行するものと定め、第一号には、孫文が中国同盟会総理として「発刊の辞」を書いた。
 雑誌発行の主旨は、

  一、現今の劣悪な政府を転覆させる。
  二、共和政体を建立する。
  三、世界に真の平和を維持する。
  四、土地の国有化。
  五、中国と日本両国の国民聯合を主張する。
  六、世界の列国が中国の革命事業に賛成する事を要求する。……」


「民報 第壱號」 奥付(明治38年(1905)11月26日発行)
編集人兼発行人:張 繼
印刷人:末永節
編集所:民報編集部 牛込區新小川町二丁目8番地
発行所:民報発行所 多摩郡内藤新宿字番集町34番地
印刷所:秀光社 神田區中猿楽町4番地
 実際の「民報 第壱號」 奥付を掲載しておきます。

写真正面の一区画のほとんどが牛込區新小川町二丁目8番地です。全てを借りていたのかは不明です。

 白水社のホームページに譚璐美さんの「帝都・東京を中国革命で歩く」が掲載されていますが、”こうして『民報』編集部の所在地が決まった。住所は、牛込区東五軒町十九番地(現、新宿区東五軒町三の二十二)で、末永節が印刷人を引き受けた。”と書かれています。末永節宅かなともおもいます?

「番集町34番地」
<民報発行所 多摩郡内藤新宿字番集町34番地>
 次が「民報」の発行所です。多摩郡内藤新宿字番集町34番地で、この場所は宮崎滔天宅でした。宮崎滔天は明治38年(1905)1月下旬、この地の借家に転居してきています。宮崎滔天全集の年譜によると、”「民報社」の看板を掲ぐ”とあります。宮崎滔天宅を借りたと言うことだとおもいます。

 ここでもう一冊登場してもらいます。
 安住恭子さんの「『草枕』の那美と辛亥革命」です。
「…  一九〇五年(明治三十八年)七月、アメリカや欧米を廻った孫文は日本に来て、豊多摩郡内藤新宿番集町(現新宿区新宿五丁目)の滔天の家に身をひそめた。宋教仁は、七月十九日にその家を訪れて滔天に会い、二十八日には孫文が滔天とともに彼を訪ねる。宋教仁が書き残した『宋教仁の日記』(松本英紀訳注)には、その間の事が詳しく記されている。そして同じ頃、孫文と並ぶ辛亥革命のリーダー黄興が、滔天と未永節(玄洋社社員)の仲介で孫文に会っている(孫文と黄興はその前に中国人留学生の仲介で出会っているという説もある)。孫文、黄興、宋教仁 ── 辛亥革命をリードしたこの三人が、この日本で、滔天らを軸に手を握ったのだ。もう一人の指導者章炳麟は少し遅れて来日する。…」
 この番地は「民報 第壱號」の奥付からです。宮崎滔天全集の年譜にも掲載されています。

右上写真の右側の三階建てビルのところが多摩郡内藤新宿字番集町34番地です。新宿区新宿5丁目5、「水たき玄海」のところです。ただし、震災後の区画整理で靖国通りの道幅が大幅に広がっており、道路上かもしれません。

「第貳拾五號」
<日本政府下令封禁>
 明治41年(1908)10月、「民報」は発禁処分になります。清国政府からの申し入れがあり、それを受け手の発禁処分でした。それから3年後の明治44年(1911)には辛亥革命が始まり大正元年(1911)には中華民国が成立します。当時の日本政府は全く見る目が無いですね、倒壊寸前の清朝政府とやり合っても短絡的で目先のみしか得るものはありません。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「…   10月19日(九月二十五日)  日本政府下令封禁《民報》。
 “《民報》出版至第二十四號時,清公使向日政府交渉,以封禁
《民報》爲請,日政府従之,《民報》以是停刊。黄興,宋教仁興章(太炎)謀,欲將《民報》遷往美國出版,旋因他事所阻,終不果行。”(《革命逸史》初集第56頁)日本當局禁止《民報》出版,表面理由是該報第二十四號刊用《革命的心理》有鼓動暗殺嫌疑,實際是當時唐紹儀訪美路過日本,要求日本封禁《民報》,日本爲沮中美聯盟,乃恂清政府所請予以査封。(曼華《同盟會時代民報始末記》,《辛亥革命》第2册第444頁)…」

 ここで”出版至第二十四號時,清公使向日政府交渉,以封禁”と書かれているので、清国の公使が日本政府に発禁を依頼し、24号以降が発禁になったととれます。

 安住恭子さんの「『草枕』の那美と辛亥革命」からです。
「…ついに明治四十一年十月十九日、日本政府は『民報』第二十七号を、「新聞紙条例第三十三条違反」として、「発売頒布ヲ停止シ及ビ之ヲ差押エ」たのである(外交資料「民報関係雑纂」乙秘第一〇七四号、明治四十一年十月二十二日)。「発行所の変更を届けなかった」というのがその理由である。日本の法律に照らした結果、このような言いがかりともいえる方法でしか、発行停止に持ち込めなかったのだ。
 この『民報』の発行停止は、思想の拠り所を失わせただけでなく、収入の上からも打撃になった。編集長の章炳麟がその不当性を裁判で訴えた。宋教仁も通訳として裁判に立ち会い、法律論を駆使して闘ったが、五十円の罰金刑が確定し、『民報』は事実上の廃刊に追い込まれた。彼らはこの罰金の捻出にも苦労し、納付期日まで間に合わなかったため、章は一時入獄している。この問題には、じつは当時留学生だった魯迅も関わっていた。彼は清朝考証学の学者である章炳麟が、民法社で開いていた国学講習会に通っていた。その当時について、魯迅の弟周作人が書いた『魯迅の故家』に次のような一節がある。
 「民報社に通って聴講していたときに、『民報』誌が日本政府によって発行を禁止された。原因はもちろん清国政府の請求によるものだが、表面の理由は出版法違犯ということであった。…」

 ここでは27号が発禁になったと書かれています。確認のため、アジア歴史資料センター 所蔵データ一覧で”民報関係雑纂”で検索すると、乙秘第一〇七四号を見ることができました。上記に書かれている通りでした。片倉芳和さんの「宋教仁研究―清末民初の政治と思想」によると、27号は間違いで24号が発禁になったようです(24号は実在します)。

「民報」の奥付を順に見ると、発行所は
・第20号、明治41年(1908) 4月25日発行:大久保村百人町238番地
       (20号から発行所が内藤新宿字番集町34番地から変っている
・第21号、明治41年(1908) 6月10日発行:大久保村百人町238番地
・第22号、明治41年(1908) 7月10日発行:大久保村百人町238番地
・第23号、明治41年(1908) 8月10日発行:淀橋町角筈738番地
・第24号、明治41年(1908)10月10日発行:淀橋町角筈738番地
・第25号、明治43年(1910) 2月 1日発行:4. Rue Broca. Paris
・第26号、明治43年(1910) 2月 1日発行:4. Rue Broca. Paris

 ”外交資料「民報関係雑纂」乙秘第一〇七五号、明治四十一年十月二十五日”によると、24号(”乙秘第一〇七五号”に書かれている27号は間違い)は既に配布済みで、残りを差し押さえたようです。ですから24号までは実在しています。24号の表紙奥付を掲載しておきます。

 上記に書かれている発行所”大久保村百人町238番地”と”淀橋町角筈738番地”は宮崎滔天宅ではありません。誰の家を借りたかは分かりません。”淀橋町角筈738番地”は明治37年(1904)に福田英子さんが住んでいたことは確認済みです。要調査です。

福田 英子(ふくだ ひでこ(旧姓は景山)、慶応元年10月5日(1865年11月22日)-昭和2年(1927年)5月2日)
江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称されていました。(ウイキペディア参照) 


右上の写真は「民報 第貳拾五號(25号)」です。2年後の明治43年(1910)2月1日、パリで発行されています。

「小日向台町二丁目二十六番地」
<小石川区小日向台町二丁目二十六番地>
 「民報」の発禁後、名前を変え場所を移転しています。それでも日本での再発行はできませんでした。

 安住恭子さんの「『草枕』の那美と辛亥革命」からです。
「…、民報社は実質的に解散に追い込まれる。「民報関係雑纂」には、先の「清国人ノ談話」につづいて、「民報社改称移転ノ件」(乙秘第一五九五号、明治四十一年十二月十八日)として、民報社が「国学講習会」と改称し、牛込区新小川町二丁目八番地から、小石川区小日向台町二丁目二十六番地に移転のため、「昨夜来荷物運搬中ナリ」という内報記録がある。『民報』編集長で裁判に負けて入獄した章炳麟が主催し、魯迅も通っていた国学講習会が、日本の同盟会の中心になったということだろう。弾圧をおそれておだやかな名前に変更したとも考えられるが、いずれにしろ卓が生母キョの葬儀をおえて東京に戻ったころ、民報社は姿を消していた。…」
 確認のため、アジア歴史資料センター 所蔵データ一覧で”民報関係雑纂”で検索すると、乙秘第一五九五号を見ることができました。上記に書かれている通りでした。

右上の写真の左側一帯が小日向台町二丁目二十六番地です。現在の住所で新宿区小日向三丁目12〜13附近です。拓殖大学国際教育会館の裏手です。

 続きます。



飯田橋附近地図



新宿、大久保附近地図



孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月〜12月 孫文は香港から横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
11月 「民報」東京で発行
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
10月 「民報」発禁処分
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱か死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918   52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925   58 3月 孫文死去