●孫文を歩く 澳門編 (マカオ)
    初版2011年5月7日  <V01L01> 

 連休中に広州、香港、澳門を訪ねてきました。中国も連休中で、何処へ行っても人、人、人です。相変わらず中国は活発に動いています。孫文関連では澳門で未訪問だった所を回ってきました。澳門は坂道が多くて、日中は30度を上回る位の暑さで、一眼レフと三脚を持っての撮影は疲れました。


「澳門國父紀念館」
<孫文のマカオでの住居>
 孫文は医者(眼科医)になるため1886年(明治19年)広州の博済医院付属南華医学校に入学しています。その後、レベルの高い香港の西醫書院に移り1892年卒業します。卒業後は澳門(マカオ)で兄の孫徳彰が所有していた住まいに居住し、鏡湖医院に勤めます。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「…孫文がマカオで生活していた時代は現在の風順堂街(サン・ロウレンソ通り)に居を構えていた。当時は二階建ての建物で長兄の孫徳彰が所有していた。この家から医館までは歩いてすぐであり中西薬局も徒歩圏内であった。
 ちなみに国父記念館が置かれている建物は辛亥革命後に建てられた洋館であり孫文が医師としてマカオに居住していた時代の住居ではない。一九二三年に孫文が死去した後は彼の親族が暮らしていた。その家はマカオ駐留ポルトガル軍の誤射で破壊されたため、マカオ政庁が支払った賠償金で一九三三年に現在の建物が再建されている。…」

 孫文の家族はお金持ちですね。孫文の生家も立派でしたが、マカオでの兄の住まいも立派です。中国は昔も今も貧富の差が大きいです。特に広州の街角を歩いているとよく分かります。

写真の建物が「孫文記念館(澳門國父紀念館)」です。上記に書いてある通り、一度破壊されていますが再建されています。孫文がマカオに滞在していた頃から2階建てだったようで、やっぱり裕福だったようです。

【孫文(そんぶん、ソンウェン、Sun Yat Sen)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)

「マカオ歴史散歩」
<「マカオ歴史散歩」 荻野純一、日経BP>
 日経BPの「旅名人ブックス」はよく出来た本です。特に中国関連は地図も含めて詳細に書かれており、オタク的にはこんなにによく出来た本はありません。今までの旅行本は買物と食、ホテル関連が中心で、我々にはあまり役に立ちませんでした。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「マカオに残る中国近代化と中国革命の足跡
 リラウ広場のすぐ近くにマカオでは珍しい大きな邸宅がある。ユネスコ世界遺産に認定された建物群の一つで名前は鄭家大屋。辛亥革命を起こした孫文にも大きな影響を与えた鄭観應の祖居であり故居でもある。
 鄭観應は活末の思想家・教育家であり実業家としても活躍した。一八四二年に生まれた彼は清朝の下でヨーロッパ式の立憲君主制の政治体制を打ち立て中国の近代化を進めようとした。明治維新後の日本が進めたような外国技術の導入に積極的で、李鴻章の依頼で上海に設立された官営企業のトップを務めた時期もある。その後の思想をまとめたものが『盛世危言』という著作である。
彼の考えは康有為、孫文、さらには毛沢東にも大きな影響を与えた。…」

 通常ツアーでは絶対回らないようなところが掲載されています。当然、有名なところは掲載されていますが、書かれている中身が深いです。日本では歴史散歩本といっていいのではないでしょうか。上記の鄭家大屋の正面の写真と建物内の写真1写真2を掲載しておきます。

 マカオ(澳門、Macau)は中華人民共和国澳門特別行政区(通称マカオ別行政区)の一つ。中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノと世界文化遺産を中心とした世界的な観光地としても知られています。カジノではアメリカのラスペガスを抜いて、現在は5倍の売上となっています。1999年まではポルトガルの植民地で中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在します。このため、2005年7月15日に、マカオの8つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前で世界文化遺産に登録されました。(ウイキペディア参照)

写真は日経BP企画の「マカオ歴史散歩」です。旅名人ブックスは122冊出版されており、写真も大きく掲載されてたいへん面白く読むことができました。ただし、買物、食、ホテル等は殆ど書かれていませんので、遊びに行く場合は、買物、食、ホテルについて書かれている本がもう1冊必要になります。2冊持ちです。

「鏡湖病院」
<鏡湖医院>
  孫文は1892年(明治25年)香港の西醫書院を卒業後マカオの鏡湖医院に眼科医として勤めます。生まれ故郷の中山にも近かったからだとおもいます。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「…マカオはまた中国革命の父、孫文(孫中山)の足跡も数多く残っている場所である。香港で医学を学んだ孫文が最初に眼科の医師として仕事を始めたのがマカオの鏡湖医院であった。漢方医学中心の鏡湖医院が西洋医学の治療を採り入れることになり招聘された。…」
 当時のマカオはポルトガルの植民地ですから、ホルトガル人の医者がたくさん開業していたとおもいます。その中で、鏡湖医院は中国人として西洋医学を学んだ医者が必要だったのだとおもいます。

右の写真は現在の鏡湖病院(鏡湖医院)です。場所は当時と同じで、現在は立派なビルとなっています。マカオで一番大きな病院だとおもいます。

「郵政局大楼跡」
<孫医館>
 孫文はマカオの鏡湖医院に勤めますが、直ぐに自身で医院を開業します。開業資金は鏡湖医院から借金をしたようですが、自身の家族もお金持ちであり、特に金銭的には問題は無かったのだとおもいます。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「…その後は同じマカオで開業医に転じて、現在のセナド広場付近の”菩提”に孫医館を開設した。この路地には初期の同善堂もあった。セナド広場に画して立つ郵政局大楼を建設するにあたって区画整理が実施され、路地も医院などの建物とともに撤去され地図上から消えてしまった。…」
 鏡湖医院はよく開業を認めたとおもいます。マカオで母国人の医者を増やすことが目的だったのでしょうか。ポルトガル人の医者からはかなり疎まれたようですが、怯まずにマカオで医者を続けています。

写真は現在のセドナ広場にある郵政局大楼跡です(セドナ広場にあるので観光客でいっぱいで、写真が撮りにくくて大変でした)。上記に書いてあるとおり、この郵政局大楼跡にあった路地に孫医館がありました。上記の同善堂とは”ガジノ”で稼いだ金で運営している慈善事業の病院です。現在はアルメイダ・リベイロ通りと交差する庇山街にあります。

「中西薬局跡」
<中西薬局>
 セドナ広場横で孫医院を開業したのに引き続いて薬局も開業しています。当時のマカオには西洋薬局はなかったのだとおもいます。それまでは漢方中心の薬局ばかりだったようです。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「…マカオで医師をしていた孫文はマカオで初めての西洋医学の薬局開業にも貢献している。これが町の中心部に開設した中西薬局である。草堆街八〇号にある薬局跡は現在「寶聲電業行」という電気店になっている。…」
 孫医院があったセドナ広場横からは少し離れたところにあります。それにしてもマカオは昔の建物かそのまま残っています。

右の写真は現在の”草堆街80号”です。上記には”草堆街八〇号にある薬局跡は現在「寶聲電業行」という電気店”と書いていますが、実際に現地を訪ねてみると、「寶聲電業行」は無くなっていました。本に載っていた写真とも違っていました。近くのお店で尋ねてみると、かなり昔に「寶聲電業行」は無くなっていたとのことで、訪ねてみて初めて場所が分かりました(同行者が中国語ができる)。番地は建物に付いていて、偶数と奇数で通りの左右に分かれています。又、番地は建物に記載されていることがおおいのですが、80号は記載されていませんでした。反対側から撮影した写真も掲載しておきます。

「澳門日報跡」
<濠鏡閲書報社>
 孫文は結局、一年程でマカオから広州の博済医院に戻ります。マカオのポルトガル人の医者の圧力が相当あったのだとおもいます。
 日経BP企画の「マカオ歴史散歩」からです。
「… 清朝の支配が及ばないマカオは香港とともに孫文が革命運動を組織する絶好の拠点となった。その一つが同盟会の旧社であり濠鏡閲書報社であった。一九〇六年に孫文らが香港で同盟会を設立すると、その影響はほどなくしてマカオにも波及した。一九〇九年に培基学堂が創設され、翌一九一〇年には南湾街四十一号に同盟会のマカオ分会が設立されている。一九一一年に濠鏡閲書報社が誕生すると、ここがマカオにおける同盟会活動の中心になっていく。
 濠鏡閲書報社はマカオ在住の豪商が出資、マカオ政庁も公認する機関であった。社員の中に同盟会会員が増えていった。その濠鏡閲書報社は伯多禄局長街 (ペドロ・ノラスコ・ダ・シルヴア通り) にあった。現在その地は澳門日報の建物になっている。…」

 上記には”一九〇六年に孫文らが香港で同盟会を設立”と書いていますが、同盟会は1905年に日本に設立したのだとおもいます。1905年(明治38年)革命派による中国革命同盟会が結成され、宮崎滔天や末永節らの支援のもと、11月に東京で成立大会が開かれています。

左上の写真が現在の南湾街41号です。入口の上には澳門日報の看板の跡かありましたので、少し前まで澳門日報があったとおもいます。よく見たら引越し先が書かれていました。

追加改版を予定しています。


澳門(マカオ)地図



中山、広州、香港、澳門関連地図



孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
澳門の鏡湖医院に眼科の医師として勤める
澳門の菩提で孫医館を開設
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として勤める
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
12月 孫文は横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱か死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925   58 3月 孫文死去