●孫文を歩く 神戸編 -3-
 初版2015年11月7日 
 二版2015年11月24日  <V01L02> 写真を入替え、暫定版

 今回も引き続いて「孫文を歩く」を掲載します。前回まで長崎編を掲載していましたが、今回から神戸編の未掲載分を掲載します。孫文最後の日本訪問で、大正13年11月23日、上海丸にて長崎に到着、翌24日神戸着、11月30日まで神戸に滞在しています。


「孫文と神戸」
<「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉(前回と同じ)>
 今回の参考図書は陳徳仁 安井三吉著の「孫文と神戸」 です。対談形式で書かれていますが、重要な事はすべて書かれていました。大変参考になる図書です。特に神戸については、「孫文と神戸 関係地図(明治・大正)」と「孫文の来神(1895.11〜1924.12)」ですべて網羅されていました。今回はこの図書を参考にして歩いてみました。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「 孫文と私

 最近、私はよく次のような質問を受けます。あなたはいつ頃から孫文の研究を始めたのですか、と。いざこのように聞かれますと、答えに困ります。といいますのも、私は孫文の専門的研究者ではないからです。
 専門的なことはともかく、私が孫文について関心を持つようになったのは、神戸華僑同文学校の四年生か五年生の時、一九三〇(昭和五)年頃だったと思います。当時、「党義」という授業があって、本来であれば孫文の三民主義を勉強する時間でしたが、先生はおそらく小学生にそんな話をしても理解できないと考えられたのでしょう、話題を変えて、もっぱら孫文について興味深い話をしてくれました。たとえば、少年時代、村の長老から太平天国の話を聞いて感動し小さな胸を躍らせていたこと、一七歳の頃、村民たちが神として崇めていた偶像を破壊したため、村に住めなくなって香港に渡ったこと、一八九五年、広東で武装蜂起を計画したが、失敗し、海外に亡命したこと。一八九六年の一〇月、孫文がロンドンで清国公使館に幽閉され、危機一髪というところを救出されたこと、…」

 書かれている内容が分かりやすくて良いです。思想的なことは書かずに経緯を淡々と詳細に書かれていますので、とても面白く読むかとがでしました。

写真は 陳徳仁 安井三吉著「孫文と神戸」 神戸新聞出版総合センターです。平成14年(2002)に増補版として発行されています。旧本は「孫文と神戸 (シリーズ兵庫の歴史 (3))」として昭和55年(1985)出版されています。

「辛亥革命と神戸」
<「辛亥革命と神戸」 陳徳仁>
 もう一冊、陳徳仁氏が書かれた本があります。発行が神戸市垂水区の中山記念館発行となっていますので、移情閣で販売されていた本ではないかとおもいます。私は古本屋で入手しました。

 「辛亥革命と神戸」 陳徳仁からです。
「1 最初に孫文が日本の土地を踏んだのは神戸

 孫文が日本の土地を最初に踏んだのは神戸であり、また、最後に日本を訪れたのも神戸である。
 一八九五年(明治二十八年)十月、孫文自ら指揮して起こした広州での最初の「倒満興漢」の武装蜂起の計画は、事前に両広総督に察知され、完全な失敗を喫し、有力な同志陸皓東を失ない、多くの同志が逮捕された。孫文はしばらく広州に潜んでいたが、十月の二十九日前後にかろうじて香港へ脱出、ここで同志鄭士良、陳少白と共にハワイ(安南〔ベトナム〕という説もある) へ亡命するつもりでいたが、あいにく船がないため、ひとまず日本へと日本郵船「広島丸」に乗り込んだ。
 この時孫文はまだ二十九歳、鄭士良が三十二歳、陳少白は最年少で二十六歳、三人共日本ははじめてである。しかも清国政府を倒そうと武装蜂起をたくらんで失敗した首謀者達である故、清朝政府が日本政府に何へらかの手を打っているかも知れない、日本の新聞は広東で起こったこの事件をどのように報道しているのだろうか、日本に一時とはいえ無事上陸できるだろうか? 恐らく孫文一行はこのような不安にかられたのだろう、船が神戸に着くと、先ず新聞を買った。…」

  「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著が対話形式だったのが、 陳徳仁氏の単独著で、辛亥革命の経緯が分かりやすく書かれています。

写真は昭和56年(1981)発行の陳徳仁著「辛亥革命と神戸」 からです。発行元は神戸市垂水区の中山記念館・移情閣です。

「神戸港の旧第四突堤」
<大正13年(1924)11月24日>
 2015年11月24日 現在の写真に入替
 孫文最後の日本訪問となります。馮玉祥が10月23日北京政変を起こし、孫文の北京入場を促したため、孫文は国民会議の開催を条件に北京入りを決意します。孫文は大正13年11月13日北京入するために広州を出発しますが、上海でイギリスに妨害を受けたために日本を経由し、天津から北京に入るという方法をとらざるを得ませんでした(「孫文と神戸」では”津浦線(天津−浦口)は危いし、上海から天津へ行く船も、むこう二週間は空席がないとのことでした。”とも書かれています)。そのために上海から長崎経由、神戸に向い、大正13年11月23日、上海丸にて長崎に到着します。翌24日、神戸に到着、天津航路の船を神戸で待ちます。

 外務省資料より。
「孫文来朝の件
孫文及夫人、参謀長李烈鈞、副官馬湘、仝黄恵隆、中将兪詠謄、書記陳虞青、仝○○、秘書耿鶴生、仝載天仇及従者四名の一行は本日二十四日午后二時神戸入港の汽船上海丸にて来朝したるが孫は船中に於て訪問の新聞記者三十名對シ載天仇の通譯にて大要在の如き談を為せるが午后三時半上陸当縣差廻しの自動車にて神戸オリエンタルホテルに入り…」

 凄い人数で来日です。北京行きの途中のため、廣東政府の要人を連れての来日になっています。

外秘第7798號に来日メンバーが書かれています(資料によって氏名(漢字)が違います)。
広東政府大元帥:孫文 59
           夫人 31
広東政府参謀総長陸軍上将:李烈鈞 45
             大元帥副官陸軍大佐:馬湘 35
                                            黄恵隆 37
             参謀本部書記:陳虞青 26
                          秘書:周鱉 40
             高級参謀陸軍中将:耿鶴生 40
             大元帥秘書長:載傳賢 36
             高級参謀陸軍中将:兪詠謄 40
             参謀本部書記:曽勇父 35
                                  黄芳池 34
             李の副官陸軍少佐:田賦均 28
             大元帥英文秘書:黄昌穀 35

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「… 神戸へ
安井 孫文は、一九二四(大正一三)年一一月二二日の朝、上海丸で上海を出発、翌二三日のお昼に長崎に着きます。一日とちょっというところですね。
陳 上海―長間は、船で本当に近いです。
安井 その日の夕方に長崎を出て、瀬戸内海を通って、二四日午後二時三〇分、神戸港の第四突堤に着きました。
陳  六年ぶりですね。たくさんの中国人が迎えていますよ。柯鴻烈領事、楊寿彭国民党神戸支部長、鄭祝三神戸中華総商会長をはじめとして、華強学校の生徒、大阪やそれに東京、横浜からも来ていました。「東亜民族連合起来」とか「歓迎孫総理」などと書いた旗が打ち振られるやら、ボーイスカウトがラッパを吹くやらで大変な歓迎でした。…」

 外務省資料では神戸到着が14時、「孫文と神戸」では14時30分、第四突堤と詳しく書かれています。推定ですが、「孫文と神戸」の元ネタは神戸又新日報ではなあいかとおもいます。神戸又新日報の「船報」に詳しく書かれています。

写真は旧第3突堤(現 新港第2突堤)から見た旧第四突堤(現 新港第1突堤)です。戦前の第四突堤の写真も掲載していおきます。現在は”神戸みなと温泉 蓮(2015/12オープン予定)”が出来て波止場の雰囲気はありません。2004年頃の上屋がある写真を掲載しておきます。

「当時のオリエンタルホテル跡」
<オリエンタルホテル>
 オリエンタルホテルの滞在は大正2年3月に続いて2回目です。当時、神戸で最も良いホテルなので、孫文の地位からして当然だとおもいます。当時のオリエンタルホテルは大正5年に東洋汽船の浅野総一郎が買収し、初めて日本資本になっています。大正12年12月、火災を起こし、南側(海側)の建物が焼失しますが復旧しています。これにより、南側の建物の外観が少し変ります。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「…安井 日本人の方も、かなりの人が来ていますね。犬養毅の代理として古島一雄、他に砂田重政、森田金蔵、高見之通といった代議士、萱野長知、山田純三郎、宮崎竜介(滔天の長男)といった「古い友人」たちも顔を揃えています。そこからオリエンタルホテルへ直行するんです。
オリエンタルホテルは、今と同じところにあったんでしょうか。
陳  もっと西の方でした。
安井 次の日のお昼に、神戸商業会議所副会頭で神戸市議会副議長の西川荘三がオリエンタルホテルに行って、孫文に講演を頼むんです。それで孫文も喜んで引き受けるんですが、演題は「大亜細亜問題」、日は二八日というふうに決まりました。
陳  西川さんは、三上さんの下で働いていた人ですよ。一九一三(大正二)年八月の亡命の時、三上さんに頼まれて外務省と接触したこともある人でしたね。 …」

 オリエンタルホテルは明治3年、旧居留地79番で外国資本により開業します。旧居留地80番を買収し、此方を本館とします。旧居留地87番を新たに買収し、別館とします。明治40年、旧居留地6番を買収、地下一階地上4階のビルを建てます。東洋で初めてのエレベーターがあったそうです。ここまではすべて外国資本でしたが、大正5年に東洋汽船の浅野総一郎が買収し、初めて日本資本になっています。大正12年12月、火災を起こし、南側(海側)の建物が焼失しますが復旧しています。これにより、南側の建物の外観が少し変ります。オリエンタルホテルの正面は横道側になります。

写真は現在の海岸通りから見た旧オリエンタルホテル跡です。正面のガラスのビルのところです。火災前のオリエンタルホテルの写真と、昭和初期のオリエンタルホテルの写真を掲載しておきます。見比べると違うのが分ります。

「 田中屋旅館跡」
<栄町一丁目 田中屋旅館>
 2015年11月24日 現在の写真に入替
 孫文は最も高級なオリエンタルホテルに宿泊しますが孫文の部下三名はベッドが嫌いのようで、日本旅館である栄町一丁目の田中屋旅館に宿泊しています。神戸で有名な日本旅館は中突堤前にある西村旅館(孫文も宿泊したことがある)ですが、田中屋旅館は場所良く、高級旅館だったとおもいます。

 外務省資料より
「孫文来朝の件
孫文及夫人、参謀長李烈鈞、副官馬湘、仝黄恵隆、中将兪詠謄、書記陳虞青、仝○○、秘書耿鶴生、仝載天仇及従者四名の一行は本日二十四日午后二時神戸入港の汽船上海丸にて来朝したるが孫は船中に於て訪問の新聞記者三十名對シ載天仇の通譯にて大要在の如き談を為せるが午后三時半上陸当縣差廻しの自動車にて神戸オリエンタルホテルに入り(李烈鈞、耿鶴生、周鱉上の三名は洋室を好まずとて栄町一丁目の田中屋旅館に投宿セリ)滞在中なるか本月三十日神戸港出航予定ナル汽船北嶺丸にて天津に向け出発する予定ナリ…」

 栄町一丁目の田中屋旅館については昭和7年の神戸市商工名鑑によると、”栄町通一丁目外17”と記載があります。

写真は栄町一丁目の交差点から北側を撮影しています。正面あたりに田中屋旅館がありました。当時から比べて道路が拡張されていますので、道路の上と言った方が良いかもしれません。下記の地図を参照して下さい。



神戸市中央区栄町一丁目附近地図(昭和初期)



「神戸高等女学校跡」
<神戸高等女学校>
 孫文は神戸商業会議所副会頭で神戸市議会副議長の西川荘三より依頼を受けた講演を大正13年(1924)11月28日午后、兵庫県庁傍の県立神戸高等女学校の講堂で行ないます。演題は「大亜細亜問題」、日中関係が混迷を深めていた頃ですから話題になります。主催は神戸商業会議所、後援は、大阪朝日新聞社、大阪毎日新聞社、神戸新聞社、神戸又新報社、ですから当然人も集まります。孫文にしても、これからの中日関係を示す重要な演説だったとおもわれます。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「 講演「大亜細亜問題」
陳  さて、いよいよ二八日です。午後一時に孫文ら一行はオリエンタルホテルを出発、一五分ほどで県立神戸高等女学校(翌年兵庫県立第一神戸高等女学校と改称。現在は神戸高校)に到着、篠原辰次郎校長らの出迎えを受けます。
安井 まず、講堂へ行って女高生に向かって簡単な挨拶をしていますね。
陳  ええ、中国の革命は日本の明治維新にあたるもので、協力を望むと。
安井 宋慶齢も話をしていますね。
陳  英語でやりました。それを同校の塚本ふじという女の先生が通訳するんです。婦人運動についての短い話でしたが、中日親善についての婦人の役割についても触れ、感銘を与えたようです。…

安井 それからいよいよ講演になるんですね。とにかく大変な盛況だった。
陳  二時に始まるという予定でしたが、押すな押すなで三〇〇〇人もの群衆が殺到したんです。そのために玄関の鉄柵が折れてしまったということです。二時半開門となるや講堂はたちまちにいっぱい、窓まで鈴なり、それでも1000人ぐらいあぶれてしまい、仕方なく体育館を第二会場にしてやっと収まったということです。
安井 それで孫文は、まず第二会場で簡単な講演を行い、それから講堂にまわって話をすることになるんですが、もう三時になっていました。…

陳  会場の様子を『神戸新聞』はこう伝えています。
 「『大亜細亜問題』と題して滔々雄弁を揮った、絶へず温容人を魅する微笑を浮べ、一言一句は大亜細亜民族のため肺腑を貫き氏又熱してはその温顔に紅潮を呈す、要所要所に到りては 聴衆皆心からなる感激の拍于を送ってこれに酬ゆるのであった、かくて二時間余に亘る長講を続け『亜細亜民族の本領とする正義と人道によって東亜民族は団結し西洋の圧迫に堪へなければならぬ』と結び講演を終る、聴衆一同帽子を打振り『万歳』と連呼して送れば、氏亦帽子を振ってこれに対へ、夫人同伴、李烈鈞氏等と共に退場、同夜オリエンタルホテルで開かれた慰労晩餐会に臨んだ」 (一一月二九日)…」

 講演会場の写真がありますので掲載為ておきます。当時の熱気が伝わってくる写真です。第一高等女学校は戦後、神戸第一中学校と合併し神戸高校となり、場所も移っています。

 陳徳仁編集のの「辛亥革命と神戸」からです。
「…ここには付録として、大正十三年十一月二十八日、孫文が神戸高等女学校で講演した「大亜細亜主義」を速記した『迎戸又新日報』が三日間に分けて報道した分をそのまま記載すると共に、別に『国父全集』(中国国民党中央委員会党史委員会編)中に記録されている「大亜洲主義」の訳文を滝川儀作翁が戦前戦後に印刷し、政財界の人士に配布した分もここに記載し、読者の参考に供す。
 尚、この訳文は、多少の字句は違うが、萱野長知著『中華民国革命秘笈』第十八章に記載されている「中山最後の獅子吼」と殆ど同じで、また一般によく知られている。
 しかし、各新聞に発表された分には、『国父全集』に載せられた「大亜洲主義」の結びの句、
 「日本民族は既に一面欧米の文化の覇道を取り入れると共に他面亜細亜の王道文化の本質をも持って居るのであります、今後日本が世界の文化に対して西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか、夫れは日本国民の慎重に考慮すべきであります。」がない。このことについては、学者の間でも諸説紛々であるが、ここでは論究しない。

付録 孫文の「大亜細亜主義」
    一、『神戸又新日報』掲載の速記録
    一、『国父全集』掲載の分(日文訳)

「大亜細亜主義」(『神戸又新日報』掲載)
   一
諸君、本日諸君の最も熱心なる歓迎に応じて自分は洵に感謝に堪へんのであります。
今日皆様に申し上げる所の問題は、即ち「大亜細亜主義」であります。惟ふに我が亜細亜と云ふのは即ち。
 世界の文化の
  発祥地であり
世界の文化の一番最初の文化は、即ち亜細亜から発生したのであります。今日欧羅巴の一番古い文化の国である所の希臘の文化にしても、又羅馬の文化にしましても、それ等の文化から伝へたのであります。…」

 ”日本民族は既に一面欧米の文化の覇道を取り入れると共に他面亜細亜の王道文化の本質をも持って居るのであります、今後日本が世界の文化に対して西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか、夫れは日本国民の慎重に考慮すべきであります。”を講演で話したかどうかがはっきりしていません。各紙には速記録が掲載されているのですがこの項は掲載されていません。この講演の原稿が有り、各紙は原稿と照らし合わせて掲載為ています。つまり原稿にはないが、話をしたのかということです。

写真は現在の兵庫県庁一号館の北東角にある記念碑です。「第一高等女学校跡」の記念碑と、「孫中山先生 大アジア主義講演会の地」の記念碑があります。当時は別館の南東角が入口でした。第一高等女学校の写真を掲載しておきます。同じ場所から撮影した現在の写真も掲載しておきます。

「北嶺丸」
<北嶺丸>
 孫文は大正13年(1924)11月30日午前10時、近海郵船の北嶺丸で天津に向います

 外務省資料を参照します(全文です)。
「兵外秘第2629号 大正13年12月1日
孫文の行動(其の八)
客月二十九日午后の訪問者中孫文の面会したる者は頭山滿、饒平名智太郎、海軍少佐鎬木武夫、神戸ジャパンクロニクル記者英国人ブレールスフォード、和田長史、名村太郎(山口銀行員)等にして午后九時半頃就寝したり
翌日は予定の如く午前十時神戸出航の汽船北嶺丸にて天津に赴けり旅装を調え当縣差回しの自動車四臺に分乗、第三突堤に赴きて直に乗船したるが見送人は約五百名に達したり而して孫文は来朝以来本○官民の好意に非常に満足せるものの如く繰り返して謝意を漏し且つ曰く大正二年来○の際と今回と比較して余に対する貴国民の感情が非常に親密の度を加えたることに感知したるが之明らかに貴国民が東亜民族団結の必要を痛感せられる結果にして世界の平和確保の前提なり余は此の一事を感得したることに依りて今回は来朝の徒余ならざりしこと哀心より敬喜するものなりと而して一行は定刻無事出発したるにより其者警保局長○○知事(貴官)に電報し且つ萬一を慮り護衛の為の○○部長一名を門司○○船せれめたり
右及申(通)御報候也」

 ○は読めない漢字です。この頃の手書き文章は達筆過ぎるのと、字を省いているのが多くてなかなか読めません。

<天津航路>
 大正13年(1923)4月、日本郵船の近海内航部門を分離独立させ近海郵船(初代)を設立、神戸−天津線も近海郵船の運航となります。当時、南嶺丸(2086トン)と北嶺丸(2085トン)が就航していました。

写真は東亜海運の北嶺丸と書かれていますので、昭和14年以降の写真(絵?)とおもわれます。天津航路は日本郵船の子会社である近海郵船と大阪商船が運航していましたが、昭和14年に東亜海運が設立され、それぞれが運航している船を出し同社が運営するようになっています。





神戸市中央区附近地図

孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月 孫文は香港から神戸・横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
11月 長崎経由神戸着、その後天津に向う
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去