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最終更新日:2006年2月20日


●松井須磨子と牛込・早稲田界隈 2001年2月4日 V01L05

 今週は牛込・早稲田界隈を日本の新劇運動に非常に縁故の深い松井須磨子と島村抱月、坪内逍遥を追って巡ってみました。

 「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いをかけましょか」は大正3年(1914)帝国劇場で、島村抱月の率いる芸術座によって「復活(トルストイ作)」が上演されたときの劇中歌です。歌った女優は恋多き女優の松井須磨子で、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平で曲名は皆様よくご存じの「カチューシャの唄」です(私も一寸メロディが分かるくらいで、若い方はご存じないかもしれませんね)。爆発的な人気でこの時代の一世を風靡した 歌となりました。

<松井須磨子(本名:小林正子)>
明治19年(1886)長野県埴科郡清野村に生まれています。
明治33年 尋常高等小学校を卒業。
明治35年 姉を頼って上京。明治36年結婚、しかしながら翌年離婚。
明治41年 療養先の病院で知り合った前沢誠助(東京俳優養成所の講師)と再婚。
明治42年 坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に第1期研究生として入学。(島村抱月は母校早稲田大学文学部で、英文学史・文学概論などを教える傍ら、演劇研究所の講師もしていた)
明治43年 文芸協会第1回試演会で、「ハムレット」と「ヴェニスの商人」に出演。前沢誠助と離婚。
明治44年 帝国劇場で文芸協会第1回公演。「ハムレット」のオフィリアを演じて好評。このとき初めて松井須磨子を名乗る。(このころから抱月・須磨子の恋愛が始まる)
大正2年 抱月・須磨子の恋愛関係が表沙汰になると、逍遥は抱月に代えて松居松葉を演出に起用。松井須磨子は文芸協会から退会を命ぜられる。抱月は早稲田大学教授の名誉も地位も、そして妻子も捨て須磨子と共に芸術座を設立します。
 
左の写真は多聞院内にある松井須磨子のお墓です。もともと松井須磨子のお墓は故郷、長野県松代の生家の裏山にありますが分骨して多聞院内にもお墓を作っています。また有馬稲子が「女優須磨子の恋」(1975年)に主演したことから、生家に碑を建立しています。

<芸術倶楽部跡>
  「私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの「闇の力」や有島武郎の「死とその前後」などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しい傷ましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。」は昭和2年6月に加能作次郎によって「大東京繁昌記(山手編)」の”早稲田神楽坂”に書かれています。抱月の新劇運動の中心となる研究所が芸術倶楽部で、大正4年に建てられた二階建ての研究所は、日本の演劇近代化の母体となっています。大正3年 帝国劇場で須磨子の唱う「カチューシャの唄」は大ヒット。須磨子は一躍人気女優となります。しかしながら大正7年11月5日 島村抱月はスペイン風邪に罹りあっけなく亡くなってしまいます(享年48歳)。2カ月後、松井須磨子は抱月の後を追い自殺します (享年34歳)。

右の写真は芸術倶楽部跡です。「大東京繁昌記(山手編)」には「その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみごみした狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。・・・牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、・・・私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町域はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。」とあります。もしかしたらプロレタリア発祥の横寺町通りかもしれませんね ・・・むむむ!

<加能作次郎(明治18年〜昭和16年)>
石川県生まれ、職を転々とした後、早稲田大学在学中(ホトトギス)に発表した”厄年”で注目される。博文館記者を勤め、代表作は”世の中へ”、”乳の匂ひ”等。

<坪内逍遥旧宅、文芸協会演劇研究所跡>
 坪内逍遥は美濃国加茂郡太田村生まれで、本名を雄蔵といい、「早稲田文学」の創始者です。名古屋で過ごした少年期には江戸文学に興味を持ち、また歌舞伎を好んています。明治9年上京、東京帝国大学を卒業し早稲田大学で教鞭をとっていた逍遥が、本郷真砂町からこの地に移住したのは明治23年2月です。逍遥は同29年4月、早稲田大学中学校の創立にあたって教頭となり、その後、第二代校長として教育界に奉仕する一方、同39年には島村抱月らと文芸協会を設立し、また同42年には屋敷内に演劇研究所を開き、早大で講ずる演劇理論の実際的な指導にあたっています。明治18年に発表された文芸評論『小説神髄』以来、近代演劇の理論と実践、シェークスピア全集(昭和3年、全40巻完結)に代表される外国文学の翻訳など、逍遥が明治文明開化期の混沌とした文学情勢の中で果たした先覚者としての役割は、誠に大きなものがありますが、その大部分が、ここを根拠地としてなされたものです。(新宿区の文化財史跡より)

左の写真が坪内逍遥旧宅です。今は新宿区の紹介看板のみで空き地になっています。余丁町ですので永井荷風の断腸亭からも近い所です。

<早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館> 【区指定有形文化財・建造物】
 この演劇博物館は、早稲田大学教授で文学者としても知られ、日本の演劇界の先駆者であった坪杓逍遥博士の古稀(70歳)と『シェイクスピア全集』の翻訳完成を記念して、昭和3年10月、学界・演劇界の有志1500有余の協賛によって建てられました。建築様式はシェークスピア時代の劇場であるフォーチュン座を模倣したエリザベス朝様式で、玄関正面が劇場の舞台で、両翼にのびているところが観客を入れる桟敷にあたる野外劇場の型をとっています。なお、同館には、日本の演劇関係の資料をはじめ、逍遥に関する資料を展示するとともに逍遥記念室を設け、その遺品・著書・原稿類を収めています。(入飴無料。日祝および春・夏休み中は休館)(新宿区の文化財史跡より)

右が坪内博士記念演劇博物館です。早稲田大学構内にあり自由に見学ができます。写真の左下に坪内逍遥の銅像が立っています。


牛込・早稲田周辺地図
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【参考文献】
・新宿区の文化財史跡(東部編):新宿歴史博物館
・大東京繁昌記(山手編):平凡社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会

【交通のご案内】
・営団東西線:「神楽坂駅」「早稲田駅」下車
・都営大江戸線:「若松河田駅」「牛込神楽坂駅」下車
・都営新宿線:「曙橋駅」下車

【所在地】
・芸術倶楽部跡:東京都新宿区横寺町10番地
・多聞院:東京都新宿区弁天町100番地
・坪内逍遥旧宅跡:東京都新宿区余丁町7-1
・坪内博士記念演劇博物館:東京都新宿区西早稲田1-6-1早稲田大学構内

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