●夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (下)  【明治44年】
    初版2013年3月16日
    二版2013年4月12日  <V01L02>  堺卯楼を追加 暫定版

 半年ぶりで「夏目漱石散歩」を掲載します。今回は残っていた”夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (下) 明治44年”です。大阪朝日新聞社主催の講演会に招かれての旅で、明石、和歌山と廻り、最後に堺、大阪で講演を行っています。堺、大阪の宿泊場所、講演会場を順次歩いてみました。




「漱石全集」
<漱石全集([上、中]と同じ内容です)>
 夏目漱石はかなりの回数、関西を訪ねています。その中で今回は明治44年8月の大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた足跡を巡ってみました。参考図書は主として「漱石全集 第二十巻」の日記と、「漱石全集 第二十七巻」の年譜を参考にしました。
 「漱石全集 第二十七巻」の年譜、明治44年8月からです。
「8月11日 大阪朝日新聞主宰の講演会のため東京を出発した。十日発の予定であったが、台風で鉄道が不通になり予定を遅らせた。《S日記九》
8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》
8月13日(日) 明石の公会堂で『道楽と職業』と題した講演を行なった。《S日記九》
8月14日 電車で和歌浦に出て、エレベーターに上ったり、紀三井寺に参詣したりした。《S日記九》
8月15日 新和歌浦を見物した後、奠供山で『現代日本の開化』と題して講演を行なった。固辞した講演後の宴会に出るが、風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》
8月16日 大阪に戻った。《S日記九》
8月17日 堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』と題した講演を行なった。《O》
8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡1556》。

 8月19日 大阪朝日新聞社の紹介により、大阪市東区の湯川胃腸病院に入院した。《鏡子》
 8月21日 鏡子が東京から駆けつけた。《鏡子》《荒》

 9月14日 十三日に大阪を発ち、この日帰京した。 《荒》…」

 上記の年譜は大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた項目以外は省いています。”○23”は○の中に23が入っています(第二水準を超えるため)。
 8月13日から8月18日で講演は終っているのですが、漱石の持病である胃の病気が再発し、大阪で約一ヶ月入院しています。そのため帰京が遅れ、9月に東京に戻っています。

 年譜内容に関しては、一部、日記との相違が見受けられます。
・8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》 → 日記では明石の「衝濤館」に宿泊
・8月15日 …風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》 → 本町の富士屋旅館に宿泊
日記の方が正しいとおものですがどうでしょうか?

上記写真は岩波書店の「漱石全集」です。全28巻、別巻一巻となります。凄い量なので本棚ではなくて積み上げています。この全集は古本でしか買えませんので、文庫本で筑摩書房版の漱石全集を紹介しておきます。文庫本は安くていいですね。

「紫雲楼跡」
<紫雲楼>
 漱石の大阪でのお気に入りの宿は当時の住所で東區今橋四−六、現在の住居表示で中央区今橋3−4(日本生命ビル東館の南西の角付近)です。淀屋橋に近く、心斎橋筋になります。

 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十三日〔日〕
 昨夜次の部屋で何かこそくいふ。よく聞くと西洋人である。黒い影が一寸蚊帳へさす。見返ればもうなし、しばらくして彼姻草を呑むといふ声がする。下の座敷で騒ぐ。
 朝六時頃起きて風呂へ這入らうとすると雨戸がしまってゐて、明ける事出来ず。やうやく冷水を浴びてゐると女が風呂の戸を開ける。部屋へ帰って雨戸を開けて海を見る、男が二人出て泳ぎ出す。下の男何処からかボートを借りて来て漕ぎ廻る。昨夕の芸者が一人づゝ乗る。夫から漁船を雇って乗りうつるに、かの男真黒な小供を二人舳臚に乗せて漕ぎ廻る。芸者大きな声を出して阿呆といふ。
 舞子の先が見える。淡路の燈台が見える。泳いでゐる人の足がよく見える。くらげが見える。帆懸船がぞくぞく出る。
   *〔会〕
 午後公開堂で演説。宿に郡長、市長、助役などくる。七時頃帰る。九時着、紫雲楼に入る。…

 8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に 戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡  1556》。…」


 明治44年8月13日(日)一日と16日(水)から暫く滞在しています。心斎橋筋で大阪駅(梅田)へも近く、道頓堀へも便利だったようです。志賀直哉も直ぐ近くの千秋楼に滞在しています。

 夏目漱石の「行人(こうじん)」にも紫雲楼が描かれています(推定)。
「  母の宿はさほど大きくはなかったけれども、自分の泊っている所よりはよほど上品な構であった。室には扇風器だの、唐机だの、特別にその唐机の傍に備えつけた電灯などがあった。兄はすぐそこにある電報紙へ大阪着の旨を書いて下女に渡していた。岡田はいつの間にか用意して来た三四枚の絵端書を袂の中から出して、これは叔父さん、これはお重さん、これはお貞さんと一々宛を書いて、「さあ一口ずつ皆などうぞ」と方々へ配っていた。…」

 「行人(こうじん)」に書かれている大阪の旅館のモデルは「銀水楼」と「紫雲楼」の二件のようです。上手に使い分けています。

写真は現在の「紫雲楼跡」です。正面の角です。現在は工事中ですが、日本生命ビル東館で2015年には完成するそうです。 「紫雲楼」の当時の寫眞を見つけることが出来ませんでした。再度、探してみます。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)

「堺卯楼跡」
<平野町の川卯>
 2013年4月12日 堺卯楼を追加
 漱石は和歌山から大阪に戻ったその日の夜に慰労会に出席しています。多分、本人は出席したくなかったのでしょう、料亭の名前をはっきり覚えていません。

 「漱石全集 第二十巻」の”日記9”からです(明治44年)。
「  〔八月〕十六日〔水〕
 今朝十時の汽車で大阪へ帰らなければならない、西岡君は早朝荷物を和歌の浦迄取に行く。つな引でなければ行けぬといふので二人の車夫を雇ふ(後で壱円八十銭平生の三倍とられる。)帰って、向ふは何でもない、三階の客は皆よく寝たといふ。
 一時頃大阪着。晩の六時に平野町の川卯とかへ慰労会に出席する筈なり。…」


 ”平野町の川卯”で商工名鑑や職業別電話番号簿等でしらべたのですが、見つからず、平野町で料亭を調べたら、「堺卯楼(さかう)」という料亭を見つけることが出来ました。私は大阪の料亭については詳しくないのですが、近代大阪の代表的な料亭は堺卯、播半(谷崎潤一郎で登場しています)、つる家(京都へ移転)、灘萬(東京へ移転)、吉兆だそうです。(なだ万等のホームページ参照)
 ”川卯”と”堺卯”つまり、”川”と”堺”の記憶違いでほぼ間違いないとおもいます。

左上の写真は現在の大阪市中央区平野町3-4、東横イン淀屋橋駅南です。この場所に「堺卯楼(さかう)」がありました。 「紫雲楼」から南に400m弱です。この場所はもともと北組惣会所跡で、この地に転居してきています。

「大阪府立泉陽高等学校」
<堺の市立高等女学校>
 漱石は和歌山から大阪に戻った翌日の8月17日、堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』 と題した講演を行なっています。休む暇もありません。これでは病気になってしまいます。

 「漱石全集 第二十巻」の”日記9”からです(明治44年)。
「 8月16日 大阪に戻った。《S日記九》
8月17日 堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』 と題した講演を行なった。《O》
8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に 戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡  1556》。」


 大阪から堺に向うには、
・明治36年(1903)に開通した難波駅−堺和歌山駅(現 和歌山市駅)の南海鉄道(現 南海電気鉄道)
・明治33年(1900)に開通した道頓堀駅(現在の汐見橋駅) - 大小路駅(現在の堺東駅)の高野登山鉄道(高野線)
しかありませんでした。国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が堺市駅を開業したのは昭和7年(1932)となります。
 漱石が堺駅か堺東駅のどちらを使ったかはわかりません。市立高等女学校は堺東駅から約800m、堺駅からは約1.2Kmとなります。ただ道頓堀駅(現在の汐見橋駅) は難波駅から約1.3Km離れているため、順当には南海鉄道の難波駅から堺駅だとおもいます。

左上の写真は現在の大阪府立泉陽高等学校です。戦前の女学校が戦後、男女共学校になったわけです。

「妙国寺」
<妙国寺>
 漱石が堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』 と題した講演内容が残っています。

「… 私は先年堺へ来たことがあります。これはよほど前私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になりますか、何でもよほど久しい事のように記憶しております。実を言うと今登った高原君、あれは私が高等学校で教えていた時分の御弟子であります。ああいう立派なお弟子を持っているくらいでありますから、私もよほど年を取りました。その私がまだ若い時の事ですからまあ昔といっても宜(よろしゅう)ございましょう。今考えるとほとんどその時に見た堺の記憶と云うものはありませんが、何でも妙国寺と云うお寺へ行って蘇鉄(そてつ)を探したように覚えております。それからその御寺の傍に小刀や庖丁ほうちょうを売る店があって記念のためちょっとした刃物をそこで求めたようにも覚えています。それから海岸へ行ったら大きな料理店があったようにも記憶しています。その料理店の名はたしか一力(いちりき)とか云いました。すべてがぼんやりして思い出すとまるで夢のようであります。その夢のような堺へ今日図はからずも来て再び昔の町を車に揺られながら通ってみると非常に広いような心持がする。…」

 漱石の堺は二度目のようで”私は先年堺へ来たことがあります。これはよほど前私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になります”と書いています。「大阪春秋16号」に古賀蔵人が”漱石・子規と妙国寺”が掲載されていましたので、参考にします。

「… 日蓮宗妙国寺(材木町東四丁)は、織田信長にまつわる伝説の大蘇鉄があり、また幕末の堺事件の切腹の舞台としても有名だが、かつてかの夏目漱石、正岡子規(文科大学の同期生)が肩を並べて堺を訪れた事への考証の鍵として、ここではとらえたい。
 漱石自身が学生時代に堺に来た事は、彼がのちの明治四十四年八月、朝日新聞の講演旅行に来て、堺高女の講堂で行なった講演「中味と形式」の中で語っている。…

 ここに問題を解く一つの鍵がある。それは、子規の明治二十八年の次の句である。
  朝寒や蘇鉄見に行く妙国寺
 その年子規は、従軍の帰途に再発した肺病の予後を、秋に入って郷里で養生し、朝寒のころ大阪や奈良に遊んで帰京したが、その折堺にも立ち寄ったとは想像しにくい。 二十八年十月十七日、松山を離れる子規を送別する句宴が、郷土の俳友十数名によって催され、漱石も出席した。その日の兼題の一つに「朝寒」があった。当日の会稿は残念ながら残っていないが、子規の右の妙国寺の句は必ずやその席上の兼題句で、それにはまた三年前に旅を共にした同席の漱石への挨拶らしい心もこもっていたのではあるまいか。
 この一句の解釈により、はじめて妙国寺の庭の漱石と並んで、子規の姿が定着する。その日付は考証の紙幅がすでにないので結論だけを急げば、西下の折の二十五年七月九日、十日、あるいは東上の道の八月二十七日、二十八日のうち、どの一日かであろう。…」


 漱石が堺を訪ねたのは一度目が明治25年で子規と同道し、二度目が明治44年8月となるわけです。明治25年の7月7日に子規と東京を発ち、京都、大阪と廻り、10日子規と別れて岡山に向っています。この時に堺に寄ったものとおもわれます。

 妙国寺(みょうこくじ)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広普山(こうふさん)。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られています。境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)で、織田信長とも関連があります。天正10年(1582)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していましたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝えられています。慶応4年の堺事件で日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃したのがこの妙國寺です。堺事件の記念碑があり。(ウイキペディア参照)

左上の写真が、明治25年に漱石と子規が訪ねた妙国寺です。境内の大蘇鉄は健在で、堺事件の割腹跡の記念碑が傍にありました。土佐十一烈士の墓は妙國寺の前にある宝珠院にあります。漱石が訪ねた「一力」は大浜公園にあった「一力」とおもいます。「一力」の繪端書がありましたので掲載しておきます。


夏目漱石の堺地図



「二代目中之島公会堂」
<中之島公会堂>
 8月17日、堺の市立高等女学校講堂で講演を行い、翌日の18日、中之島の公会堂で再度講演を行っています。

 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に 戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔 吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡 1556》。
…」

 講演が続き、体調を崩したようです。

  講演の内容です。
  私はこの大阪で講演をやるのは初めてであります。またこういう大勢の前に立つのも初めてであります。実は演説をやるつもりではない、むしろ講義をする気で来たのですが、講義と云うものはこんな多人数を相手にする性質のものでありません。これだけの聴衆全体に通るような声を出そうとすれば ―― 第一出る訳がないけれども、万一出るにしても十五分ぐらいで壇を降りなければやりきれないだろうと思います。したがって、始めての事でもあるしこれほど御集りになった諸君の御厚意に対してもなるべく御満足の行くように、十分面白い講演をして帰りたいのは山々であるけれども、しかしあまり大勢お出になったから ―― と云って、けっしてつまらぬ演説をわざわざしようなどという悪意は毛頭無いのですけれども、まあなるべく短かく切上げる事にして、そうして ―― まだ後にも面白いのがだいぶありますから、その方で埋め合せをして、まず数でコナすようなことにしようと思う。実際この暑いのにこうお集まりになって竹の皮へ包んだ寿司すしのように押し合っていてはたまりますまい。…」
 講演の最初のみ記載しました。相当暑かったようです。後は青空文庫で読んで下さい。

上記写真は現在の大阪市中央公会堂(中之島公会堂)です。 この公会堂は大正7年に完成なので、漱石が講演した中之島公会堂は初代の中之島公会堂になります。初代の中之島公会堂は明治36年(1903)に建てられた二階建ての小さな公会堂だったようです。寫眞を探したのですが、見つからず再度探しています。

「湯川胃腸病院跡」
<湯川胃腸病院>
 漱石は体調を崩し、宿泊していた紫雲楼近くの湯川胃腸病院に入院します。胃腸病が再発したようです。神経の使いすぎかもしれません。

 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に 戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔 吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡 1556》。
☆8月18日 単行本『切抜帖より』が春陽堂から刊行された。
 8月19日 大阪朝日新聞社の紹介により、大阪市東区の湯川胃腸病院に入院した。《鏡子》
 8月21日 鏡子が東京から駆けつけた。《鏡子》《荒》
 9月14日 十三日に大阪を発ち、この日帰京した。 《荒》
 9月16日 神田錦町で開業していた医師佐藤恒祐により、自宅で痔の切開手術を受けた。その後歩けるようになってからは、隔日に同医師の診療所に通うこととなった。《S日記一〇》…」

 当時の湯川胃腸病院は東区今橋3−1なので、東区今橋4−6の紫雲楼からは東に二筋ほど行ったところです。約250m位ですから近いです。 この湯川病院というのは湯川秀樹先生の奥さんの実家だそうです。昭和36年(1961)に天王寺区堂ヶ芝2-10-2に新築移転されています。

上記写真は当時の東区今橋3−1、現在の中央区今橋2−5トレードピア淀屋橋付近です。写真の正面からやや右側に湯川胃腸病院があったようです。



夏目漱石の大阪地図


夏目漱石年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治23年 1980 帝国ホテル開業 23 9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年 1981 大津事件
東北本線全通
24 3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 34 1月 次女恒子誕生
明治35年 1902 日英同盟 35 9月19日 正岡子規死去(享年36歳)
12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 36 1月20日 長崎港着
4月 第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任
10月 三女栄子誕生
明治37年 1904 日露戦争 37 4月 明治大学講師に就任
明治38年 1905 日本海海戦
ポーツマス条約
38 1月 「吾輩は猫である」をホトトギスで発表(第一章)
12月 四女愛子誕生
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 39 4月 「坊っちやん」をホトトギスで発表
明治40年 1907 義務教育6年制 40 3月 東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出、朝日新聞社に入社
3月〜4月 京都、大阪を訪問
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
41 12月 次男伸六誕生
         
明治44年 1911 辛亥革命 44 8月 朝日新聞の招きで講演旅行を行う(明石、和歌山、堺、大阪)