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最終更新日:2006年2月20日


●夏目漱石の熊本を歩く (下) 初版2005年5月28日 <V01L03>

 今週は「夏目漱石の熊本を歩く」の最終回を掲載します。熊本は夏目漱石で掲載するところが多いのですが、第五高等学校と第四番目の住いから第六番目の住いまでを掲載して今回は終了です。



<「新熊本文学散歩」>
 夏目漱石の熊本研究の本では山崎貞士さんの「新熊本文学散歩」が一番分かりやすくて、面白いとおもいます。松山から熊本にきた理由についても書いています。「…漱石がはじめて熊本の地を踏んだのは、明治二十九年(一八九六)四月十三日(月)の午後のことだ。前任地松山の中学校の退任式で、漱石が告別のあいさつをやったのは四月九日(木)である。その時、漱石はこんなことを言った。 『なぜ私はこの中学をすてて、熊本へ去るか。それは生徒諸君の勉学上の態度が真摯ならざる一事である。私はこの言を告別の辞とすることを、甚だ遺憾に思っている。生 徒諸君は必ずこのことについて思い当たる時が来るであろうと信ずる。』 熾烈というか、苛烈というか、漱石のはげしい気魄を、この寸言の裡にうかがうことが出来る。それはそのまま漱石自身の教育者としての信条だった。…」。もっとも漱石は校長よりも高給で招かれたわけですから、松山の良かったことも手紙に書いたりしていますので、全く松山中学が嫌いだったわけではないようです。子規とも松山で同じ下宿にいたりしています。また、熊本時代に生徒から”俳句とは”と質問されて、『…「俳句とはレトリックを煎じつめたもので、扇のかなめのような集注点を指摘して、描写し、それから放散する連想の世界を暗示するものだ」といった漱石の答えであった…』、と応えています。すばらしい!!

左上の写真が山崎貞士さんの「新熊本文学散歩」です。漱石だけではなくて、熊本に縁のある文士についても記載がありますが、私はあまり知らない方ばかりでした。山崎貞士さんごめんなさい。


夏目漱石の熊本年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

明治28年
1895

日清講和条約
独仏露三国干渉

28
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年
1896
アテネで第1回オリンピックが開催
樋口一葉、没
29
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、鏡子さんと結婚
9月 熊本市合羽町二三七に転居
明治30年
1897
八幡製鐵所開設
30
6月 父死去
9月 大江村四○一に転居。
明治31年
1898
ロシアが旅順と大連を占領
アメリカがハワイを併合
31
3月 熊本市井川淵八に転居
7月 熊本市内坪井町七八に転居。
明治32年
1899
日本麦酒会社がビアホールを開店
32
5月 長女筆子誕生
明治33年
1900
パリ万国博覧会
義和団事件
33
3月 熊本市北千反畑町七八に転居
7月 東京へ戻る
9月 英国留学に出発

第五高等学校(現 熊本大学)>
 明治19年(1886)、「学校令」が公布され、各府県に「尋常中学校」、全国枢要の地に官立の「高等中学校」が設置されることがきまります。明治20年 (1887) 熊本に第五高等中学校が設置されることが決定されます。明治27年 (1894) には高等中学校の名称が高等学校と改称されます。当初は全国に八校の高等学校が設立されます。第一高等学校が東京、第二高等学校が仙台、第三高等学校が京都、第四高等学校が金沢、第六高等学校が岡山、第七高等学校造士館が鹿児島、第八高等学校が名古屋となります。大阪と福岡、広島がありませんね。有名な弘前や水戸等は後になって設立されています。当時の講師陣としては小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も松江尋常中学校の教師となった後、第五高等学校に明治24年赴任しています。英語とラテン語を担当していたそうです。

左上の写真が第五高等中学校の本館です。明治22年 (1889)第五高等中学校本館竣工され、全国で赤煉瓦の教室として残存するのは,五高と四高本館のみで、化学実験室,正門(赤門)とともに国の重要文化財に指定されています。

四番目 井川淵町の家>
 家主が帰ってくるのでやむを得ず転居します。「…三月、家主の落合東郭さんが東京からお帰りになって、熊本でおつとめになるということで、お家をお渡ししなければならなくなりました。そこで井川淵というところに小さい家をみつけまして、一時凌ぎにそこへ移りました。そこは川べりでして、すぐ近くに明午橋が見えます。なんでも部屋数の少ない家でして、間に合わせの転居ではありましたが、不便たらありません。部屋がないので、夜になると土屋股野の二人の書生さんを座敷にねかせるのです。ところが土屋さんはきちょうめんのほうですからいいのですが、股野さんときたら朝寝はするし、それに横着者なので、自分の寝床まで土屋さんにあげさせます。掃除は遅れるしいまいましいたらありません。がまたどこからどこまでよくできていて、こっちのいうことなんかてんで通じないのです。ところがある朝、いつまでも例のとおり朝寝坊をきめ込んでいるところを、運悪く夏目に見つかりました。「股野、起きろ、いつまで寝坊してるんだ」 と、夏目も私たちが常日ごろいまいましがっているのを知ってるものですから、いきなり大きな声でどやしつけました。ずうずうしい股野さんでもこの一喝には恐れ入ったとみえて、「ハイ」といいさまバネ仕掛けのようにはね起きたのはいいが、この三平君、夏冬ともに真裸で床の中にもぐり込む習慣なので、びっくり夜着をはねのけて起きるには起きたが、どうとも始末がつきません。夏目もおかしさをこらえて、「早く自分で寝床を上げろ」とさらに怒鳴りました。…」。当時の高等学校の先生は偉かったのです。高等学校が八校しかなくて、その上漱石は英語の先生ですから当然ですね。当時は書生まで於ける余裕があるわげです。漱石の奥様、鏡子さんはお金が無くて困ったと書いていますが、お金のないレベルが庶民とはかなり違ったようです。

右の写真の川べりの道の先の右側に家がありました。川(白川)と道の間にあったようです。空襲で家は焼けてしまいました。写真は上記に書いてある明午橋の橋の上から撮影しています。

五番目 内坪井町の家>
 井川淵には三カ月程いて、内坪井町へすぐ転居します。「…秋狩野さんのおられた家があいたので、さっそく内坪井町の家に引き移りました。この家は熊本にいた間、私どもが住んだ家の中でいちばんいい家で、いまみてもなかなかりっぱなものです。なんでも五、六百坪も屋敷の地面があったと思いますが、桑畑があったり、庭も相当に広かったりしました。もっとも家はさほどに広くはありませんでしたが、そのかわり別棟の物置があって、それがなかなか広うございました。というのは前の持ち主が軍人さんかなんかで、厩と馬丁のおるところだったのを物置きにしたものでしたでしょう。たいへんがっちりした堂々たるものでした。…」。いまも家は現存しています。写真を見てもらうとわかりますが、当時としては相当立派な家だったとおもいます。現在は漱石資料館として一般公開していますので熊本に行かれる方は必ず訪ねられたらよいとおもいます。

左上の写真が五番目の家「内坪井町の家」です。この家で鏡子さんは長女を生みます。「…長女が生まれましたのは、五月の末のことでありました。私が字がへただから、せめてこの子は少し字をじょうずにしてやりたいというので、夏目の意見に従いまして、「筆」と命名いたしました。ところが皮肉なことに私以上の悪筆になってしまったのはお笑い草です。で、いまではそんな欲張った名はつけるものではない、そんな名をつけるからこんなに字がへたになったのだなどと、当人の筆子はこの話が出るたびにかえって私たちを恨んでいるのです。親の心子知らずか、子の心親知らずか、ともかくお笑いぐさには違いありません。…」。名前の付け方は夏目漱石でもこんなものなのでしょうか。

六番目 北千反畑町の家>
 熊本で最後に住んだのがこの北千反畑町の家です。「…明治三十三年、私たちはこの年の七月に長らく住みなれた土地熊本を去るのですが、それより先、四月、私が嫁いでから六度めの最後の転居をいたしました。北千反畑というところです。……夜おそくなって夏目が謡の会に行って帰って参りました。門に音がしたと思うと、ひとしきり犬が吠えて、そうして玄関が開きました。出迎えて見ると、夏目はまっ青な顔をしています。そうして袂と袴とがひどく破けています。どうなすったのですと驚いてたずねますけれども、黙っております。だんだんきいてみると、家の犬にやられたのだとわかって、これこそ飼い犬に手をかまれた恰好だといって笑いますと、夏目もしかたなしに苦笑いをしておりました。…」。この家に住んだのは東京に戻るまでの僅か四カ月です。

右の写真が漱石熊本最後の住いです。藤崎宮のすぐ傍です。この後、夏目漱石一家は東京に戻り、漱石はイギリスに旅立ちます。

「…私たちは横浜まで見送りました。プロイセン号という外国船で、日本人の客といっては、芳賀さん藤代さん、それに夏目の三人でした。それは九月八日のことでした。立つ前短冊に、

 秋風の一人を吹くや海の上          漱石

 の一句をしたためて残して行きましたが、洋行から帰って来て、私の部屋に入るなり、床の間の横にかけておいた短冊をはずして、どういう気かびりびりに裂いて捨ててしまいました。いよいよ出立という前に子規さん、虚子さんあたりから、短冊に書いた送別の句がとどきました。
   漱石を送る
 萩す、き来年あはむさりながら          規
   送別
 秋の雨荷物ぬらすな風引くな          升
 二つある花野の道のわかれかな      虚 子
前の二句が子規のものですが、今それを見ますと、帰朝しました時にはもう子規さんは亡くなっておられてお会いができなかったのですから、ほんとうに感慨深いものがございますのです。…」
。漱石が帰国後、先に書いた句を捨てたというのは、イギリス留学があまり良くなかったということなのでしょうか。それにしても子規の句は素晴らしいです。漱石に送った最後の句なのでしょうか。


<夏目漱石の熊本地図 -1->

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・新熊本文学散歩:山崎貞士 熊本日日新聞情報文化センター
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・吾輩は熊本である:漱石100年来熊

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