kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年8月26日


●夏目漱石の熊本を歩く (中) 初版2005年5月21日 <V01L02>

 今週は「夏目漱石の熊本を歩く」の第二回目を掲載します。漱石は熊本で六回住居を変わっていますが、今回は漱石の熊本での住居の一番目から三番目までを歩いてみました。



<「吾輩は熊本である。」>
 「今からちょうど百年前、吾輩は熊本にやってきた。五高の教師として四年余り過ごした。結婚、長女筆子が誕生したのも熊本だった。後に、熊本を舞台にした、小説「草枕」や「二百十日」も書いた。余にとっては、思い出の地である。」、は熊本市(たぶん)が創った夏目漱石来熊100年記念の紹介パンフレットの表紙文です。漱石が来熊したのは明治29年(1896)ですから100年で1996年になりますから、今から9年前に創られたものです。このパンフレットは第四の家の写真を撮影しているときに近くのおばあちゃんから頂きました。”ちょっと待っていて”と言われたので、なにかとおもっていたらこのパンフレットを頂きました。ありがとうございました。熊本県人はやさしい!!

左の写真が”夏目漱石来熊100年記念”の紹介パンフレットの表紙です。「…その漱石が、29歳の時に五高の英語教師として熊本に赴任し、ロンドンに旅立つまでの4年余り過した。漱石にとって、熊本は思い出の地である。名作『草枕』や『二百十日』の舞台としてだけではなく、文豪若かりし頃の新婚時代が熊本であったことだ。東京から鏡子夫人を迎えた漱石は、光琳寺の家で結婚式を挙げた。やがて長女筆子の誕生。寺田寅彦ら五高生とのほのぼのとした師弟関係も生れた。ここでは『草枕』の世界のように明るく、多くの俳句を残している。今春、熊本は“漱石来熊百年”を迎えた。漱石の”姿“は、熊本の地に今も濃密に残されている。その一つ一つを訪ね、熊本の土壌が漱石に与えたものを探してみよう。」。松山中学にはわずか一年しかおらず、熊本の第五高等学校に四年も勤めたのはよほど熊本が住みやすかったのでしょう。


夏目漱石の熊本年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

明治28年
1895

日清講和条約
独仏露三国干渉

28
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年
1896
アテネで第1回オリンピックが開催
樋口一葉、没
29
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、鏡子さんと結婚
9月 熊本市合羽町二三七に転居
明治30年
1897
八幡製鐵所開設
30
6月 父死去
9月 大江村四○一に転居。
明治31年
1898
ロシアが旅順と大連を占領
アメリカがハワイを併合
31
3月 熊本市井川淵八に転居
7月 熊本市内坪井町七八に転居。
明治32年
1899
日本麦酒会社がビアホールを開店
32
5月 長女筆子誕生

一番目 光琳寺の家>
 漱石と鏡子さんが結婚式をあげたのがこの光琳寺の家です。「…この光琳寺町の家というのは、なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした。この間熊本へ参りましてさがしてみますと、入り口が反対の下通りに面していて、熊本簡易保険健康相談所というものになって、新しい部屋のつけたしなどがありましたが、大体は元どおりでした。元は玄関のとっつきが十畳、次が六畳、茶の間が長四畳、湯殿、板蔵があってそれから離れが六畳と二畳と、こういう間取りです。式は離れの六畳で行なわれました。……子規さんが短冊を書いて送ってくださいました。

  蓁々たる桃の若葉や君娶る
  赤と白との団扇参らせんとぞ思ふ

 後の方の句は少しまちがっているかもしれません。…」
。相変わらず、子規の句はいいですね!

漱石の句としては

  衣更へて京より嫁を貰いけり
  すずしさや裏は鉦うつ光琳寺     となります。

左上の写真の左側が光琳寺の家があったところです(残念ながら光琳寺は空襲で焼けて無くなりました)。現在の熊本市下通一丁目7番です。この光琳寺は森鴎外の「阿部一族」に登場するので有名です。「…五助は二人扶持六石の切米取で、忠利の犬牽である。いつも鷹狩の供をして野方で忠利の気に入ってゐた。主君にねだるやうにして、殉死のお許は受けたが、家老達は皆云った。「外の方々は高禄を賜はつて、栄耀をしたのに、そちは殿様のお犬牽ではないか。そちが志は殊勝で殿様のお許が出たのは、此の上も無い誉ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬることだけは思ひ止まって、御当主に奉公してくれい」と言った。五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽いてお伴をした犬を連れて、追廻田畑の高琳寺へ出掛けた。…」。この高琳寺が光琳寺なのです。「阿部一族」は熊本藩主「細川忠利」の死去に伴う殉死の話を書いた小説です。森鴎外が「阿部一族」を発表したのは大正2年(1913)ですから、夏目漱石が森鴎外の「阿部一族」を知っているはずがありませんね!

二番目 合羽町の家>
 「阿部一族」に登場する光琳寺はどうも住み心地が良くなかったようで、三カ月ですぐに引っ越します。「…九月のなかばごろ、旅行からかえって間もなく光琳寺町から合羽町に移りました。……ところが今度引っ越した合羽町の家というのは、まだ建って間もない家でしたが、がさつ普請でした。がそれでもこのほうがまだいいというので移りましたものの、なにしろ二人きりに女中という世帯なのに、間数がたくさんあるのです。そこで同じ五高の歴史の先生の長谷川貞一邸さんが同居されることになりました。…… これも長谷川さんにうかがったところによりますと、なんでも晩御飯の時に、お猪口にいっぱいずつ酒がでたそうです。それがどういうつもりかたった一ばいで、呑める口の長谷川さんのほうでは、手もなく呑んでしまわれて、飲ませてくれるならいっそ堪能するくらい飲ましてくれればいいに、胸糞の悪いくらいに思って、けろりとしてらっしゃるのに、夏目はそれ一ばいをのむのに小鳥が水をのむようにチビチビやってるのでなかなかなくならず、そうしてそれだけで赤い顔をしたりしていたそうです。それから私が主人だと思ってわざと肴の尻尾をつけようものなら「尻尾は長谷川につけろ」てんで、いつも頭のほうを主張したそうです。そういえばこの肴のことはうろ覚えに覚えております。…」。お猪口”いっぱい”のお酒では、誰でも足りませんね、ぐっと飲んで一秒で終わりです。肴の尻尾のお話はよく分かりません。”それから私が主人だと思ってわざと肴の尻尾をつけようものなら「尻尾は長谷川につけろ」てんで、いつも頭のほうを主張したそうです。”頭は主人の方ではないのでしょうか。

右の写真の右側、駐車場辺りに家がありました。現在の熊本市坪井二丁目9番地付近です。写真の道の手前には熊本電鉄 藤崎線の踏切がありますが、熊本電鉄(当時は菊池軌道株式会社)が開通したのが明治44年なので、漱石が住んだころは踏切もありませんでした。

三番目 大江の家>
 二番目の家も一年ばかりで転居します。「…私がまだ熊本にかえらない前に、九月そうそう大江村(今では市内になって大江町)の落合東郭さん(漢詩人、現侍従)のお宅へ移りました。落合さんが東京に勤めていられて、自然家があいているのでおかりしたのでした。十月、健康も回復したので、帰りたいと思っておりますと、折りよく落合さんの御母堂と、落合さんの奥さんの御里の元田永字先生(明治天皇の侍講)の令息ご夫婦のお三人が熊本へおかえりになり、しかも元田さんのお宅というのが、今度お借りした落合さんのすぐお隣りというわけで、いっしょに連れて行っていただいて、十月二十五日ごろ熊本につきました。来てみますとここはたいそう景色のいいところで、家の前は一面に畑、その先が見渡す限り桑畑が続いて、森の都と言われる熊本郊外の秋の景色はまた格別でした。そのかわり冬になるとずいぶんと寒く、みたこともないような大きな氷柱が、水車のあたりにのべったらに下がっておりました。…」。落合東郭さんはかなり有名な方です。私は恥ずかしながら知りませんでした。明治天皇の恩召にて宮中に入られて明治天皇、大正天皇、昭和天皇の三代にわたり侍従を務められたそうです。

左上の写真が三番目の家「大江の家」です。現在は水前寺公園脇に保存されています(写真は保存されている家を撮影したものです)。大江の家は熊本市新屋敷一丁目15番地です。少し前までは熊本中央病院内にありましたが、熊本中央病院が引っ越し、現在はマンションになっていました。

<北海道後志国岩内郡岩内村浅岡仁三郎方>
 話は少し昔にに戻ります。鏡子さんが北海道へ漱石の本籍を移したことについて述べていました。「…この後由、五年たって、夏目が北海道後志国岩内郡岩内村浅岡仁三郎方へ送籍いたしまして、一時北海道平民ということになっていたことがあるそうです。これは徴兵免除のためだったということです。…」。”この後五年”とは明治25年だとおもいます。松山中学に赴任する2〜3年前ですから、東京帝国大学時代です。

左の写真が本籍を移した北海道後志国岩内郡岩内村浅岡仁三郎方の記念碑です。現在の北海道岩内郡岩内町御崎13番地に建てられています。日本の徴兵制度は、明治6年(1873)「徴兵令」が発布されたことから始まっていますが、当時の北海道には屯田兵制度があり、そのため徴兵制は適用除外されていたようです。漱石は戸籍を明治25年(1892)に東京市牛込区喜久井町の兄直矩の籍から牛込区馬場下町に分籍した後、北海道後志国岩内郡吹上町17の浅岡仁三郎方に転籍しています。大正3年(1914)再び東京へ本籍を戻しています。ですから漱石は徴兵されていないのです。


<夏目漱石の熊本地図 -1->

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・新熊本文学散歩:山崎貞士 熊本日日新聞情報文化センター
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・吾輩は熊本である:漱石100年来熊

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール