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最終更新日:2006年8月26日


●夏目漱石の熊本を歩く (上) 初版2005年5月14日 <V01L02>

 今週はまったく飛んでしまって「夏目漱石を歩く」を掲載します。それも、熊本を歩きます。夏目漱石は明治29年 松山中学から熊本の第五高等学校に赴任し、5年間熊本ですごします。



<漱石の思い出>
 夏目漱石の未亡人、夏目鏡子さんが漱石との過ごした日々を語ったのが、この「漱石の思い出」です。この「漱石の思い出」は昭和3年に書かれていますが、今読んでも時差を感じさせない内容となっています。「話の順序として結婚前のことからお話しいたしましょう。申すまでもなく結婚前のことが私にわかろうはずはないのですが、結婚後本人の口から聞いたことや、ほかの方々から伺ったことなど照らしあわせて、記憶に残っていることをかいつまんでお話しいたしましょう。…」。最初の書き出しですが、この後、当時松山中学に赴任していた漱石との見合いの話から始まります。「…ところがこんどの写真を見ると、上品でゆったりしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで、ほかののをどっさりみてきた目には、ことのほか好もしく思われました。…」。今でも漱石の写真を見ると、育ちの良さと、頭のよさが滲み出ていますね。「…ひょっこり一人で訪ねて参りました。フロックを着込んでいたように覚えています。明治二十八年十二月二十八日のことでございます。 …… 私の父は書生流ですから、むつかしいしかつべらしいことはいっさいぬきのようでしたが、私はただだまってきちんとすわってきいていたはずなのが、今から考えるとなにをお話ししていたものか、とんと記憶にありませんが、ともかくいい印象をうけたことだけはたしかのようでした。…」。今も、昔もお見合いは変わりません。「…七日に松山にかえるというので、母といっしょに新橋へ送りにゆきました。兄さんと高田の姉さんの旦那さん、お友達が三人。珍しいいいお天気でした。朝八時ごろの汽車なので、朝寝坊の子規さんはこられず、後から言い訳のはがきにこんな句を書いたのが届いたのをみました。

  
寒けれど富士見る旅はうらやまし     子規

この間松山へ参りました時に、中学校で当時の教務日誌をみせていただきましたら、欠勤なんぞしたことのない夏目が、この一月十日に欠勤しています。これはどうも見合いに帰京してのかえりがおくれたらしいのでございます。…」
。やっぱり、正岡子規は凄いです。言い訳でこの句です。この後、夏目鏡子さんは第五高等学校に赴任した漱石を追って熊本に旅立ちます。当然、結婚式は熊本となります。

左上の写真は夏目鏡子さんの「漱石の思い出」です。文藝春秋の文庫です。奥様側から見た漱石が書かれていて、なかなか面白いです。


夏目漱石の熊本年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

明治28年
1895

日清講和条約
独仏露三国干渉

28
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年
1896
アテネで第1回オリンピックが開催
樋口一葉、没
29
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治30年
1897
八幡製鐵所開設
30
6月 父死去
9月 大江村四○一に転居。
明治31年
1898
ロシアが旅順と大連を占領
アメリカがハワイを併合
31
3月 熊本市井川淵八に転居
7月 熊本市内坪井町七八に転居。
明治32年
1899
日本麦酒会社がビアホールを開店
32
5月 長女筆子誕生

門司港駅>
 今は、熊本まで飛行機であっという間ですが、当時は汽車で何日もかかって行きました。「…六月の四日であったと思います。母や妹たちや夏目の方の人々に送られて、父といっしょに一人の年取った女中を連れて東京をたちました。途中福岡に叔父がおりまして、それが門司まで迎えにきてくれました。ところが連絡船の中へ私どもが忘れものをしていたのに気がついて、叔父が艀にのって取りに行ってくれたのです。ちょうど海の荒れている日で、小舟は転覆しそうに揺れます、それをまあどうやら下関の岸まで乗りつけて、忘れ物を取ってきてくれましたが、その時の叔父の言い草がふるっていたのでいまでも覚えています。「艀が揺れていまにもひっくりかえりそうだったが、私は生命保険にかかってるんで安心していた」 こんなことを言ったんで、父が自分で死ねば保険は誰のものになるんだって、みんなで大笑いいたしました。こうして八日の晩に無事に熊本につきました。…」。結局、5日かかっています。当時の関門海峡には関門鉄道トンネルはまだなく、青函連絡船と同じように、関門連絡船が運行されていました。関門鉄道トンネルが開通したのはずっと後になり、戦時中の昭和17年11月になります。

左上の写真が門司港駅です。駅舎は当時のままですので、夏目鏡子さんもこの駅舎とプラットホームを歩いたわけです。また、門司港駅には当時の連絡船への連絡トンネルが残っています。下関側は、連絡船の廃止に伴い駅舎が移ってしまっています。
<関門海峡地図>

上熊本駅(旧池田駅)>
 当時、熊本市内に行くには池田駅で下りていたようです。此方の方が明治時代に繁華街であった市内に近かったのだとおもいます。「…ところが停車場のプラットフォームには宿屋のとぎやの番頭だけが迎えにきているばかりで、夏目の姿は改札口にもみえません。きているはずに違いないんだがと、あちこちみ回しておりますと、二等待合室から新聞を片手にもってのこのこでてきます。みればそれでもフロック・コートを着込んでいました。私たちの姿をみると帽子を取って挨拶をしながら、「いま汽車がついたようですから」とすこぶる超然たるものです。それからまた申しますには、「これから家へいらっしゃいませんか」と、こんなふうな調子です。「いやあ、いろいろ仕事もあるし、今日はまた疲れてもいるから、いずれ改めて……」 父はそんなふうに言って、ひとまずとぎゃに落ちつきました。…」。東京から5日かかってやっと熊本にたどり着きます。かなり疲れたでしょう。

右の写真が上熊本駅です。駅舎は昔のままでした。駅の前に夏目漱石の銅像がたっていましたのでビックリしてしまいました。熊本駅前ではなくてこの駅なのですね(夏目漱石はこの駅で下りて熊本に来た)。現在は小さな駅になってしまっていますので、観光的な観点からは熊本駅に置いた方がいいとおもうのですが、どうでしょうか!

新坂>
 夏目漱石が池田駅から熊本市内へ辿った道が分かっているようです。「…かくして四名のものが、翌四月十三日の午後、わが池田駅に到着した。もちろん駅には何名かの出迎えもあったろうが、そういう消息は知るよしもない。とにかくこの四名は駅前で人力車を拾い、それぞれ伴で京町台をよぎり、現在の京陵中学校の南側の道を通り、新坂を下って行ったのである。漱石らの眼下に鬱蒼と繁った城下町が展開した。わけて新緑したたる内坪井、寺原一帯の景観は熊本の第一印象として漱石の脳裡に深く刻みこまれたであろうか。立田山からずっと東方阿蘇の山なみにかけて縹渺とした大きな背景に視線を転じつつ坂を下った時、思わず漱石の口唇から「森の都だな」という嘆声が発せられたであろう。…」。これは、山崎貞士氏が書かれた「新熊本文学散歩」に書かれています。なかなか、面白いです。

左の写真が「新熊本文学散歩」に書かれていた”新坂”です。天気が悪かったので写真はイマイチですが、景色としては素晴らしいです。下記の地図に夏目漱石他3名が人力車で熊本市内へ向かった道を記しておきます。

菅虎雄の家跡>
 夏目漱石が池田駅から新坂を下り、最初に訪ねたのが菅虎雄の家でした。「…その四人の伴は新坂を下って、現在の壷川小学校正門前の通りを東に走って、立町へ出て、浄行寺をへ、薬園町に入り、菅虎雄の家の前で止まったであろう。菅の家は当時、薬園町六十二番地であるが、漱石ほか二名は、ひとまずこの家で旅装を解いたのである。小宮豊隆の『夏目漱石』(岩波書店刊)の二十七章「孤独」の項に 四月十三日、熊本に着いた。熊本に着くや否や、途中知り合いになった俳人を連れて、菅虎雄の内に飛び込み、墨を磨らせて、その連れの俳人に「市中や君に飼はれて鳴く蛙」 という句を書いてやった。それがどうも水落露石じゃなかったかと思うが、どうもはっきりとは覚えていないとは、菅虎雄の語るところである。…」。漱石は菅虎雄の家に5月上旬までいたようである。結婚したのが6月9日(漱石)ですので、5月中に夫婦で住む家を探して転居したようです。奥様の鏡子さんの「漱石の思い出」では結婚式は6月10日になっています。何方が正しいかはよくわかりません。(結構、論議になっているようです)

右の写真の所が菅虎雄の家跡です。上記の句にあるように当時は”蛙”がいる環境ですね、多分、周りは畑か水田だったのだとおもいます。現在は住宅街です。

この後、奥様の鏡子さんとの二人の生活が始まります。

<夏目漱石の熊本地図 -1->

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・新熊本文学散歩:山崎貞士 熊本日日新聞情報文化センター
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫

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