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最終更新日:2006年8月26日


●高田馬場(堀部安兵衛)と夏目坂(夏目漱石)
 
2000年4月22日 3版

 今週は高田馬場から早稲田周辺の散歩道をご紹介します。

/kokuraya1-w.jpg さあ、お立会い、お立会い(講談調で!)、『元禄7年(1694)最後の頼みと堀部安兵衛の長屋を訪ねた菅野六郎左衛門、我らが主人公安兵衛は、呼ばれた酒でしたたかに酔って留守。やむを得ずひとり決闘の場に向かう六郎左衛門。入れ違いに長屋に戻った安兵衛は伯父からの手紙を一読するや、一目散に高田馬場へと走り出す。とにかく走る、走る・、走る・・、走る・・・ 。韋駄天走りで走りに走り、八丁堀の長屋から高田馬場までひとっとび。さあ立ち会いの前のひと呼吸、酒を升で一呑み、喉を潤し、ブォーと柄に霧吹きかけていざ一戦』講談『高田馬場の仇討ち』で有名な一節ですね(この時18人斬りをしたといわれていますが実際は4名を斬ったのが真実だそうです)。この一節の最後の場面の景気付けに立ち寄った酒屋さんが馬場下、夏目坂の丁度角にあります。酒屋さんの名前は「小倉屋」さん、左の写真のとおり、いまはローマ字で「KOKURAYA」になっています。丁度、早稲田通り(昔は穴八幡神社の参道)を下って来た所にあり(営団地下鉄東西線早稲田駅西口すぐ)、これから穴八幡神社を通って高田馬場まで約400m登って行かなくてはならず、一息入れるには丁度良い所にあります。小倉屋さんは、江戸時代から320年続く老舗で、そのときの升は、15代店主・栗林さんが保管しているそうです。

<水稲荷神社>
mizu1-w.jpg堀部安兵衛の功績をたたえるため、明治43年に『堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡』の碑が完成し、大正二年に馬場の一隅に建てられましたが、昭和46年水稲荷神社境内に移されています。水稲荷神社は天慶4年(941)、鎮守府将軍、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学九号館法商研究棟)の『富塚』の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれていました。元禄15年(1702)に『大椋』の下に霊水が湧出し、眼病に特に効能があまと認められ、江戸中で大評判となりました。その上、御信託の時に「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とあり、これから、「水稲荷」と名乗るようになり消防関係者・水商売の人達が特に参詣するようになったようです。昭和38年7月、早稲田大学と土地交換により、現在地に御遷座しました。現在地は徳川御三卿の清水徳川家の旧趾で、甘泉園公園の一部となっています。

<高田馬場跡>
anahachiman1-w.jpg 馬場の場所は、江戸時代初期に越後小将松平中輝の母である高田君の庭園として開かれたところで、その関係から高田と呼ぶようになったそうです。江戸時代には馬術や弓の練習場としての馬場がつくられました。通称グランド坂上から早稲田通りの一つ東側の小道付近一帯で、寛永13年(1636)につくられたそうです。坂下の穴八幡神社と関係が深く、幕府持弓組頭の松平直治の同心衆が、この地に的場を築いたのがはじめといわれています。享保13年(1728)には、八代将軍徳川吉宗の世嗣の病気平瘉を祈って高田馬場で流鏑馬を開催し、穴八幡に奉納したことから、以後、将軍家若君誕生の折などには流鏑馬が奉納されるようになりました。馬場の北側には松並木があり、茶屋も八軒ほどあり、雑司ヶ谷鬼子母神に参詣する人たちが多数よったといわれています。またこのあたりは植木屋が多くて、数十軒もあり、多くの銘木・銘石を集めていたので、それらを眺めながらの行楽の場所であったようです。(右の写真は馬場下の穴八幡神社入り口です)

natsunezaka1-w.jpg<夏目漱石生誕の地>
 「私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。・・・それから坂を下りきった所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。・・・堀部安兵衛が高田馬場で・・。
夏目漱石『硝子戸の中』の十九章の書き出しです。地下鉄(東西線)早稲田駅の西口を出て小倉屋さんのある早稲田駅前交差点から夏目坂を上りかけたすぐ左手に「夏目漱石誕生之地」と刻まれた黒みかげ石の記念碑がたっています。(小倉屋さんの隣、牛丼の吉野屋の前です)昭和41年、漱石の生誕百年を記念して建てられたものす。漱石は慶応3年(1867)1月5日、牛込馬場下横町のこの地に生まれています。現存の喜久井町1番地ですが、この喜久井町という名は、漱石の父直克が、井桁に菊の夏目家の紋章にちなんで名づけたものだといわれています。また、誕生の地から若松町の方へ上る坂をを夏目坂と命名したのも直克であったそうで、これらのことは漱石白身が随筆『硝子戸の中』に書いています。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降馬場下の名主を世襲していたので、明治の新市制の実施にあたってつける町名を当家にゆかりあるものとしたのではないでしょうか。

<夏目漱石終蔦の地>【区指定史跡】(早稲田南町七番地 漱石公園内)
natsume1-w.jpg 漱石は、明治38年(1905)に『ホトトギス』に連載した「我輩は猫である」で文豪として有名になっています。明治40年4月には教壇生活に別れをつげて、東京大阪朝日新聞に籍を置いて小説家を専業とするようになりました。9月には本郷から早稲田南町7番地の借家に住いを移しています。ここで漱石は、「三四郎」、「門」、「心」、「道草」などの代表作を次々と朝日新聞に発表し、大正5年5月から連載をはじめた「明暗」執筆中の同年12月9日、持病である胃潰瘍のため、50歳で没しました。漱石の没後、大正七年に遺族はこの家を購入して建てかえています。この夏目邸は昭和20年5月の空襲で全焼し、今はその跡には都営のアパー卜が建っています。漱石の名づけた漱石山房跡は現在、区立漱石公園となり、平成3年には富永直樹作の漱石の胸像が落成しています。

高田馬場から早稲田付近の地図

【参考文献】
・新編「昭和二十年」東京地図:筑摩書房
・新宿区の文化財史跡(東部編):新宿区立新宿歴史博物館
・堀部安兵衛 上巻、下巻:池波正太郎、角川書店

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