●夏目漱石の京都を歩く  【虞美人草編】
    初版2012年7月14日  <V01L02>  暫定版

 比叡山シリーズの最終回です。今回は夏目漱石の「虞美人草」を歩きます。「虞美人草」の書き出しでは、二人の男が京都市内から比叡山へ登山をはじめます。




「虞美人草」
<虞美人草>
 「虞美人草」は明治40年(1907)6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された新聞小説です。夏目漱石は「虞美人草」の連載が始まる少し前に京都を訪ねており、この時の経験をもとに書かれたものとおもわれます。
 夏目漱石は4回京都を訪ねています。
・明治25年(1892)7月 5日間
・明治40年(1907)3月〜4月 15日間
・明治42年(1909)10月 2日間
・大正4年(1915)3月〜4月 29日間
 明治25年は子規に同道して京都を訪ねており、この時も比叡山を訪ねているようです。明治40年は3月28日から4月11日までの15日間で京都帝国大学文科大学学長の狩野亨吉(かのう こうきち)に招かれての訪問です。下鴨の狩野亨吉宅に宿泊しており、この時の経験が「虞美人草」に繋がっています。狩野亨吉との関係は、狩野が帝国大学文科大学哲学科在学中に、当時英文科在学中の夏目漱石と親しくなったようです(狩野亨吉が二歳年上です)。
 夏目漱石の「虞美人草」の書き出しです。
「        一
「随分遠いね。元来どこから登るのだ」
と一人が手巾で額を拭きながら立ち留った。
「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
 反を打った中折れの茶の廂の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳えている。
「恐ろしい頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖に身を倚たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳はない」と今度は叡山を軽蔑したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝《けさ》宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽いでいる。日頃からなる廂に遮ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額だけは目立って蒼白い。 …」

 「虞美人草」の書き出しを読んでみると、京都市内の何処から出立したか書かれていません。夏目漱石の京都での宿泊地を考えると、明治25年は姉小路通り麩屋町上ルの柊屋旅館、明治40年は下鴨神社近くの狩野亨吉宅です。このどちらかを意識しているとおもいます。

上記写真は新潮文庫版の「虞美人草」です。当時は比叡山観光が流行だったのかもしれません。

「平八茶屋」
<平八茶屋>
 「虞美人草」の登場人物である甲野と宗近の二人は京都市内から比叡山をめざして歩き続けます。
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「…「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否や、歩行き出した。瘠せた男も手巾を袂に収めて歩行き出す。
「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ。元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌り続ける。…」  」


写真は現在の平八茶屋です。京都市内から敦賀街道(若狭街道、鯖街道)での順番では十一屋(閉店)、平八茶屋となるのですが平八茶屋しか書かれていません。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
 慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)

【比叡山(ひえいざん)】
 比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山をいいます。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称です。大比叡の一等三角点は大津市に所在します。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄しました。京都盆地から比叡山を見た場合、大比叡の頂を確認することが難しく、四明岳を比叡山の山頂だと見なすことがあります。京福電気鉄道叡山ロープウェイにおいては、四明岳の山頂をもって比叡山頂駅と設定しています。四明岳の表記、あるいは読みには多数の説があり、国土地理院による「四明岳(しめいがたけ、しめいだけ)」のほか、「京都市の地名」では「四明ヶ岳(しめがたけ)」、「四明峰(しみょうのみね)」などを挙げています。比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来します。(ウイキペディア参照)

「高野川」
<敦賀街道、若狭街道、鯖街道>
 二人は鴨川から高野川にそって北に歩いて行きます。敦賀街道(若狭街道、鯖街道)沿いに歩いているようで、平八茶屋も過ぎて高野に向います。
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫ぬいて、煙る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数え尽くして、長々と北にうねる路を、おおかたは二里余りも来たら、山は自から左右に逼って、脚下に奔る潺湲の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更けたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾を縫うて、暗き陰に走る一条の路に、爪上りなる向うから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。…」
 ここで初めて距離が書かれています。”ニ里余り”=約8Km(一里=3.9Km)となります。此処では起点が問題になります。夏目漱石の経験からは”姉小路通り麩屋町上ル柊屋旅館”、”下鴨神社近くの狩野亨吉宅”のどちらかになります。一般的には三条大橋からだとおもうのですが、どうでしょうか?

 もう一つ、夏目漱石の日記を見てみます。(漱石全集第19巻)
「… 〔四月〕九日〔火〕
  *
 叡山上り。高野より登る。転法輪堂。叡山菫。草木採集。八瀬の女
 根本中堂。学校デ昼食ヲ乞ふ 案内に応ずるものなし。
○坂本。はしり堂にて中食。石橋の上。石橋は古雅。数三あり。
○大津迄汽船を待つ。時間かゝる。車にて大津迄行く。疎水の随道を下る。篝火。欸乃。
〇十一屋。平八茶屋。高野村へ行く途中山端にあり。
  *
 御前川上、わしや川下で……
…」

 ここでは”高野より登る”、”転法輪堂”、”八瀬の女”の三つから
・高野(現在の上高野?)、八瀬付近から延暦寺の西塔(転法輪堂は釈迦堂)に登ったことが分かります。

 では、登山ルートは?
・雲母坂ルート:修学院離宮の横から”千種忠顕(ちぐさただあき)卿戦死の地”経由、延暦寺東塔
・松尾坂ルート:八瀬(ケーブル八瀬駅)から延暦寺西塔
・黒谷道ルート:登山口から青竜寺経由、延暦寺西塔
の三案が考えられます。ただ、雲母坂ルートは平八茶屋や高野の手前で、延暦寺西塔へのルートではないようです。

左上の写真は鴨川と高野川の分岐点である出町柳駅傍の河合橋から高野川上流を撮影したものです。右側の川沿いは川端通りで、この辺りは敦賀街道(若狭街道、鯖街道)と重なっています。この先の御蔭橋を越えれば敦賀街道(若狭街道、鯖街道)は川端通りと分かれて右に折れます。これからは旧道を進みます。旧道沿いには十一屋(閉店)、平八茶屋があるわけです。


夏目漱石の敦賀街道地図



「松尾坂入口」
<案1:松尾坂ルート>
 では、「虞美人草」の甲野と宗近は何処から比叡山に登ったのでしょうか?
 前述に”ニ里余り”とありますので、”姉小路通り麩屋町上ル柊屋旅館”と”下鴨神社近くの狩野亨吉宅”の二カ所から距離を測ってみます。
・柊屋旅館−松尾坂入口(ケーブル八瀬駅):8.6Km
・狩野亨吉宅−松尾坂入口(ケーブル八瀬駅):5.6Km
・三条大橋−松尾坂入口(ケーブル八瀬駅):8.3Km(参考)
 「虞美人草」を書く直前に宿泊した狩野亨吉宅からは近すぎます。丁度良いのは三条大橋からの距離です。
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「…「おおい」と後れた男は立ち留りながら、先きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑と行き尽して、萱ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸して、返れ返れと二度ほど揺って見せる。桜の杖が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行いていると若狭の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向へ一里上がると出るそうだ」…」

 ここでは”丸木橋”が書かれています。要するに川を渡ったようです。この書き方からすると、敦賀街道(若狭街道、鯖街道)から橋を渡って登山道に入るので松尾坂ルートにおもえます。ただ、八瀬で高野川を越える橋は川幅が広く丸太橋では無理なようにおもえます。昭和初期の絵はがきを掲載します。

上記写真は現在の松尾坂入口です。右側は叡山ケーブルのケーブル八瀬駅です。当時はこの道を登っていくと延暦寺西塔の釈迦堂横に出たのですが、現在は途中から林道に変わり、延暦寺西塔の駐車場のところにでます。200m程南にずれています。古い松尾坂が掲載されている地図を掲載します(現在の地図と昭和16年の地図を重ねたもの)。

「登山口」
<案2:黒谷道ルート>
 案2の黒谷道ルートです。黒谷道ルートは松尾坂ルートよりも3Km奥になります。距離を測ってみます。
・柊屋旅館−松尾坂入口(八瀬):11.6Km
・狩野亨吉宅−松尾坂入口(八瀬):8.6Km
・三条大橋−松尾坂入口(八瀬):11.3Km(参考)
 どういう訳か狩野亨吉宅からはニ里強の距離になっています。
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「… 渓川に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛うじて一縷の細き力に頂きへ抜ける小径のなかに隠れた。草は固より去年の霜を持ち越したまま立枯の姿であるが、薄く溶けた雲を透して真上から射し込む日影に蒸し返されて、両頬のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯を真直に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥《はる》か向うには、白銀の一筋に眼を射る高野川を閃めかして、左右は燃え崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦り着けた背景には薄紫の遠山を縹緲のあなたに描き出してある。
「なるほど好い景色《けしき》だ」と甲野さんは例の長身を捩《ね》じ向けて、際どく六十度の勾配に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間《ま》に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。…」

 ”渓川に危うく渡せる一本橋”と書かれています。八瀬の高野川に架かる橋では一本橋は不可能です。黒谷道ルートでは登山口で高野川のそそいでいる小さな小川を渡ります(現在は道の下を川が流れています)。当時は丸太を渡した一本橋だったかもしれません(推定)。

写真は現在の登山口バス停です。この停留所の左側に黒谷道登山道の入口があります。この登山道は良く整備されています。途中に出会った方に聞いたところ、ボランティアで整備されている方がいりゃしゃるそうです。頭がさがります。比叡山の登山道では一番整備されているようにおもえました。この登山道を登っていくと当時は青竜寺瑠璃堂経由延暦寺西塔の転法輪堂(釈迦堂)にたどり着きます。現在は崖崩れのため瑠璃堂経由では行けず、少し大回りして転法輪堂(釈迦堂)に行くことが出来ます。

「転法輪堂(釈迦堂)」
<転法輪堂(釈迦堂)>
 「虞美人草」のふたりが目指したのは延暦寺西塔の転法輪堂(釈迦堂)です。
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「…「善哉善哉、われ汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放り出すと、その上へどさりと尻持を突いた。
「また反吐か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間に、的れきと近江の湖が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸を凝らす。
 鏡を延べたとばかりでは飽き足らぬ。琵琶の銘ある鏡の明かなるを忌んで、叡山の天狗共が、宵に偸んだ神酒の酔に乗じて、曇れる気息を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷に抹り付けた、瀲えんたる春色が、十里のほかに糢糊と棚引いている。…」

 やっと琵琶湖が見えたようです。ただ、目的地が書かれていません。目的地は夏目漱石の日記から推測しました。

写真は現在の延暦寺西塔の転法輪堂(釈迦堂)です。二人は松尾坂からこの左側辺りに到着したものとおもいます。

 「虞美人草」の書かれた比叡山登山ルートのまとめです。
 一つのルートだけで「虞美人草」に書かれた内容を説明するのは非常に困難です。松尾坂ルートと黒谷道ルートの2ルートで説明すると説明しやすくなります。推定ですが、明治25年の子規との比叡山登山は松尾坂ルート又は雲母坂ルートで、明治40年の比叡山登山は黒谷道ルートで登山したのではないでしょうか?


比叡山地図(里見クの比叡山地図を流用)


夏目漱石年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治23年 1980 帝国ホテル開業 23 9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年 1981 大津事件
東北本線全通
24 3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 34 1月 次女恒子誕生
明治35年 1902 日英同盟 35 9月19日 正岡子規死去(享年36歳)
12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 36 1月20日 長崎港着
4月 第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任
10月 三女栄子誕生
明治37年 1904 日露戦争 37 4月 明治大学講師に就任
明治38年 1905 日本海海戦
ポーツマス条約
38 1月 「吾輩は猫である」をホトトギスで発表(第一章)
12月 四女愛子誕生
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 39 4月 「坊っちやん」をホトトギスで発表
明治40年 1907 義務教育6年制 40 3月 東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出、朝日新聞社に入社
3月〜4月 京都、大阪を訪問
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
41 12月 次男伸六誕生