<虞美人草>
「虞美人草」は明治40年(1907)6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された新聞小説です。夏目漱石は「虞美人草」の連載が始まる少し前に京都を訪ねており、この時の経験をもとに書かれたものとおもわれます。
夏目漱石は4回京都を訪ねています。
・明治25年(1892)7月 5日間
・明治40年(1907)3月〜4月 15日間
・明治42年(1909)10月 2日間
・大正4年(1915)3月〜4月 29日間
明治25年は子規に同道して京都を訪ねており、この時も比叡山を訪ねているようです。明治40年は3月28日から4月11日までの15日間で京都帝国大学文科大学学長の狩野亨吉(かのう
こうきち)に招かれての訪問です。下鴨の狩野亨吉宅に宿泊しており、この時の経験が「虞美人草」に繋がっています。狩野亨吉との関係は、狩野が帝国大学文科大学哲学科在学中に、当時英文科在学中の夏目漱石と親しくなったようです(狩野亨吉が二歳年上です)。
夏目漱石の「虞美人草」の書き出しです。
「 一
「随分遠いね。元来どこから登るのだ」
と一人が手巾で額を拭きながら立ち留った。
「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
反を打った中折れの茶の廂の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳えている。
「恐ろしい頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖に身を倚たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳はない」と今度は叡山を軽蔑したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝《けさ》宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽いでいる。日頃からなる廂に遮ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額だけは目立って蒼白い。 …」
「虞美人草」の書き出しを読んでみると、京都市内の何処から出立したか書かれていません。夏目漱石の京都での宿泊地を考えると、明治25年は姉小路通り麩屋町上ルの柊屋旅館、明治40年は下鴨神社近くの狩野亨吉宅です。このどちらかを意識しているとおもいます。
★上記写真は新潮文庫版の「虞美人草」です。当時は比叡山観光が流行だったのかもしれません。