<五目鮓>
正岡子規と夏目漱石の松山を歩いてみました。二人の松山での接点は明治25年から始まります。漱石は明治25年8月、岡山から子規に会うために松山に向かっています。参考図書としては子規と漱石について高浜虚子が「回想 子規・漱石」を書いており、この本に沿って松山での二人の出会いからを歩いてみました。
「…私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓とよばれているところの五目鮓が拵えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはその後しばしば氏に会しながらも終に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をと っていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。…」。
下記の漱石の年表を見ると、明治25年7月に子規と京都を訪ね、その足で岡山、松山を訪ねています。漱石が帝国大学文科大学英文学科を卒業したのは明治26年7月ですから、虚子が大学の帽子を被った漱石に初めて会った時期は明治25年の8月の頃のことだったとおもわれます。
★左上の写真が子規、漱石、虚子が松山で食べた五目鮓です。”松山名物 五目鮓”を探したのですが現在ではあまり名物ではないようです。この五目鮓は道後温泉に近いうどん屋さんで食べた五目鮓でした。結構おいしかったですよ!!
【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。
【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)