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●子規と漱石の松山を歩く
 初版2007年4月28日 <V01L03> 

 「正岡子規 散歩シリーズ」の続きなのか、「夏目漱石の松山を歩く」と書いた方が良いのか分かりませんが、「正岡子規と夏目漱石の松山」を歩いてみました。明治28年の松山になります。


「五目鮓」
<五目鮓>
 正岡子規と夏目漱石の松山を歩いてみました。二人の松山での接点は明治25年から始まります。漱石は明治25年8月、岡山から子規に会うために松山に向かっています。参考図書としては子規と漱石について高浜虚子が「回想 子規・漱石」を書いており、この本に沿って松山での二人の出会いからを歩いてみました。
「…私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓とよばれているところの五目鮓が拵えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはその後しばしば氏に会しながらも終に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をと っていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。…」
 下記の漱石の年表を見ると、明治25年7月に子規と京都を訪ね、その足で岡山、松山を訪ねています。漱石が帝国大学文科大学英文学科を卒業したのは明治26年7月ですから、虚子が大学の帽子を被った漱石に初めて会った時期は明治25年の8月の頃のことだったとおもわれます。

左上の写真が子規、漱石、虚子が松山で食べた五目鮓です。”松山名物 五目鮓”を探したのですが現在ではあまり名物ではないようです。この五目鮓は道後温泉に近いうどん屋さんで食べた五目鮓でした。結構おいしかったですよ!!

【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
 慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)


子規、漱石の松山地図


正岡子規の松山年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 正岡子規の足跡
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 2月 下谷区上根岸88番地に転居
10月 東京帝国大学を退学
11月 母八重、姉律を東京に呼ぶ
12月 日本新聞社入社
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 2月 上根岸82番地に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 4月 日清戦争へ従軍
5月 県立神戸病院に入院
8月 松山の夏目漱石の下宿に移る
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治35年 1902 八甲田山死の行軍 35 9月19日 死去

夏目漱石の松山年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都を訪ねる(岡山、松山を訪ねる)
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発



「三番町城戸屋」
三番町城戸屋>
 明治28年4月、夏目漱石は二度目の松山を訪ねます。松山に到着して最初に泊まった宿が城戸屋です。この宿については高浜虚子の「回想 子規・漱石」には登場しませんので「坊ちゃん」から引用しました。
 「…車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。 何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へ はいって汗をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱つ かったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。…  … いつしか山城屋の前に出た。広いようでも狭いものだ。これで大抵は見尽したのだろう。帰って飯でも食おうと門口をはいった。帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り …… と板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五|畳の表二階で大きな床の間がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大の字に寝てみた。いい心持ちである。…。」
 ここで書かれている山城屋は漱石が実際に泊まった「城戸屋」のことだったようです。このくだりは有名ですね、最初、身元が定かでない客として扱われますが、東京から来た高給取りの先生とわかった途端に宿で一番良い部屋に通された話です。

左上の写真が現在の城戸屋です。現在は旅館ではなくてレストランになっています。

一番町津田方(愛松亭)
一番町津田方(愛松亭)>
 漱石はすぐに下宿を探し、城戸屋から一番町の津田方に移ります。その時に虚子は漱石を訪ねています。
「…それから三、四年経って明治二十八年に私は松山に帰省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊学し、それから仙台、東京と処を替えたのであったが、この明治二十八年に帰省した時に、漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になっていたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居士の宅で遇った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居を訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓の少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下楕生活をして居ったのであった。そこはもと菅という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上さんが、「夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方に行って御覧なさい。」とでも言ったものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射珠があって、そこに漱石氏は立っていた。…」
 虚子が訪ねた時期は明治28年の春だとおもわれます。漱石が津田方に転居したのが4月中頃で、上野方に転居したのが6月上旬ですからその間だったようです。

右上の写真の記念碑のところの裏辺りに津田方の住居があったようです。この津田方を訪ねるには上記に書かれている通り松山地方裁判所と明治安田生命ビルの間を抜けて城山の中腹まで登った所にあります。また同じ所に下記に書かれている二番町の上野方(愚陀仏庵)が再建されています。

二番町上野方
二番町上野方(愚陀仏庵)>
 津田方は僅か二カ月で転居します。次に移った下宿は少し町中に入った二番町の上野方でした。
「…明治二十九年の夏に子規居士が従軍中略血をして神戸、須磨と転々療養をした揚句松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家に泊ったのは一二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。…… その間漱石氏は主として二階にあって、朝起きると洋服を着て学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをして、二階から下りて来ることは少なかったが、それでも時々は下りて来てそれらの俳人諸君の間に交って一緒に句作することもあった。子規居士はやはり他の諸君の句の上に○をつけるのと同じように漱石氏の句の上にも○をつけた。ただ他の人は「お前」とか「あし」とか松山言葉を使って呼び合っている中に、漱石氏と居士との間だけには君とか僕とかいう言葉を用いていた位の相違であった。…」
 上記には明治29年夏に喀血したと書かれていますが、明治28年夏の間違いだとおもいます。子規は明治28年8月27日頃にこの漱石の下宿に転がり込みます。神戸での療養生活を終えて松山に帰って来たのですが、母親は東京根岸におり、行き先に困って漱石の下宿を訪ねたものとおもわれます。

右上の写真の所が二番町上野方跡(愚陀仏庵)です。現在は駐車場になっていました。城山の中腹に上野方(愚陀仏庵)が再建されていますのでそちらを見られた方がよいかとおもいます。
「…漱石氏がよくまた話して居ったことにこういう話がある。 「子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた。」こういう話であった。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰って来た日など、小達をやろうかと言って居士の布団の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあったそうだ。もっとも東京の新聞社で僅かに三、四十円の給料を貰っていた居士に比べたら、田舎の中学校に居て百円近い給料を貰っていた漱石氏はよほど懐ろ都合の潤沢なものであったろう。…」
 やはり帝大出の秀才は給料が違いますね。子規は肺結核を悟っており、当時は結核の特効薬はなく栄養のあるものを食べて体力を回復するしか方法はなかったものとおもわれます。



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