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最終更新日:2006年10月2日


●夏目漱石の東京を歩く -3-
  初版2006年9月30日 <V02L01>

 「夏目漱石散歩」”東京を歩く”の掲載三回目です。今回は塾に通いながら東京帝国大学文科大学英文科に進むまでを歩いてみます。



<文芸読本 夏目漱石>
 今週は河出書房新社の「文芸読本 夏目漱石」を読んでみました。この本の中に書かれている江藤淳の「夏目漱石小伝」を読みたかったのですが、ここでは同じくこの本に書かれている小島信夫の「女の空おそろしさ」を取り上げてみます。「… 『三四郎』という小説は前から読もうと思いながら読みそびれていた。白鳥はこの小説に辛い点をつけているが、小説の価値ということは別にして興味深かった。三四郎が上京の途次、車中で知りあった行きずりの女と名古屋の駅前で一泊するところがある。彼は、蒲団の上に手拭を置いてそこから向うの領域には人らぬようにして寝る。あくる朝になって彼女は、世話になった三四郎に礼をいったあと、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」といってにやりと笑う。これをきいて三四郎は、女というものは自分の考えていたのとは大変ちがうものだ、とおどろくところがある。私はここで二つのことを思い出した。一つは『行人』の中で二郎が嫂のお直と嵐におそわれて和歌山で一泊するところである。…… いかにもこの二つの場面は似ている。漱石ともあろう人が、こんなに似たことを書くとは、私は微笑を禁じ得なかった。作った小説の中で同じようなことが二度三度出てくると、読者というものは、そんなふうに思うものだ。この大胆さは、姿を変えて、何度も漱石の女性観の殻をやぶって向う側に立ちはだかっているかに見える。…」。三四郎は漱石そのものですね。電車男のテレビも見ましたが、小説や映画に於ける行動としては昔と余り変わっていないようです。「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」、という言葉を書くために場面を造っているようです。それでも何度も同じ場面を使うのは漱石によっぽど何かが在ったのです。面白いですね!!

左上の写真が河出書房新社の「文芸読本 夏目漱石」です。文芸読本ですので様々な方が夏目漱石について書かれています。特に面白いのは江藤淳ですね。江藤淳自体は「夏目漱石」ににいてたくさん書いており、そちらを読んでも良かったのですが、今回は「文芸読本 夏目漱石」のにかかれた江藤淳を掲載しました。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)


夏目漱石の東京年表(漱石全集より)

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

明治11年
1878
大久保利通が暗殺される
11
4月 市ケ谷小学校卒業
神田猿楽町の錦華学校に転校し10月に卒業
明治12年
1879
朝日新聞創刊
12
3月 東京府第一中学校正則科乙に入学
明治14年
1881
岩波書店創業
14
1月 母千枝が亡くなる
春 東京府第一中学校を中退し二松学舎に転校
明治15年
1882
早稲田大学創設
15
春 二松学舎を中退
明治16年
1883
鹿鳴館開館
16
秋 成立学舎に入学
明治17年
1884
華族令(公・侯・伯・子・男)
秩父事件
17
9月 東京大学予備門予科に入学
明治19年
1886
東京電力会社(のちの東京電力)が開業
19
9月 江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎から予備門に通う
明治20年
1887
長崎造船所が三菱に払い下げられる
20
3月 長男大助が結核で死去
6月 次男直則が結核で死去
明治21年
1888
森鴎外がドイツ留学から帰国
21
1月 夏目姓に復帰
9月 第一高等中学校本科に進学
明治22年
1889
大日本帝国憲法発布
22
1月 正岡子規と知り合う
明治23年
1890
帝国ホテル開業
23
9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年
1891
大津事件
東北本線全通
24
3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年
1892
芥川竜之介誕生
25
4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都を訪ねる(岡山、松山を訪ねる)
夏目漱石の東京地図 -1-

一ツ橋中学校(東京府立一中)>
 ここからは江藤淳の「夏目漱石小伝」に沿って京府第一中学校正則科乙に入学してからを歩いてみました。「…没落した名主の子が、新時代に自分の席を獲得するためには大学予備門に入学することがほとんど絶対条件であった。そのためには英語を学ぶ必要があったが、金之助は実は英語学習を好まなかった。このことは、のちに彼が傑出した英語の学力を示したことを考えあわせると不思議な感じがする。彼は英語を教えない正則中学に一旦入学したが、ここから予備門へ通じる道がないことを知ると失望して退学した。…」。正則科とはこの中学で学業を終了するということで日本語で授業を行います。一方変則科は大学予備門入学を前提として英語で授業を行うそうです。乙は小学校の全過程を終了しておらず、学力試験によって入学したもののことだそうです(夏目漱石全集の年譜参照)。明治初期から英語は必要不可欠だとおもわれていたようです。

左上の写真の正面は一ツ橋交差点の学士会館です。東京府立一中はこの学士会館の右側辺りにありました。現在はなにもありません。漱石自身が書いた「わたしの経過した学生時代」によると、「…私は何れに居たかと云えば、此の正則の方であったから、英語は些しも習わなかったのである。英語を修めていぬから、当時の予備門に入ることが六カ敷い。これではつまらぬ、今まで自分の抱いていた、志望が達せられぬことになるから、是非廃そうという考を起したのであるが、却々親が承知して呉れぬ。そこで、拠なく毎日々々弁当を吊して家は出るが、学校には往かずに、その儘途中で道草を食って遊んで居た。その中に、親にも私が学校を退きたいという考が解ったのだろう、間もなく正則の方は退くことになったというわけである。…」。と言うわけです。

二松学舎
 大学予備門に入学するためには英語の学力が必要で、そのために東京府立一中正則科では英語の授業が無いため退学します。「…それでいながら彼は英語学校に転じようとはせず、漢学を教える二松学舎に移ったのである。ここに私は早くも金之助のなかで、資質と時代の要請とのあいだの分裂が生じていることを感じざるを得ない…」。予備門に入学するには英語が必要なのに、なぜ二松学舎に入学したかわかりません。

右の写真の左側に二松学舎大学があります。当時と全く変わっていません。写真に写っている通りは内堀通りで正面は靖国神社です。

成立学舎>
 やっと英語を勉強する気になって大学予備門向けの予備校である駿河台の成立学舎に入学します。「…この自己矛盾を解決するためには、彼は「ひそかに思ふに英文学も亦かくの (漢文学の)如きものなるべし、斯くの如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべし」(「文学論」序))という仮説を立て、それを信じなければならなかった。 金之助が英語学校成立学舎に転じたのは、明治十六年十七歳の時である。…」。明治16年でもやっぱり英語の学力がないと大学進学は無理だったようです(明治初期から現在まで全く変わっていないですね)。

左の写真の左の路を少し入った右側に成立学舎がありました。神田駿河台2丁目9辺りです。漱石自身が書いた「わたしの経過した学生時代」によると、「…一年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曾我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学資を得るために、内職として勤めているのが多かった。…」。凄いところで勉強していたようです。

新福寺> 10月2日一部追加
 成立学舎に通っていたころ、小石川極楽水際の新福寺に下宿しています。この当時のことを漱石は「満韓ところどころ」で書いています。「…橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋へ汁をいっぱい拵えて、その中に浮かして食った。十銭の牛を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜か ら杓って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語 や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇をばたばた と鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺のために盲腸炎にされたと同然である。…」。汁粉の話は面白いですね、京都を訪ねたときにも書かれています。カンニングはだいたいされた方が落ちますね!!

左上の写真が新福寺です。共同印刷がある植物園前交差点を小石川植物園方向に少し歩くと左側に新福寺があります。白山三丁目1付近です。「満韓ところどころ」は文庫本で筑摩書房版の漱石全集(7)に入っています。

第一高等中学校(大学予備門)
 漱石は大学予備門予科にやっと入学することができます。江藤淳の「夏目漱石小伝」では、「…翌十七年九月には彼は大学予備門に入学を許された。これと前後して彼は自分を疎んずる父の家を出て下宿生活にはいり、のちの満鉄総裁中村是公と親交を結んだ。明治二十年長兄と次兄があいついで世を去り、金之助がトラホームにかかったとき、父は前途に不安を感じたためか彼を家に引きとって、翌年には夏目姓に復籍させた。…」。とあります。この頃は学校制度がたびたび変わり、複雑になっていたようです。予備門と予備門予科についても漱石が書いていますので引用します。「…予備門は五年で、其中に予科が三年、本科が二年となって居た。予科では中学へ毛の生えた様なことをするので、数学なども随分沢山あり、生理学だの動物植物鉱物など皆な英語の本でやったものである。…」。上記に書かれている通り、最初は馬場下の自宅から通っていましたが途中から神田猿楽町の末富屋(詳細の場所が不明ですが、錦華小学校近くの猿楽通りにあったとおもわれます)に下宿したりしています。

左上の写真は現在の東京大学農学部前です。第一高等中学校は明治22年に一ツ橋から本郷弥生町に移転しています。江藤淳の「夏目漱石小伝」によると、「…同級に正岡子規があり、子規の「七草集」に刺激されて作った紀行漢詩文集「木屑録」(明治二十二年) で金之助ははじめて「漱石」と号した。「漱石」は「蒙求」の「石二漱ギ、流レニ枕ス」からとられた言葉で、頑固者、あるいは変物を意味する。以後私はこの号で彼を呼ぶことにする。ほかに同級には山田美妙、上級に川上眉山、尾崎紅葉、石橋思案らのやがて硯友社作家たるべき才人たちがいた。…」。このタイミングで夏目漱石となるわけです。

江東義塾>
 夏目家はやはり没落しつつある名主だったようです。「…江東義塾と云って本所に在った。或る有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考えて見ても随分不潔な方の部類であった。一カ月五円と云うと誠に少額ではあるが、その頃はそれで不足なくやって行けた。塾の寄宿舎に入っていたから、舎費即ち食糧費としては月二円で済み、予備門の授業料といえば月僅に二十五銭(尤も一学期分宛前納することにはなっていたが)それに書物は大抵学校で貸し与えたから、格別その方には金も要らなかった。先ず此の中から湯銭の少しも引き去れば、後の残分は大抵小遣いになったので、五円の金を貰うと、直ぐその残分丈けを中村是公氏の分と合せて置いて、一所に出歩いては、多く食う方へ費して了ったものである。 時間も、江東義塾の方は午後二時間丈けであったから、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜などは無論落ち附いて、自由に自分の勉強をすることも出来たので、何の苦痛も感ぜず、約一年許りもこうしてやっていたが、此の土地は非常に湿気が多い為め、遂い急性のトラホームを患った。…」。今で言うアルバイトですね。当時は何処かの家に書生で入るかしかなかったわけですから、かなり良かったではないでしょうか。

右上の写真は両国三丁目10番辺りです。この交差点を左に曲がると吉良邸跡があります。江東義塾は写真の左側付近に有りました。ここから本郷に移った大学予備門に通っていたようです。

東京帝国大学文科大学英文科>
 明治23年9月、漱石はやっと東京帝国大学文科大学英文科に入学します。「…明治二十三年帝国大学文科大学英文科に入学すると、漱石は直ちに文部省貸費生となり、翌年には特待生として授業料を免除されているから、その学業成績は抜群だったに違いない。彼はお雇い外人教師ディクソンのために「方丈記」を英訳したが、その英文は大変見事なものでディタリンは感謝を惜しまなかった。後年英文で最初の「日本史」を著したマードックは、この優秀な学生を同級生中唯一人「モラル・バックボーン」をそなえた人物として偏愛した。…」。いつのまにか、英語が得意になっています。

左の写真が現在の東京大学正門です。

まだまだ不十分ですので、これから順次改版します。次回は「多佳女と夏目漱石」の京都を歩きます。

夏目漱石の東京地図 -3-

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・硝子戸の中:夏目漱石 新潮文庫
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・夏目漱石 青春の旅:半藤一利、文春文庫ビジュアル版
・漱石2時間ウォーキング:井上明久、中央公論社

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