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最終更新日:2006年10月10日


●夏目漱石の東京を歩く -1-
  初版2006年8月27日
  ニ版2006年10月10日 
<V01L01> 西閑寺(誓閑寺)の写真を入替他

 今週は久しぶりに「夏目漱石散歩」を掲載します。”熊本を歩く”からかなり時間が経っていますが、生誕から歩いてみたいとおもいます。第一回目は牛込馬場下から始めます。何回で終わるかは分かりません。



<漱石全集(岩波書店)>
 新刊書は殆ど買わないのですが、なんと全集を買ってしまいました。毎月配本されてなんと28回、別巻一巻で29ヶ月かかりました。全集としてはこの他に断腸亭日乗を買っています。この頃の全集は本人に関するほとんど全てが掲載されていてとても便利になっています。漱石全集では例えば「坊ちゃん」を読むのではなくて、文庫本等に無い小説や漱石言行録等が楽しみです。「 慶応三(一八六七)年  〇歳 1月5日(新暦では2月9日) 江戸牛込馬場下横町(現在、東京都新宿区喜久井町)に、牛込馬場下横町を居町とした町方名主であった父夏目小兵衛直克(文化十四(一八一七)年生まれ五十歳)と、母千枝(文政九(一八二六)年生まれ四十一歳)の五男として生まれ、のち金之助と命名された。 …」。これは漱石全集に掲載されている「年譜」の最初です。ただ、漱石の散歩ではその他の本も参考にさせてもらいましたので順次紹介していきたいとおもいます。

左上の写真が岩波書店の「漱石全集」です。全28巻、別巻一巻となります。凄い量なので本棚ではなくて積み上げています。この全集は古本でしか買えませんので、文庫本で筑摩書房版の漱石全集を紹介しておきます。文庫本は安くていいですね。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)


夏目漱石の東京年表(漱石全集より)

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

慶応3年
1867

大政奉還
坂本竜馬死去

0
2月 父夏目小兵衛直克、母千枝の5男として牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)で出生
慶応4年
1868
鳥羽伏見の戦い
江戸城無血開城
1
11月頃 内藤新宿の名主、塩原昌之助の養子となり内藤新宿北町裏16番地に住む
明治2年
1869
版籍奉還
2
3月 塩原昌之助と共に浅草三間町に転居
明治5年
1872
廃藩置県
5
4月 内藤新宿の妓楼伊豆橋に転居
明治6年
1873
ウィーン万国博覧会開催
5
3月 浅草諏訪町四番地に転居
明治7年
1874
大阪-神戸間に鉄道が開通
7
12月 浅草寿町戸田小学校下等小学校に入学
明治9年
1876
上野精養軒開業
9
塩原夫婦が離婚したため夏目家に引き取られる
市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校
夏目漱石の東京地図 -1-

生誕の地(牛込馬場下横町)>
 漱石は自身の生まれた所について「硝子戸の中」で少し書いています。「…私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実小さな宿場としか思われない位、少供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。尤もこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を少供の時分から覚えていたが、ついぞ某所に仕舞ってあるという噂の安兵衛がロを着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。…」。堀部安兵衛の高田馬場の仇討ちは有名ですね、その前に坂下の小倉屋で一杯吹っ掛けたのは講談になっています。

左上の写真の正面が小倉屋です。江戸時代から残っている酒屋さんです。左右の通りが早稲田通りで右手が高田馬場方面です。正面右側の坂が夏目坂となり、手前が早稲田大学正面となります。夏目家はこの小倉屋さんの左手から裏にかけて地所をもっていたのだとおもいます。この「硝子戸の中」には当時のことがかなり多く書かれています。夏目漱石の「硝子戸の中」の文庫版は新潮文庫と岩波文庫から出版されています。今回は表紙の絵が素晴らしい新潮文庫を取り上げました。下記に掲載します「道草」は岩波文庫を使いました。漱石は生まれた後、直ぐに養子に出されています。「…私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っている筈がないけれども、成人の後聞いてみると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。私はその道具屋の我楽多と二所に、小さい策の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。それを或晩私の姉が何かの序に其所を通り掛った時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝付かずに、とうとう二呪中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱られたそうである。…」。この話も「硝子戸の中」に書かれていました。夜店から姉が連れ戻す等は出来すぎていて本当かなとおもいます。

記念碑>
 ”夏目漱石誕生之地”の記念碑が小倉屋さんの右手の夏目坂を少し上った左手の牛丼屋の前に建てられています。牛丼屋の広告が多くて見立ちません。「…当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、竹薮とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のある筈もなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。…」。やっぱり買物は神楽坂なのですね。この夏目家の坂下は人家も殆どなくてど田舎だったようです。

右の写真が”夏目漱石誕生之地”の記念碑です。写真の右手に吉野屋の広告が出ています。写真にはどうしても写ってしまいます(写真を拡大すると吉野屋の写真になります)。

西閑寺(誓閑寺)>2006年10月10日 誓閑寺の写真を入替
 「硝子戸の中」では夏目坂付近の様子を書いています。「…どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭の染み 込んだ縄暖簾がかかっていて門口を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗だった。その豆腐屋について曲ると半町程先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹薮で一面に掩われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御動の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る酉閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。…」。夏目坂の反対側にはかなりお寺があります。

左上の写真が西閑寺=誓閑寺(せいかんじ)の梵鐘です。ただしこの鐘楼は昭和49年に建てられています。梵鐘は天和2年(1682)に付近の住民の寄進により造られていますので、漱石が聞いた鐘の音はこの梵鐘の音です。この誓閑寺には上記の吉野屋のやや左前にあるファミリーマートの角を右に曲がって路地を入っていきます。上記に書かれている豆腐屋はこのファミリーマート付近に在ったはずです。

内藤新宿北裏町>
 漱石は子供が多かったこともあり何度か養子に出されます。「…然しじき又ある家へ養子に遣られた。それは値私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳まで某所で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻る様な仕儀となった。…」。ここに書かれているのは塩原晶之助の養子となったときのことです。

右の写真は塩原晶之助の養子となって初めて住んだ内藤新宿北町裏16番地付近です。詳細の場所は分かりません。写真の場所は現在は新宿公園になっています。北町裏(北裏町)は現在の花園通り付近だとおもわれます。


浅草三間町>
 義理の父親の転居に伴って漱石も東京市内を移っています。ここからは漱石の「道草」を参考にします。。「…それから舞台が急に変った。淋しい田舎が突然彼の記憶から消えた。すると表に櫺子窓の付いた小さな宅が朧気に彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。彼は其所で疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻きむしって泣き叫んだ。…」。内藤新宿から浅草への転居ですから環境はかなり変わったものとおもいます。

左上の写真は田原町の交差点近くの横断歩道橋から駒形橋方面を撮影したものです。浅草三間町はこの浅草通りの駒形橋寄りの両側に有りました(当時はこのような広い道は無かった)。詳細の場所は分かりません。当時の雰囲気も全くありません。

妓楼伊豆橋>
 塩原晶之助はまた内藤新宿に戻ります。此方も「道草」からです。「…そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。不思議な事に、その広い宅には人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中|馳け廻った。彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。…」。よく転居するものです。当時はこれが普通だったのでしょうか。でも建物は妓楼だということを知っていたようです。

右の写真が漱石が住んでいた妓楼伊豆橋跡です。昔は妓楼だったようですが漱石が住んでいたころは商売はやっておらず誰も住んでいなかったようです。現在はセブンビルなっていました。

続きます!!

夏目漱石の東京地図 -2-

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・硝子戸の中:夏目漱石 新潮文庫
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・夏目漱石 青春の旅:半藤一利、文春文庫ビジュアル版
・漱石2時間ウォーキング:井上明久、中央公論社

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