●夏目漱石の岡山を歩く
    初版2009年8月22日 <V01L01> 

 お盆のお休みを利用して岡山を訪ねてきました。月曜日には「永井荷風の岡山を歩く」で未掲載だった部分を追加更新しました。今週は「夏目漱石の岡山を歩く」を掲載します。夏目漱石は東京帝大の暑中休暇を利用して京都から堺、大阪、岡山を巡っています(途中まで子規が同道)。今回の取材には岡山在住のYさんのご協力を得ました。ありがとうございました。


「漱石岡山逗留の地碑」
漱石の岡山>
 明治二十五年の初夏、東京帝大の暑中休暇を利用して、漱石は岡山を訪ねています。山陽本線(当時は私鉄の山陽鉄道、東京から神戸までは官営鉄道)が岡山まで開通したのは明治24年3月です。それまでは神戸から船で岡山だったとおもいます。夏目漱石も新しい鉄道に乗りたかったのではないでしょうか?。夏目漱石は岡山在住時に正岡子規からの書状(東京帝国大学を落第した)の返事を書いています。
「 貴地十七日発の書状正に落手拝諦仕候
 先は炎暑の候御清適奉賀候 中子来岡以来愈壮健、日々見物と飲食と昼寝とに忙がほしく取紛れ打ち暮し居候
 去る十六日当地より
金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候 閑谷黌見物へは末だ参らず、後楽園天守閣等は諸所見物仕候 当家は 旭川に臨み 前に三擢山を控へ東南に京橋を望み、夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ、納涼の小舟三々五々橋下を往来し、燭火清流に徹して宛然たる不夜城なり。君と同遊せぎりしは返す返す残念なり 今一度閑谷見物かたがた御来岡ありては如何、一向平気にて遠慮なき家なり 試験の成績面黒き結果と相成候由、鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども、文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり 君の事だから、今二年辛抱し玉へと云はば、なに鳥になるのが勝手だと云ふかも知れぬが、先づ小子の考へにてはつまらなくても、何でも卒業するのが上分別と存候 願くは今言心案あらまほしう
 鳴くならば満月になけほととぎす
 徐は後便にゆづる  乱筆御免
  十九日午後     
平 凸凹
獺察詞兄
      尊下」

 東京帝大を落第した子規を漱石は慰め、後二年辛抱して卒業するように説得しています。
 上記に書いている”平 凸凹”とは!!、余りに有名なので私が説明する必要があるかとおもったのですが、なかなか面白いので、あえて説明したいとおもいます。”平 凸凹”は夏目漱石のペンネームといって良いでしょう。ユーモアに溢れた名前です。
 又、閑谷黌後楽園天守閣河原の掛茶屋も写真を掲載しておきます。

写真の碑が”夏目漱石岡山逗留の地碑”です。碑の上にねこが置いてあります。岡山とねこは関係ないとおもうのですがどうでしょうか!

「岡山市内山下138」
岡山市内山下町百三十八番地>
 漱石が岡山で滞在したのは漱石の次兄直則氏の嫁であった小勝さんの実家(片岡家、岡山市内山下町百三十八番地)でした。次兄直則氏は明治20年(1887)6月に28歳で亡くなっており、奥様だった小勝さんは当然実家に戻られたわけです。お二人は次兄直則氏が東京から岡山電信局に転勤されたときに知り合われたようです。漱石はこの片岡家で大水害に遭遇しています。漱石の子規宛書簡からです。
「…帰寓して観れば、床は落ちて居る畳は濡れて居る壁は振い落してある、いやはや目も当てられぬ次第。四斗樽の上へ三畳の畳を並べ、之を客間兼寝処となし、戸棚の浮き出したるを次の間の中央に据へ、其前後左右に腰掛と破れ机を併べ是を食堂となす.屋中を歩行する事峡中を行くが如し。一歩を誤てば橡の下に落つ。いやはや丸で古寺か妖怪屋敷と云ふも猶形容し難かり。夫でも五日が一週間となるに従ひ、此野蛮の境遇になれて左のみ苦とも思はず。可笑しき者なり。実は一時避難の為め、君の所へでも罷り出んと存居候ひしが、旅行中で留守にでも過ったら困ると息ひ今迄差し控へ居候。斯る場合に当方に厄介に相成候も気の毒故、先日より帰京せんと致候処、今少し落付く迄是非逗留の上緩々帰宅せよと強て抑留せられ候へども、此方にては先方へ気の毒、先方では此方へ気の毒、気の毒と気の毒のはち合せ、発矢面目玉をつぶすと云ふ訳、御憫笑可被下候。…」
  ”気の毒と気の毒のはち合わせ”とは明治時代にしてはかっこ良すぎる表現です。現在でも使えますね。漱石はこうゆう現代風?の言い回しが上手です。

写真右側に少し写っているのが”夏目漱石岡山逗留の地”碑なのですが、この付近より京橋よりの所が岡山市内山下町百三十八番地だったとおもわれます。古い地番が書かれた地図を探したのですが正確な地図が有りませんでした。


漱石の岡山地図(荷風の岡山地図を流用) -1-


夏目漱石年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治23年 1980 帝国ホテル開業 23 9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年 1981 大津事件
東北本線全通
24 3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発



「西大寺金田一八三五番地」
岸本邸>
 小勝さんは再婚しており、漱石は再婚先の岡山市金田の岸本家も訪ねています。江藤淳の「漱石とその時代」からです。
「七月十六日から三日間、金之助は白井亀太郎と連れ立って、金田村に岸本庄平という医師をたずねた。岸本はかつての嫂かつが再縁した先である。岸本は児島湾に釣り船を出して二人を歓待した。十九日にふたたび岡山に戻った金之助は、落第を報じた正岡の手紙に接した。その日のうちに彼は返書を書いている。…」
 現在でも水田に囲まれた田舎なのですが、当時はもっと凄い田舎だったとおもいます。こんなところにお医者様がよく開業したなとおもいます。

写真は西大寺金田の岸本邸跡です。現在は何方も住んでいないようです。売家の看板が出でおりました。農家でない限りこの付近では家を買われる方はいないではないでしょうか。車がないと全く動けない場所でした。

「九蟠海岸」
九蟠海岸>
 漱石は岡山市金田の岸本家でも歓待を受けたようで、近くの海岸にも遊びにいっています。「岡山文学風土記」からです。
「…三泊の間、十八日には蛤かきを持って越中祥一つで近くの九蟠海岸に出かけ、一〇個ばかりの蛤を掘り出した。入れ物がないので、それを越中棒に包んで村道を帰ったという。そして七月十九日には岡山の片岡家へ帰っている。…」
 ”蛤かき”とは一瞬、牡蠣の仲間のことかとおもったら、蛤をとる道具のことでした。

写真の辺り一帯が九蟠海岸なのですが、漱石はこの付近で蛤を取ったのでしょうか!、この付近は吉井川下流で、児島湾との接点になっています。現在は堤防?、防波堤?が出来ています。

漱石の岡山地図 -2-

「岡山県立美術館」
旧岡山県庁>
 明治25年7月19日には金田の岸本家から岡山市内の片岡家に戻ります。四日後の23日になると、岡山地方は大雨になります。片岡家は旭川の右岸すぐ横であり、旭川の氾濫により床上浸水となってしまいます。江藤淳の「漱石とその時代、第一部」からです。
「……七月二十三日から二十四日にかけて、岡山地方に大雨が降り、旭川の水が氾濫して河畔にある片岡家でも浸水が床上五尺に及んだ。これはこの地方でも未曽有の大洪水で、県下の死者は七十四人、流失破損家屋は五千五百余戸にのぼったという。
 水が出はじめると、金之助はひと声「大変だ」と叫んで自分の本のはいった小さな柳行李をかつぎ、県庁のある小高い丘にひとりでいちはやく難を避けた。…」

 漱石は床上浸水した片岡家から逃げ出しています。この付近で高台なのは岡山城と旧県庁付近なので、自然と避難場所は旧県庁となるわげです。

写真の正面やや左にある岡山県立美術館のところが旧岡山県庁所在地です。写真撮影場所が丘の頂上で、ここから先は下っています。後ろ側は登ってきているわけです。現在の県庁は少し南に下った内山下二丁目に移っています。

「光藤家離れ座敷跡」
光藤家離れ座敷>
 漱石は県庁手前の丘の上で一夜を過ごし、片岡家と親しい光藤宅にやっかいになります。この付近は浸水は大丈夫だったのでしょうか。江藤淳の「漱石とその時代、第一部」からです。
「…金之助は丘の上で一夜を明し、二十五日から片岡家と親交のある財産家光藤亀吉の離れ座敷に厄介になった。…」
 片岡家から岡山県庁手前の丘の上まで、約1Km、丘の上から光藤宅まで240mの距離です。

写真正面やや右辺りが光藤宅離れ座敷の所在地です。この場は「永井荷風の岡山を歩く」で登場しています。光藤宅離れ座敷の左隣が弓之町松月旅館となります。光藤宅離れは弓之町百二十六番地となります。昭和20年6月の空襲で松月旅館と光藤宅離れ座敷は焼失しています。

明治25年8月4日は漱石はまだ岡山に滞在していました。その後、子規の居る松山に向かいます。

漱石の岡山地図(昭和初期の光藤宅離れ付近) -3-