
明治二十五年の初夏、東京帝大の暑中休暇を利用して、漱石は岡山を訪ねています。山陽本線(当時は私鉄の山陽鉄道、東京から神戸までは官営鉄道)が岡山まで開通したのは明治24年3月です。それまでは神戸から船で岡山だったとおもいます。夏目漱石も新しい鉄道に乗りたかったのではないでしょうか?。夏目漱石は岡山在住時に正岡子規からの書状(東京帝国大学を落第した)の返事を書いています。
「 貴地十七日発の書状正に落手拝諦仕候
先は炎暑の候御清適奉賀候 中子来岡以来愈壮健、日々見物と飲食と昼寝とに忙がほしく取紛れ打ち暮し居候
去る十六日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候 閑谷黌見物へは末だ参らず、後楽園天守閣等は諸所見物仕候 当家は 旭川に臨み 前に三擢山を控へ東南に京橋を望み、夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ、納涼の小舟三々五々橋下を往来し、燭火清流に徹して宛然たる不夜城なり。君と同遊せぎりしは返す返す残念なり 今一度閑谷見物かたがた御来岡ありては如何、一向平気にて遠慮なき家なり 試験の成績面黒き結果と相成候由、鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども、文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり 君の事だから、今二年辛抱し玉へと云はば、なに鳥になるのが勝手だと云ふかも知れぬが、先づ小子の考へにてはつまらなくても、何でも卒業するのが上分別と存候 願くは今言心案あらまほしう
鳴くならば満月になけほととぎす
徐は後便にゆづる 乱筆御免
十九日午後 平 凸凹
獺察詞兄
尊下」。
東京帝大を落第した子規を漱石は慰め、後二年辛抱して卒業するように説得しています。
上記に書いている”平 凸凹”とは!!、余りに有名なので私が説明する必要があるかとおもったのですが、なかなか面白いので、あえて説明したいとおもいます。”平 凸凹”は夏目漱石のペンネームといって良いでしょう。ユーモアに溢れた名前です。
又、閑谷黌、後楽園、天守閣、河原の掛茶屋も写真を掲載しておきます。
★写真の碑が”夏目漱石岡山逗留の地碑”です。碑の上にねこが置いてあります。岡山とねこは関係ないとおもうのですがどうでしょうか!