kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月20日


●スパイ・ゾルゲを巡る(上) 2003年5月24日 V01L02
 三タイトルで順に掲載していく三番目が「スバイ・ゾルゲを巡る」です。ゾルゲというと戦前のソビエトのスパイとして有名ですね。今年の6月に篠田正浩監督(岩下志麻の旦那さんと言った方が皆よく分かります)で全国ロードショー予定ですので、時流に乗って歩いてみました。
《今週はゾルゲグループのソビエト側メンバーを紹介します。》

<ラインゴールド>
 ゾルゲとあまり関係ないようなタイトルなのですが、ゾルゲの妻、石井花子さんが初めてゾルゲに会ったのがこの酒場ラインゴールドです。当時、彼女はこの酒場ラインゴールドにホステスとして勤めており、昭和10年客として訪れたゾルゲと知り合い、同棲する様になります。「西銀座五丁目、酒場・ラインゴールドにわたしはホステスとして働いていた。ここの主人はケテルといってドイツ人であった。店は午前十時から開店され、直輸入のドイツビールとドイツ料理を出す、レストラン兼用の酒場だった。客は日本人、外人半々で、各国大公使館員、商人、旅行者、日本の知識人、芸術家、軍人などいろいろだった。……十月になった。ある晩!それは確か十月四日の晩であった。その夜こそわたしの生涯を決定する序幕となったのであるが……。この人ね、きょう四十年に成りました。誕生日です」と言った。客はうなずきながら、「そうです、そうです」とやっと日本語で言った。シャンパンを抜いて、おめでとうを言いながら三人で飲んだ。客は首をかしげてわたしをじっと見て、「あなた、アグネスですか?」「ハイ、そうです」「わたし、ゾルゲです」彼は手を差しのべた。わたしは彼の大きな手を握りながら、強い顔に似あわぬやさしい温かい彼の音声にちょっとおどろいた。…」、と書いています。彼女は最後までゾルゲがスパイだったのを知らなかった様です。

左上の写真はラインゴールドのマッチです。住所は銀座西5−5−8と書いてあります。マッチ箱のコレクションをされている方から貸して戴きました。なかなか手に入らない珍しいマッチ箱のコレクションがたくさん有ります。

左の写真は旧住所で銀座西5−5−8、現住所で銀座5−5です。写真の丁度中央のカルチェのビルの所がラインゴールドがあった場所だとおもいます。このお店はかなり有名で、「銀座十二章」にも出てきます。「西五丁目の露地の角は、手前がブロードウェイで、反対側の角がヨー口ー、その露地を西に出ると、右の角がライン・ゴールド。通りをへだてた向う側にサイセリヤがあった。サイセリヤは、学生や学生上りの足ぶみできる処ではなかったが、ライン・ゴールドやブロードウェイには時々でかけた。しかし、わたしの行きつけはヨー口ーであって、前後数年にわたって、わたしはほとんどここばかりで飲んでいた。当時、ブラック・エンド・ホワイトが、一杯五十銭であった。」、と書いています。昭和初めの頃ですが、当時のお店は全く残っていません。上記に書かれている路地は写真のカルチェのビルと養清堂ビルの間の路地と思われます。路地(反対側の写真)だけが当時のまま残っています。

ゾルゲ年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

ゾルゲの足跡

明治28年
1895
三国干渉
0
10月 バクーでドイツ人の父とロシア人の母との間に生れる
明治31年
1898
 
3
ドイツ、ベルリンに移る
大正8年
1919
 
26
10月 ドイツ共産党入党
大正13年
1924
 
29
ドイツ共産党を離れモスクワに移る
昭和元年
1926
 
31
レーニン死去、スターリン時代へ
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
35
1月 上海に派遣される(赤軍情報部所属)、この頃尾崎秀実と知り合う
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
38
2月 ヴーケリッチ日本に到着
9月 ゾルゲ日本に派遣される
10月 宮城与徳アメリカより日本に戻る
昭和9年
1934
 
39
春、尾崎秀実と再会
昭和10年
1935
ワシントン会議
40
10月 石井花子ゾルゲとラインゴールドで出会う
12月 通信技師のクラウゼン日本に派遣される
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
42
 
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
46
10月18日 自宅で逮捕される
昭和19年
1944
東条内閣総辞職
49
11月7日 巣鴨拘置所で処刑される

<戦前の独逸大使館跡>
 昭和8年日本に派遣されたゾルゲはスパイの身を隠すために、さまざまな工作をしています。「国際スパイゾルゲの真相」によると「ゾルゲは日本への入国に際して、非常に複雑な経路を使っている。いったんドイツに危険をおかし入国し、そこでさまざまな推薦状を入手してドイツ人ジャーナリストの肩書を装い、その後アメリカに渡り、カナダ船籍の客船「エンプレス・オブ・ロシア(ロシアの女帝)」号という船で横浜に入港するのである。周到なカムフラージュをしながら、ロシアにまつわる名前の船にあえて乗船しているところがゾルゲらしい。ちなみに、日本での活動中もゾルゲは、ドイツの共産党員時代やモスクワでのコミンテルン活動の時代と同様に本名のままで通している。優秀で注意深いスパイであったゾルゲのこうしたこだわりは、自らを持する、大いなる自負心が生み出したものなのだろうか。」、とあります。また日本の独逸大使館に入り込むため、さまざまな工作もしています。「日本におけるもう一つの重要な使命であるドイツの動向を探るために、ゾルゲ自身の情報網もつちかわれていった。ドイツ大使館に、欠かせない人物として入り込み、ドイツの新聞「フランクフルクー」紙の特派員待遇の寄稿者として地位を作り上げたゾルゲの戦術は、日本でのゾルゲの取調べ記録にも詳しい。」、現在では、詳細に本人確認をするためにこんなことはできないでしょうが、当時はドイツ本国に本人紹介をしてもあまりにも遠くて、よく分からなかったのでしょう。

左上の写真は現在の国会図書館です。戦前の独逸大使館があった場所です。当時は陸軍省がすぐ近くにあり、三国同盟もあって情報のやり取りが頻繁だった様です。現在のドイツ大使館は有栖川宮記念公園のよこにあります。

<ゾルゲ旧宅跡>
 ゾルゲは昭和16年10月自宅で逮捕されます。逮捕のきっかけについては昭和24年2月11日の朝日新聞によると、「あの事件は伊藤律を検挙した時に始まる。その時検事が「コミンテルンの指令の方向は戦争の危機を控えて軍事情報の面へ向かい、アメリカ共産党を通じてやっているとわれわれは判断している」といったところ、彼は「その判断は正しい」と答えた、そして同氏のハウスキーパーであった青柳きくよを調べた結果、「北林トモの行動をみよ」というヒントをえた…」、と書いています。また、「国際スパイゾルゲの真相」によると、「北林ともは宮城与徳が組織したメンバーで、宮城が使命を帯びてアメリカから帰国すると、そのあとを追って帰国し、宮城の指示のもとで巷間の情報を集めていた。伊藤がアメリカ帰りの北林の名を密告して、結果としてゾルゲグループを官憲に売りわたす役割を果たしたかどうかについては、事件後五〇年を経た今なお議論のわかれるところだが、事実、特高一課は北林に目をつけて、九月二八日に逮捕。そして、その自白から宮城与徳が浮かび、宮城もー○月一〇目に逮捕されたのである。…」、とあり、此処から後は芋づる式にゾルゲを主犯とする全員が逮捕されていきます。

右上の写真の真ん中辺りがゾルゲ宅があった所です。現在は麻布一之橋から飯倉方町の交差点に向かう路になっていて上は首都高速環状線が走っています。当時は路はなく、人家があったのみでした。石井花子さんの「人間ゾルゲ」ではこの家のことを書いています。「彼の家は麻布永坂町にあった。ほどなくゆるい長い坂にさしかかり、坂を下りきって、つき当たりの鳥居坂署を左に曲り、露地のところで車を止めた。狭い道を入るとすぐ、板塀に囲まれて同じような洋風の二階建の家が三軒あって、一番奥の左側の家が彼の家だった。玄関で彼がポケットから鍵を取り出して開けている間、わたしは家の構えを見た。日本人なら中産階級に属する文化住宅だと思われた。」。下記の地図を見て戴くと分かりますが、すぐ近くに鳥居坂警察署がありました。旧住所で麻布区永坂町30番地なのですが、石井花子さんの説明では、路地の一番奥と有りますので、番地では29番地となります。何方が正しいのでしょう?

<ゾルゲ旧宅地図(戦前の永坂町界隈)>


<クラウゼン旧宅跡>
 クラウゼンはゾルゲグループの中で、主に通信関係を担当していました。逮捕については「ゾルゲとの約束を果たす」を参照すると、「クラウゼンは、麻布区広尾町二番地の自宅で同日午前六時に東京地検思想部伊尾検事の指揮により堀江警部、中村警部補等が検挙し、検事が勾留訊問を行って東京拘置所に勾留した。クラウゼンの家からは、家宅捜索で無電の受発信機及び暗号通信文の解読中や組立て中の電信文などを発見し、スパイ活動の証拠品として押収した。」、とあります。当時の通信手段は短波無線機(トンツー)で行っていたようで、通信機は日本に来てから自作しています。「クラウゼンは来日後、東京の電気屋や金物屋を歩き回って部品を買い集め、密かに高性能の無線送受信機を作り上げた。それは、真空管やコイルを取りはずすことができ、スーツケースに入れて持ち運ぶことが可能だった。特定の場所で無線連絡をつづけていると警察に探知される危険があったので、クラウゼンはこれを持ってヴーケリッチやその他の協力者の家(送受信に都合のよい木造二階建て) に行き、その二階の部屋の中に七メートルほどのアンテナを張って、あらかじめ決められた時間に送信した。」、と書いています。日本の東京付近から中国、ソビエト向けに無線暗号が出ていれば当然日本側も気づきます。「昭和一二年以来、東京や大阪の逓信局、朝鮮総督府でソビエトか中国向けと思われる謎の無電暗号が傍受されており、取締り当局はその発信元の追跡に躍起になっていた。しかし、暗号は解読できず、無電担当のクラウゼンがときどき場所をかえて送信していたこともあって、その場所を特定することもできなかった。」、短時間で、住宅密集地で発進していると所在を特定するのは難しいようです。また暗号に関しては、「ゾルゲの書いた英文の原稿を、ある決められた法則にしたがって数字に置き換え、さらにそれを、一九三五年版の『ドイツ統計年鑑』を乱数表がわりに使って無意味な数字の羅列に変換し送信した。」、とあります。ドイツ統計年鑑を乱数表がわりに使うと、何ページの何行目の何字目(例:128−10−10は128ページの10行目の10字目となります)と指定するため、どの本を使っているか分からないと、解読不能です。

左の写真のマンション左側奥にクラウゼンの住居がありました (旧住所 麻布区広尾町2番地、現 港区南麻布5−5付近)。クラウゼンの隣家は駐日ソ連邦大使館海軍武官のイワノフが居住していたので、早朝の検挙騒ぎでソビエト大使館ではクラウゼンの検挙が分っていたはずです。

<ヴーケリッチ旧宅跡>
 ヴーケリッチの役割は主に外国通信員とフランス人からの情報収集と写真などの技術的な仕事だったようです。「…一九三五年の春には、フランスのアバス通信社の東京支局に記者として採用された。ヴーケリッチがこの世界に名の通った通信社に席をおいたことは、ゾルゲグループにとって大きな意味をもった。……同時にヴーケリッチは、ゾルゲグループのカメラマンとしての任務もになっていた。……ヴーケリッチの写真撮影に関して、夫人の山崎淑子さんの証言を紹介しておこう。「主人は暗室を作りまして、こつこつ自分で部品を買ってきて接写機などを自分で作ったんです。それで報告書などを、一ページずつマイクロフィルムで撮影するわけです。厚い本とか報告書のときには、もう何時間も何時間も暗室にこもってやっていました。そして出てくると、その何本ものフィルムを煙草のチェリーの箱に詰めてむぞうさにポケットに入れて出ていくので、私はほんとうに大丈夫なのかなと心配でした。」、奥さんはある程度スパイであることを認識していたのでしょうか。

右の写真の右側辺りがヴーケリッチが住んでいた牛込区佐内町22番地です。佐内町というと、川端康成が大正15年に住んでいた所です。市ヶ谷の駐屯地の側で、小高い丘の上なので通信条件もよかったのでしょう。


●スパイ・ゾルゲを巡る(下) 2003年6月7日 V01L01
 6月14日(土)から篠田正浩監督(岩下志麻の旦那)で「スパイ・ゾルゲ」のロードショーが始まります(東宝系です)。映画が始まる前に掲載を終わろうと思っていましたので来週掲載予定だった「スバイ・ゾルゲを巡る」の下巻を一週間早めて今週掲載します。今週はゾルゲグループの日本側メンバーであった尾崎秀実、宮城与徳を中心に掲載します。

左の写真は多磨霊園にあるゾルゲのお墓です。お花も飾られていて掃除が行き届いています。何方かが面倒を見ているのでしょうね。ゾルゲは昭和19年11月7日に巣鴨の東京拘置所で処刑されます。処刑後のゾルゲの死体は引きとり手がなく、拘置所の手で雑司が谷の共同墓地に土葬されていたようです。戦後石井花子さんの手で掘り起こされて荼毘に付されてから多磨霊園に埋葬されます。「雑司ケ谷墓地管理事務所へ着いたのは九時半頃だった。管理人は待っていた。出されたお茶を飲んでいるとまもなく、作業員が手にそれぞれシヤベルを持って、三人やって来た。……池袋の駅前で昼食をすまし、下落合の火葬場へ着いたときはちょうど一時だった……一九五〇年十一月八日に、この日は天気もよく、わたしは早速骨壷や桐箱に目張りして、多磨へ出かけた。…墓地へ着くと、なんの外柵もほどこされていない所に小高く土が盛り上げてあって、かなり大きな納骨堂ができ上がっていた。青年が中へおりて行って中棚に、桐箱から出した骨壷を中央にそっと置いた。…それから用意して来た木標を、盛り上がった花立てのうしろへ土を掘って建てた。わたしは花を一対花立てに活けて焼香し、瞑目した。これですべて終ったのである。管理事務所へ引きかえして、そこで書類に印を押し、多磨霊園使用許可証を受け取った。全くすべては簡単に終り、帰宅した。」、このあと墓碑は直ぐには建てられず、昭和30年11月、関係者の寄付により写真の墓碑が建ちます。

<ゾルゲグループ一覧表>


<尾崎秀実宅跡>
 尾崎秀実は大正14年東京帝国大学法学部卒業、そのまま大学院に残りますが。一年後東京朝日新聞に就職します。昭和2年大阪朝日新聞支那部に転勤、同年上海に派遣されます。この頃まではまだ共産党のシンパにもなっていなかったようです。しかし中国で列国の植民地活動を目の当たりに見ます。「世界資本主義は完全に行きつまった。而してこの帰結は、世界戦争でなければならない。而してその後に生れいずべきものは、当然共産主義社会でなければならないという、極めて抽象的かつ公式的な結論がほとんど信念ともいうべき、私の予想であったのであります。」、と尾崎秀実は「上申書」で書いています。あまりに真面目で、ソ連は平和政策を堅持すると信じていた様です。もしも現在の状況を尾崎秀実が見たならなんと言うでしょうか…!!この上海時代にソ連のスパイであるゾルゲと会う事になります。尾崎秀実の逮捕については『近衛首相の秘書官だった牛場友彦氏が証言している。「そのときも朝飯会をやっていたわけです。朝飯会に尾崎が姿を見せなかった。どうしてあいつ来ないんだろうと言ったら、誰かが、捕まったと。スパイの容疑で捕まったといって、一時はえらい衝撃を受けたんです。ぼくらのほうは、とても信じられなかった。あれがスパイ活動やっていたんだということは、とても信じられない。誰も信じられない。西園寺はいまだに信じていないでしょう。尾崎は笑っても、目は笑わなかった、というようなことを誰かが言っていましたけど、諸説紛々ですけど、とにかく尾崎は、一笑転うまく反面をかぶってスパイ活動をしていたんですね」、近衛首相の側近で朝飯会のメンバーの一人だった西園寺公一氏も、次のように話してくれた。「尾崎が逮捕された理由は、だいたい想像ができたよね。だって軍の連中がいちばんいやなことを、彼はやっていたんだものね。彼のやり方というのは、日本の軍なんかがいちばんいやがっていたことだから。ソ連のスパイってのは、そのときは知らなかったけれど、尾崎の考え方というのは、日本がファッショと一緒に行かない、ファッショと手を切るということだから。ぼくは、尾崎の考え方は正しいと思っていたからね。尾崎の逮捕は東条内閣にかわるときだけど、それとも関係あると思うね。近衛内閣がきちんとやっていれば、尾崎の逮捕はできないもの』、と言っています。この話からも尾崎秀実が日本の中枢に食い込んでいた事が分かります。

左上の写真右側が尾崎秀実の東京都での住まいの跡です(東横線沿線の祐天寺駅から歩いて数分の所です)。尾崎秀実は兄の嫁と親しくなり、兄との離婚をまって結婚します。尾崎秀実の死後は婦人と娘さん夫婦とで住まわれていた様で、現在は娘婿の名前になっているようです

<宮城与徳宅跡>
 宮城も昭和16年10月10日自宅で逮捕されます。「特高一課は北林に目をつけて、九月二八日に逮捕。そして、その自白から宮城与徳が浮かび、宮城もー○月一〇目に逮捕されたのである。逮捕の直後、宮城は取調べ室の窓から飛び降りて自殺を企てたが、果たせなかった。そのときの心境を、宮城は次のように述べている。「私は自分自身の関係者に共産主義運動に何ら関係のない弱い者を抱えていること、事件の人的関係がはとんど当局に探知されていること、また確証のにぎられている点よりして、この方法によるほか訊問拒否も不可能と考えたからであります。また一方、私が検挙によって受ける精神的肉体的苦痛を同志、尾崎秀実、リヒアルト・ゾルゲに受けさせたくない気持もはたらいていました」 (『現代史資料』四)、自殺は失敗に終わり、宮城は軽い怪我を負っただけだった。しかしこの自殺の失敗をきっかけに、宮城はスパイ活動の一切を自白しはじめたのだった。そして一五日、尾崎が逮捕される。」。宮城与徳も尾崎秀実にまして真面目に考えていたようです。

右上の写真の右側辺りが宮城与徳が住んでいた所です。旧番地で麻布区竜土町二十八、現在では港区六本木6−8辺り、六本木の旧防衛庁前の路地を入った所です。当時は歩兵第一連隊、第三連隊がすぐ近くにあり兵隊がうろうろしていた所です。

<巣鴨の東京拘置所跡>
 昭和19年11月7日、尾崎秀実とゾルゲは巣鴨の東京拘置所で処刑されます。戦後、東條英機が戦犯で処刑された所と同じ所です。『「一九四四年十一月七日、ロシヤ革命記念日に死刑は巣鴨東京拘置所の絞首台で執行された。死刑はたいてい朝九時に行なわれるのが慣習だったが、この朝看守が呼出しに尾崎の独房に行くと、早くもそれと予期して、死装束を整えるために三十分ばかり待たせた。尾崎がまず絞首台に上がった。紋付羽織袴、自若として死についたという。九時三十三分台に上り、十四分で息を引きとった。ついでゾルゲが台上の人となった。ゾルゲは十八分くらいかかって、十時三十六分に瞑目した。背広、ノーネクタイ、ロイド眼鏡の姿であった。尾崎の死も立派だったが、ゾルゲはさらにあっばれな死にぶりだったという。尾崎はかすかな声で、『さようなら、さようなら』と叫んだ。それはおそらく愛妻と愛児への告別であったろう。ゾルゲは最後の感想を問われたとき、口もとに笑を浮べて 『ソヴエト・赤軍・共産党』と二回日本語で繰り返した。ソヴエトと共産党と赤軍のことを考えながら死んで行くのだという意味のようであった」』、スパイというのは金で動くのではなくて、強い信念で動かないと本当の活動はできない様です。

左の写真が巣鴨の東京拘置所跡の記念碑です。「その池袋の東京拘置所跡地は巨大なクレーンが林立する都市再開発の現場だが、僅かに、残された刑場跡地は高い板塀に囲まれた空間で、三百坪ほどであろうか、地面に石灰を混じえたような白い土砂が敷きつめてあった。……この敷地の一角に少し濯木の植え込みがあって、何か木の標識が一本立っていた。私は指さして遊田氏にたずねたが、彼は答えなかった。遠くから目を凝らして見ると「戦犯」という字が見えた。そうだ、この巣鴨プリズンで一九四八年十二月二十三日、東条以下七戦犯が早朝処刑になったその刑場跡地でもあったのだ。」。と石井花子さんは「人間ゾルゲ」の中で書いています。この場所はサンシャインシテイの横に有る東池袋中央公園の中にあります。

<尾崎秀実の墓>
 尾崎秀実のお墓も多磨霊園の中にあります。ゾルゲの墓から歩いて数分の所です。「尾崎秀実氏の墓地は広く、梅の樹や藤木が植えてあった。小高い丘に石の墓標が建って、石に彫ってある墓名が暗く、くすんでいた。ここでまず尾崎氏が花束を捧げて焼香しつぎつぎに立って一同が額ずいた。細川氏が立ち、進み出て追悼の言葉を述べ、二、三人の迫悼も終って一同はゾルゲの墓地へ行った。」。尾崎秀実とゾルゲのお墓はいつも一緒に墓参しているようです。

右の写真の中央が尾崎秀実の墓碑です。大きな敷地のまん中にひっそりと墓碑がだっています。このお墓の反対側には三島由紀夫のお墓が有ります。なんと皮肉な事でしょう。



<スパイ・ゾルゲの東京地図>



【参考文献】
・銀座十二章:池田弥三郎、朝日文庫
・ゾルゲとの約束を果たす:大橋秀雄、オリジン出版センター
・国際スパイゾルゲの真実:NHK取材班、角川文庫
・ゾルゲ事件上申書:尾崎秀実、岩波現代文庫
・人間ゾルゲ:石井花子、角川文庫
・生きているユダ:尾崎秀樹、角川文庫
・現代史資料(4):みすず書房

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール