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●尾崎秀実の上海・大阪を歩く
 初版2007年5月12日
 二版2012年11月27日<V01L01> 場所の修正と写真の追加・修正
 上海に渡航する機会がありましたので1930年代の建物がそのまま残っている町並みを歩いてきました。特に今回はゾルゲ事件で有罪となった「尾崎秀実の上海」を中心に歩きます。
 再度、上海に渡航しましたので追加・修正の写真を撮影してきました。参考図書は「上海歴史ガイドブック(増補改定版)」です。初版より12年目の改版で地図も新しくなり、使いやすくなっていました。(2012/12/27)
<バンドThe Bund/外灘〔ワイタン〕>
 1840年に起こった阿片戦争でイギリスは上海を占領します。1842年の南京条約でイギリスの対外通商港となり、1845年イギリス租界が成立します。1848年にはアメリカ租界(正式契約は無し)、フランス租界も成立します。その後租界は拡張され1963年には各国の租界を一つにした公共租界(共同租界)となります。その後フランス租界は単独租界となり残った公共租界が共同租界となります。日本は1895年の日清戦争後の下関条約で治外法権を獲得し上海の共同租界に進出します。当時の上海は人口100万以上の大都会であり、その中で一番栄えたのがバントと呼ばれる地帯でした。
「…“バンド”とはペルシャ語に由来して、埠頭、港の海岸通りなどを意味する語。“外灘”の名は、陸家浜以 東の黄浦江の河原を指した“外黄浦灘”の略称に始まる。通常、黄浦江と蘇州河との合流点にかかる外自渡橋から、南へ約1.5kmの新開河 までをいう。そのうち延安東路以南をかつては仏租界バンドと称す。1992年の大拡張によって中山東一路は10車線となった。岸辺には広いプロムナードが整備され、建ち並ぶ近代建築群は夜毎のライトアップに照らしだされる。近年、一帯が「外灘風景区」として指定され、建築群全体が国家重点文物保護単位となる。…」
 「上海歴史ガイドマップ」のバンドの解説です。このバンドには三井銀行、住友銀行、三菱銀行、横浜正金銀行等の戦前の日本関連の建物がそのまま残っています。世界中の銀行の支店があったわけですから当然ですね。三菱銀行跡、三井銀行跡の写真を掲載しておきます(正面が三菱銀行、左側の工事中が三井銀行、住友銀行は三井銀行の向かい側になります)。「上海歴史ガイドマップ」には全て書かれていますので上海を訪ねられる方には大変役に立つ本です。

左上の写真が1930年代の”バンド”です。当時の写真ですので少し色が褪せています。左の写真が現在の”バンド”です。写真の右側が浦江で左側の建物が当時のビル群です。本当にすごいの一言です。

 1930年1月、この国際都市上海にソビエトのスパイとしてゾルゲは派遣されます。NHK取材班の「国際スパイゾルゲの真実」を参考にすると、
「…イギリス、アメリカの対中政策、軍事顧問団を送り込んでいたドイツの動向など、中国を取り巻く国際情勢は混沌としていた。当時、不安定な状態にあった南京政府は、一方では勢力拡大をはかるソビエト連邦の圧力を感じ、もう一方では対中進出を推し進めようとする日本の画策を牽制しようと英米依存の姿勢を強めていた。…」
 術中渦巻く国際都市上海、各国のスパイが暗躍するなかにゾルゲは登場します。
 「…はじめて中国にやってきたときゾルゲが、協力者としてあてにできたのは、アメリカ人の女性記者アグネス・スメドレーだけであった。上海に拠点を構えたゾルゲは、スメドレーの紹介する中国人や各国の人たちと会いながら情報網を確立しようと画策する。 当時ドイツ人駐在員の妻として上海に滞在していたルート・べルナーさんも、ゾルゲの協力者の一人だった。一七歳のときに共産党員になったべルナーさんは、中国を中心に二〇年間にわたり諜報活動をつづげ、八四歳の今はベルリンで暮らしている。取材に訪れたとき、べルナーさんの自宅の壁にはゾルゲの写真が掛けられていた。「リヒヤルト・ゾルゲのことを悪くいう人もいますが、私は誇りをもって写真を掛けています。彼のことは、とてもすてきで大切な思い出なのです。私は今でも、ゾルゲが良いことのために闘ったということを信じて疑いをもちません。 ソビエトに対して役に立つ情報を流すことだけでなく、私たち諜報員にとって最後の目標は、共産主義に対しての戦争を妨害することでした。…」
 共産国系のスパイはだいたいこのパターンです。金のためではなくて信念でやっています。

<日本総領事館跡>
 2012年11月27日 写真を最新に更新と古い日本総領事館の写真を追加
  この上海に1928年尾崎秀実は転勤します。下記の経歴を見てもらうと分かりますが、一高、東大、朝日新聞の秀才ですね。当時の帝大出身者が共産主義に走るワンパターンです。当時としてはしかたがないのかもしれません。
「…「資本主義社会より共産主義社会への転換は、既に現在の資本主義社会が完全にその行詰りに達し、古き秩序がもはや社会経済力の発展に役立たないのみでなく、却って社会発展の桎桔となって来た為に、必然的に起るものであることは勿論であります。 然し乍ら、資本主義社会内部に於て、社会の生産力増大の当の担当者なる労働者農民階級の利害とは反対に、資本家階級は、現在の社会機構を維持することを以て却って利益とするものである為に、総ゆる手段を以て、労働者農民階級を中心とする勤労者階級の要求乃至始頭を抑圧せんとすることは当然であります。 斯くて、崩壊期にある資本主義社会に於て、階級闘争が必然激化するに至るのであります。即ち、共産主義社会の完成された形に於ては、搾取関係は排除され、階級なき社会が実現されるのでありますが、其処に至る過程に於ては、只今述べた様な関係で、プロレタリアートの独裁政権の樹立が必然の経路であり、斯るプロレタリアートの独裁政権に依る社会主義国家を通じて共産主義社会へと移行するのであります。…(「東亜新秩序社会」の構想(第九回訊問調書抜粋))」
 「ゾルゲとの約束を果たす」からです。今読むとあまり感じませんが当時としては進んだ考え方だったのでしょう。もし三・一五事件で逮捕されていたら直ぐに転向していたのではないでしょうか(こんなことを書いたら怒られるかな!)

左上の写真が日本総領事館跡です。この建物の裏に古い日本領事館の建物があるのですが撮影ができませんでした。当時は右隣には米国領事館、その隣にドイツ領事館がありました。

【尾崎秀実(おざきほつみ)】
尾崎秀実は明治三十四年五月二日東京市芝区伊皿子で生まれた。父秀真は新聞記者、母きた、兄秀波、弟秀束との三人兄弟。『ゾルゲ事件』等の著者で異母弟の秀樹氏は記載されていない。妻英子は、尾崎家の親戚で、初め兄秀波が大学生のときに結婚したが、秀波の入営中に別居し、後に離婚した。秀実は大学卒業後英子と結婚し、長女板子が生まれたが、妻は諜報活動には関係がなかった。東京で第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科を大正十四年に卒業、さらに大学院に一年在学した。大正十五年五月東京朝日新聞社に入社した。 朝日新聞社内では、同僚の清家敏住等と共にスターリソ著『レーニソ主義の諸問題』の研究会を催し、共産主義を信奉するに至り、清家敏住の勧誘により、ペンネーム 草野 源吾の名で日本労働組合評議会関東出版労働組合東京支部新開斑に加入し、朝日新聞オルグとして諸会合にも出席していた。 翌年大阪朝日新聞社に転勤したので、昭和三年三月十五日のいわゆる三・一五事件の検挙を免れ、同年十二月朝日新聞特派員として上海に渡航した。(「ゾルゲとの約束を果たす」を参照)

上海地図(現在の地図です)

尾崎秀実の上海・大阪年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 尾崎秀実の上海・大阪の足跡
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
24 4月 東京帝国大学法学部政治学科卒業
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 5月 東京朝日新聞社入社
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
26 10月 兄、英子と離婚
10月 大阪朝日新聞社支那部に転勤、豊中で英子と同棲
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
27 11月 上海に転勤
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 29 1月 ゾルゲ上海に派遣される
2月 英子と正式に結婚
昭和6年 1931 満州事変 30  
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 2月 大阪朝日新聞社に戻る
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 9月 ゾルゲ来日
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 5月 宮城与徳が接触

呉淞路義豊里二一〇号>
 大阪朝日新聞社に転勤していた尾崎秀実は夫婦で上海に転勤します。ここからは尾崎秀樹の「上海1930年」を参照しながら上海を歩いてみました。
「…尾崎秀実が、朝日新聞の上海通信部(のちに上海支局)へ転勤となり、大陸へ渡ったのは一九二八(昭和三)年十一月のことだ。それまで大阪朝日本社の支那部に勤めていた。 当時は日本郵船、大阪商船はもちろん山下汽船や大連汽船など、ほとんどの船舶会社が定期航路をもっており、とくに長崎−上海問は長崎丸と上海丸が往復していたが、尾崎は妻の英子とふたりで、欧州航路の汽船をえらんだ。三日二晩の短い船旅だったが、せめてその間だけでもゆったりとした船旅を味ってみたいという、ちょっとしたぜいたく心のあらわれだった。 神戸を出航して三日目の午後に、船は揚子江をさかのぼり、黄浦江へ入った。…… 同僚の森山喬の世話で、呉淞路義豊里二一〇号の丸尾という古着商の二階に住むことになったが、その古着商の女主人・小林琴は、なかなか気のいい世話好きの中年婦人だった。二階は入口が別で、出入りにあまり干渉されることはなかった。…」
 まず住まいの方ですが、当時の建物がそのまま残っていました。残っていたと言うよりはこの地区一帯が昔のままでした。

左上の写真の左側の建物です。この建物の二階になります。この写真の反対側には魯迅の故居もありました。この場所は内山書店に近く日本人が多かった地区だとおもわれます。

 尾崎秀実はこの上海でゾルゲと会うことになります。この辺りの話は「ゾルゲとの約束を果たす」から引用します
「…昭和五年末頃、東亜同文書院の左翼学生の一人から、米国から来たというコミンテルン関係の鬼頭銀一を紹介され、鬼頭から米国人「ジョンソン」という人に会うようすすめられたが、尾崎は用心してスメドレー女史にきくと、女史は非常に緊張し、「そのことは誰にも話していないか」ときいた上で「非常に優れた人だ」といったので、安心したという。そして、鬼頭から南京路の中華料理店冠生園でジョンソンを紹介され、ジョンソンから
一、日本の新聞記者として集め得る限りの中国の内部情勢
二、日本の対支政策の現地における適用状況
等について知らせてもらいたいと依頼され、昭和七年二月に帰国するまで、毎月一回位南京路にある料亭またはスメドレー女史の部屋でジョンソンと連絡し、情報の提供と意見を述べていた。 この「ジョンソン」はリヒアルト・ゾルゲであるが、尾崎は中国時代にその本名を教えられなかった。また、ゾルゲはスメドレー女史から尾崎を紹介されたといい、尾崎は鬼頭銀一にジョンソンを紹介されたというので、この点は両人の供述が相達していた。…」

 このころはスパイをしているという感覚はあまりなかったのではないでしょうか。
大阪朝日新聞社上海通信部>
 2012年11月27日 写真を最新に更新と移転後の写真を追加
 尾崎秀実は大阪朝日新聞社上海通信部に通います。朝日新聞は元々大阪が出身母体で戦前は大阪が力を持っていたようです。
「…尾崎秀実が大阪朝日新聞社の上海通信部に赴任した時、先任の森山喬もいた。事務所は赫司克而路五十二号である。 当時上海には、大阪朝日のほかに大阪毎日新聞上海支局があり、時事新報、報知新聞、上海毎日新聞、上海日日新聞、上海日報、上海通信社、日本電通、新開連合、江南晩報などとあわせて上海日本記者団を構成していた。そのなかには尾崎がその後も交渉をもつ日森虎雄(上海通信社)、沢村幸夫(大阪毎日)、船越寿雄(上海毎日)、目高磨瑳四(上海日報)などもおり、上海新聞人のはえぬきといわれた山田純三郎(江南晩報)もまじっていた。…」

 上海には新聞各社が支局を持っていたようです。

左上の写真の小学校の手前、左側に大阪朝日新聞社上海通信部がありました(新しい路が出来たりしてすっかり変っています)。大阪朝日新聞社上海通信部は昭和7年(1932)まで赫司克而路五十二号にあり、それ以降は東熙華徳路(写真左側)に移転しています。他の新聞社があった日本人街の海寧路からは少し離れていました。上記の地図参照してください。
内山書店>
 2012年11月27日 最初の場所を修正
 尾崎秀実が通った本屋が内山書店です。あまりに有名な書店なので皆様ご存じだとおもいます。
「…内山書店が北四川路魏盛里の路地裏に、店を開くのは一九一七年のことだ。目薬の宣伝のため家を留守にすることの多かった内山完造は、妻の美善のために、なにか気晴しになる内職はないものかと思案し、自宅の玄関先に本屋を店びらきすることを思いついた。…… 牧野牧師の世話で井上美貢と結婚した完道は、夫婦で上海へ渡り、しばらく呉漱路義豊里一六四号の日本人家庭の二階に間借りした後、魂盛里に移ったのだった。。…」
 内山書店店主の内山完造は魯迅を匿ったり、谷崎潤一郎、佐藤春夫の上海渡航時は世話をしたりして内山書店自体が上海文化人のサロンになっていたそうです。昭和10年(1935)には東京に支店を開設します。戦後は上海永住を決意しますが昭和22年、強制帰国命令でやむを得ず帰国します。現在の東京神田神保町の内山書店の写真も掲載しておきます。

左上の写真が内山書店跡に掲げられている記念プレートです。日中両国語のプレートがありました。内山書店の最初のお店の場所(写真の左側から二件目奥)の写真と、魂盛里の建物跡の周りの風景も掲載しておきます(白い車の後辺りに内山書店がありました。)。別の場所には内山完造の銅像もありました。
帰国後の大阪での尾崎秀実>
 昭和7年に尾崎秀実は大阪朝日新聞社に戻ります。
「…昭和九年五月末頃、大阪朝日新聞社に「南龍一という名刺をもった青年が来訪し、「上海時代に非常に親しくしていた外国人が日本にきていて、是非会いたいといっているから、一度会ってくれないか」といった。尾崎は、上海時代の活動を知って警察のスパイが来たのではないかと警戒したが、話をきくうちにその懸念がなくなり、外国人というのが「ジョンソン」と推定されたので、午後六時頃附近の中華料理店白蘭亭で会食してジョンソンであることを確認し、さらに翌日の日曜日に、兵庫県川辺郡稲野村御顧塚二二三番地の自宅で南と会い、次の日曜日午後に奈良公園博物館脇でジョンソンに会うことを約束した。 このときの南龍一は宮城与徳で、ゾルゲの命令で尾崎との連絡回復にきたものであった。 尾崎は、その次の日曜日午後に奈良公園の指定場所でジョンソンと再会し、 「また日本の情勢について手伝ってくれ。今度は支那でなく日本だ」といわれて、日本における政治・経済・外交・軍事その他一般情勢についての情報と、それらの問題に対する意見を知らせることを要求され、コミンテルンの情報活動をするジョンソンに協力することを決意し、与えられた任務を遂行することを承諾した。そして同年秋に東京朝日新聞社に転勤した。…」

 大阪に戻ってから2年間は平穏な日々が続いていました。しかし時代は尾崎秀実をほっておきはしませんでした。

左上の写真の次の交差点を右に曲がり少し歩いた左側が兵庫県川辺郡稲野村御顧塚二二三番地です(直接の写真とは控えさせていただきました)。現在の伊丹市稲野町一丁目です。阪急伊丹線の稲野駅から歩いて5分くらいです。大阪朝日新聞社と白蘭亭があった江戸堀一丁目(大阪朝日新聞から肥後橋を渡って少し歩いた左側)の写真を掲載しておきます。
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