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最終更新日:
2006年4月2日
●『岸壁の母』を歩く
初版2005年1月29日
<V02L01>
2006年4月2日 写真を追加更新
ちょっと異色の散歩をしてみました。昭和20年8月から60年の歳月が過ぎようとしています。戦後も忘れ去られつつありますが、旧ソ連に抑留された息子の帰りを待ち続けた一人の女性を歩いてみました。
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異国の丘・岸壁の母の歌碑>
「岸壁の母」なら歌も「岸壁の母」だろうとすぐに思いますか、この息子を待ち続けた母親(端野いせさん)は最初自分自身のことを歌った歌だとは気がつかなかったようです。端野いせさんが書かれた「未帰還兵の母」を参照すると、
「…ときどきラジオから聞こえる『岸壁の母』 −−当時は私自身のことと知りませんでした−− なにも考えずに唄の文句を聞いておりますと、なにかしら私のことのように思えてなりません。哀愁をこめたあの唄声に涙を誘われ、泣いてしまいます。一節聞くごとに、私の心境そのままなので、ビックリしました。一年前、舞鶴の桟橋で涙にくれたあの日の私の姿が思い出され、泣けてなりません。…」
、と書かれています。端野いせさんは「岸壁の母(昭和29年10月)」より先に歌われた「異国の丘」も好きだったようです。
「…五年たちましても夢で見る息子の姿は学生です。花咲く春を待つ人もありましょうが、私は引揚船の入港を待ちます。新二が帰るまで花が咲かずともよいのです。このような思いをいつまで続けるのか。ラジオから『異国の丘』の唄が聞こえます。近所の子供の唄声も聞こえます。日本の土をふむまでみな生きて帰ってくれと思いますと涙がでます。…」
。私個人も「岸壁の母」よりは「異国の丘」の方が好きです。きっと日本に帰れるという希望が沸いてきますね!!
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左上の写真は京都府舞鶴市字平無番地引揚記念公園内にある「異国の丘・岸壁の母」の歌碑です。
「今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る……」
。何回聞いてもいい歌です。この歌は昭和23年8月1日(日曜日)のNHKラジオ「のど自慢素人音楽会」で突然歌われます。歌ったのはシベリヤからの帰還兵”中村耕造”さんでした。中村さんは”のど自慢”で皆が言うように
「○×番中村耕造、「捕虜も歌える」」
と曲名を紹介します。この後、この歌は大ヒットするわけです。しかし、作詩,作曲者が分かりませんでした。その後、詩は増田幸治、曲は吉田正が作ったことが判明します。シベリヤ抑留中に増田幸治が作った詩に吉田正が作曲した「昨日も今日も」でした。
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端野いせさん宅跡>
端野いせさんの生い立ちについては本を読んでもらうとして、息子さん(新二さん)が出征した東京の住まいから順に歩いてみます。函館で夫に先立たれた”いせさん”は息子を連れて東京に出てきます。東京の中で最後に住んだのが大森でした。出征は東京と書きましたがいせさんの本を読むと、本人が渡満を希望して、満州で出征したようです。
「…「渡満している友人に入隊の手続きを頼みました。ほくをあまり悲しませないで出立させてください。せっかく決心したのですから」…」
、と息子の新二さんに言われたと書かれています。しかしこの疑問は最後まで残ります。昭和31年9月、新二さんの死亡告知書が届いたのもこの住所でした。(この死亡通知書は下で紹介する舞鶴引揚記念館に展示されていました)
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左の写真が端野いせさんが住まわれていた東京都大森区入新井地町四丁目二四番地です。写真の右側のマンションが建っているところです。当時は長屋が並んでおり、マンションの一番左端の所が端野いせさんの住いでした。
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東舞鶴駅>
舞鶴は大陸からの帰国者が最初に出会う日本の駅でした。当時は帰還船が到着すると臨時列車が仕立てられ、京都へ向かいそこから全国に帰っていきます。昭和25年10月の時刻表を見ると東舞鶴駅から京都駅まで3詩間半、京都から東京までは急行で9時間半くらい掛かります。引揚船は通常朝7時〜8時に到着するようなので、待ち受けるには前日に到着する必要があります。ですから東京駅を、朝8時発の急行に乗ると夕方17時23分京都着です。僅か12分の乗り換えで、17時35分京都発、20時55分東舞鶴駅着となります。特急に乗るとお金がかかりますから端野いせさんはいつもこのルートで東舞鶴まで行かれたのでしょう。13時間30分乗りっぱなしでした。
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右の写真が現在の東舞鶴駅です。立派な駅になっていました。
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舞鶴引揚記念館>
大陸からの引き揚げ地区であった平地区の手前の岡の上に舞鶴引揚記念館が建てられています。私は8月に訪ねたのですがかなりの人が訪問していました。若い人も多かったのでビックリしてしまいました。引揚者の中にはかなり有名な方も多くてこちらもビックリしました。苦労された方が多いのですね!!
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左の写真が舞鶴引揚記念館正面です。写真の左側には大きな駐車場もありますので、冬は大変ですが夏に車で訪ねられたらとおもいます。一生のうちで一度は見ておかないとだめな記念館だとおもいます。(出来れば若い内に)
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引揚援護局>
2006年4月2日 桟橋の写真を追加入替
昭和20年11月、地方引揚援護局官制の公布により舞鶴地方引揚援護局が誕生します。 昭和21年4月から引き揚げ邦人を約11万人を収容して繁忙をきわめます。 同年末にはソ連地域からの引き掲げに関する米ソ協定が進展したので、その後の引き揚げ業務はもっぱら平地区で行われています。舞鶴地区で復員した方は総合計665千人、その内ソ連地区からは456千人、中国地区からは192千人となります。期間は昭和20年10月から始まり、昭和33年9月に終了します。
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右の写真の右側に引揚援護局があり、手前の桟橋が
平引揚桟橋
です。この湾の向こう側にも
北桟橋
がありました。引揚者は船からこの桟橋に上がり、今は工場になっている辺りに建てられた引揚者用の宿舎に入りました。端野いせさんはこの桟橋の前で引揚船が着くたびに待っていたのでした。死亡通知書も信ぜず息子を待ち続けた端野いせさんは昭和56年7月享年81歳でなくなります。一つの戦後がこれでなくなりました。
端野いせさんの話には後日談があります。
・2000年8月の京都新聞に息子の新二さんは中国で生きていると掲載されます。
・2003年7月号の文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」という記事が掲載されます。
詳細は別の機会に‥…
「岸壁の母」関連地図
【参考文献】
・未帰還兵の母:、新人物往来社
・舞鶴引揚記念館ホームページ
・今回は個人の方が多い為、住所は控えさせて頂きます。
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