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最終更新日:2006年2月20日


●日本のいちばん長い日を歩く(下)
  初版2005年8月14日 
<V02L01> 近衛師団前写真追加

 先週に引き続いて終戦特集として「日本のいちばん長い日を歩く」を掲載します。今週は昭和20年8月15日の一日を歩きます。皇居の中は入れませんので、皇居の周辺と自衛隊入間基地を訪ねました。



<日本のいちばん長い日>
 岡本喜八監督で昭和42年(1967)映画化されています。本が出版されたのが昭和40年ですから僅か2年での映画化です。阿南陸相の三船敏郎とナレーターの仲代達也が印象的でした。「不法占拠!惨殺!叛乱!緊迫の24時間に日本の運命は激震する!昭和20年8月14日正午。物語は皇居内の御前会議から始まる。ポツダム宣言受諾をめぐる陸軍省と政府との激論、対立。自刃の覚悟をした阿南陸相。玉音放送の準備に腐心するNHKと宮内省。徹底抗戦を主張する青年将校たちの玉音盤奪還作戦、反乱軍による首相官邸襲撃…。そして翌15日正午、玉音放送−。戦後の日本人にとって出発点ともなる波乱と激動の一日を、岡本喜八が渾身の力を込めて描いた、迫真の戦争ドラマ巨編!!」。と、DVDの裏面には書いています。映画のCMは上手に作るなとおもっていましたが、文章もなかなかです。

左の写真は「日本の一番長い日」のDVD表紙です。”戦後60周年 戦記映画DVD傑作選”ということで、7月22日DVDで発売されています。ロケ地散歩もしたかったのですが、時間がありませんでした。残念!!

北白川宮能久親王銅像> 2005年11月10日近衛師団前写真追加
 明治36年、近衛師団正門前に建立されています。戦後の昭和38年、北の丸公園整備計画により現在地に移されています。乾門から近衛師団正門に向かう道の中央に建立されていたようです。正に明治、大正、昭和と日本の激動の時代を見てきた銅像ですね!! なんで移されたのか分かりません。残念です。近衛師団の兵舎と同じように前のままの方が良かったとおもうのですが。昭和20年8月14日16時頃、 近衛師団歩兵第二連隊が宮城警備のためこの銅像の脇を通って乾門より入城しています。通常は一大隊で警備しますが、当日は決起の青年将校らが画策して第一、第三大隊が入城しています。第二連隊が決起し、近衛師団全体に広げ、最後は東部軍全体に広げていく構想だったようです。

左上の写真が「北白川宮能久親王銅像」です。元の位置から近衛師団司令部側、西に60m程移動しています。元の近衛師団前の位置の写真が手に入りましたので掲載しておきます。

千代田区地図


昭和20年8月14日〜15日年表

和  暦

時間

事       項

昭和20年8月14日
12:00
10時50分より宮城御文庫地下会議室で御前会議、ポツダム宣言受諾の再度の御聖断下る。
13:00
全閣僚による閣議開催
14:00
陸軍省で陸軍首脳者会議開催
青年将校らの謀議が始まる(宮城事件始まる)
15:00
陸軍省課員以上全員を省内第一会議室に集め、御聖断の訓示
憲兵司令部で御聖断の訓示
重要書類の焼却始まる
16:00
閣議再開
近衛師団歩兵第二連隊が宮城警備のため乾門より入城(第一、第三大隊が入城、一大隊が増強されている)
17:00
終戦の詔書案検討の閣議が続く
18:00
鈴木首相、天皇に拝謁
終戦決定、承諾泌謹の陸軍方針が第一線の部隊へ通知始まる
官邸の阿南陸相を東条大将、畑元帥が訪ねる
19:00
終戦の詔書の放送が15日の12時に決まる
20:00
鈴木首相、天皇に拝謁、詔書を奉呈
21:00
ラジオが明15日正午に重大放送があるという予告放送を流す
青年将校ら近衛第二連隊長芳賀大佐を説得
22:00
閣議で終戦の詔書に副署
23:00
連合国にポツダム宣言受諾の最終回答を発信
阿南陸相、鈴木首相に暇乞い
玉音放送の録音始まる
昭和20年8月15日
00:00
録音盤、保管される
井田中佐、森近衛師団長を決起にむけて説得
01:00
青年将校らが森近衛師団長、白石中佐を殺害
近衛師団指令を偽造
東部軍(近衛師団の上部組織)に森近衛師団長殺害の情報が伝わる
02:00
青年将校ら、宮城内警備指令所に本部をおく
東部軍、憲兵司令部、一切の状況を把握
03:00
青年将校ら宮内庁で録音盤の探索を始まる
東部軍司令部で近衛師団各部隊は各別命令を受け取る(宮城占拠の即時中止命令)
04:00
上原大尉が埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校に戻る
東部軍高嶋参謀長が近衛第二連隊長芳賀大佐にニセ命令書等の状況を伝える(青年将校らは皇居から退去)
横浜警備隊長佐々木大尉の襲撃部隊が首相官邸を襲撃
近衛第一連隊第一中隊によって東京放送会館が占拠される
05:00
東部軍管区司令官田中静壱大将が近衛師団司令部に乗り込む
石原参謀、憲兵隊に逮捕される
横浜警備隊長佐々木大尉の襲撃部隊が鈴木首相私邸に放火
阿南陸相、自決
06:00
東部軍管区司令官田中静壱大将、皇居に入る
横浜警備隊長佐々木大尉の襲撃部隊が平沼枢密院議長宅に放火
07:00
警備指令所に監禁されていた17人が開放される
ラジオが正午に重大放送があるという予告放送を再度流す
08:00
近衛第二連隊が皇居より退去
09:00
塚本憲兵中佐、椎崎中佐と畑中少佐の逮捕を命じる
10:00
録音盤、東京放送会館に到着
最後の大本営発表、放送される
米軍、攻撃中止命令
11:00
枢密院本会議開かれる
椎崎中佐と畑中少佐、皇居前で自決
決起した青年将校の一人、古賀参謀が近衛師団司令部で自決
12:00
玉音放送始まる
夕刻
横浜警備隊長佐々木大尉の襲撃部隊参加の学生が警視庁に逮捕される
昭和20年8月17日
 
石原参謀、殺害される
昭和20年8月19日
02:00
上原大尉、埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校で自決
昭和20年8月25日
23:10
東部軍管区司令官田中静壱大将、自決


東部軍司令部(第一生命ビル)>
 第一生命ビルはマッカーサで有名ですが、当時は東部軍管区司令部が使っていました。屋上には対空兵器が置かれていたようです。「…それにともなって東部軍として至急処置をとらねばならず、指令が飛び、電話が鳴り、伝令が馳せて、ようやく厳然たる動きをみせはじめた。東部参謀稲留勝彦大佐(民間防空主任)が竹橋にあった防空作戦室から、東部軍司令部にかけつけたのは、午前二時十分すぎころであった。参謀長高嶋少将は、井田中佐の説得を板垣参謀にまかせると田中軍司令官室に入り、簡単に状況を報告し、現場説得のための出発はいますこし状況が明らかになるまで、お待ちいただきたいといった。状況不明のまま田中軍司令官は現場へおもむき、叛乱軍を説得鎮圧しようとの強い気構えであったのである。高嶋参謀長は司令官の同意をうると、軍参謀室に入り着任いらいはじめての陣頭指揮をとった。稲留参謀、不破参謀、板垣参謀らはその指揮のもとで黙々と任務をはたした。…」。森近衛師団長殺害情報はすぐに東部軍には伝わっていたようですから、決起すること自体が不可能とおもわれます。

左上の写真が現在の第一生命ビルです。ビルは建て直されていますが、正面玄関はそのままで、後ろ側は高層ビルになっていました。

憲隊兵司令部>
 「…高嶋参謀長は、まず東部軍憲兵隊司令部に、軍司令官出動の場合の護衛憲兵の派遣を要請、不破参謀に近衛師団司令部の状況そのほか、軍司令官現場指導の下準備の視察を命じた。ついで、近衛師団各部隊の部隊長または命令受領者の、至急直接参集を命じた。憲兵司令部の塚本中佐が事件を知ったのもこの時刻であった。森師団長殺害さるの報告をうけ、塚本中佐は真偽をたしかめるべく、伊藤憲兵大尉に師団司令部への斥候を命じ、さらに非常呼集をかけ全員警戒体制をとった。…」。憲兵隊にも叛乱の情報は伝わっていました。

右上の写真は現在の千代田区役所から撮影したものです。現在は工事中ですが少し前までは住宅が建っていたようなきがします。

東京放送会館>
 青年将校らはNHKも占拠します。「…襲われたのは首相官邸ばかりではなかった。四時半、すっかり夜も明けはなたれたころ、放送会館は叛乱軍近衛第一連隊の第一中隊の将兵によって包囲されていた。正面と内玄関の出入口をかため、外部との連絡を絶ち、宿直していた職員(生田武夫常務理事をはじめ約六十名)を第一スタジオに軟禁した。古賀参謀作成の「近衛命令」はなお生きていたのである。女子技術員保木玲子が異変に気づいたのは厳密にいえば四時ごろである。放送会館前の大通りに数十人の軍靴の音を聞いたとき、天皇放送による終戦を知っていた保木技術員は、早くもアメリカ軍が進駐してきたのかと思った。三階の宿直室の窓からおそるおそるのぞいてみた保木技術員は、それが日本兵だと知って心から安心した。しかし、それから三十分後、午前五時からの放送開始のラインテスト(放送中継線のテストと確認)のため階下の第十三スタジオの副調整室に入った保木技術員は、一人の将校と二人の兵隊を発見して愕然とした。そこは外部の人間の容易に入れるところではなかったからである。…」。占拠した部隊は放送することを要求しますが、結局何もできずに撤退します。決起するわりには準備不足です。所詮コップの中の叛乱で、陸軍全体が動かなければ革命は成功しません。鈴木内閣の面々の方が一枚も二枚も上手です。

左上の写真の右側、公会堂の前の交差点の角にあった富国生命ビルは建て直されていますが「富国生命ビル」のままてした。富国生命ビルの左隣にあったのが東京放送会館です。既にNHKは渋谷に移っており、そのあとは日比谷国際ビルに変わっています。またその隣には三井物産のビルがあったのですが、経済産業省側にある物産ビル別館を除いて、こちらも大手町に移っています。現在は日比谷セントラルビルになっています。終戦後は富国生命ビルは米軍婦人部隊宿舎になっており、放送会館には「放送、出版、映画検閲機関・WVTH」が入っていました。

皇居前>
 決起に失敗した青年将校らは、順次、自決していきます。「…宮城前二重橋と坂下門との中間芝生で二人の将校は生命を絶った。畑中少佐はうすく腹を切り森師団長を射ぬいたのと同じ拳銃で額の真申をぶちぬき、椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、さらに拳銃で頭を射って倒れた。太陽の直射で、あたりはオレンジ色に彩られている。それは戦いの終りでもあり、彼らの長い一日の終りでもあった。…」。二人が自決する同じ頃に、もう一人の決起者、古賀参謀が近衛師団司令部の森近衛師団長の遺骸の前で自決します。

右の写真は二重橋と坂下門の中間の皇居前です。二人が自決したのはこの辺りだとおもわれます。

陸軍航空士官学校跡(自衛隊入間基地)>
 最後の決起者である上原大尉は少し時間が経った19日、自決します。「…帰途、稲荷山公園駅で下草した。駅のすぐ前に、航空自衛隊入間基地の門がある。かつての航空士官学校であった。門は改装されていた。駅前のその北門の真反対側に正門があり、正門に面している本部の玄関上方に、菊花の大紋章が取り付けられていた。復員する候補生たちの多くは、武蔵野鉄道を利用した。彼らは北門の前で直立不動の姿勢をとると、すでに紋章のはずされているはるか彼方の本部建物にむかって、挙手の敬礼をしたのち、門から出て行った。…」。武蔵野鉄道は現在の西武鉄道です。航空自衛隊 入間基地の中を走っています。

左の写真は埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校跡です。現在は航空自衛隊 入間基地・修武台記念館となっていました。


<上原大尉自刃之碑>
 上原大尉が自決した所に記念碑が建てられていました。「…私は、上原重太郎が自決した場所に仔つこと を思いたっていた。勝手知った道順であるし、一人で歩いて行きたかったが、そうもいかない。航空神社跡には、航空服姿で大空に視線を結んでいる「空の神兵像」が立っていた。すこし触れたところに、松の樹にかこまれた一画がある。遥拝所跡である。昔と同じように、砂利が敷かれてあった。その砂利は、もう血に染まってはいない。一隅に、「上原大尉自刃之碑」と彫られた石碑が据えられている。加藤治など第三中隊有志の手によるものである。…」。上原大尉だけに碑があります。

右の写真が上原大尉自刃之碑です。現在は修武台記念館の前にありました。本来は東京家政大学の敷地にあったそうです(以前は自衛隊の敷地だった)。

もう一人、決起した青年将校がいます。飯尾憲士の「自決」や週刊誌に書かれた方です。別の機会に掲載したいとおもいます。

【参考文献】
・日本の一番長い日:半藤一利、文藝春秋
・日本の一番長い日:大宅壮一、文春文庫
・自決:飯尾憲士、光人社
・さらば昭和の近衛兵:絵内正久、光人社
・聖断:半藤一利、文春文庫
・横浜 60年目の夏:神奈川新聞社
・総理私邸の炎上:鈴木一、オール読物
・文藝春秋 昭和60年9月特別号:文藝春秋
・放送研究と調査 平成7年8月号:NHK日本放送出版教会

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