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最終更新日:2006年2月20日


●日本のいちばん長い日を歩く(上)
  初版2005年8月6日
  二版2005年8月14日
  三版2005年11月10日 
<V01L01> 近衛師団前の写真を追加

 今週から数回「横溝正史を歩く」をお休みして、終戦特集として「日本のいちばん長い日を歩く」を掲載します。終戦が1945年ですから、今年で戦後60年になります。なにか、遠い昔話になってきています。



<日本のいちばん長い日>
 数年前に「昭和20年8月15日を巡る」を掲載しましたが、今回は昭和20年8月14日正午から8月15日正午までの24時間を、時間を追って、内閣、東部軍、近衛連隊などの動きを詳細に歩いてみました。底本として半藤一利の「日本のいちばん長い日」を参考にさせて頂きました。”序”に大宅壮一が書いています。「今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは”平衡感覚”によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡をとり戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか。…」。大宅壮一がこの文を書いたのが昭和40年7月ですから、当時としてはものすごい感性ですね。

左の写真は1995年6月に発行された半藤一利編の「日本の一番長い日」文藝春秋版です。「日本の一番長い日」というと大宅壮一編が有名ですが、元々は半藤一利が文藝春秋社員の時に書いたものでした。「ちょうど三十年前のいまごろ、毎朝四時に起きて原稿用紙をしこしことうめた。当時は月刊誌「文蓼春秋」編集部次長の職にあったから、社務はかなりきびしかった。…… わたくしはこの本をそのようにして一九六五年の夏に書きあげた。当時はいろいろな事情から、大宅壮一編と当代一のジャーナリストの名を冠して刊行された。そのお蔭もあり、翌年に東宝の映画化もあり、多くの人によく読まれた。こんど決定版として再刊行するにさいし、社を退いてもの書きとして一本立した記念にと、亡き大宅先生の夫人大宅昌さんのお許しに甘えて、わたくし名儀に戻させていただいた。長いこと別れていた子供に「俺が親父なんだ」と名乗ったような酸っぱい気分を味わっている。…」。本などというものは、本当に書いた人は誰だか分かりませんね!!

<孤忠留魂之碑>
 東京港区御成門の近くにある慈恵医大から神谷町に抜けるトンネルの左側に青松寺という曹洞宗のお寺があります。このお寺の中に「国體護持 孤忠留魂之碑」という宮城事件(この呼び方が正しい?)で自決された四名(椎崎中佐、畑中少佐、古賀少佐、上原大尉)の碑があります。「大東亜戦争終結に際し護るべからざる講和条件即ち国體護持の確認こそ日本国民の果すべき責務なりと上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し大事去る従容自決す これ宮城事件なり その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく仰いで茲にこれを継述せんものとするものなり」、と書かれていました。

左の写真が「国體護持 孤忠留魂之碑」です。当初とは場所を移されているようです。隣には一人になった爆弾三勇士の碑がありました。後の二人は何処に行ったのでしょうか。

千代田区地図


昭和20年8月14日〜15日年表

和  暦

時間

事       項

昭和20年8月14日
12:00
10時50分より宮城御文庫地下会議室で御前会議、ポツダム宣言受諾の再度の御聖断下る。
13:00
全閣僚による閣議開催
14:00
陸軍省で陸軍首脳者会議開催
青年将校らの謀議が始まる(宮城事件始まる)
15:00
陸軍省課員以上全員を省内第一会議室に集め、御聖断の訓示
憲兵司令部で御聖断の訓示
重要書類の焼却始まる
16:00
閣議再開
近衛師団歩兵第二連隊が宮城警備のため乾門より入城(第一、第三大隊が入城、一大隊が増強されている)
17:00
終戦の詔書案検討の閣議が続く
18:00
鈴木首相、天皇に拝謁
終戦決定、承諾泌謹の陸軍方針が第一線の部隊へ通知始まる
官邸の阿南陸相を東条大将、畑元帥が訪ねる
19:00
終戦の詔書の放送が15日の12時に決まる
20:00
鈴木首相、天皇に拝謁、詔書を奉呈
21:00
ラジオが明15日正午に重大放送があるという予告放送を流す
22:00
閣議で終戦の詔書に副署
23:00
阿南陸相、鈴木首相に暇乞い
玉音放送の録音始まる
昭和20年8月15日
00:00
録音盤、保管される
井田中佐、森近衛師団長を決起にむけて説得
01:00
青年将校らが森近衛師団長、白石中佐を殺害
近衛師団指令を偽造
東部軍(近衛師団の上部組織)に森近衛師団長殺害の情報が伝わる
02:00
青年将校ら、宮城内警備指令所に本部をおく
東部軍、憲兵司令部、一切の状況を把握
03:00
来週に続く


鈴木首相と首相官邸>
 鈴木内閣は小磯内閣の後をうけて昭和20年4月7日、発足します。「…四月五日、小磯内閣が総辞職した。……後継首相の大命は予定通り鈴木貫太郎枢密院議長の降下し、七日に鈴木内閣が発足した。「総理と木戸の意見がまとまり、陛下の御決心が決まれば、たとえ陸軍に反対があっても押し切れる」(高木覚書)…」。東條内閣が総辞職した後の昭和19年9月頃から終戦に向けて少しずつ進みはじめます。鈴木内閣が終戦に対する総仕上げの内閣になるわけです。ドイツが無条件降伏した5月8日にトールマン大統領は日本に向けてメッセージを発信します。「日本の陸海軍が無条件降伏により武器を捨てるまでわれわれの攻撃はいつまでも続く。……無条件降伏は日本国民の絶滅を意味するものではない…」、と無条件降伏は日本軍に限定していることを表明します。ここから国体は護持できると確信したのではないかとおもいます。

左上の写真が旧首相官邸です(警察官が警備していましたが頼んだところ、快く写真を撮らしてくれました)。つい先頃まで日本の将来を何度か決めることになる決定を下した首相官邸です。寄る年波には勝てず、現在は新しい官邸に移っています。昭和20年8月15日未明に佐々木大尉の部隊に襲われ、火をつけられますが大事には至りませんでした。この建物は昭和3年(1928)大蔵省営繕管財局設計で清水組(現在の清水建設)が施行しています。3階建てで延床面積5046平方メートル、建物の特徴を見ると水平線が強調されている事やスクラッチタイルがライトの設計に似ていますが、ライトの設計ではありません。室内の広間や大食堂等の美しさは、アール・デコ風ですね!(新首相官邸ができるまでは、インターネットで旧首相官邸のパーチャルツアーがあったのですが、今は無くなっています)

阿南陸相と陸軍省>
 陸軍省は三宅坂の坂の上にありました。戦後、国会議事堂前の道が整備されて新しい道ができたため、陸軍省跡は跡形もなくなってしまいました。下記の昭和3年の千代田区の地図には正確に記載されています。昭和10年代の地図になると、軍事機密とかで、記載が無くなってしまいました。桜田門の手前から参謀本部、陸軍省、議事堂寄りに陸相官邸があったようです。「…「沖縄の救援に無謀な単独出動を敢行して戦艦大和が撃沈され海上戦は絶望となった。然しビルマ作戦に呼応する雲南作戦に一連の望をかけて、梅津参謀総長に意見を訊いたがそのやうな作戦は実施不可能とのことであったから、それで無条件降伏も亦 己むを得ないと決心した」(松平文書) 大和沈没は四月七日、ラングーン陥落は五月三日である。ここまで来ればあとは本土決戦を叫んでいる陸軍を説得するだけである。松平は総理秘書官の松谷誠大佐と相談して、松谷大佐から鈴木首相に、「阿南陸相を動かし、梅津を包囲すれば乗ると信ず」と提案したら、首相も一賛成した。松谷大佐は早速行動を開始する。松谷は総理秘書官になっても、そのまま陸相官舎の隣の陸相秘書官官舎に住んでおり、阿南陸相は就任当初から松谷に、「終戦に関しその意図のあることを……洩らしていた」という。ただし、「国体護持と陸軍中央の中堅組をいかに統制」するかという点では本土決戦にも執心している。…」。4月の組閣人事での阿南陸相の任命は終戦に向けた第一歩だったとおもいます。若手将校らの決起に乗らなかった東部軍管区司令官の田中静壱大将(昭和20年3月就任)、森赳近衛師団長(昭和20年4月就任)なども良くできた人事ではなかったのではないでしょうか。大きく動かそうとすると、それなりの時間がかかります。

右上の写真は三宅坂交差点から現在の憲政記念館方面を写したものです。写ってはいませんが、右側に社会党会館があります。陸軍省へは社会党会館の所から坂を上がる入り口があったようです。古い参謀本部と、陸軍省の写真を見てください。

海軍省跡>
 海軍省は現在の農林水産省の所にありました。建物は変わっていますが、場所的には変わっておりません。海相官邸は通りに面した海軍省の隣にありました。「…五月二十四日未明、東京はまたもB29五百六十二機の大空襲を受け、翌二十五日夜にも五百機が来襲、永田町、霞が関はじめ「山の手方面一円殆んど全滅」の被害を受けた。三宅坂の参謀本部も焼け、折からの烈風にあおられて火焔がお濠を越えて皇居内に降り注ぎ、正殿を含む六千坪余の宮殿のほとんどが焼失した。…… ちょうどこの日、モスクワではスターリン首相がトルーマン大統領の使者と会見していた。「ソ連軍は恐らく八月八日までに、満州国境の諸要点に配置されるだろう。……(「トルーマン回想録」)…」。鈴木内閣は藁をも掴む思いでソ連に和平工作を頼もうとします。ソ連は参戦出来る8月まで引き延ばしをはかるわけです。

左上の写真が現在の農林水産省です。外務省の前といった方がよく分かるかもしれません。海軍省の写真を掲載しておきます。写真の通りは桜田通りです。

<昭和3年の霞が関地図>


北白川宮能久親王銅像と近衛師団前>
 三版2005年11月10日追加
 当時の写真を探したのですがなかなか見つからず、絵はがきで近衛師団前が映っているのを手に入れましたので掲載します。撮影日時は昭和初期だとおもわれます。

左の写真は乾門前から近衛師団方面をを撮影したもののようです。遠目に時計台がみえます。北白川宮能久親王銅像は、明治36年に建立され、昭和38年現在位置に移設されていいます。


近衛師団司令部跡> 2005年8月14日 近衛師団司令部を追加
 昭和20年8月15日未明に宮城事件の発端である森近衛師団長殺害事件が起こります。「…事件はあっという間であった。結末は素早く、残酷に、避けられないものとしてやってきた。三人の将校が参謀長室に入り、畑中少佐が一言か二言会話をかわしたと思う、つぎの瞬間に、少佐の合図をうけたかのように、上原、窪田が抜刀した。師団長めがけて畑中のピストルが火を噴き、剣道五段の上原が師団長をけさがけに斬り倒し、さらに畑中少佐に組みついた白石中佐の首筋を上原がうしろから斬り、窪田少佐がとどめを刺したという。井田中佐は師団長室に一発の銃声が轟然と鳴るのを耳にした。床をふむ靴音の乱れ、うなるような悲鳴。井田中佐は一瞬全身を凍らせた。参謀長室を飛出した。水谷参謀長も後につづいた。二人が隣りの師団長室にふみこまぬさきに、なかから畑中少佐が蒼白な顔をして歩みでてきた。…」。私が説明することもないとおもいますが、この青年将校らの決起が成功しなかったのは、森近衛師団長を殺害したからだとおもわれます。もっとも、終戦を目指した陸軍内部の人事はすでに出来ていたわけですから、どちらにしても難しかったとおもいます。

左の写真は近衛師団司令部跡です。近衛師団で唯一残った建物です。この建物の左端の二階が師団長室なのですが、事件は左端一階の部屋で起こっています。

近衛第一連隊跡>
 此方も全く跡形もありません。記念碑が残っているのみです。昭和30年代の地図には警察学校として建物が残っていましたが、いつのまにか取り壊されて池のある公園になっていました。近衛師団の乾門側入り口には北白川宮の銅像がたっていたのですが、現在は数十メートル横に写されています。

右の写真は近衛第一連隊跡の記念碑です。日本武道館の前のレストランの裏側にあります。

近衛第二連隊跡>
 第一連隊と同じような状況です。少し此方の方が立派かな、というくらいです。なにか、寂しいかぎりです。昭和20年8月14日、第二連隊旗を掲げて、第一大隊、第三大隊が乾門から宮城警備と称して

左の写真は近衛第二連隊跡の記念碑です。第一連隊記念碑を乾門側に少し歩いた所にあります。

次週は宮城事件を歩きます。

<昭和3年の近衛連隊地図>

【参考文献】
・日本の一番長い日:半藤一利、文藝春秋
・日本の一番長い日:大宅壮一、文春文庫
・自決:飯尾憲士、光人社
・さらば昭和の近衛兵:絵内正久、光人社
・聖断:半藤一利、文春文庫
・横浜 60年目の夏:神奈川新聞社
・総理私邸の炎上:鈴木一、オール読物
・文藝春秋 昭和60年9月特別号:文藝春秋
・放送研究と調査 平成7年8月号:NHK日本放送出版教会

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