kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月20日

showa-title5.gif


●昭和20年8月15日を巡る  2001年8月4日 V02L06
  ・米内海軍大臣のお墓の写真を追加<03/05/18>

 8月15日が近づいてきましたので、今回は”昭和を歩く”の第二弾として、終戦の日、昭和20年8月15日を巡ってみたいと思います。大佛次郎の敗戦日記(8月15日)には「床に入りてやはり睡れぬなり。未曾有の革命的事件たるのみならず、この屈辱に多血の日本人殊に軍人中の一途の少壮が耐え得るや否やを思う。大部分の者が専門の軍人も含めて戦争の大局を知らず、自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて、まだ勝てると信じおるならば一層事は困難なるらし。特に敵が上陸し来たり軍事施設を接収する場合は如何?」とあります。実際はどうだったのでしょう。

 戦前最後の内閣は、あの2.26事件で襲撃された鈴木貫太郎侍従長官が総理大臣になり、4月7日に発足しています。ドイツも5月7日に降伏し鈴木内閣は終戦に向けたバドリオ内閣(ムッソリーニ失脚後のイタリアの終戦処理内閣)と一般には思われていましたが、一億総玉砕を叫ぶ陸軍の抵抗も大きく、素直に終戦に向かうには、ほど遠い状況が続いていました。7月26日連合国は”ポツダム宣言”を発表、鈴木内閣はこれを黙殺しますが、終戦に向けた条件がそろそろ揃いつつありました。8月に入ると6日広島、9日長崎に相次いで原爆が投下されます。その間の8日にはソ連が対日宣戦布告を行います。これで徹底抗戦一本槍だった陸軍の内部に動揺が起こります。鈴木首相、米内海軍大臣、東郷外務大臣はこの期を捉えて一 気に終戦に導いていくわけです。今回は終戦への経過をお話しするのではなく、8月15日前後の鈴木総理を始めとした主要閣僚の動きを追ってみたいと思います。

【終戦時の内閣の構成】

内閣総理大臣 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内 光政
司法大臣 松阪 広政
陸軍大臣 阿南 惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田 忠彦
国務大臣 桜井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村  宏
大蔵大臣 広瀬 豊作
文部大臣 太田 耕三
農商務大臣 石黒 忠篤
内務大臣 安倍 源基
外務大臣兼
大東亜大臣
東郷 茂徳
国務大臣 安井 藤治
運輸大臣 小日山直登
内閣書記官長 迫水 久常

<鈴木貫太郎総理大臣>
 終戦勅書が内閣に回付され、各大臣が副署し手続きが終わったのが昭和20年8月14日午後11時でした(これが正式の終戦日時です)。このあと鈴木総理は阿南陸軍大臣と会われた後、文京区丸山町の私邸に戻られます。その後、15日午前4時30分頃、首相官邸は徹底抗戦を叫ぶ佐々木大尉率いる20数名の部隊に襲われますが官邸に首相が不在だと知ると丸山町の私邸へ向かいます。首相官邸から北原が駆けつけ急を知らせます。「『…同車したものは、父総理と母と秘書宮の私に、同じく秘書宮であった従兄の武君(首相実弟鈴木孝夫陸軍大将の子息=北原注)と唐沢運転手の隣りには警衛の警視庁の坪井さん、それに急を聞いて駈けつけた北原さんの七名であった。総理の自動車は電車通りから小路に入ったまま駐車してあったのであるが、いざ乗ってみると中々エンジンがかからない。…そこ迄襲撃部隊が来ていると思うと、気が気でない。警備の警察官十人程で単の後押しをやってくれたが、後刻色々計算してみると、実はこの頃、兵隊と学生を乗せた佐々木大尉の率いるトラック二台は、既に電車通りを走ってきていたらしい。一隊は、小さい総理私邸の前を通り越して、坂上の千葉三郎氏の大さな邸宅を目指して進み、ここで尋ねて逆もどりしたのであった。その頃総理の自動車は、同じ電車通りを反対方向に、一目散に本郷西片町の叔母の家にと走っていたのである。まことに運命のすれ違いというか、危機一髪の瞬間であった…』…そのあと、彼等は私邸に火を放った。 」は鈴木首相の長男鈴木一氏が「総理私邸の炎上」(オール読物、昭和44年)に書かれているものです。首相官邸から私邸に向かう北原氏と、襲撃隊とのカーチェイス(最も、余り早い車での競争ではないのですが)、私邸からの危機一髪の脱出、テレビや映画で見るスパイ劇そのものですね、昭和20年8月15日の明け方は、まさに危機一髪で始まりました。鈴木総理は2.26事件で襲われ、これが二度目となりました。

左の写真が旧鈴木総理私邸です(現在の文京区千石3丁目で前の通りは不忍通りです)。表札は鈴木一となっていますので鈴木総理の長男の鈴木一さんが住まわれていると思います。玄関も当時と同じで、大通りから少し入った所にあり、雰囲気は当時そのままです。鈴木首相は終戦後は生まれ故郷の千葉県関宿に住み、その自宅が鈴木貫太郎記念館となっています。
 
<阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣>
 「阿南惟幾伝」によると8月14日は「十四日午後の閣議の合間を縫って、阿南は陸軍省に戻り、梅津参謀総長、土肥原教育総監、杉山、畑両元帥の参集を求め、陸軍最高首脳部の意志表示として、「陸軍は飽くまで聖断に従って行動す」と議決署名し、午後六時には、阿南、梅津の連名によって、「聖断既に下る。この上は承詔必謹、全軍一兵に至るまで軽挙妄動を許さない」旨の告諭を発した。… 詔勅に署名をすませ、大臣としてのつとめを終った阿南は、東郷に対して折目正しく別れの挨拶をし、総理の部屋を訪ねて鈴木にも丁寧な挨拶をすませ、夜十一時半すぎ、三宅坂の陸相官邸に帰った。自室に入った阿南は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と墨書して遺書とした。夜半すぎ来訪した義弟の竹下正彦中佐と二時間余り酒を酌み交したのち、緑に出て阿南は皇居に向って割腹自刃した。」とあり、終戦の全ての処理を行った後、有名な「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の言葉を残して自決されます。終戦に最後まで反対した阿南陸軍大臣ですが、迫水久常の「機関銃下の首相官邸」では「もし阿南陸相が本心からの抗戦論着であれば、ここで内閣を総辞職に追い込み、次に軍事内閣を作ることを考えたであろう。このあたり阿南陸相の心事を示すところである。」とあり、本心で徹底抗戦をやろうとは思っていなかったと思われます(いろいろな説がありますが)。うまく陸軍全体をまとめながら終戦に持っていくには、最後に自決された阿南陸軍大臣のやり方以外にはなかったのでないでしょうか。それでも14日以降は散発的に反乱が起きましたが、これで陸軍全体としては終戦に向かうことができたのだと思います。靖国神社遊就館に阿南惟幾陸軍大臣自決時の軍服が展示されています。阿南陸軍大臣のお墓は多磨霊園にあります。

右の写真右側に旧阿南陸軍大臣私邸があります(現在も表札が”阿南”となっていますので、現在はご子息が住まわれているようです)。この写真を見て、見た事があると思われた方がいらっしゃると思います。この道は三鷹の”平和通り”で、”太宰治”の三鷹の旧居から僅か数十mしか離れていません(太宰の旧居はこの先の左側です)。戦前に、この二人はこの平和通りで合ったのでしょうか、それともすれ違っだけだったのでしょうか、全く分野の違う二人が声を交わしていたらどんな会話になっていたのでしょうか、余りに近いので二人はお互いの名前は知っていたはずです、考えただけでもわくわくしますね(何処かの本に書いてあったようなきがするのですが)。

<米内光政(よないみつまさ)海軍大臣>
 阿川弘之の「米内光政」から、8月15日前後の状況を読むと『米内はこの時も十日の御前会議の時も、ほとんど発言しなかった。のち、小泉信三に、「もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした」と語っているが、それが米内の流儀らしかった。…(15日正午)晴れた暑い日であった。自動車も動かず工場も操業していないので、空が青くよく澄んでいた。放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田軍令部総長に、「よかった」と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方に帰って行った』とあり、米内海軍大臣は結構あっけらかんとしています。鈴木貫太郎内閣は終戦を持って総辞職し、終戦処理の東久邇宮内閣が発足しますが、米内は引き続いて海軍大臣を勤めます。10月5日、その東久邇宮内閣も総辞職し幣原内閣が発足します。ここでも米内は米軍からの要請もあり引き続いて海軍大臣を勤めます。しかしながら11月30日海軍省は廃止されます。

左の写真は昭和23年4月20日、米内光政が亡くなられた目黒区富士見台1545付近です(現、目黒区南3丁目)。目の前が環状七号線で、道路の拡張により町並みが変わってしまっています。米内光政は戦災のため、私邸を麹町三年町(現在の永田町1-4-1の岩手県東京事務所)、芝白金三光町と移ってきており、ここ目黒区富士見台が終焉の地となりました。生れ故郷、盛岡市の盛岡市先人記念館に米内光政記念室がありますので近くまで行かれた折りは見学されたらいいと思います。米内海軍大臣のお墓は盛岡市円光寺にあります。
 
<迫水久常(さこみずひさつね)内閣書記官長>
 昭和11年の2.2 6事件当時、総理大臣で九死に一生をえた岡田大将の娘婿で、岡田大将は昭和20年4月に成立した鈴木貫太郎海軍大将の内閣に、書記官長(現在の官房長官)として迫水久常を送り出し、終戦工作推進のための支援を行うなど内閣を支えていました。迫水久常の「機関銃下の首相官邸」では『ふと、銀座の電柱に大きな張紙がしてあって、「日本のバドリオを殺せ 。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ」と書いてあるのを見てよい気持はしなかった。しかし、私には住むべき家がない。家内は、中風で身体の不自由な私の老母を擁して、 五人の子供とともに新潟県新発田の在に疎開していた。一先ず、世田谷の岡田啓介大将の家に行った。鈴木内閣成立後、私はほとんど毎夜、ここで岳父に会って、指導を受けた。終戦工作の大部分は、岡田大将の指導によったものといっても過言ではない。』と言っています。終戦勅書の案を作ったのは迫水久常内閣書記官長で、終戦に関する実務作業は全て彼が行ったと思います。

右の写真は世田谷区若林の迫水邸です。迫水久常は岡田大将(2.26事件当時の総理大臣)の娘婿で岡田大将と共に戦前からここに住まわれていたようです。交通量の多い環状七号線に面しています。

【参考文献】
・機関銃下の首相官邸:恒文社、迫水久常
・昭和史の謎を追う(下):文春文庫、秦郁彦
・米内光政:光人社、実松譲
・米内光政:新潮文庫、阿川弘之
・鈴木貫太郎自伝:日本図書センター、鈴木貫太郎
・阿南惟幾伝:講談社、沖修二
・敗戦日記:草思社、大佛次郎

【住所紹介】
・鈴木貫太郎記念館:千葉県東葛飾郡関宿町関宿1273 ?Z0471-96-0102
・盛岡市先人記念館:盛岡市本宮字蛇屋敷2-2 ?Z019-859-3338

その他は今回は個人の方が多い為、地図及び住所は控えさせて頂きます。


●昭和20年8月15日を巡る(続)  2001年8月11日 V01L03
 ”昭和20年8月15日を巡る”は一回で終わる予定だったのですが、”続編”として、もう少し紹介したいと思います。この回を持ちまして戦前のお話は終わりにしたいと思います(紹介は種々雑多ですのでごめんなさい)。次回から少し明るい話題にしたいと考えています。

 山田風太郎の「戦中派 不戦日記」の8月15日には「15日 炎天 〇帝国ツイニ敵ニ屈ス」とのみ書いています。その前後の日の日記にはいろいろ書いていますので相当ショックが大きかったのだと思います。

 近衛文麿、木戸内大臣を紹介するに当たり、宮中の役職について説明します。宮中には内閣とは異なる内大臣職がおかれており、太政官制が内閣制度に改められたのとほぼ同時に創設されています。元太政大臣・三条實美を任命するための名誉職的な官職でしたが、その任務は天皇を常時輔弼すべきことがさだめられていました

【終戦時の宮中】

 
 内大臣 木戸幸一
宮内大臣 石渡荘太郎(昭和初期の大蔵官僚・政治家)
侍従長 藤田尚徳(海軍大将)
侍従武官長 蓮沼 審(陸軍大将)

<近衛文麿>
 近衛文麿は五摂家筆頭の近衛篤麿の長男で京都帝国大学卒(一高から東京帝大文科に進むが、京都帝大の法科に移つる)の エリート公家です。若くして政治に参加し、貴族院を中心に革新を唱えて活動し、昭和5年内閣府秘書官庁、昭和6年(1931)貴族院副議長、昭和8年(1933)同議長になり、昭和12年(1937)6月には軍部を中心とする勢力に担がれて首相に就任してます(支那事変に突入)。その後、昭和15年、第二次近衛内閣では松岡外相の独断専行に悩んで総辞職、第三次近衛内閣を組閣したが東條陸軍大臣に押し切られ、また総辞職、東條内閣が誕生するきっかけを作っています。藤田侍従長が書かれた「侍従長の回想」では近衛秀麿のことを「むしろ、この近衛公の弱気をこそ、陛下は常に御指摘になっていたようで、この点に鈴木貫太郎、米内光政両氏との御信頼の差があったようだ。高松宮も細川護貞氏(娘婿)らに、初めはよいが中途から投げ出す近衛公の弱気を御注意になったという記録があるほどだ。」 と言っています。昭和20年に入ると終戦に向けて精力的に動きます。終戦直前のソ連への仲介工作、終戦後の新憲法草案(GHQに止められた)等を行いますが、結局GHQに戦犯として指定され、出頭の直前に自決します。

左の写真が近衛文麿私邸です。現在も門柱に”近衛”とありますのですぐにわかります。「杉並風土記」によると「昭和十二年に公爵近衛文麿氏が、現在の荻窪二丁目四十三番にある入沢達吉博士邸を買い求められ、元老西園寺公望より荻外荘と名付けていただきました。荻外荘は南斜面の高台にあって、善福寺川河谷を一望に収め、はるかに富士の霊峰を眺める景勝地にあり、大正天皇の侍医であった入沢博士が、大正初年に地主中田村右衛門氏より、松林一町歩を反あたり七00円で買い求めて建てた別荘でした。」と書かれています。
 
height="187"木戸幸一内大臣
 「明治の元勲」木戸家の当主孝正の子として東京に生まれ、学習院から京都帝大に進み、近衛文麿と親しくなります。内大臣( 内大臣とは宮中に設けられた内大臣府の長で天皇の秘書官)はキャビネット・メーカーとして絶大な権力を持っており、第三次近衛内閣の後の東條英機内閣を誕生させたのも 木戸 内大臣です(内大臣府は内大臣秘書官長と他五、六人で構成されていたようです)。東條内閣後も木戸内大臣は小磯、鈴木の各内閣誕生を強力に押し進め、終戦後も、東久邇宮、幣原内閣の誕生させましたが、終戦後、GHQによって戦犯指定を受け、20年11月に内大臣府は解体されます。東京裁判に証拠として提出された「木戸幸一日記」を読んだあとで、コメントを追加したいと思います。

右の写真は旧木戸内大臣宅です。有栖川宮記念公園の近くで、表札が”木戸”となっていますので、ご家族の方がお住まいと思われます。

<近衛師団司令部>
 近衛師団司令部は明治43年(1910)陸軍技師田村鎮の設計により建設,明治時代の洋風建築物として代表的なもので、数少ない関東大震災と空襲による戦災にも免れた建物です。戦後は荒廃して放置されたままでしたが、昭和47年(1972)に文化庁が重要文化財に指定して保存するとともに、東京国立近代美術館工芸館として昭和52年(1977)に開館しました。この建物が有名になったのは昭和20年8月14日夜、陸軍省軍務局の畑中少佐、椎崎中佐他が終戦を阻止するため、近衛師団長森越中将を殺害して偽命令により近衛師団を出動させます。8月15日未明、皇居を占拠するとともに、詔書の録音レコードを奪おうとしましたが録音レコードを発見できず、東部軍司令官田中静壱大将が自ら皇居に乗り込みこれを鎮圧、畑中少佐らは自決しています。

左の写真が旧近衛師団司令部です。外観は当時そのままで、近衛師団長森赳中将が殺害されたのは、この建物の一階左側の師団長室だったそうです。現在の内部は東京国立近代美術館工芸館となっていますので、昔の面影は全くありません。
 
<東條英機>
 東京生まれの軍人、父はやはり軍人(東條英教)でしたが、さほど昇進することがなく中将を最後に陸軍を退いています。本人は城北尋常中学から陸軍幼年学校に進み、陸軍士官学校を経て陸軍大学校に入学、”カミソリ”とあだ名されるほど頭がキレたそうです。日米開戦時の総理大臣で陸軍では統制派に属し、最後まで徹底抗戦を叫んでいました。戦後はGHQに戦犯指定を受け、召喚の日に自殺を図りますが、死に切れず東京裁判で死刑を求刑され、昭和23年12月巣鴨プリズンで処刑されています。最後の遺書は

『   遺書       東條英機
 開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て償えるものではない。…』


とあります。(遺書の続きは本を読んで下さい、なかなか読み応えがありますよ)

右の写真は世田谷区用賀の旧東條英機宅(自殺を図った)の記念碑です。世田谷区用賀一丁目の交差点近くの住宅街の中にひっそりと記念碑が建てられています。良くみないと気がつかないほどの小さな記念碑です。

終戦関連地図

【参考文献】
・機関銃下の首相官邸:恒文社、迫水久常
・昭和史の謎を追う(下):文春文庫、秦郁彦
・米内光政:光人社、実松譲
・米内光政:新潮文庫、阿川弘之
・鈴木貫太郎自伝:日本図書センター、鈴木貫太郎
・阿南惟幾伝:講談社、沖修二
・侍従長の回想:中公文庫、藤田尚徳
・祖父東条英機「一切語るなかれ」:文春文庫、東条由布子


 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール