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最終更新日:2006年2月22日

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●2.26事件を巡る(上)
 
初版2001年7月14日 三版2005年5月8日 <V01L01> 鈴木侍従長官邸跡の場所を特定
  8月15日の終戦記念日が近づいてきましたので、「昭和を歩く」と題して、戦争へ至った道を少し歩いてみたいと思います。第一回は昭和11年2月26日に起こった「2.26事件」を取り上げてみます。雪の降る2月に起こった陸軍を中心とした反乱ですが、真夏に取り上げますのですこし時期がアンマッチで臨場感が出ないですがお許しください。

<2.26事件>
 昭和11年2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍の一部決起将校が近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊の1,483名の将兵を使いク−デタ−を起こします。ク−デタ−は、午 前5時に一斉に開始され、総理官邸、赤坂の高橋是清蔵相私邸、四谷の斎藤実内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠します。決起将校は、政治/軍の中枢である霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫ります。しかしながらクーデター開始から2日後の28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれます。事件後軍法会議が特設され、首謀者17名は死刑、69名が有罪となっています。昭和初期は、第一次世界大戦後の世界恐慌の煽りで日本はかってない不況であり、経済改革の為の政党政治が十分に機能せず、この2.26事件の前にも昭和7年2月:血盟団事件、5月:5.15事件と次々に政治改革を叫ぶ右翼テロが起こっており、これを境に軍部主導の政治へと邁進していきます。暗い時代への始まりです。
 
226-1w.jpg 「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔この間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁を襲び同時に朝日新聞社日〜新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ。」と永井荷風の断腸亭日乗の昭和11年2月26日に書かれています。文の途中「〔この間約四字抹消。以下行間補〕」と書かれていますが、これは元々は具体的に「麻布連隊」と書かれていたのではないかと思いますが、憲兵に踏み込まれた時に問題になるのではないかと思い削除したと思います。

<竜土軒>
 2.26事件の決起将校達が事前謀議した所が第一師団歩兵第一連隊への道の途中にあった佛蘭西料理店の「竜土軒」(写真の右側あたりです)です。憲兵もこの洋食屋に出入りしている将校を監視していたそうです。現在のお店は港区西麻布に移っており、店のパンフレットによれば国木田独歩、田山花袋、島崎藤村等の文人が集まっていたお店だそうです。当時の人たちの寄せ書きをレイアウトしたものをランチョンマットにしていますので文人の名前を探してみて下さい。このお店が有った竜土町を有名にしたのは 江戸川乱歩の明智小五郎が探偵事務所を開いていたからで、「吸血鬼」の事件の後、開化アパートの独身住いを引払って、麻布区竜土町に女助手の文代さんと、探偵事務所を兼ねた新婚家庭を構えています。

左上の写真が西麻布交差点近くに移った現在の「竜土軒」です。写真の左側が竜土軒で右側はお寿司屋さんです。
 
226-2w.jpg<第一師団歩兵第三連隊>
 決起部隊隊の行動が始まった時間については、松本清張の「昭和史発掘」によると『歩兵第一連隊の栗原安秀中尉が機関銃隊の兵約三百名に非常呼集を行ったのは、二十六日午前三時三十分ごろであった。…丹生誠忠中尉は栗原の機関銃隊より三十分早く第十一中隊の兵全員に非常呼集をかけた。丹生は中隊長代理である。 ・・・歩兵第三連隊では安藤輝三大尉が、「私ノ中隊及機関銃隊四ケ分隊、機関銃四門、計二百四名ヲ指揮シ午前三時三十分二連隊ヲ出発」(安藤調書)した。安藤の第六中隊の非常呼集は午前零時、舎前整列は三時ごろである。…近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉は、「二十六日午前四時二十分非常呼集ヲ以テ近歩三ノ七中隊全員二集合ヲ命ジ」(中橋調書)ている。』とあり、零時ころから行動を起こしています。当時の陸軍では夜間の指揮系統は当日の週番指令が握っており、この決起部隊の当日の週番指令は全て決起将校でした。

右の写真が旧第一師団歩兵第三連隊兵舎(現東京大学生産技術研究所)です。港区は、六本木、赤坂、青山地区を中心にして第一師団司令部、陸軍大学校、近衛師団歩兵第三連隊等の旧陸軍施設が集中した地域でした。特に六本木地区には、第一師団歩兵第一連隊と歩兵第三連隊とが外苑東通りを挟んであり、その跡地は防衛庁(今は市ヶ谷へ移転済み)と東京大学生産技術研究所となり、建物もそのままで六本木の軍事的な雰囲気を今に残しています(防衛庁は取壊し中であり、東京大学生産技術研究所は取壊し予定です)。第一師団司令部は今は公園とビルになり、近衛歩兵第三連隊兵舎跡は現在TBSになっており、昔の面影は全くありません。(旧歩兵第三連隊兵舎は、玄関左脇の部分のみが壊されずに保存されることになっているそうです) 。

226-5w.jpg<旧首相官邸>
 「著者は当時十九歳、海軍経理学校の生徒であつた。二月二十六日の雪の朝、築地の経理学校では、いつも通りの課業が行はれてゐた。午後になつて、財政学の講義中、岡田貞寛(おかださだひろ)生徒は教官から突然の、異例の呼び出しを受け、「貴様のお父さんが、陸軍の部隊に襲撃されて亡くなられた。すぐ仕度をして家に帰れ」と告げられる。これが此の物語の発端である。」は岡田啓介首相の二男、当時海軍経理学校三年生の岡田貞寛が書いている「父と私の二・二六事件」の書き出しです。実際の首相官邸の襲撃は「昭和十一年(1938)二月二十六日、帝都を震撼させた運命の朝、首相官邸を襲撃したのは、歩兵第一連隊機関銃隊付栗原安秀歩兵中尉の指揮する機関銃隊約三百名の部隊である。栗原中尉と行をともにした将校は、豊橋陸軍教導学校付封馬勝雄歩兵中尉と、歩兵第一連隊第一中隊付林八郎歩兵少尉、同じく池田俊彦歩兵少尉の三名である。…栗原隊が首相官邸前に到着したのは、午前五時少し前だった。」このあと首相官邸内に乱入した襲撃部隊は巡査四人を殺害し岡田首相と間違えて松尾陸軍大佐(岡田首相の義弟)をも殺害します。このあと岡田首相は難を逃れ、迫水、福田秘書官と小坂、青柳、小倉の三憲兵により救出されます。

左の写真か旧首相官邸です(警察官が警備していましたが頼んだところ、快く写真を撮らしてくれました)。この建物は昭和3年(1928)大蔵省営繕管財局設計で清水組(現在の清水建設)が施行しています。3階建てで延床面積5046?u、建物の特徴を見ると水平線が強調されている事やスクラッチタイルがライトの設計に似ていますが、ライトの設計ではありません。室内の広間や大食堂等の美しさは、アール・デコ風ですね!(新首相官邸ができるまでは、インターネットで旧首相官邸のパーチャルツアーがあったのですが、今は無くなっています)
 
226-7w.jpg<警視庁>
 「警視庁占拠を担当する歩三野中四郎(第七中隊長)の部隊は二十六日午前零時に非常呼集を行った。野中部隊は途中まで栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)の後尾につくので、合流時刻の打合せに安藤が常盤を栗原のもとに遣ったのである。こうして野中部隊は歩一の裏門に午前四時半に到着するように歩三を出発した。歩一と歩三の間は歩いて五分くらいである。溜弛までは歩一の栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)、丹生部隊(陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸襲撃部隊)、歩三の野中部隊の順で縦列行進だったが、そこから栗原部隊は永田町の首相官邸へ、丹生部隊は陸相官邸へ、野中部隊は外桜田町の警視庁へと分れた。野中部隊の下士官兵は約五百名。警視庁を占拠し、かつ、警視庁特別警備隊を撃退するのが目的だ。」は松本清張の「昭和史発掘」からです。警視庁が占拠されている間、神田錦町署に臨時警視庁をおいています。

右の写真が現在の警視庁です。警視庁の建物は関東大震災前は日比谷交差点にありましたが、震災後の昭和6年に現在の桜田門に移っています。

これから襲撃現場を順次紹介していきます。次回は陸軍省、鈴木侍従長官邸、高橋大蔵大臣私邸、斎藤内大臣私邸の予定です。次々回は渡辺教育総監私邸、牧野元内府他の予定です。

六本木周辺地図
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霞が関、三宅坂周辺地図

【参考文献】
・昭和史発掘:文春文庫、松本清張
・父と私の二・二六事件:光人社NF文庫、岡田貞寛
・二・二六暗殺の目撃者:恒文社、有馬頼義

【住所紹介】
・竜土軒:東京都港区西麻布1-14-3 ?Z03-3408-5839

●2.26事件を巡る(中)
  初版2001年7月21日 三版2005年5月8日 <V01L01> 鈴木侍従長官邸跡の場所を特定
  2.26事件の中巻として三宅坂の陸軍省/参謀本部/陸軍大臣官邸、赤坂の高橋是清蔵相私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、四谷の斎藤実内大臣私邸襲撃を取り上げてみます。

 『「人民文庫」が創刊されたのは昭和十一年三月である。その創刊号ができたのは二月十五日ころで、十日ほど経つと二・二六事件が勃発した。大雪の朝、青年将校に率いられた反乱部隊が警視庁、内務省、参謀本部、陸軍省、朝日新聞社などを襲い、斎藤内大臣、渡辺陸軍教育総監、高橋大蔵大臣を殺害した。赤坂の料亭「幸楽」を本部にして、反乱部隊は官庁街を占拠した。翌日、戒厳令がしかれ、鏡圧の軍隊が遠巻きに反乱部隊を包囲した。いつ、市街戦がはじまるか分からない状態だった。そのころ大森に住んでいた私は、新橋駅で降りて、内幸町へ様子を見に行った。それから先は行かれない。大阪ビルやその前の東拓ビル(今ほなんという名か)の廊下は鎮圧軍の兵隊の泊り場所になっていた。その兵隊から何か聞き出そうと思って私が質問しても、兵隊は唖のように無言の首を振るだけだった。』、は高見順の「昭和文学盛衰史(二)」の中の第三章”ファシズムの波”に書かれています。「人民文庫」は武田麟太郎がファシズムの圧力に対する反発からおこしたもので、文学界はこのころから右からの圧力に抵抗しきれなくなっていくわけです。

226-03w.jpg<陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸(三宅坂)>
 松本清張の「昭和史発掘」によると『陸軍大臣官邸を占拠する目的の丹生誠忠中尉の歩一部隊は、香田清貞大尉(第一旅団副官)、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉(豊橋教導学校)、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵約百七十名…午前四時二十分営門を出発して、栗原部隊の後尾から赤坂溜池を経て首相官邸の坂を上ったのだが、途上、首相官邸内から栗原隊の放つ銃声を聞いた。陸相官邸に着いてからのことは磯部の「行動記」に出ている。「香田、村中、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余(磯部)は遅れて到着す。…香田、村中は国家の大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと言つて、憲兵と押問答してゐる。…憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと言ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に言つて来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気味だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物を着て是非出て釆て会つて戴きたいと懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。…主力部隊は官邸表門に位置している。裏門も、道路も一切塞いでいる。陸軍省、参謀本部(この二つは一つの建物で隣合っている)の各門には機関銃分隊、軽機関銃分隊を配置して歩哨線をかためている。』とあります。首相官邸では巡査四人と岡田首相と間違えて松尾陸軍大佐(岡田首相の義弟)を殺害しているのに、ここでは呑気にも憲兵隊や奥さんと風邪の事で口論しています。憲兵隊も同じ軍隊ということで仲間意識が有るのでしょうか、こういう所が全体を通してこの革命が甘いと言われる由縁だと思います!このあと川島陸軍大臣は決起将校と合うわけです(6時40分頃で2時間近く待たせています)。8時になると真崎大将が官邸に現れ、後で大問題となる有名な言葉の「たうとうやったかお前たちの心はヨオックわかつとる、ヨオックわかつとる」を言います(詳細は下記の本を読んで下さい)。

三宅坂の旧陸軍省、旧参謀本部,旧陸軍大臣官邸の面影は今はもう全くありません。下記の地図を見てもらうと分かりますが道路がかなり変わってしまっています。現在の憲政記念館のあたりなのですが、左上の写真の「この地の由来」という記念碑しかありません。この碑によると「江戸時代のはじめ、加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居住となり、明治以降、参謀本部の所在地となった」とあります(この碑は憲政記念館横の国会前庭洋式庭園内にあります)。

226-10w.jpg<高橋是清蔵相私邸(赤坂区表町三丁目一〇)>
 「近歩三の中橋基明の部隊が 赤坂表町三丁目(当時赤坂区)の高橋蔵相私邸の前に着いたのは午前五時ごろであった。…中橋が部下の第七中隊の下士官兵約百三十名を宮城の守衛隊控兵と、高橋邸襲撃を任務とする突入隊とに分け、控兵隊は中橋が今泉義道少尉に率いさせた。…中橋は表門から、中島は東門の塀を乗り越えて邸内に入った。判決文によれば、両名は邸内に侵入して内玄関の扉を被壊し、兵若干名を指揮して屋内に乱入し、高橋蔵相の所在を捜索し、奥二階十畳の間に臥床中の同人を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙一叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺したとある。」と松本清張の「昭和史発掘」に書かれています。明治32年(1899)高橋是清は赤坂表町三丁目(現・東京都港区赤坂七丁目)に、丹波篠山藩青山家の中屋敷跡約六千六百平方メートルを購入し転居。明治35年(1902)の正月から新築した屋敷に住んでいます。当時は、敷地の北側、西側に、主屋のほか、離れ、三階建ての蔵などの屋敷が続き、南東に広がる庭園は、芝生地、池、樹木地などで形造られていました。芝生地は主屋と離れに面し、高木がほとんどないので座敷などからの見通しもよく、芝生や池の景観を楽しむことができたといわれています(江戸東京たてもの園物語より)。

右の写真が赤坂7丁目青山通りの旧高橋是清邸にある高橋是清翁記念公園です。現在高橋是清邸は「江戸東京たてもの博物館」に移設されています。高橋是清大蔵大臣が殺害された2階の寝室もそのまま見学する事が出来ます。是非とも一度歴史の現場を見学して下さい。

226-06w.jpg<鈴木貫太郎侍従長官邸> 05/05/8 侍従長官邸の場所を特定
 鈴木貫太郎侍従長を襲撃したのは歩兵第三連隊の安藤輝三大尉で、その第六中隊の兵と、機関銃隊四箇分隊、機関銃四挺、計二百四名をもって午前三時半、連隊を出発、麹町区三番町の鈴木賞太郎侍従長官邸に午前四時五十分頃に到着、午前五時に襲撃を開始しています。「鈴木貫太郎自伝」によると「二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になる ものはないかと、床の間にあった自鞘の剣をとろうとした。」とあります。このあと下士官にピストルで撃たれますが奥様がとどめを防いだため一命をとりとめます。鈴木貫太郎侍従長はこの後昭和20年4月に戦前最後の総理大臣となり、軍部を説得しポツダム宣言を受諾、終戦へと導いていきます(この終戦内閣については別途特集をします)。

左の写真は千鳥ヶ淵から鍋割坂を撮影したものです。侍従長官邸はこの写真の左側角です。官邸の正門は戦没者墓苑側にあった小道の先にあったようです(「番町鍋割坂―千鳥ケ淵西辺地の今昔」を参照)。終戦後は生まれ故郷の千葉県関宿に住み、その自宅が鈴木貫太郎記念館となっています。

226-11w.jpg<斎藤實内大臣私邸(四谷仲町三丁目四四)>
 「自分で目が覚めたのか、誰かに起こされたのだか、今になっては、記憶は定かではない。私が寝ていた部屋は、道路に面していたが、どういうわけか、私は、斉夫婦の一人娘、即ち私の姪の部屋へ行って、カーテンの隙間から、すぐ下の道路をみた。雪は、しんしんと、つもつていた。多分、降ってはいなかっただろうと思う。雪の夜は、静寂であった。しかし私は、道路を見て愕然とした。ちょうど、目の下に、内大臣斎藤實の鉄の門があり、それはひらかれていた。その門外の正面に、軽機関銃が据えられ、一人の将校が、そのうしろに立っていた。それだけではない。そこから、大通りへ通じる四メートル幅の狭い道には、四列縦隊の兵隊が、雪の上に折敷をして、その長さは、三百メートルに及んだ。…どの位待っただろうか。一人の将校と、一コ分隊位の兵隊が、斎藤内大臣邸の正面玄関を出、雪をけたてて、門の方へ近付いてきた。将校は、大きな声で云った。「目的は、成功した。われわれは、これから大内山へ向う」分隊毎か、小隊毎に、小さい声で号令が起り、折敷をしていた兵隊は立って、整列し、それから、門から遠い方から順に、粛々として引き上げていった。」、は内大臣斎藤實の養子である斉藤斉の妻の弟、有馬頼義(直木賞作家)が書いた「二・二六暗殺の目撃者」からです。私邸の向かいの屋敷の窓から襲撃の様子を目撃した作家が書いていますので、本当にリアルですね、まだ本屋さんにはありますので、お薦めします。内大臣斎藤實私邸を襲撃したのは歩兵第三連隊、坂井直中尉部隊で、営門を出ると青山一丁目、信濃町、四谷仲町のコースで午前5時少し前に到着、将校下士官兵の合計210名でした。

右上の写真の左側が内大臣斎藤實私邸跡です。現在は日本たばこ産業中央研修所になっています。敷地の大きさはそのままですので土地を売られたのだと思います。場所は四谷の学習院初等科裏で細い路を通っていきます。生まれ故郷の岩手県水沢市に斎藤實記念館がありますので近くまで行かれる事がありましたら訪問して下さい。記念館の中に展示されている斎藤實私邸付近の地図が間違っています。下記の地図が正しいです。


次回は後藤内務大臣官邸、渡辺教育総監私邸、牧野元内府他の予定です。

四谷付近地図


【参考文献】
・昭和史発掘:文春文庫、松本清張
・父と私の二・二六事件:光人社NF文庫、岡田貞寛
・二・二六暗殺の目撃者:恒文社、有馬頼義
・昭和文学盛衰史:角川文庫、高見順
・江戸東京たてもの園物語:東京都江戸東京博物館
・鈴木貫太郎自伝:日本図書センター、鈴木貫太郎

【住所紹介】
・江戸東京たてもの園:東京都小金井市梶野町1-4-25 ?Z0422-53-2881
・鈴木貫太郎記念館:千葉県東葛飾郡関宿町関宿1273 ?Z0471-96-0102
・斉藤實記念館:岩手県水沢市字吉省路24 ?Z0197-23-2768


●2.26事件を巡る(下) 2001年7月28日 V04L01
  伊藤屋旅館本館と伊藤屋別館跡の写真を入替<03/02/22>
  2.26事件の下巻として荻窪の渡辺教育総監私邸、湯河原の牧野元内府襲撃と、二・二六事件慰霊塔、二十二士の墓、添付 で各部隊の襲撃経路を紹介します。

井伏鱒二の「荻窪風土記」の中にも2・26事件の記述があります。 『阿佐ヶ谷将棋会の青柳瑞穂が田畑修一郎のことを、我慢ならない男だと言いだしたのは、 武田麟太郎や高見順等の「人民文庫」が刊行されるようになった頃である(中巻参照)。左翼文学が華々 しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった。…宮川君は泊って行くことにしたが、…すると玄関の土間に朝刊を入れる音がした。私がそれを取りに起きて再び横になると、花火を揚げるような音がした。いつも駅前マーケットで安売する日は、朝早く花火を揚げる連続音が聞えていた。「今日は早くからマーケットを明けるんだな」私は独りでそう言って、新聞を顔の上に拡げたきり寝てしまった。…風呂は混んでいなかったが、浴客の話し声が大きく響いていた。光明院の裏通りにいる渡辺さんが機関銃で襲撃されて、護衛の憲兵も殺されたと言う者がいた。憲兵は朝早く交替で、ちょうど今やって来たというところを殺されたという。渡辺さんの近所にある八百屋のお上が騒ぎで目をさまし、外に出て見ると陸軍中佐が機関銃を据えつけていた。「今日は早くから演習ですね」と言うと、「ばか。こら危いぞ、退け退け」とその中佐が叱った。(中佐でなくて中尉だと言う者がいた)』、井伏鱒二はこの時、井荻村字下井草(現在の杉並区清水)に昭和2年から住んでおり、渡辺教育総監私邸から青梅街道の四面道交差点を挟んで丁度反対側で、直線距離で600m位の所でした。マーケットの花火の音は、実は拳銃か軽機関銃の銃声だった訳です。この時期から世の中がどんどん暗い方に向かっていいきます。

226-30w.jpg<渡辺教育総監私邸(杉並区上荻窪二ノ十二)>
 「朝方、六時ごろでございましたでしょうか。私はもう起きておりましたが、突然、けたたましい銃声がきこえたのでございますよ。一体、なんだろうと私の家でも大さわぎになったのですが、私の夫は??兵隊が演習でもはじめたのだろう″といっておりました。そのうち、父の家の女中から電話があり、おびえた声で??奥さま、たいへんでございます″といってきたのです。電話室にも銃砲のタマがうちこまれているようで、受話器をとおして、その音がきこえてくるのでございます。…??ご主人さまがお亡くなりになりました″といつてまいりました。電話を受けたのは私でございますが、父の死を知った私の夫は、やにわにピストルを持って、外へとび出そうとするのでございます。…そして、兵隊たちが引きあげて行くのを見きわめてから、父の家にかけつけたのでございます。その間、ものの五分、長くて十分〔註・記録では三十分となっている〕ぐらいのものでございました。父の家にかけつけてみると、タマの跡と煙りがもうもうと狭い家の中に立ちこめておりました。」は有馬頼義の「二・二六暗殺の目撃者」の中に書かれている襲撃されて亡くなられた渡辺教育総監の長女政子さんの談話です。政子さんは既に嫁がれ、渡辺教育総監宅と二軒隣の並びに住まわれていました。電話を通じての銃声やタマの跡と煙のようすが実にリアルですね。教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃したのは、内大臣斎藤實私邸を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋、安田両少尉と、下士官以下兵30名でした。高橋少尉以下は、斎藤邸から赤坂離宮正門まで出て、そこで、田中部隊のトラックに乗り、荻窪に向っています。記録では、渡辺邸に着いたのは六時過頃となっていますが、家族の証言によると正六時頃と記憶されています(松本清張の「昭和史発掘」では7時頃)。

左の写真が上荻の渡辺教育総監私邸です。現在も表札が渡辺となっていますので、そのままのお宅だと思います。この地区は戦災にも会っていませんので、ひょっとしたらお宅もその当時のままかもしれません(お宅はかなり古びています)。出来れば保存してもらいたいと思います。上記に書かれています長女の政子さん宅もそのまま2軒隣(現在は3〜4軒隣)にありました。このお宅もかなり古いお家で、ひょっとしたら当時のままかもしれません。こちらも保存できたらいいと思います。

渡辺教育総監(渡辺錠太郎大将)については名古屋の岩村様より情報の提供を受けました。ありがとうございました。小牧市の名鉄小牧駅から東に10分くらいの「西林寺」に銅像があるそうです。またお墓は多磨霊園と愛知県岩倉市の正起寺、愛知県小牧市の西林寺と三カ所にあるそうです。

226-32w.jpg<牧野元内府(湯河原伊藤旅館別館)>
 松本清張の「昭和史発掘」によると「前内府(前官礼遇)牧野伸顕を湯河原の旅館に襲う河野寿航空兵大尉を長とするいわゆる湯河原組も、午前五時を期して決行に移った。…四時半頃、再び車を走らせ湯河原を徐行、伊東(藤)屋旅館の前の橋で自動車の向きを変え、同旅館の前に横付けにした。夜は白々明けはなれた。二、三人が行き交う。私はピストル、刀をさして同志と共に隊長(河野大尉)に従った。旅館前の幅七、八間の小川の橋を渡り、坂道を二十間程上る。玉突場のある家の前に止った。大尉は此処だと玉突場の前の家を指した。平屋建、地形は崖の上で、片方は山になっている。石垣でたたんだ一隅にこの家はあるのだ…予備曹長宮田晃は、早くも奥から射ってくる拳銃で負傷した。「私は奥に駆けこむ。弾がビューンとかすめる。私は座敷に向けて五、六発達射する。薄暗い、何人いるか分らぬが、守衛のいることは分る」守衛ではなく、牧野の護衛警官だった。」とあります。この時、護衛の皆川巡査に河野大尉も撃たれ、最後に伊藤旅館別館に火を放ちますが、牧野元内府は岩本屋旅館の岩本亀三氏他の地元の人々に助けられ、難を逃れます(河野大尉はこの後3月5日に入院中の病院で自殺を図ります)。襲撃がうまくいかなかったのは襲撃部隊の人数が少ない上に、負傷者が出てしまったからだと思われます。それにしても助かる時は間一髪ですね。

右の写真が伊藤屋旅館別館跡(伊藤旅館正面の坂を上った右側)です。この伊藤屋旅館は明治21年創業の老舗で、島崎藤村が名作「夜明け前」の原作を練ったのもこの旅館で、今でも遺稿、愛用品が残っています。古くから徳大寺公爵、黒田清輝、円朝、有島武郎等、文人墨客の定宿として愛されていたそうです(伊藤屋旅館ホームページより)。旅館の入口にも”島崎藤村”と書かれており、”牧野元内府襲撃”よりも文人の方が人気があるようですね、今度暇になったら泊まって見たいと思います。

 以上が昭和11年2月26日早朝の襲撃の様子です。襲撃の後、各部隊は警視庁から山王、陸軍省の地域に展開します。クーデター開始から2日後の28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれます。事件後、代々木練兵場に軍法会議が特設され、首謀者17名は死刑、69名が有罪となっています。

226-34w.jpg<二・二六事件慰霊塔、二十二士の墓>
 最後に、井伏鱒二の「荻窪風土記」の”2・26事件”について書かれた最後の文を紹介します。
 『二・二六事件の記録を見ると、 −叛乱軍の一部の将校たちは七月十二日に処刑された。場所は、渋谷区宇田川町の陸軍衛戍刑務所の隣にある代々木練兵場。死刑執行の銃声をかくすため、早朝から演習部隊の軽機関銃で空砲を打ちつづけ、やがて飛行機二機が低空を旋回した。有罪七十六名のうち、死刑十七名、罪名は叛乱罪。被告磯部浅一の獄中手記も発表してあった。「……真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので……云々」暗黒裁判で書いたという怖るべき手記である。』
 現在は若い人でいっぱいの渋谷公園通りを歩いていくと、左手に渋谷区役所があります。そこを左に曲がると渋谷公会堂で、その先の交差点の角にいつも花が耐えない”二・二六事件慰霊塔”があります。ここは代々木練兵場の跡地で、死刑執行が行われた所です。また麻布賢崇寺には二・二六事件に関係したした方々の”二十二士の墓”があります。栗原中尉の父親の栗原大佐が自ら麻布賢崇寺に入門されて、上記の墓碑を建立されています。

 毎年2月26日と7月12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われています。年二回の法要のうち、2月26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されています(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もあります。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)です。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っています。池田少尉(求刑は死刑でした)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心です。(メールでご紹介頂きました、ありがとうございました)。

左の写真は麻布賢崇寺の”二十二士の墓”です。賢崇寺の中の奥まった所にあり、お墓の裏に二十二士の名前が刻まれています。その他では多磨霊園に高橋是清翁斎藤實内大臣のお墓がありますので紹介しておきます。

<各部隊の襲撃経路>
 各決起部隊の襲撃経路を紹介しておきます。時間等は書いてある本によって微妙に違いますのでご了承ねがいます。

各部隊の襲撃経路図


各襲撃付近地図


【参考文献】
・昭和史発掘:文春文庫、松本清張
・父と私の二・二六事件:光人社NF文庫、岡田貞寛
・二・二六暗殺の目撃者:恒文社、有馬頼義
・昭和文学盛衰史:角川文庫、高見順
・江戸東京たてもの園物語:東京都江戸東京博物館
・鈴木貫太郎自伝:日本図書センター、鈴木貫太郎
・妻たちの二・二六事件:中央公論、澤地久枝
・荻窪風土記:新潮文庫、井伏鱒二
番町鍋割坂―千鳥ケ淵西辺地の今昔:泰助, 林

【住所紹介】
・江戸東京たてもの園:東京都小金井市梶野町1-4-25 ?Z0422-53-2881
・鈴木貫太郎記念館:千葉県東葛飾郡関宿町関宿1273 ?Z0471-96-0102
・斉藤實記念館:岩手県水沢市字吉省路24 ?Z0197-23-2768
・伊藤屋旅館:神奈川県足柄下郡湯河原町宮上488 ?Z.0465-62-2004
・岩本屋旅館:神奈川県足柄下郡湯河原町宮上504-1 ?Z.0465-62-2171 ホームページ
・賢崇寺:東京都港区元麻布1-2-12


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