▲トップページ 著作権とリンクについて メール 最終更新日: 2013年08月30日
●5.15事件を巡る (上)
    初版2002年5月11日
    三版2004年4月11日 駒本小学校の写真を修正
    四版2009年11月22日  <V01L01> 泉岳寺前の力亭跡の写真を修正

 5月15日が近づいてきましたので、今週は”村上春樹の世界を歩く”を一時中断して昭和7年に起った「5.15事件」を巡ってみたいと思います。この時代は第一次世界大戦後の世界恐慌をもろに被り疑獄事件が相次ぎ、政党政治が腐敗して農村は疲弊し、都市では失業者が溢れていました。この5.15事件の後、2.26事件と続き軍部が台頭し、太平洋戦争へと暗い時代に 入っていきます。


 永井荷風の「断腸亭日乗」に5.15事件関連の記載があります。
「三月五日、快晴、春風頻々たり、表通には自働車の音絶間なく、遠く砲声のきこゆるにも係らず、庭の鶯早朝より午頃まで鳴きつゞけたり、都会の鶯は自ら物の響に馴れたりと見ゆ、……風月堂に往き独晩餐をなす、給仕人の持来る夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃実業家団琢磨三井合名会社表入口にて銃殺せられし記事あり、短銃にて後より肺を打ち抜かれしと云ふ、下手人は常州水戸の人なる由、過日前大蔵大臣井上準を殺したる者も同じく水戸の者なる由、元来水戸の人の殺気を好むは安政年間桜田事変ありてよりめづらしからぬ事なり、利と害とは何事にも必相伴ふものなり、昭和の今日に至りて水戸の人の依然として殺気を好むは、之を要するに水戸儒学の余弊なるべし、桜田事変のことを義挙だの快挙だのとあまりほめそやさぬがよし、脚本検閲の役人は鼠小僧の如き義賊の狂言は、見物人に盗心を起さしむる虞ありとて、往々その興行を許可せざる事あり、此の後は赤穂義士、桜田事変の如き暗殺を仕組みたる芝居も、其筋にては興行を禁止するがよかるべし、盗賊の害は小なり、暗殺の害は盗賊の比にあらず、但し甘槽大尉が震災の時大杉栄と其妻及幼女を殺したるが如きは、余いまだ其是非を知らず、……」
 とあり、5.15事件の前段階ともいわれる昭和7年2月9日の前大蔵大臣井上準之助暗殺事件、同年3月5日の三井合名の理事長団琢磨暗殺事件(血盟団事件)について、赤穂浪士や甘糟大尉の件まで持ち出して、かなり厳しく書いています。


昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 昭和初期の事件
昭和6年 1931 満州事変 3月、10月 桜会事件で解散
昭和7年 1932 1月 第一次上海事件
3月 満州国成立
2月 前大蔵大臣井上準之助暗殺事件
3月 三井合名の理事長団琢磨暗殺事件
5月 5.15事件
昭和8年 1933 3月 国際連盟脱退 11月 5.15事件の海軍側被告に判決が下る



「護国堂」
<護国堂>
 5.15事件を巡るには昭和初期の水戸大洗まで戻らなければなりません。その当時の水戸大洗のことを松本清張の「昭和史発掘」では、
「昭和三年春ごろから、茨城県磯浜町大洗の近くの、通称ドンドン山という低い丘陵に小さな堂を建てて、法華経の題目を唱えている日蓮宗の坊さんがいた。井上日召という名で、すでに四十のなかばを越した年齢だった。加持祈躊などもするので、坊さんは次第にその地方の信用を得ていた。昭和四年三月ごろ、近くの東光台に護国堂というのを土地の水浜電鉄会社が建立した。大洗といえば、磯節で有名な太平洋にむかった名所で、大洗神社もある。電鉄会社では、宣伝と土地発展の手段として新しく右の護国堂を造ったのだが、このとき近所で評判のいい井上日召がそこに迎え入れられたのである。」
とあります。冒頭に永井荷風が書いた水戸の者とはこの大洗の護国堂に集まった人たちのことを示しています。

左上の写真が現在の「護国寺」です。平成元年に井上日召翁の銅像が建てられています(写真右)。写真には写っていませんが昭和維新烈士の墓が左側にあります。護国寺の周りは上記にも書いてある通り、水戸市内から10数キロの距離で海に近い小高い丘陵地帯にあり、右側にはスーパーマーケット、左側には「常陽明治記念館(幕末と明治の博物館)」があります。遊びに行くには丁度良いところかもしれません。
【茨城県大洗付近地図】←クリックすると地図がでます

「金鶏学園跡」
<金鶏学園>
 再び松本清張の「昭和史発掘」を読むと、
「日召は、いよいよ国家改造の第一線に立つことを決心し、大洗を去って上京した。昭和五年十月のことである。上京した彼は、国家主義の理論家安岡正篤の金鶏学院に寄宿した。そこでも彼は多くの青年の心服を得た。」
とあります。また「昭和維新」によると、
「…井上日召は上京すると、東京本郷片町で学生相手の下宿を営む妻のところに住んだ。そこから小石川の伯爵酒井忠正邸内にある金鶏学院に出入りをして、同志を求めて奔走したが口先人間の多いのに閉口していた。…」
とあります。上記にある金鶏学院は昭和2年「財団法人金鶏学院」として東京市小石川区原町12番地に設立されています。金鶏学院関連では「安岡正篤記念館」【埼玉県比企郡嵐山町】にあります。小泉首相の「重職心得箇条」で有名です。

写真は「財団法人金鶏学院」があった所です。新しい白山通りができて様子がすっかり変わってしまっていますが現在は文京区の特別養護老人ホームになっています(文京区白山5丁目16辺り)。

「駒本小学校裏門跡」
<前大蔵大臣井上準之助暗殺>
 いよいよ一人一殺の暗殺が起きます。この時のことを松本清張の「昭和史発掘」では、
「日召はいよいよ海軍側と民間側だけの同志で事を計ることにし、その準備をすすめた。……計画は、まず民間側が第一陣として実行に移り、一人一殺主義の暗殺を引受ける。海軍側は第二陣として同志の凱旋を待って陸海連合軍をつくり第二次破壊戦を行うこととした。…こうして民間側による一人一殺主義の目標人物が定められた。政友会=犬養毅(首相)、床次竹二郎(鉄相)、鈴木喜三郎(法相)。民政党=若槻礼次郎(前首相)、井上準之助(前蔵相)、幣原喜重郎(前外相)。財閥=三井系の池田成彬、団琢磨、三菱系の木村久寿弥太。特権階級=西園寺公望(元老)、牧野伸顕(内大臣)、伊東巳代治(枢密顧問官)、徳川家達(貴族院議長)。」
と書いています。その中で昭和7年2月9日前大蔵大臣井上準之助暗殺事件が起きます。当時のことを朝日新聞10日朝刊の見出しでみると、
「応援演説会場の入口で井上前蔵相射殺さる、凶漢、拳銃三発を連射、その場で直ちに捕縛」
とあります。井上前蔵相は民生党公認候補駒井重次の応援演説のために駒本小学校に到着したところを狙われたようです。犯人はすぐその場で捕らえられ、 「自分は茨城県那珂郡平磯大字磯崎、小沼正、二十二歳である」
と率直に述べています。
 
写真が前大蔵大臣井上準之助暗殺事件が起きた本郷駒込追分103の駒本小学校裏門跡付近です(現在の駒本小学校は向丘二丁目に移っています)。電車通りに面した駒本小学校の裏門から入ろうとして撃たれたようで、写真の左手の小道付近ではないかとおもわれます。写真右手に写っているのは向丘高校です。

「三井本館」
<三井合名の理事長団琢磨暗殺>
 つづいて三井合名の理事長団琢磨も同じようにして暗殺されます。朝日新聞では「今朝、三井銀行前で団琢磨男射殺さる、犯人現場で即時捕縛」、驚くべし犯人は井上氏射殺の一味」とあります。松本清張の「昭和史発掘」では、
「井上準之助が殺されてからひと月にも満たない三月五日午前十一時半ごろ、日本橋三井銀行南側の三越寄り舗道に自動車を乗りつけた団琢磨は、いつものように給仕などが出入りする左側通用口を入ろうとした。そのとき、日向ぼっこでもしているような恰好の二十一、二くらいの若者が、突然、傍からとびだして、ブローニング六連発をむけると同時に発射した。団はその場に倒れ、すぐに銀行の五階医務室に運ばれたが、かけつけた慈善病院の医師の治療も及ばず、午後零時二十分ごろ絶命した。」
とあります。この犯人もその場で逮捕されます。
「イガグリ頭に黒の背広をきた犯人は、その場で同銀行請願巡査にとり押えられたが、これが菱沼五郎であった。菱沼は茨城県那珂郡前渡村出身で、日召の指令によって初めは伊東巳代治の暗殺担当者であった。」
この犯人も水戸出身者であったため、警視庁は前大蔵大臣井上準之助暗殺事件との間に重大な背後関係があるとみて大がかりな捜査体制を組みます。

写真の右側が三越本店、左側が三井本館で、現三井住友銀行です。この道は戦後の「下山事件」でも出てくる有名な通りです。暗殺は三井本館の三越側の入口で起こっており、入口は三つあり上記の通りその中の左の入口で起ったものと思われます。

●5.15事件を巡る (下)
    初版2002年5月18日  <V02L01> 立憲政友会本部跡の写真を取り替え

 5月15日いよいよ軍による行動が開始されます。松本清張の「昭和史発掘」ではその経緯を、
「…井上日召は、自分の率いる血盟団によって蕨起の第一陣をおこなった。小沼正が井上準之助を、菱沼五郎が団琢磨を陪殺して実行行為に移ったが、その後は警察当局の警戒厳重と、一統の捜査がきびしいため、予定された被暗殺者に手が及ばなかった。ここに一人一殺主義の限界があったのである。海軍側の古賀清志、中村義雄南中尉は、三月十一日、日召が自首したので、最初の計画どおり第二陣を決行することを決心した。雨中尉は、日召とこれまで連絡のあった橘孝三郎の愛郷塾一派、陸軍士官候補生の一団、血盟団の残党などを糾合して、これに海軍側との連合軍を組織しようとしたのである。」
と書いています。警察当局の取り締まりが5月15日までに軍までは辿り着かず、そのため決行できたものと思われます。

 その日のことを永井荷風は「断腸亭日乗」で、
「五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ。晴下銀座に往きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。……然れども兇漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋騒動以後骨て見ざりし珍事なり。或人日く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行はるゝフワシズムの摸倣なり。我国現代の社会的事件は大小となく西洋模倣に因らざるはなし。伊国ファシズムの真似事の如き竜も怪しむに足らずと。或人又日く。暗殺は我国民古来の特技にして模倣にあらず。往古日本武尊の女子に扮して敵軍の猛将クマソを刺したる事を見れば、暗殺は支那思想侵入に先立ちて既に行はれたるを知るべしと。この説或は正しかるべし。」
と書いています。そんなに緊迫感はないようです。

「旧首相官邸」
<犬養首相(首相官邸)>
 5月13日、土浦の山水閣で最終の計画を決定します。これが第五次計画といわれるもので、決行日は5月15日午後5時30分、4組+別動隊に分けた部隊で一斉に行動を起こすというものでした。実際の行動を「5.15事件 陸海軍大公判記」で追ってみたいと思います。第一組については、
「…同日中後五時頃までに靖国神社境内において…合し、先づ第一段の行動を開始するため同日午後五時十分頃同神社前において表門組……裏門組……二組に分れ各組毎に一輌の自動車に同乗し、表門組を先頭とし共に内閣総理大臣犬養毅居住の東京市麹町区永田町ニの一所在内閣総理大臣官邸に向け進行し、その途中車内において…それぞれ武器の分配を受け、…同日午後五時二十七八分頃内閣総理大臣官邸表門より自動車を乗入れ、表玄関において下車し内玄関より一同屋内に侵入し…」、とあります。このあと有名な犬養首相の「騒がんでも話をすれば分かる」と「話をききにきたのではない。問答無用。撃て撃て」で犬養首相を暗殺します。襲撃後、警視庁と日本銀行に向かい手榴弾の投擲などを行い、最後に東京憲兵隊本部に自首しています。

写真が5.15事件当時首相官邸であった「旧首相官邸」です。平成14年4月から新首相官邸に変わっています。旧首相官邸は昭和4年3月に施行し戦前戦後を通して42名の首相の官邸ともなって、5.15事件、2.26事件と二度の暗殺事件の現場にもなっています。

「牧野伸顕内大臣邸跡」
<牧野伸顕内大臣>
 第二組は牧野伸顕内大臣の襲撃に向かいます。
「第二班 ……同日午後五時頃までに東京市芝区高輪泉岳寺山門側なる力亭事山口彌大郎方において……行動要領の概要を説示せられ且つ一同々人より武器の分配を受け同日午後五時十分頃同亭を出て自動車に同乗し、内大臣牧野伸顕居住の東京市芝区三田臺町一の五所在内大臣官邸に向ひ同五時二十四分頃同宮邸正門前に至り、自動車を停め……」
とあります。芝高輪の泉岳寺から三田台町へは車で数分、歩いても伊皿子坂を上がり、ピーコックのスーパーマーケットがある交差点を右に曲がった先で、10分位の距離です。警官一人が負傷しただけで牧野伸顕内大臣には危害が及びませんでした。又、上記に書かれている「泉岳寺山門側なる力亭」の場所についてはご親族の方よりご連絡を頂きました。ありがとうございます。前述の下線部分をクリックして写真を見て戴くと、写真右側のヤマザキデイリーストアーが入っているビルの裏側辺りからカーブの道路沿いの一体が「力亭」だったそうです。勿論、「力亭」は現在はありません。この後、警視庁に向かい、最後に東京憲兵隊本部に自首しています。

写真右側が現在の三田4丁目17番43号付近(旧三田台一丁目五番)です。牧野内府官邸の所在については上記には一丁目五番となっていますが、八番と書いてある本もありますのでだいたいこの辺りだと思います。八番はこの写真のもう少し手前になります。

「立憲政友会本部跡」
<立憲政友会本部>
 第三組がいよいよ麹町区内山下町(現在の内幸町一丁目)の立憲政友会本部を襲撃します。
「第三班 …同日牛後四時三十分填まで新橋駅において…先づ第一段の行動を開始するため同四時三十分頃同駅を出て一同自動車に同乗し麹町区内山下町一の五政友曾本部に向ひたるも時刻何早く同市内青山方面及び銀座方面を乗回し…午後五時三十分頃政友曾本部南に至り自動車を停め…下車して同本部円内に入り玄関に向け手榴弾一筒を投擲したるも爆発せざりしより……」
とあります。麹町区内山下町一丁目五番は現在の内幸町一丁目です(海軍側資料では麹町区内山下町一丁目一番になっています)。こちらも被害は軽微だったようです。この後、警視庁に向かい、最後に東京憲兵隊本部に自首しています。

写真の左側の東京電力本社が立憲政友会本部跡です(内山下町一丁目五番はこの写真の左側辺りです)。この辺りはジョサイヤ・コンドル設計の鹿鳴館や帝国ホテル旧館があったところですが、昭和初期からはすっかり変わってしまっています。

「三菱東京UFJ銀行本店」
<三菱銀行>
 第四組については、
「第四班 …四組として同月十四日夜省線原宿駅において…会合し同夜共に赤坂区青山南町六の一三 蕎麦屋増田屋事古道文次方に至り同家において準備し麹町区丸ノ内二の三 三菱銀行裏に至り手榴弾一筒を同銀行構内に投擲し同行裏門と三菱道場との中間において爆発せしめたり。」
とあります。この三菱銀行とは現在の三菱東京UFJ銀行本店のことです(海軍側の資料では丸の内二丁目五番地となっています)。

写真が三菱銀行本店です。上記に記述のある第四組が準備をした青山南町六丁目十三番の蕎麦屋増田屋は現在も同じ場所にあります。青山で蕎麦の増田屋といえば結構有名で、北青山二丁目には大きなお店もあります。青山南町六丁目十三番(現在は南青山3丁目13番)のお店は表参道の交差点から青山三丁目の交差点に向かって100m位歩いた右側にあります。ひとつ奥に入ったビルの地下にありますが、大きな入口が青山通り沿いにありますのですぐに分かります。

「西田悦宅跡」
<西田悦>
 北一輝と行動を共にしていた西田悦も狙われます。東京朝日新聞7日朝刊のタイトルです。
「血盟団の川崎に西田退役中尉撃る 五発命中生命危急」で新聞記事内容は、
「十五日午後七時半府下代々幡町代々木山谷一四四退役陸軍中尉中西悦方へそうかんが現れ折から在宅した西田氏が応接すると突然ピストルをだして同氏をめがけて連続六発発射。昏倒するのをみて逃走した。犯人は血盟事件の……」、
とあります。

写真の右側が府下代々幡町代々木山谷一四四(現在の渋谷区代々木3丁目53〜55番地)辺りです。明治神宮の北参道から参宮橋に抜ける裏道から少し入ったところです。

この他にも別動隊が帝都の混乱を狙って変電所六ヶ所を襲撃しますが、ほとんど損害を与えずに終わっています。


5.15事件関連東京地図

【茨城県大洗付近地図】←クリック
【埼玉県比企郡嵐山町付近地図】←クリック


 ▲トップページ ページ先頭 著作権とリンクについて メール